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まず、昨日の京都新聞の記事を紹介します。
「エリザベス女王を保津川下りに招待しようと、ビデオレターを英国王室に送っていた保津小学校(京都府亀岡市)に同王室からの返事が届き、28日に児童に披露された。内容は「来年、王室の一員が日本へ行くかもしれないので、もう1度手紙がほしい」と、ロイヤルファミリーの来訪を予感させるものだった。児童は「わたしたちの思いが届いた。来てくれると信じたい」と期待に胸を膨らましている。」
保津川は、他には大堰川(大井川)とも呼ばれる桂川のことで、保津峡から嵐山までの「保津川下り」が有名です。おそらく、長岡京・平安京の建設にあたり丹波高地の材木を運んだものが始まりと思われます。
現代の「保津川下り」があるのは、17世紀の慶長年間に京都の豪商・角倉了以が保津川を開削して丹波と京都を結んだ水路を作る工事によるもので、江戸期を通じて丹波の豊かな物資を京都へ水運しました。その着工は、慶長11年(1606年)・・・。即ち、本年で保津川開削400年にあたります。
やがて、近世から近代へと時代は大きく変化します。
山陰街道の亀岡市王子から明智光秀が重臣と本能寺の変の謀議をした野条、足利尊氏が挙兵した篠村八幡宮を過ぎて保津川河畔の山本地区への府道は、この頃は「異人道」と呼ばれていました。
明治30年頃から物流の時代は鉄路へと変わったために、この水路は遊船としての「保津川下り」が始まりました。
特に、1907年(明治40年)に夏目漱石が「保津川下り」を楽しんだ体験から朝日新聞に連載していた人気小説『虞美人草』の作中で「保津川下り」を記したことなどにより有名になりました。
やがて、京都に訪れた多くの外国人が保津川下りを楽しむようになりました。
多くの外国人は京都から人力車に乗って京都と亀岡の間の老ノ坂峠を越えて、王子から山本浜へとやってきました。そこで、いつしか「異人道」と呼ばれるようになったのです。
この時代は、国賓として1920年(大正9年)にルーマニア皇太子一行、1922年(大正11年)に英国皇太子一行、1929年(昭和4年)には英国・グロスター公一行が川下りを楽しんでいます。
大津事件(1891年)がなければ、後のロシア皇帝ニコライ2世も楽しまれたかも…?
時は移り、平成となった世に、山陰本線の旧路線を利用した日本初の観光専用鉄道である嵯峨野観光鉄道いわゆる「トロッコ列車」が開業したのも不思議な縁です。
「今回、保津小学校は保津峡の開削から400年目の節目の年に、過去に英国王室からの来訪者もある保津川下りに、エリザベス女王を招こうと、昨年12月、5年児童(当時)全員でビデオレターの制作を始めた。2月末に完成し、3月中旬にはロンドンのバッキンガム宮殿に郵送したものです。」
参考文献等:京都新聞「電子版」(2006年(平成18)年4月28日)
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2006042800278&genre=F1&area=K40
:井本信廣・山嵜泰正『京都府の不思議事典』新人物往来社,2000年
「まったけ日記」1〜50は、こちらまで「http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html」
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