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最近読んだ本。
◆「映画で世界を愛せるか」帯には「最新刊」とあるが、1989年版だ。
これは家にあるのを出してきて再読したもの。23年も前のものなのだ。
一時期映画にかなり傾倒した頃があって、映画評論家の佐藤忠男さんの文もよく読んだものだ。
1930年生まれ。市立の工業高校を出て、国鉄、日本電信電話公社を経て雑誌の編集部勤務の後、
フリーの映画評論家になった人だ。
同じように映画が好きで働きながら映画に熱中し、その後映画評論家になった水野晴郎さんがいる。
いずれも苦労人だ。そして同じように映画が大好きだ。
この本を今読み返してみると、何とも難しくて難解だ。
韓国、中国、ニューヨーク、東南アジア、台湾、ブラジル、アフリカ、ワルシャワ、モスクワ・・・
などへ出かけ、その国の映画を分析している。
今まさに近隣諸国と様々な軋轢が生じているが、映画も過去の歴史との関連を抜きにしては語れないのだ。
「いま世界は、憎しみと誤解と疑念に充ちている。しかし同時に、互いに理解し合いたいという欲望もかつてなく強い。世界にみなぎるこのアンビバレント(二律背反)な感覚をモロに背負わされている表現形式として映画があると思う。」
「では、全世界の映画の友よ、また会おう、君の国で、スクリーンで、ブラウン管で、映画の世界連邦で。」
映画に生涯をかけた著者の声だ。この時は58歳。まだ「学習過程の記録」と言っている。
◆8月16日から2泊3日で出かけた京都の旅で手に入れた本「現代語で読む新島襄」。
2000年初版、2012年第12刷発行とあるので、毎年出版されているようだ。
新島襄といっても知っているようでいて、案外詳しいことは知らない。
来年のNHK大河ドラマは奥さんの八重さんが主人公で、綾瀬はるかさんが演じるそうだから
「新島ブーム」が来るかもしれない。新島襄さん本人でも充分大河ドラマになると思うのだが。
同志社大学の創設者である新島襄が青年時代から晩年にいたるまでに書いた
数々の手紙や手記、日記などを現代語に読み下した新島襄選集だ。
キリスト教への思いや学校創設への情熱なども伝わるが、それよりもなお感動したのは
江戸時代末期にアメリカに渡り、10年もの長きにわたって苦学を続けたことである。
年表をざっと見るだけでも、その波乱に満ちた生涯には驚く。主だったものを年表から抜き出してみた。
1843(天保14)年に江戸に生まれる。藩の役所勤めに飽き足らず、蘭学などを勉強する。
17歳で数学、航海術を学ぶ。天文学、物理学は自習。兵学、測量なども学ぶ。
19歳で江戸から岡山の帆船に乗る。この頃から「家出」の決意を徐々に固める。
英語の勉強は20歳の時から。
21歳、帆船で函館まで航海をして脱出の機会をうかがう。アメリカ商船に忍び込み、
出港、密出国に成功。上海で別のアメリカ船に乗り換える。
香港上陸時に、新約聖書を購入し感銘を受ける。22歳ボストン入港。1865(慶応1)年。
「脱国の理由書」を船主に提出した結果、船主夫婦は感動して「養父母」となる決心をしてくれる。
その後、長きに渡り、生活面はもとより経済面など多大な援助を受ける。
23歳の時に洗礼を受ける。1865年(22歳)〜1874年(31歳)までの
アメリカ生活での勉学などの様子も興味深い。多くのアメリカ人との出会いがある。
森有礼の斡旋で日本政府からパスポートと留学免許状が交付される。
岩倉遣外使節団、木戸孝允、伊藤博文との出会い、ドイツでの湯治も。
31歳で神学校を卒業後、10年振りの帰国。
32歳で父の手紙に「襄」と書き、「ジョセフの略也」と記す。
帰国後から念願の学校設立に着手する。たまたま訪れた京都で、京都へ学校を誘致をされ、
その後京都に移り住む。
1876(明治9)年八重と結婚(襄33歳)。妻、姉、父、母などが次々に洗礼を受ける。
板垣退助を見舞う。41歳で保養と募金のためにイタリア、スイス、ドイツ、イギリス、アメリカへ出かける。その時体調の急変。ニューヨークで湯治。42歳で帰国。
さらに大学設立の運動に没頭。44歳の時に父の死。そして同年、アメリカの父も死す。
45歳、医師から突然死の危険を知らされ、日記に死の覚悟の文章を書く。
46歳10月、病を押して大学設立募金運動のために関東へ出張。11月腹痛のため病床に伏す。
12月東京に引き上げ、大磯で転地療養。
1890(明治23)年、妻も駆けつけ1月23日急性腹膜炎で死去。46歳11カ月。
27日同志社チャペル前テントで葬儀。参列者4000名。若王子山頂で土葬。
46年の短い生涯だが、その波乱万丈な生き方を年表から抜き出すだけでこれだけになった。
その時は熱中したが、後で疲労を覚えるものになったほどだ。
キリスト教への思い、学校設立への情熱などを持ち続け、短い一生を駆け抜けた感じだ。
アメリカでの向上心あふれる勉学の様子なども興味をそそる。
その熱心さを見込み常にバックアップをし続けたアメリカの両親の存在など、
努力は報われ、出会いとは何と不思議なものだと感じた。この人の持つ強運だろう。
妻のことを「八重さん」と呼び、妻は夫を「襄」と呼んだ。
アメリカ生活の影響から、家事を手伝ったり、人力車に夫人と一緒に同乗するなど、
当時の学生たちの目には奇異に映った。
結婚相手は「外見の美しさではなく、心が良くて教養のある人」という結婚観だった。
妻八重のことをアメリカの母に送った手紙で「彼女は決して美人ではありません。
しかし、美しい行いをする人で、私にはそれで十分です。」と書いている。
13年の短い結婚生活ではあった。
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