父母のこと

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お盆休みは、2日しかお休みのないパパより一足早く、子供たちと3人で先におじいちゃん宅へ行き、さいたま水族館、涼しい那須に2泊、灼熱のおじいちゃん宅で4日、と過ごしてきました。いろいろとおいしいものを食べ、朝昼晩「しっかり食事」で、体重計に乗るのが恐く、いまだ乗っていません。現実逃避・・・・・しかし、確実に9月のライブは近づいてきているのでありますよ。。。ガーン

さて、おばあちゃん(義母)のお墓参り後、おばあちゃんを思い出しながら、不二家に寄り道、みんなでスイーツを食べた。じいちゃんも、でっかいパフェを食べた。おばあちゃんは、よく「甘いもの食べに行こ!」と不二家に寄るのが好きだった。なつかしいな・・・・

それでふと思い出した、昨年の12月に書いた日記。パソコンの不調や、3月の震災などですっかり忘れていたけれど。読み返してみたら想いがよみがえったので、UPしておこう。。。

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12月14日。討ち入りの日。

別れはいっぺんにやってきた。

おじいちゃん宅で飼っていた愛犬「ケン」と、パパの大事にしていた「車」。。。思い出いっぱいの大好きなものとの別れ・・・本当にさみしい。

ケンは18歳。もう立派におじいちゃんだ。ペット専門の葬儀屋さんからも、そんなに長生きした犬はここでは初めてだと言われたそうだ。

子供たちが生まれたときも、ケンは知っている。やんちゃなのが一人、あれ、そしてもう一人増えたぞ〜〜と思っていたかな。子供たちはケンが大好き、ケンも子供たちが大好き。



パパのクルマの音がすると、「いらっしゃい!待ってたよ!!」とばかりに玄関でしっぽがちぎれんばかりに出迎えてくれたケン。

子供たちと一緒に散歩したり、公園で遊んだり。大型犬が苦手だった私もすっかりケンのおかげで平気になった。

たくさんの本当にたくさんの思い出をありがとう、ケン。みんな、君に会えなくて泣いているよ。。

天国では、一番かわいがってくれてたおばあちゃんに会えたかな、よく頑張ったね、と言ってもらえたかな。。。ケン、楽しかったね、ありがとうね

SAYAからのてがみ「けんへ けん だいすきだったんだよ それでわたしとにいちゃんとぱぱとままをてんごくでみまもってね。それでほんとうにだいすき。けん いままでありがとう」けんとお散歩するSAYAの絵が描かれています、まってよ けん はやいよ けん けん だいすき 



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私は子供の頃、ひどい車酔いで、特に観光バスにはすぐに酔ってしまうので、残念ながら遠足は嫌いだった。毎回必ず吐いてしまう。吐いても気分はよくならず、現地でも具合が悪いままなので楽しく遊ぶこともできず、もちろんせっかくお母さんが作ってくれたお弁当を食べることも出来ず、やっとの思いで家に帰ってくる。まるで拷問だった。

父の運転する車はかろうじて慣れていたが、それでも、運転席の窓を全開にしてもらって、死にそうな魚みたいに後ろの席から首を伸ばして、窓の外の空気を吸いながらでないとすぐに酔った。窓を開けているから、夏は暑く、冬は寒い。私はいいが、父も母も暑そう(寒そう)だったのが申し訳なかったが、こっちにとっては必死だった。

遠出はつらいし本当にイヤだった。車は嫌いなハズだった。

大きくなっても、吐くほどではないけれど、車にはやっぱり弱かった。でも、克服したい気持ちがあったのかどうだったのか、20歳の成人のときに、両親に、「成人のお祝いの着物はいらないから、運転免許を取らせて欲しい」とお願いし、最短ストレートで免許を取った。父に似て、運転技術はあったらしい。

自分で運転するようになったら、車に酔うことはなくなった(今でも船はダメだが・・・・)

初めてのドライブは父を横に乗せて、なぜか首都高。なんて無謀なスパルタ父なんだろう、でもおかげでビュービュー飛ばすクルマがたくさん走っている首都高の怖さを感じることもなかった。夜は土手沿いの道をドライブして練習した(スピードが出せるから)。車庫入れや縦列は得意だった。どこへでも行ける。クルマが大好きになった。

たくさんの車種も覚えたし、友達のクルマを運転させてもらったり、マニュアル車も平気だった。会社では、たまたま好きで馴染みがある自動車系企業にアプローチしていたからか、自動車業界の企業を担当することになった。業界図や用語はもちろん、部品やら素材のことも詳しくなった。運転そのものが好きで、F1もよく見た。アイルトンセナが亡くなってF1熱は冷めてしまったけど。独身時代は父のスカイラインを乗り回し、結婚してからはパパのクルマを乗り回した。

