明智戻り岩(亀岡市曽我部町:写真)丹波から摂津の国へ向かう法貴峠に、「南無妙法蓮華経」の御題目が達筆で刻まれた巨岩が屹立している。 明智光秀は秀吉救援のため西国出陣の兵を動かし、一部は当地に達した。ところが天正10年(1582年)6月1日、東方転換を命じた明智光秀の命令により、兵は、この岩を越さずに逆戻りし老の坂へ向かったと伝えられる。それより、この岩は「明智戻り岩」と称されることになったのである。 名前の由来についてはこの説の他いくつかの歴史伝承が残されている。又、この近くには明智橋といわれる橋も残っている。 明智光秀の駒すべり岩(亀岡市畑野町)「光秀の駒すべり岩」この物語は約400年の昔、亀山(亀岡)より西加舎村(亀岡市本梅町)、千ケ畑村(同市畑野町)に通じる能勢、篠山街道の岩石峠(雁関峠)にはじまる。山間の谷川に沿って一直線に登る幅2メートル余りの山道がある。この中心部に、たたみ一枚敷ほどの表面なめらかな自然石が道いっぱいに横たわり、人や牛馬はその両側を通行していた。 この石の真ん中に馬の蹄の型がみられた。これを『光秀の駒すべり岩』と呼び、あまり世間に知られないまま伝わって来た。 その由来は、この山道からさらに西加舎村、千ケ畑村を過ぎ、広野村と土ケ畑村の中間に金山という深山に、銅、金の鉱山がある。昭和28年(1953年)、大水害まで採掘坑道や金吹き分け場や鉱夫の飯場跡が残っていた。いまも光秀が入ったと言う坑道がわずかに残っている。 戦国時代より各大名は鉱山を所有することが通例であった。この山を支配していた明智光秀が鉱夫の監督、検視のため度々、鉱山を訪れた。しかし、雁関峠にさしかかったとき、この大岩で馬は足をとめた。鞭打たれた馬は、身をふるわせて”馬力”をかけ何度も蹄で岩をけり、ようやく登った。その足跡が『駒すべり岩』として伝えられた。 この道は明治23年(1844年)頃、府道天王亀岡線の改修により、歩く人が近道に利用する程度で、すっかり忘れられている。最近は加舎カントリークラブのゴルフ場の芝生と変わり、『駒すべり』の岩は埋もれ、二度と探訪することができなくなった。いま思えば残念の極みである。 また、一説には畑野町土ケ畑、この金山よりさらに西方、能勢町との境に三草山連峰(約785メートル)の一つ剣尾山がそびえる。当時、高野山の別院真言宗月峯寺が隆盛を極め、大阪・尼崎方面の農民漁民の信仰を集め、僧兵百数十人を拘え善意の布教を敷いた。その勢力は日増しに強まり、七堂迦羅の大殿堂を構えた。都ではこの勢力に恐れ、織田信長は、明智光秀に命じ一挙に殿堂と僧兵を焼討ち滅ぼした。その道中が雁関峠であり、この岩を通過したとき、蹄の跡がついたとも伝えられている。 今日の独り言 子供の頃、「駒すべり岩」は光秀が落馬したところと勘違いしていた!? まったけ日記147−明智光秀言行録 http://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/20114650.html まったけ日記179−「明智光秀〜神に愛されなかった男〜」 http://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/23115827.html まったけの『珍説・明智光秀公手記』・上 http://www.geocities.jp/f4_ttm/a_shuki.html まったけの『珍説・明智光秀公手記』・下 http://www.geocities.jp/f4_ttm/a_shuki2.html まったけの明智光秀公都隣問答 http://www.geocities.jp/f4_ttm/akechimondou.html 時代劇「明智光秀」 歴代キャスト一覧表 http://www.geocities.jp/f4_ttm/akechicast.html 京都亀岡国際秘宝館・本館 http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html
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明智光秀
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唐沢寿明、フジ新春時代劇で信長の家臣・明智光秀を熱演明智光秀に取り組んでいる唐沢寿明。ドラマでは“裏切り者”のレッテルをはがすのか…
