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朝8時からの式典開始に備えて、6時半に早目に家を出る。
7時過ぎに到着したが、会場の平和記念公園にはもうかなりの人でごった返していた。 式典への参加は初めてだ。 献花用の菊の花が配られていたのでもらう。 あちこちで様々な人たちが働いている。ボランティアでの参加であろうか。 献花と式典のパンフレットを配っていたのは、ボーイスカウトのグループだ。 県内の大学のボランティアグループも一緒に働いていた。 今年は日曜日だが、例年、広島市の職員はこの6日は公休となる。 とは言っても、この式典の仕事に駆り出されるのだろう。 広島市の腕章をした人たちが大勢いる。 暑い中大変なことである。お疲れ様と言いたい。 その他、吹奏楽団の中・高の生徒たち、合唱団の関係者、伝書鳩協会、献花用の関係組合、 青年連合会のおしぼり接待、社会福祉協議会の介護支援(車椅子介助)、平和文化センターの訳・・・・ 多くの人々がこの式典のために協力をしているのだ。 人々の援助があってこそこのような催し物が成り立っているのだと思う。 今日は、この平和記念公園への車の乗り入れはもちろん全面禁止となっており、
百メーター道路も一部遮断され通行規制がしかれ、車で近辺に近寄ることすらできない。 かなり遠くに駐車し、歩いて平和記念公園まで行った。 そんな中、式典開始8時少し前、 白バイ・パトカーに先導されて黒塗りの車が、慰霊碑すぐそばまで入ってきた。 中から出てきたのは、小泉首相だった。 安倍氏のお膝元、山口県をまわってからの広島入りだ。 さすが一国の総理ともなると警備も厳重なものだ。 県警の威信がかかったものだそうだ。 何かあればトップの首が飛ぶくらい最重要クラスの警備になるようだ。 それにしても、一般大衆との差は大きい。 職場の同僚は、合唱団に属していて、今日の合唱に参加するために6時に家を出たそうだ。 少しでも遅くなると、交通規制のため渋滞するので早くに出たという。 もう何年も前のことだが、 式典最中に暴漢が首相に向って飛び出すという事件(1971年佐藤首相の時)があってからか、 かなり厳重な警戒になっているようだ。 式典会場内には簡単には入れないし、 周辺にはロープが張られ、数メートル間隔に人が配置されている。 マスコミ関係者のカメラ撮影にも申し合わせがあるという。 式典のスムーズな運営のためとはいえ、余りに物々しい警備は、 原爆で亡くなった人々を悼むということからはかけ離れた感じがする。 報道関係者の多いこと。外国のプレスの腕章をした人も大勢いる。
世界へ発信される大きなニュースなのだ。 テレビカメラは各所で、高い位置に場所を構えている。 テレビ生放送用の簡易ブースのようなものがたくさん作られている。 原爆資料館の屋上にたくさんのテレビカメラが陣取っていたのには驚いた。 暑さ対策のためか、テレビカメラにすだれを巻きつけているのを見て、 思わず笑ってしまったが、苦肉の策なのだろう。 さほど、毎年猛暑の中で行われる。 あの日も今日と同じように暑かったのだと思うことはできる。 会場の1万3,000席はみるみるうちに埋まっていった。
直接の関係者は前のほうの席に座り、 中ほどからは各国から来た関係団体や、各自治体や運動団体の関係者などが座っている。 最後部には一般席もあるが、余りにも後なので前も見えない。 私は、座席には座らず、 ロープで仕切られた外側のあいたところから、立ったままで式を見守った。 かなりの人だ。4万5,000の人が集まったとのことである。 8時に式開始。原爆死没者名簿が、広島市長と遺族代表によって奉納される。 この1年間に亡くなったり、新たに死亡が確認された被爆者は5,350人になるという。 名簿への登載者は、総数24万7,787人になった。 今年は初めて、「氏名不詳者 多数」と書いた名簿も奉納されたという。 未だに名前も分からない数多くの犠牲者がいるのだ。 