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亀岡国際秘宝館では2003年の開館以降、毎年1月17日に阪神大震災の記憶を投稿していただいています。これは、今日までの皆さんの記憶です。

6,434名(2011年1月現在)


阪神大震災第1報
 早いもんで、あの日から今日で9年になるんやなあ。亀岡は断層があるんで、関西では珍しく地震が多いところなんやけど、あんなに「長い揺れ」は、初めてやった。
 父は階段を降りるところで、「心筋梗塞」にでもなったのかと思ったらしい。母は、蒲団の上に花瓶が落ちて驚いたらしい。ガシャンという大きな音は、隣の家の石灯籠が倒れる音やった。
 目を覚まして読書をしていた叔父は、始めは近所でガス爆発でもあったのかと、自動車を運転していた同級生はタイヤが破裂したと思ったらしい。
 亀岡でも全壊家屋もあった。そして、阪神間の交通網の壊滅により、亀岡の国道9号線が迂回道路になり、半年以上も交通渋滞が続いた。北海道に住む友人から電話が架かってきたのは、4月だった。彼女によると、それまでは何度も電話を架けても不通だったという。
 まだ、インターネットが普及していなかった時代なので、テレビ番組はCMを放送する時間が、家族等の安否確認情報掲示板になっていたのも覚えている。
 我が家で最大の被害者は、当時は健在だった「犬」だった。地震の揺れが「犬小屋」が原因と思い込み、寒空の中でふるえていた。最初は、何を考えているのかわからんかった。
試しに、無理に犬小屋に入れて、揺らしてみると血相を変えて飛び出してきた。暫くは、犬小屋の一番奥に餌を置いていたが、首を伸ばして食べていたなあ。自分から小屋に入り出した時は、もう桜が咲く季節になっていた。
 私は家にダンプカーでもつっこんだのかと思いました。
  このあたりは震度5以上はあったようです。最寄の震度測定場所は御堂筋線桃山台駅ですが震度6弱あったそうですから・・・。
  テレビが落ちて、台所のナベ類がことごとく落ちて、タンスの引き出しは飛び出してました。ガスが止まったのをガス管が破損したと思い込んでいましたが、玄関横のガスメーターに大地震の時に自動的にガスの供給がストップする仕組みがあり、スイッチをリセットすれば復帰するのを知らずにしばらく不便な思いをしてました。
 当時生後3ヶ月の乳飲み子は何も知らずにスヤスヤ寝ていたのが不幸中の幸いでした。
  その後も大きな余震が続き、いつも揺れているような気がして足元おぼつかず、あるとき布団で寝ている乳飲み子の手を踏んづけてしまいました。幸い無傷でしたがダンナにはえらく叱られましたなぁ…。
  マタニティーブルーと地震のショックで気が変になりました。
 神戸・・・。
 この街は、小学生の頃の僕の憧れの街でした。記憶に残っている初めての神戸は、『ポートピア神戸博覧会(ポートピア'81)です。
 その頃、僕の知っている大都市は京都と大阪。が、大阪は梅田周辺しか訪れたことはなかったから、臨海の都市は舞鶴しか知らなかった。
 まず、国鉄・三ノ宮駅からポートピア博覧会場へ向かう運転手のいないポートライナーに驚いた。さらに、神戸大橋を渡るときの阪神高速道路等が入組んだ光景・・・。見たことのない海を行き交う大きな船の数。
 僕の目には、神戸が『未来都市』に映った。
 神戸という街は平野が狭い。ゆえに、山を切り崩しては、海を埋め立てては街を拡げて来た、日本で最も人工的な街と思う。そのような街づくりに「天罰」が下ったと発言した人物もいた。
 学生時代は、よく神戸に遊びにいった。
 震災の1ヶ月前に、初めに務めた会社での職場旅行は神戸だった。久しぶりに神戸の街を歩くことだけでも楽しかった。
