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前の参議院選挙で自民党が歴史的な惨敗、民主党の圧勝となり、参議院の第1党となった。あの「マドンナ・ブーム」の第15回参議院議員通常選挙でも起きなかったことであり、政権交代の可能性が見えてきた。参議院議長に元社会民主連合代表であった江田五月元科学技術庁長官が選ばれた。
この政界での出来事に故江田三郎日本社会党委員長代行を思い起こした人は僕だけではないと思う。 江田三郎〜参院選の投票日は生誕100年の日だった1907年、岡山県建部町に生まれる。神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て東京商科大学(現一橋大学)に学んだが、中途退学して農民運動に参加。戦後は1950年から1962年まで参議院。1963年に衆議院議員となり、当選4回。その間、日本社会党書記長、同副委員長を歴任。1977年に離党し、菅直人と社会市民連合を結成し、同年の参議院選挙全国区に出馬表明するも急逝。田中角栄が最も恐れた政治家だった。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場している。 第21回参議院議員通常選挙の投票日は(2007年7月29日)江田三郎生誕100年の日だった。 江田の信条と心情■ 構造改革論争 1960年総選挙のころから、江田は構造改革論を社会党の路線の軸に据えようとした。これは、政権獲得後は日本社会の改革を積み重ねるという穏健な考え方で、これまで権力獲得の過程があいまいであった平和革命論を補強しようというものであった。しかし、社会主義協会や鈴木茂三郎・佐々木更三等の党幹部も構造改革論反対を唱えるようになった。 1962年、栃木県日光市で開かれた党全国活動家会議で講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として江田ビジョンを掲げた。 江田は雑誌『エコノミスト』にこの話をもとにした論文を発表、世論の圧倒的な支持を得たが、肝心の社会党内では、従来の社会主義の解釈を逸脱するものとして批判された。 1970年の委員長選挙でも敗れた江田は、公明党・民社党との社公民路線によって政権を獲得することを主張するが、成田知巳委員長らは共産党をも加えた全野党共闘を主張した。 1976年、社公民路線を推進するため、公明党・民社党の実力者とともに「新しい日本を考える会」を設立するが、これが社会主義協会系の活動家たちの逆鱗に触れた。 1976年総選挙では落選し、1977年の党大会では社会主義協会系の活動家たちからつるし上げられるなどした江田は社会党改革に絶望して、同年離党した。 そして、現在… 江田三郎の死後、日本の政界は社会党が長期低迷を続けるも、先述の第15回参議院選挙を発端として、宮沢内閣不信任案が可決されての第40回衆院選で日本の政界は連立内閣時代となったものの、細川、羽田の両内閣を除けば政権交代が行われていない。
参考文献しかし、参議院の与野党逆転で政権交代も見えてきた。江田三郎が存命であれば、どのような戦略で政権奪取に向かうであろうか? 江田三郎『新しい政治を目指して』日本評論社,1977年 江田五月『国会議員』講談社,1985年 江田五月『出発のためのメモランダム』毎日新聞社,1996年 原彬久『戦後史のなかの日本社会党』中央公論社,2000年 別冊宝島編集部(編)『新・社会党読本』JICC出版局,1989年 参考サイト *江田三郎が、いま、私たちに語りかけるもの *江田ビジョン *江田意見書 関連用語 *社公民路線 *社共共闘 *民社党 お時間がありましたら…。 *まったけ日記269―『手紙』〜野中広務(3)から小泉純一郎への時代〜― *まったけ日記266ー戦前日本は共産主義国家ー *まったけ日記256−野中広務(2) with 温首相 in 立命館大学− *まったけ日記200ー野中広務(1)ー *まったけ日記124―トリコロールから経済学を考える― *まったけ日記115―「一億総中流社会」から「貧困率第2位」に落ちた日本― *まったけ日記105ー日本は178ケ国中95位ー *まったけ日記100ー麻生太郎氏の部落差別発言を断じて許さない!ー ご意見下さい *いわれひこ様BBS *京都亀岡国際秘宝館・本館 |
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2007年08月20日
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