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3月2日(日)に訪れた岩国市の「第六潜水艇記念碑」 前々から看板があるのは気づいていたのだが、初めて訪れた。 その記念碑のある小高い公園に上がってみたのだが、 記念碑以外には佐久間艇長の遺書のみしかなく、 詳しい説明板もなく、詳しいことがわかりにくい。 一緒に行った父は、 「昔は皆が知っていたが、今時はこのようなことを学校では教えないからなあ・・」 と淋しそうに話すのだ。 私は「佐久間艇長」と言う名前だけはなんとなく聞いた感じがしていた。 それ以外はほとんど知らなかったのだ。 ネットで調べてみた。 明治43年(1910年)4月15日、第六潜水艇はガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かった。この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、原理としては現代のシュノーケルと同様であった。午前10時ごろから訓練を開始、監視に当たっていた潜水母船歴山丸が一瞬見失った間に沈没。長時間たっても浮上しないことに気づいた歴山丸は、ただちに呉在泊の艦船に遭難を報告。救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。艇長佐久間勉大尉以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死んでいた。残り2人は本来の部署にはいなかったが、2人がいたところはガソリンパイプの破損場所であり、最後まで破損の修理に尽力していたことがわかった。この事故より先にイタリア海軍で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していたため、帝国海軍関係者も最初は醜態を晒していることを心配していた。ところが、実際にはほとんどの乗員は配置についたまま殉職、さらに佐久間艇長は事故原因や潜水艦の将来、乗員遺族への配慮に関する遺書を認めていたため、これが「潜水艦乗組員かくあるべし」「沈勇」ということで、修身の教科書や軍歌として広く取り上げられたのみならず、海外などでも大いに喧伝された。特にイギリス海軍では教本になり、アメリカ国会議事堂には遺書の写しが陳列された
長いので簡単にまとめるとこうなる。 時は明治43年4月15日。
山口県新湊沖で潜航訓練中に海水が浸入し、浮上することはなかった。 佐久間艇長以下14名が第六潜水艇と共に亡くなったのだ。 14名の乗組員はみな部署を離れることなく、最後まで修復に全力を果たしていたという。 佐久間艇長の遺書も残されていた。 天皇陛下への侘びと共に、残された遺族を思う気持ちが書かれていたのだ。 この公園の記念碑の雰囲気は、山口県の大島で見た「陸奥記念碑」とよく似ていた。 広島県の呉市にも記念碑があるらしい。 また、佐久間艇長の生誕地の福井県に銅像などがあるようだ。 かなり昔のことではあるが、このような出来事は現代ではあまり語り継がれることはない。 現在、この話を知っている人がどれほどいるのだろう。 最後まで自らの任務を遂行してその勤めを果たすという果敢な態度は賞賛に値する。 死を目前にして最後までしっかりと仕事に努めたのだ。 そして残された者への配慮までしていたのだ。 身を挺して最期を迎えたその冷静な行動。 考えさせられる出来事である。 毎年4月14日にはこの地で例祭が行われるという。
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●三寒四温の毎日だ。 昨日は寒かった。 <啓蟄のこも外し>のニュースが不釣合いなほどだ。 来週行われるドッチボールのクラスマッチ練習があったので グランドに出たら、寒いこと寒いこと。 思わず厚手のコートに着替えたほどだ。 時折雪まで降った。 そんな中、忘れ物をしたのか、半袖体操服でやっている生徒がいる。 見ているだけで震えが来るほどだ。 ●昨日から花粉症の抗アレルギー薬を飲み始めた。 今年は少し遅いかもしれない。 外に出る時はマスクが手放せない。 そのうち目薬・鼻薬も必要になる。 毎年のこととはいえ、嫌な季節の到来だ。 ●授業後は会議だ。
年度の反省と来年度の計画の話し合いで ゆうに3時間もかかった。 |
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