 しかし、10年前の今日、憧れ「神戸」が、瓦礫で埋め尽くされた廃虚の街のような姿をテレビの前で映されていたのだ・・・。しかも、1ヶ月前に軽食をするために入ったビルが倒壊する映像を生放送で観た衝撃は忘れられない。
何かをしなければという思いもあった。そこで、大阪のテレビ局記者や新聞記者の友人に尋ねた。
 「個人では、行ってはいけない。被害の大きいコリアン・タウン、同和地区が火事場泥棒に狙われている。行って何かがあったとしても、道路にはたくさんの遺体がある。命の保証はできない。」
 大体、僕の住んでいる街も大混乱の状態だった。今から考えると信じられないが、2月26日に大阪では高槻、京都では亀岡に大きな余震が来るという根拠のない噂まで飛び交い、休業した会社まであったのだ。
妹の住む明石に行くことがあり、何度か通りすぎた。駅には亀裂があり、車窓から見る住宅の殆どがブルーシートを敷いていた。
震災から2年後、仕事で神戸に行くことになった。その中で、ある公園に記念碑を見に行くことになっていたが、仮設住宅から被災者の方たちが僕たちを不思議そうに眺める視線が痛かった。
神戸市役所の方と話をする機会があったが、震災の件について「正直に厭になっています。」とおっしゃった。まぎれもなく本音であったが、その表情からは疲れと苦悩が滲み出ていた。僕たちには、はかり難い激務をされたのであろう。
  今も同級生が震災のトラウマでフラッシュバックに悩んでいる。彼が世話になった長田の縫製工場の社長は震災の日の夜、倒壊した建物と一緒に灰になった。当日の午後何とか駆けつけて、助けようとしたけど炎が迫ってどうしようもなかったらしい。
  瓦礫の下から「もう、わしはええ、みんなはよ逃げえ・・・・。」
 10年経っても昨日のことのように思い出して涙が止まらないって。
  彼は、昨日神戸の街を歩いた、そして言った、助かる命が沢山あったのに、口惜しい。街には空き地がまだ残っている。」
 そして、「・・・、まだ終わっていないんだよ。」
 私には2人の姉がおり、10年前上の姉は芦屋に、下の姉は横浜に住んでいました。
 1月16日、下の姉が男の子を出産。初孫ができた両親は狂喜乱舞。その翌朝、あの激震で目覚めました。
 阪急京都線も止まり、学生だった私は「がっこが休み♪」と 喜んでいましたが、テレビを見るうちに青ざめました。
芦屋に住む姉とは連絡が取れず、NHKの「死亡が確認された方のお名前」をあんなに真剣に見たのは初めてでした。芦屋に住む姉は当時妊娠6ヶ月。切迫流産(流産はしてません)で入院中。姉の夫は東京出張中。結局夕方6時ごろに姉からの電話で無事を確認。心底ほっとしました。
2日後、義兄が東京から戻ってきたので2人で姉の様子を見に行くことに。阪急神戸線「西宮北口」まで電車で行き、その後は徒歩で芦屋まで。小学校の校庭に張られたテント、人でごったがえす体育館。
ぐずぐずにアパートの崩れた1階部分にちょこんと乗っかる2階部分。駐車場の1階部分が崩れ落ち、車の上にマンションの上階部分がぐらぐらと揺れる様。
 品物が何もないコンビニ。すべてガラス張りであったろう車のショールームの周りにきらきら光る大量のガラス片。焼け跡。自宅の前に佇む人達。
でも、一番ショックだったのは阪急電車の線路でした。高架なのになぜか地上から線路が見えるのです。蛇のようにうねり、飴のようにくにゃくにゃと曲がり、「銀河鉄道999」の線路のように天空に向かって伸びていました。
地震が多いといわれる関東で13年過ごした私にも信じられない光景でした。「なんで?どうして?」という言葉と涙が止まりませんでした。
 私はボランティアでなく、必然的に行かねばなりませんでしたが、大変貴重な経験になりました。いつまでも引きずってはいけないけれど、決して忘れてはいけないことだと思います。
