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頂き物の菓子2種類。
仕事で出かけたとのことで義妹からの東京土産だ。
◆一つ目は「東京スカイツリーバウム」だ。スカイツリーに上った記念に上で買ったとか。
スカイツリーは今も人気で、途中まで上がるのにも40分待ちだとか。
その上まではさらに1時間待ちなので止めたという。
このバウムクーヘンは神戸のユーハイムのものだ。
販売者は「東武タワースカイツリー株式会社」となっていた。
箱の外観からして何とも派手で、興味をそそる。
バームクーヘンをタワーに見立てるとは面白い発想だ。
老舗のその味はもちろん美味しい。
しかし、食べずにしばらくはそのまま眺めておきたいほどだ。
◆2つ目は「まめごのみ」という豆菓子の詰め合わせ。
「萬久の有機大豆炒り豆」。製造は石川県金沢市の株式会社ぶどうの木なのだ。
10のぽち袋に分けられており、九谷焼の絵付け作家の手描きによるものだとか。
東京駅、浅草雷門などの江戸の風情、ウサギ、パンダ、猫などの動物が描かれている。
みたらし豆、磯海苔豆、甘納豆などが入っている。
■今回も珍しいものを食べさせてもらった。
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広島市内中心部まで出るにはバスに乗ってわざわざ出かけないといけないので
そうしょっちゅう出かけるわけにもいかない。
だから何かの用事で出かけた時には、せっかくだからと周辺を散策する事も多い。
これは百メートル道路脇にあるANAクラウンプラザホテルに用事があった時に写したもの。
◆宇品線の電車を「白神社前」で降りると、そこに白神社がある。
そこの看板の説明によると、1591年頃にはこの付近一帯は海岸線だったという。
すぐそばが百メートル道路で、現在の様子からは海岸線など想像できない。
広島は三角州の街なので、海岸線も比較的多いだろう。
白神社のある中町一帯がまだ海であった頃、
現在神社のある地点は海面から突き出た岩礁であった。
そこに衝突する船が後を絶たないため、当時の船人により岩礁上に白い紙がたてられ、
海難事故を防止する役目を果たしていた。
やがてこの岩礁は三角州の発達や干拓工事などにより徐々に地上に露出しはじめ、
海難事故とは無縁になっていくが、
船の安全な運航に貢献した白紙に代わる守り神の象徴として祠が建てられた。
祠は白紙にちなみ「白神(しらかみ)」と呼ばれ、住民の信仰を集めた。
これが建造物として信仰されるようになった始まりだが、その創建時期については記録がなく不詳。祠は時を経て徐々に規模を拡大していき、
天正19年(1591年)9月に広島城を築いた毛利輝元により新しい社殿が建立された。
この社殿を城主の氏神、広島城下の総産土神(そううぶすながみ)とし、
最盛期には近隣の旧国泰寺に連なる広い境内を持つ神社に発展した。
◆またすぐ隣の場所にある「旧国泰寺愛宕池」は、白神社の海岸線の岩礁を利用して作っているという。
現在、寺は己斐上の山腹に移されているが、国泰寺は地名として残っている。
お寺は1601年に開基されている。その寺の池の跡が今も残っているのだ。
その周辺には原爆にあった木々、いわゆる「被爆樹木」がたくさん残っている。
以前「被爆樹木巡り」をした時に、ここに立ち寄ったことがある。
この池の跡がある向いが、ANAクラウンプラザホテルだ。
400年以上も前のことが想像できないほどに、付近一帯は大きく変化したものだ。
文禄3年(1594年)、安国寺恵瓊が現在の広島市中区中町に臨済宗の寺院「安国寺」として創建したのに始まる。
本堂建立に際しては朝鮮出兵で恵瓊が持ち帰った材木が使用された。
開基時においては現在の愛宕池跡付近が海岸線であり、それより南には広島湾が広がっていた。
昭和20年(1945年)8月6日の原爆被災で全焼全壊したが、第二次世界大戦後に再建、
昭和23年(1948年)には藩政期以来境内に置かれていた浅野長晟以降の5藩主および一族の墓所が牛田町神田山の浅野家墓地に移転した。
隣接する白神社(現存)とともに、古い時代からのランドマーク的建造物であった当寺は、
市内の再開発が進むなか昭和53年(1978年)に己斐に移転、現在に至っている。
中町の旧境内には現在、広島全日空ホテルが建てられており、
同ホテル正面に残された寺の遺構(愛宕池跡)が往時を偲ばせている。
国泰寺は今のANAクラウンプラザホテルの場所に建っていたのだ。
■市内を散策している時に説明看板などがあるとそれを読めば様々なことが分かり勉強になる。
身近な歴史を知ることが出来て、それもまた楽しいものだ。
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