俳優、唐沢寿明(43)が来年新春放送のフジテレビ系スペシャルドラマ「明智光秀〜神に愛されなかった男〜」に主演することが24日、分かった。これまで“主人公”として描かれることがなかった光秀の真実の姿に迫る。光秀役の唐沢は、出世争いの相手、豊臣秀吉との関係に興味津々。「今回の役は俳優としてとてもひかれました」と語り、楽しんで撮影に臨んでいる。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康…。戦国時代の名だたる武将にスポットライトをあてたドラマは数え切れない。そんな主役たちの陰に隠れ、“三日天下”とやゆされ、“裏切り者”の烙印(らくいん)をおされてきた明智光秀が、ついに主役に躍り出るチャンスが巡ってきた。 制作にあたる同局の保原賢一郎プロデューサーは語る。「光秀はあまりいいイメージで語られることの少ないキャラクターですが、実は秀吉以上のスピード出世を遂げていて、信長の天下布武の中枢でもっとも活躍した男なんです」。 つまり、できる男。ドラマは、その優秀な光秀が、なぜ謀反の道を選んだのか? 信長に代わり天下人になりたかったのか? といった疑問に迫りつつ、とくに、最大のライバルとされる秀吉との関係性に焦点をあてるという。 同氏は唐沢の起用理由について「光秀は熱い情熱を内に秘めながら、クールにふるまう。感情をコントロールする複雑な演技ができるのは彼しかいない」と説明。NHK大河ドラマ「利家とまつ」で光秀と同じく信長に仕えた前田利家を演じ、違った側面からこの時代を見つめてきた唐沢は「光秀は今まであまり深く描かれたことのない人物でしたので、今回のお話をいただいたときには非常に興味を持ちました」と、出演依頼を快諾した。 「頭が非常に良くて、官僚的で、まじめで、そこが逆に戦国時代という時代についていけなかった人。“敗者”だけれど、ほかの時代だったら生き残ることができたのではないか」と唐沢なりに光秀像も描いた。 「欲が表に出ない、人一倍頑張っても評価されない、かわいそうな人だと思いますが、その部分をうまく演じていければと思っています」。今月9日に京都市内にある映像京都でクランクインした唐沢は、どこの会社にもいそうな、能力がありながら不器用な男を熱演している。 ★超豪華共演陣 正月放送のスペシャルドラマだけに、共演陣も超豪華だ。光秀のライバル、秀吉は柳葉敏郎(45)が演じる。主君、信長は上川隆也(41)、光秀の心のよりどころだった妻、ひろ子に長澤まさみ(19)、婿養子、秀満に大泉洋(33)。秀吉の妻、おねを小西真奈美(27)、足利幕府最後の将軍、義昭を谷原章介(34)。唐沢の代表作「白い巨塔」や映画「県庁の星」を手がけたフジのディレクター、西谷弘氏が演出する。 ★秀吉には嫉妬心、主君信長に不満 安土桃山時代の武将だった明智光秀は、のちの豊臣秀吉とともに織田信長に仕えるが、1582年に京都の本能寺に宿泊していた信長を急襲し自害させた。主君に謀反を起こした理由は定かでなく諸説ある。ドラマでは、明るくひょうきんな魅力で信長に愛される秀吉と、きまじめに職務をまっとうする光秀が対照的。秀吉に嫉妬心を、信長に不満を募らせる光秀の姿が描かれるが…。(『サンスポ.COM』2006年10月25日より引用) 今日の独り言 我が主君明智光秀公が主人公のドラマ実現は近いと思っていたが唐沢寿明とは意外だった 参考:まったけの時代劇「明智光秀」歴代キャスト一覧表【URL】 http://www.geocities.jp/f4_ttm/akechicast.html 京都亀岡国際秘宝館・本館 http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html
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明智 光秀(1528?ー1582?)は、戦国武将の中でも卓越した戦略・能力を持っており、最も有能な人物の一人であったのは、まぎれもない事実です。居城の丹波亀山城(京都府亀岡市)を出発し、丹波と京都の間にある老ノ坂峠を越えて、桂川を渡河して本能寺の変で、織田信長を破りました。 しかし、水色桔梗の旗が天下を獲ったのも束の間、山崎の合戦で羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢に破れ去りました。 現代における、明智光秀の評価は「謀反人」のイメージがつきまとうが、「五十五年夢」を賭けた戦国武将の一人です。 しかし、歴史は勝者によって残されるため、余りに有名な戦国武将ですが、その人物像は多くの謎に包まれています。今日は、明智光秀が残したとされる言葉により人物像に迫りたいと思います。 光秀の武将としての合理的且つ冷徹な性格を記したものとされています。 宣教師フロイスは信長を贔屓とし光秀を嫌っていたと言われていますので必ず真実を伝えるものとは言えません。また、『老人雑話』は江村専斎の備忘録のようなもので、創作された箇所が多く含まれており史料としては良質なものではありません。 『老人雑話』の「土民百姓」以下は、光秀の民政家としての側面を表していると言われています。 織田家中で光秀は最初の城持ち大名になりますが、近江坂本城(滋賀県大津市)を築いたときに記したとされる和歌です。しかし、『常山紀談』は良質な史料でないとされています。 光秀のものとされる和歌です。光秀は教養ある武将とされており、和歌のほかは連歌では里村紹巴、茶道では堺の豪商津田宗及、公卿で吉田神社の神主であった吉田兼見と親しかったと言われています。 