子供が出来て会社を辞め、未知の育児の世界に飛び込んだ。社会から置いていかれるような錯覚を抱きがちな育児生活で、クルマに乗れるのは息抜きにもなった。赤ん坊を連れての外出は、クルマがあるとめちゃめちゃ便利。離れた場所に住むママ友に会いに行ったり、おむつやミルク、かさばって重い買い物に行くにもクルマがあれば苦もなく、子供は揺れでつかの間寝てくれる。病院に連れて行くのも便利。雨の日のお出かけも便利。私は自由に、どこまででも、車に乗って、出かけていった。

パパにはよくビックリされたけど、平日に突如思いついて、子供たちを連れて日帰りで那須にもよく行った。お友達と一緒にディズニーランドにも母子でよく行った。クルマのおかげで、本当に行動範囲は広かった。いっつもクルマと一緒。

それが、子供たちが大きくなるにつれ、子連れで電車やバスなどに乗るのもラクになったし、近場は自転車で移動がメイン、自宅が駅に近いのもあって、車に乗る回数はどんどん減っていった。夏休みや冬休み、那須に行くときやスキーなど、レジャーのときには乗るものの、普段はほとんど乗ることがなくなり、月に一度、乗るか乗らないかになった。そしてクルマも年をとり、メンテに手がかかるようになった。今回の車検でビックリの金額・・・ここで手をかけても、これから先も悪くなる一方なのは変わらない。。。これを機に、今まで大事に乗ってきた、パパの愛車を手放すことになったんだ。

11月のある日。綺麗に洗車されて戻ってきたパパの愛車を写真に撮ろうと、私は一人でいい景色を探しに出た。ホントは那須とか緑いっぱいの大自然の中に行きたいが、時間がないので残念ながら遠くには行けない。これが私とこのクルマとのラストラン。

近場の思いついた場所に行くと、少し終わりかけの銀杏だけど、まだ残っていてくれた。


ビデオも撮って、写真もたくさん撮った。帰り道はなんだかさみしくて、いろんなことを思い出した。小さい子供たちを乗せていろんなところへ行ったこと、このクルマは、子供たちの成長もみてきてんだ。

それから、闘病中の母の病院へ通ったあの日々。連日、まだ小さくて病院には連れていけない子供たち(SOU2歳、SAYA0歳)をそれぞれ日替わりで別々の友達宅へ預かってもらい、母の病院へ急いでの往復。片道20〜30分ほどの道のり、行きはとにかく早く会いたくて、帰りは日に日に悪くなる病状を目の当たりにしてさみしくてさみしくて、ひとり泣きながらハンドルを握ったあの頃。私の涙も、母への思いも、このクルマは知っているんだ。

大事な思い出がいっぱい。

さようなら、大好きなものたち。

忘れないから。

ありがとうね



 

桜の命日・2011



今年もまた、桜の季節がやってきて、母の命日(4月1日)が来た。昨年の父に続いて、今年は母の七回忌。亡くなってから丸6年。なんだかすごい昔のことのような気もするし、ついこの間のことのような気もするが、確実に月日は移り、子供たちも、もう新3年生に新1年生だ。そばにいないことは今でもいつもさみしいけれども、あの、怖かった地震のとき、怖がりの母が生きていてこの地震を体験しなくて本当によかったなあ、、、ともちょっと思う。

7回忌には一緒にお墓参りをしようね、と言っていた伯母(母の姉)は、その1ヶ月前に同じくガンで亡くなってしまった。亡くなる5日前にSAYAを連れて病院にお見舞いに行った。久しぶりに会う伯母はすっかり痩せてしまっていて、母の病院での毎日を思い出した。体を拭いてもらったり少し動くだけで、もう息があがり苦しそうで、そんな姿を見るのは辛かった。

1年前、昨年の2月には、私のフラメンコの発表会を観に来てくれた。すでにガン闘病中ではあったけど、その頃はまだ元気で、私のことを、お母さんに似ているね、懐かしい、と言ってくれた。



でも、目の前の伯母はもう動くことが出来ず、目をつぶったまま、話すことも出来なかった、意識はあるのでこちらの話は聞こえている、という。それならば、とこちらから手をさすりながらいろいろと話しかける。あらためて見る伯母の手は、やっぱり母の手にそっくりで驚いた。手指の形、爪の形、懐かしくてせつなくなった。子供たちが描いた絵を持ってきたよ、というと、辛いのに一生懸命目を開いて見てくれて、うん、うん、とうなづいた。伯母も伯父と同じく画家で、墨絵の先生だ。病室でも絵を描けるように、と持ち込んでいたスケッチブックには、残念ながら絵が描かれることはなかった。