そして、肉親の死を確認できない遺族の方々の切ない思いは、今も続いている。 その後、市長、遺族代表・子ども代表、被爆者代表に続き、来賓の小泉首相らも献花を行った。 原爆が投下された8時15分にあわせて、全員が黙祷をし、平和の鐘が鳴らされた。 私も、ささやかながら「世界が平和でありますように」と祈った。 続いて、秋葉広島市長の「平和宣言」だ。 「核兵器の持つ唯一の役割は廃絶されることにある。 国際司法裁判所は、<核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に反する>との判断をした。 しかし、多くの国々は、このための義務を真正面から受け止めなかった。 そのため、核軍縮に向け様々な取り組みを行わなければならない。 非人道的かつ非合法な兵器である核兵器から市民の生存権を守っていく。 <岩をも通す固い意志と燃えるような情熱を持って目覚める時が来た。> 」 というような内容だった。 この平和宣言は、参加者へはもちろんのこと、後日、学校などにも印刷物として毎年配布される。 内容については、翌日の新聞などで批評されるほど大きなものとして扱われるのである。 それほど、人類史上初の原爆投下都市としての持つ役割は大きいということだ。 以前は国に対してももっと強い口調であった感じがしていたが、 ややインパクトに欠けるような気がした。 その後、平和の象徴の鳩が放たれた。 子ども代表の6年生の男女が、平和への誓いを述べ、 その中で、昨年の秋広島市内の小学1年生の女の子が殺された事件についても触れた。 「一人の命の重みを考えることは、多くの人々の命を考えることだ」という部分が印象に残った。 <人の命は地球よりも重い>といわれるが、その一人一人には様々にかかわりあう人々がいたのだ。 小泉首相、県知事、アナン国連事務総長(代読)の挨拶があったあと、 「ひろしま平和の歌」を合唱し、閉会となった。時間にして45分間だった。 この歌を私は初めて聞いた。 昭和22年に公募によって、中学校教師の重園氏の歌詞が選ばれたという。 以後、ずっとこの式典で歌い継がれているということだ。 15団体の合唱団員が勢ぞろいした、大合唱団チームに圧倒されるようだった。 式典後も、献花はずっと途切れることなく続いた。
死者を悼む気持ちは、式典の中だけではないのだ。 原爆ドーム、原爆の子の像にも行ってみた。 各所では慰霊祭が行われていた。 どこも多くの人でごった返していた。 これだけの人々が集まることだけとっても、 戦争と平和に対する関心の高さは揺ぎ無いものがあると思う。 私は高校から広島市の学校に列車通学し、 結婚後も市内に住むことになったため、広島市とのかかわりはもう40年にもなる。 現在元気でいる義父母も、原爆投下時には市内の自宅にいた。 投下地点から3〜4キロの地点だったが、家の裏にある山にさえぎられたため、 家のガラスが割れたくらいで、ほとんど影響がなかった。原爆手帳はもちろん持っている。 私の子どもたちが小さかった頃は、よく原爆のことを話して聞かせていたものだ。 それ以外には、身近に原爆で犠牲になった人はいない。 そのせいかもしれないが、どうしても真に迫ったものになっていないのである。 いつまでも何かその中心に入っていけないのだ。何なんだろう。 それでも今年は、少しは自分の問題として考えるものとなった。 亡くなった人々の霊が安らかに眠ることと、 いまなお原爆の影響で苦しむ人たちの一刻も早い快復を願う。 快復が望みにくいのであれば、せめて生きているうちにその補償をすることこそ、 その苦しみに報いることになるのではなかろうか。 そして、自分たちに何ができるかを思い、実行に移していかなければならないとも考えた。 被爆者が高齢化し、どんどん亡くなっていく現在、 風化させることなく、次の世代がどう受け継いでいくかが最も重要になってきているのである。 |

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