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●ここ最近は朝の目覚めが早い。 花粉症によるものか、それとも風邪症状なのか、体調は良くはないのだが・・・。 3月8日(日) <回天発射訓練基地跡>を見た後は、<回天記念館>へ行ったのだ。 行く途中、今は小学校が建っているが、そこには昔は基地の兵舎があったのだ。 ▲さらに途中に<地獄の石段>があった。 訓練に用いた石段が残っているのだ。 そういえば、呉の<海猿>の訓練地にもこれと同じような物があったことを思い出した。 ▼記念館に到着だ。 エントランスには、全国から集まった亡くなった若者の名前が刻まれている。 建物の前には実物大の魚雷が置かれている。 中に入ると、様々な展示品があった。 ▼映画「出口のない海」で使われた回天の模型も展示してあった。 先日もNHKが放映したのに、今度は東京から来たNHKクルーがその模型の内部を撮影していた。 ▼遺書は読むとジーンとくるものだ。 確実に訪れる死を前にして、父母を思い国を思って逝く覚悟が書かれているが、 その心境はいかばかりか・・・。 広島県江田島の「海軍兵学校」にもこのような遺書が展示されているのを思い出した。 当時はこの基地の存在すら明らかにせず、秘密裏のうちに行われていたようだ。 回天のことは<○六兵器>と呼ばれたのだ。 終戦まで秘密のベールに包まれていた高性能魚雷であったが、 次第に敵に警戒されるようになったのだ。 肉親との面会への手紙にも公に出来ない内情が苦しく綴られ、 この地からかなり離れた私の実家のある駅前旅館で待つようにしたためた物があった。 「もし都合が悪くなったら電報など打たないように。連絡は駅の連絡板に書くように。」 とある文面が、時代を表していた。 今時のように携帯電話などない時代なのだ。 回天搭乗員は、ほとんどが20歳前後の若者であったのだ。 家族への手紙も、あからさまに書けない様子が見てとれる。 ▼戦没者は、整備員も入れると145名だ。 記念館にはなかったが、テレビでは「回天の戦果は撃沈3隻ほどだった」とあった。 その回天の持つ意味は何だったのだろう。 ▼「回天の母」と言われる「倉重アサ子さん」の写真と説明もあった。 知覧の「特攻の母・鳥浜トメさん」も有名だ。 ▼記念館の近くに「養浩館」という無料休憩所があった。 ここにも多少の展示品があった。関係する帽子や写真がさりげなく置かれていたのだ。 夫は記念のタオルを買った。 machiさんの縁の方ということなので、写真に撮って載せてみた。 大津島での2時間弱で2箇所の見学が出来た。 歴史に埋もれたその一端に触れた気がした。 ●帰りは「湯野温泉」へ寄った。続く・・・。 |
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2009年03月11日
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