一生懸命、そばに寄って絵を見せるSAYAを見て、声にならない小さい声で「かわいい」と言ってくれた。それが私が聞いた、伯母の最後の言葉。会えてよかった。

私は母が亡くなってから、なんとなく、伯母に会うと母を重ねていた。身内、血縁という気持ちがあるからなのか、なんとなく、伯母がいるという安心感があった。子供たちにとっても、おばあちゃん代わりになってくれていた。

相当痛いだろうに、痛み止めを拒絶してがんばってきた伯母。その芯の強さはやっぱり母に似ている。存在そのものが、人生の師である人をまた一人失った。

痛みから解放された伯母の顔は、おだやかで優しい。「お母さんによろしく伝えてね、私はがんばっているからと」

震災のようなどんなひどいことがあっても、

どんな辛いときでも、やっぱり季節は巡り、桜は咲く。見事なまでの強さと潔さ。



お母さんの桜。今年も、私たちがどう生きているか、見ていてね




桜の命日

http://60304219.at.webry.info/200704/article_5.html (2007年)

http://60304219.at.webry.info/200803/article_8.html (2008年)

http://60304219.at.webry.info/200904/article_8.html (2009年)





年末に思うこと

PC直って戻ってくるまで画像も取り出せないし、楽しかった思い出の記事は年明けまで書けないから、ちょっと思いついたことを書いておこうかな。
 
 
2010年ももう終わりに近づいて、この一年どうだったかしら、と振り返ると、まあいろいろな面で新しいチャレンジもあったりで相変わらず忙しかったなあと思う。特にフラメンコは充実していて本当によくステージチャンスをいただき踊らせていただいた。
 
年初に何を思っていたかしら、と日記を振り返ると、
「今年も想いの向くままにたくさんのチャレンジをしていきたい。本業(母)では今年も子供たちを精神面のサポートしながら、一緒になって体験したり感動したりを通して、しつこく関わり続けてたい」と書いている。いろいろ反省点はあるものの、おおむね、希望に近い1年だったんじゃないかしら。新しいチャレンジではやはり視野が広がったり、その立場になってみないとわからなかったことを知り、たくさんの人に感謝するとともに自分も人の役に立てる人になりたいという気持ちが強まったりした。
 
暑すぎた夏に、珍しく体調を崩していろいろ考えさせられたりもした。
 
チャレンジが多すぎて、忙し過ぎでは?とか、生き急いでる、早死にするよとか言われたりもした(爆!!いや全然私なんて努力不足。働くママなんかもっと忙しい。すごい人は本当にいくらでもいるもんね〜〜)
 
でもさ
 
人間動けるうちが花なんですよ
 
人間死んだらおしまい、っていう言葉あるけどね、「動けなくなったら」が正解じゃないかしらと思う。元気なままである日ポックリ、ってのは理想だけど現実にはなかなかない。
 
両親の闘病中の日々。あの、病院の白い壁の内と外では、空気も景色も色でさえも何もかもが違う、その生と死のコントラストが私には鮮明に残っている。
 
いつ家に帰れるかしら、と最後まで希望を捨てなかった母、本当はもう病院を出ることはない、とどこかでわかっていたのかもしれない。ある日見た不思議な夢をとても嬉しそうに話してくれた。「病院のベッドで眠っていたら、突然体が宙に浮いて空を飛べるようになったのよ、そのままどこへでも行きたいところへ行けるのよ、気がついたらずっと行ってみたいと思っていたゴルゴダの丘まで行ってきたわ」
 
贅沢な望みなんて何もない、ただひとつ、元気だった頃のように自分の足で、行きたいところへ!!
ただただ四角い、空調のきいた病院の白い部屋の中。長い長い一日。母の思いは翼となってせめても夢の中で外へ飛び出したのか。私は、その日、暑い寒いを感じたり、風やにおい、季節のうつろいを感じながらどこへでも自分の足で自由に歩けることが、どれだけ素晴らしくてかけがえのないものなのかということを知った。
 
。。。。。
 
 
秋以降には、身近な同年代の知人の死が2つもあって。
 
一人は音大時代のとても仲の良かった友達。突然の訃報をすぐには信じられなかった。一緒に学んだり、遊んだりした楽しかった記憶は鮮やかに残っているけど、彼女が直近2年も闘病していたなんて、全然知らなかったし想像も出来ない。お互い結婚して子供が出来てからは賀状のやり取りだけになってしまったが、海外など旅行先で撮ったらしき彼女の子供たちの楽しそうな顔からは、闘病中だったなんて微塵も感じ取れなかった。下の子はまだ幼稚園。上の子も小学生。。。これからは、彼女のお母さんが子供たちを面倒みていくそうだ。。
 