  地震大国日本に住む私達は、いつ何時被災者になってしまうかもしれません。過去のつらい体験が、少しでも未来に役立てられますように。
  当時、姉のお腹にいた赤ちゃんは、5月23日に無事生まれました。彼女が元気で、今度の5月に10歳の誕生日を迎えられることは私にはとっても嬉しいことです。確か震災後の三日目だったか。わたしも応援部隊として西宮市へ物資補給と給水作業班で行きました。名神高速吹田JCから近畿自動車道を東大阪へ。そこからパトカーに先導されて阪神高速を西へ入りました。途中のICで下りた辺りから西は、崩れた建物が視界にひろがっていました。他府県からの救援の消防車や給水車が、通れる道を選んで渋滞しながら進み、やっと物資を下ろして、その後給水ポイントへ行き先に作業していた人と代わりました。
  次の休暇を使って芦屋市に住む高校時代の恩師を見舞いに行きました。日曜日に同級生とともに西宮北口駅から徒歩で芦屋の住宅街まで、携帯コンロとボンベなどを持っていきました。夙川から西の阪急沿線は、木造の長屋風建物は一階部分を支えている柱が折れて二階が目線まで落ちていました。
  幸いにも恩師が住む家は家財道具が壊れた程度で、家は健在でした。テレビ台ごと就寝場所にまともに落下したそうです。もともと早起きの習慣があったので洗面所にいて直撃を免れたようです。
 周囲の木造二階建て屋は半壊近い状態でした。先生の家は平屋。師いわく「貧乏だったのでこんな小さな家で暮らしてきたことが幸いした」。それでも屋根瓦がずれて隙間だらけの屋根を、背負子で運んだブルーシートをかけて応急処置して帰りました。
 とにかく地震の直接被害が最も大きいという東灘に住んでいる友人が心配だった。友人は神戸の大学の院に進学していた。友人のテレビ局記者や新聞記者は東灘ぐらいまでなら行けるかも分からないというので、まずは友人を探すことにした。
 他の友人と二人でリュックにパンとカップラーメンを詰めて、JRだったか阪急で西宮まで行った。
 愕然とした。「僕らは戦争中の日本にタイム・スリップをしたんでしょうか?」友人が呟いた。
 歩けど歩けど瓦礫ばかり。ようやく避難所となっている寺が見えた。明らかに現場を知らずにボランティアきどりで来ている大学生にみえたのだろうか住職さんが血相を変えて走ってきた。
 僕たちが「東灘へ行きたい。」と申し上げると「君達の格好は余りにも危険や。今すぐ帰りなさい!」と言われた。
 数日がして友人が避難所にいるところをテレビで確認できた。どういう方法をとったのか忘れたが連絡がついた。慌てて実家に連絡したら、受話器の向こうのお母さんが泣き崩れていた。
 友人のアパートの部屋は3階だったが玄関を開けると2階の高さだったという。階段は落ちていたが、偶然にも通りかかった人に助けてもらったという。建物を見返すと3階の廊下は45度程の角度で斜めになっていたという話だった。
 震災後、不思議なことが起きていた。滅多に大学に来ないヤツがいた。京都の街で見かけても場外馬券売場か飲み屋でしか会えないヤツだった。
 学食で近くに座ったときに「珍しいやん?」と、聞くと「京都へ来ないとまともに飯が食えんし、風呂も入れへんさかいにな。」
 「どういう意味や?。」、「家が西宮なんや。」、「…。」
 彼は、夏休み頃まで大学に毎日のように顔を出していた。

崩壊した建物のがれき類の山から大量のアスベストが飛散していており、犠牲者数は今後も増え続けることになりそうです。

今年も、1月17日午前5時46分になりました。南無阿弥陀佛、合掌

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