兼見の日記『兼見卿記』が、光秀の人物像を伝える最も良質な史料の一つですが、本能寺の変の起きた天正10年(1582年)のみは元旦から本能寺の変前後までは書き直され正本と副本が伝えられています。 書き直す前の正本が史実を伝えているとするの考えが主流となっています。 丹波平定後に光秀は、丹波国桑田郡(京都市右京区、合併前は京都府北桑田郡京北町周山)を城を築き周山城と命名します。中国の殷王朝を滅ぼした周王朝に見立てたと噂され、秀吉が光秀に真意を質したときにこのように答えたとされます。 これは、光秀が定めた軍法の軍法末尾の一文です。この軍法で織田家中で現存する唯一の緻密な軍法と言われ、本能寺の変のちょうど一年前の天正9年(1581年)6月2日の日付になっています。「自分は路傍の石ころのような身分から召し出され今日莫大な兵を預けられる身となった」と信長に対する忠誠が記されています。 このように家臣に厳しい軍律を課す一方で、光秀は明智家菩提寺である西教寺(滋賀県大津市坂本)に戦没者供養米を寄進した文書が残されています。光秀の家臣に対する心づかいがわかります、光秀は山崎の合戦まで、ただ一人の家臣に裏切られることはありませんでした。 本能寺の変直前に、中国出兵を命じられた光秀が愛宕神社(京都市右京区)を参詣をしたときに、里村紹巴らとともにした余りに有名な連歌『愛宕百韻』の発句です。 光秀が挙兵の心情を吐露したものとされますがそのような大事を洩す人物ではないと思われます。 なお、光秀が亀岡から愛宕参詣した道は、今でも「明智越え」と呼ばれています。 本能寺溝幾尺 (本能寺溝は幾尺なるぞ) 吾就大事在今夕 (吾大事を就すは今夕に在り) 藁粽在手藁併食 (藁粽手に在り藁併せて食ろう) 四簷梅雨天如墨 (四簷の梅雨天墨の如し) 老坂西去備中道 (老の坂西に去れば備中の道) 鞭揚東指天猶早 (鞭を揚げて東を指せば天猶お早し) 我敵正在本能寺 (我が敵は正に本能寺に在り) 敵在備中汝能備 (敵は備中に在り汝能く備えよ) 光秀が山崎の合戦で家臣の松田太郎佐衛門政近に天王山(京都府乙訓郡大山崎町)進出を命じたものとされるものです。しかし、史料として『太閤記』が良質でないため史実ではないものとされています。 光秀の辞世とされるものです。 『明智軍記』は、江戸時代元禄年間に当時から風聞していた「光秀=天海」説を否定すること目的に作成されたとする説もある軍記物語です。真書太閤記も良質な史料でありません。 この光秀のものとされる辞世に何を感じられますか? ※ 「言行録」としながら光秀のものとされるのは『明智光秀家中軍法』、『愛宕百韻』しかありませ ん。さらに、『愛宕百韻』についても、里村紹巴によって書き直された等の諸説があるうえに、様々な 解釈があります。歴史とはかように難しいものであります。 結論 明智光秀とは何者かさっぱり分かりません(笑) 参考文献:
高柳光寿『明智光秀』吉川弘文館,1958年
『開館5周年記念特別展 明智光秀と丹波・亀岡』1990年桑田忠親『明智光秀』講談社文庫,1983年 二木謙一編集『明智光秀のすべて』新人物往来社,1994年 小和田哲男『明智光秀 つくられた「謀反人」』PHP新書,1998年 『歴史群像シリーズ 戦国セレクション 俊英 明智光秀』学研,2002年 高柳光寿・竹内理三編集『角川日本史辞典』角川書店,1966年 亀岡市老人クラブ連合会『ふるさと 亀岡乃知恵』1982年 雑誌『歴史と旅1998年11月号 明智光秀とは何者か』秋田書店 写真:本能寺へと出陣するまったけの前世(亀岡中納言言卯太郎光輝,中納言は僭称)於:丹波亀山城下 まったけの『珍説・明智光秀公手記』上 http://www.geocities.jp/f4_ttm/a_shuki.html まったけの『珍説・明智光秀公手記』下 http://www.geocities.jp/f4_ttm/a_shuki2.html まったけの明智光秀公都隣問答 http://www.geocities.jp/f4_ttm/akechimondou.html 時代劇「明智光秀」歴代キャスト一覧表 http://www.geocities.jp/f4_ttm/akechicast.html ※「まったけ日記」1〜50は、こちらまで http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html
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只今、NHK『その時歴史が動いた 双方向企画 歴史の選択 本能寺の変 織田信長VS明智光秀 〜激突!改革か安定か〜』を再放送で鑑ました。 |
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もう既にブームは過ぎたように感じますが、一時は各地でさかんに城郭の再建が行われました。それらは当然のことですが、復興模擬天守閣になるわけです。しかし、中には天守閣がなかった城郭ですら天守閣を作っているところもあり、失笑してしまうような城郭・砦もありました。 |