もう一人は、会社時代の先輩。上司であったこともある人だ。交通事故だったようでこちらも突然の訃報。直前まで元気だった人が、突然帰らぬ人となる。。。パパっ子だという娘さんはまだ中学生。その気持ちを考えるといたたまれない。
 
人生、いつなにが起こるか、本当にわからないものだ。
 
私は、明日万が一不慮の事故で死んでしまっても、後悔しない一日を送ったかしら??いつもいつもそんな風に考えて生きていたら疲れてしまうかもしれないけど。
 
でも少なくとも、やりたいことややるべきことをやらずに我慢したり怠けたりして、それを何かのせいにして愚痴を言ったりするような生き方はしたくないなあ、と思う。「やらない・出来ない」という選択肢はなくて、「やるために、出来るためにはどうするか」を考える人でいたい。
 
いつかお母さんに会えたとき、がんばったね、って言ってもらえるように
 
 
ああ、やっぱり「お母さん」てすごいんだな。私もそんな影響力あるお母さんになりたいものだわ
 
 
来年は、もう少し「やりたいこと」よりも「やるべきこと」を抽出していろいろと行動に移してみようと思います。
 
ちなみに私はしっかり寝ないと体がもたない人なので超早寝(子供と一緒に寝る)で睡眠時間は9時間をキープしているので、多分早死にはしません(ん、すでにおばさんだし) あはは♪
 
 
11日は父の七回忌だった。昨日、12日が命日、亡くなってから丸6年、ということ。そういえば、父が亡くなったとき1歳になりたてくらいだったSOUが、もう7歳、1年生。年月のたつのはなんと早いこと、と改めて気づかされる。

墓前での読経を聞きながら、さーーーっとこれまでのことを振り返る。お父さんのこと、亡くなった頃のこと、そしてこの6年間のこと。生まれてなかったSAYAはもう5歳だし、子どもたちはずいぶん成長した。それに比べて私は母として少しでも成長したのかしら???

お坊さんが、父、そしてご先祖さまに対して、これまで守っていただいたことに感謝しましょう、そして今もみなの後ろで見守ってくださっている、とおっしゃった。亡くなってからのほうがむしろ、私の中で父の存在感は大きく、生きていたらなんと言うかな、と思い出すことは多い。ということはやっぱり背後についているからなのかしら??いや、性格的には、寅さんみたいに、ひとつどころには落ち着かず、マイペースにどっかに行っちゃうタイプだから背中にいるわけもないかもだけど。。。(笑)日ごろから父や母の話を聞かせているから、記憶のない子どもたちも、まるでよく知ってるみたいに「じいちゃんは●●が好きだったよね、ばあちゃんはこうだったよね」なあんて言っている。SOUやSAYAの性格やしぐさに、父母のDNAを感じることもある。こうやって、いつか私のことも、生きていたって証を、子どもたちが紡いでいってくれるのかなあ。そう考えると、人生ってとてもいとおしい。

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今年も、いつも母と一緒に飾ったお雛様を、子どもたちと飾る。年々しっかりしてきて、SOUが土台の段を手早く作り上げてくれ、SAYAがお人形を大事に取り出し、二人とも手際よく、上手に飾りつけてくれた。


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早速、お雛さまのお道具で遊ぶSAYA。懐かしいな。私もよく遊んだな♪

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さて表題の件、昨年から、衣装リフォームなどでお世話になったアトリエエナさんのところにお願いしていた、発表会のグアヒーラ用の衣装が出来上がってきた。赤地に白水玉の生地を持ちこんでデザインからお願いしたところ、イメージ以上の仕上がりで素敵なファルダがついに完成!!(ブラウスはアトリエグラシアさんのものをあわせています)


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キャー♪このフリルぅ(薔薇柄の裏フリル、白い生地と、白いレースが効いてリッチな仕上がりに!)エナマジック!

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シルエットもとても素敵♪やばいやばい、完全に衣装負けしてる・・・私。。。。これから練習ラストスパート、死ぬ気でやらないとマズイよーー(泣)

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エナさんと遊んじゃいましたー!同時に作っていただいたストライプのIN用ブラウスに、いろいろ小物をあわせて、ガロティン風!おしゃれです♪(このブラウスも袖の独特なフリルが素敵!)

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他にもアレグリアス風とか、小物でいろんなコーディネイトを楽しんでいろんな使い方の発見がありました。アトリエエナさん、うわさどおり素敵な衣装屋さんです、リフォームもアイデア満載で、マジシャンのようだ、と思いました、おすすめ!!
http://www.ne.jp/asahi/atelier/ena/home.html

後悔

伯父ちゃんが亡くなった。

小さい頃からかわいがってくれた伯父ちゃん。よくキャンプや山歩きに連れて行ってもらった。私の両親が亡くなってからは、まるで親代わりのようになって、孫をかわいがるように、SOUやSAYAの誕生日やクリスマスには、箱いっぱいのプレゼントを贈ってくれた。中にはかわいいカード、お菓子、洋服、おもちゃ、画用紙、色鉛筆、文房具・・・・・まるで本当にワクワクする、お話に出てくるような魔法の箱みたいなプレゼント。たまにしか会えなかったけれど、親を亡くして心細い思いをどんなに助けられたことか。

伯父ちゃんは絵描きさんだった。詳しい仕事内容はあまり知らなかった。でもすごく小さい頃、伯父ちゃんの魔法の家みたいな仕事部屋に入れてもらったことがある。たくさんの絵、漫画、などがあった。告別式で、伯父ちゃんは以前は有名で人気な漫画家だったと知った。そのあと、絵本や挿絵を描いて、最近はもっぱら、メルヘンチックな素敵な絵を描いていたそうだ。いくつかの作品がお式の会場に飾られた。とても、懐かしいような、気持ちがあったかくなるような優しくて繊細な絵。1本道のモチーフはおじちゃんの静かだけど強い意志をあらわしているのがよく伝わってくる。

83歳。でも見た目はめちゃくちゃ若い。車もふつうに自分の足のように乗りこなす。東北でもどこでも、遠くても、平気で運転していく。若々しくてタフで元気で、愉快なおじちゃん。いつも冗談言って、静かに笑ってた、子供が大好きなおじちゃん。(こう書いてみたら、うちの父と似ている・・・ふふ)


おじちゃんはくも膜下出血だった。その直前まで、本当に普段と変わらぬ生活。朝家族を送りだした後、自分は車に乗って近くのスーパーへ買い物に。帰ってきたら家の前で近所の子供が遊んでいた。一緒に遊ぼうよ、と声をかけられて、買ってきたものは玄関に置いて、そのまま、いつものように子供たちと外でなぞなぞを出したりして遊んだそうだ。小学二年生、SOUと同じくらいの男の子や女の子と一緒に。そこで突然倒れた。最初はおじちゃんがふざけてるのかな?と思った子供たちの声が、「おじちゃん!?おじちゃん!!!」と真剣な叫びになり近所の方が救急車をよんだそうだ。

それからおじちゃんは8日間、眠り続けた。意識は戻らなかった。病院でのおじちゃんは静かに静かに眠っていた。人口呼吸器だけが、規則的に機械的な音を発していた。私は、同じように眠り続けた人工呼吸器をつけた最期の父と、苦しそうにときどき肩で大きく息をしていた最期の母を思い出したし、待合室で寝泊りするおばちゃんやいとこたちに会って、気持ちがとても伝わってきて、悲しかった。病院はイヤだ。

SOUが絵を描くのが好きだと知って、おじちゃんはとても喜んでくれてよく画用紙を送ってくれた。毎日毎日絵を描いているから、と言うと、「今度絵を見せてね」と言っていた。時間はたっぷりあったのに、日常の忙しさにかまけて、ようやくいくつかの作品をおじちゃんに送ったのが7月末。8月頭に、おじちゃんから、「ありがとう!!絵を見たよ〜すごいね」という電話をもらった。たくさん描いて、また見せてよ、楽しみにしているから。。。。。これが最後の会話になった。

おじちゃんの絵を見せてもらう約束も、SOUの絵を見てもらう約束も、一緒におそばを食べる約束も、うちに遊びに来てもらう約束も、、、、、、、、今までにいくらでも時間はたっぷりあったのに、今となってはもう話すこともできない。父母や義母を亡くしたときにした後悔を、、、私はまた同じように後悔してる。。。おじちゃんの時間は止まってしまった。

お花いっぱいに囲まれておだやかに眠るおじちゃんの棺に、SOUとSAYAが絵と手紙を書いて持っていって入れた。残念だよ、もっといろいろ話したいこと、教えてもらうこといっぱいあったのに。うちのお父さんやお母さんは迎えに来た?向こうで会えるのかなあ・・・

「おじちゃん、いままでやさしくしてくれて、ありがとう」

私も、家族を大事に生きていくよ

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