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年末年始のあわただしさ、正月3が日も過ぎ、
いつになく暖かな日々の中、小寒、寒の入り、七草がゆも済んだ。
このところ大きな出来事もなく平凡な毎日が過ぎている。
その「河童伝説」の写真がまだ少し残っていたので追加する。
参考資料
「広島県では河童をえんこうと呼んでいた地域が多く、中国四国の各県や福岡県、大分県も同様。
これら地域のえんこうにまつわる民話は千差万別だが、その容姿等には多くの共通点がある。
背は子供並みで、手は長く猿に似ており、頭上に水皿を持つものもいる。
一般に力持ちで相撲好き、いたずら好きで水辺につないだ馬を引っぱるとの言い伝えもある。
金物が嫌なこと、人に化けたり人を溺れさせたりするがたまには人助けする。
また、間抜けなところもありにくめない存在で、鬼のように嫌われるだけの存在ではないようだ。」 広島城築城(1589年)以前の猿猴川は、比治山の北側あたりが川口で、豊富な魚貝が獲れる場所だった。
さらに大昔、川の右岸では縄文人が約3500年前から比治山貝塚を拠点に、
川の左岸では弥生人が約2300年前から牛田早稲田貝塚を拠点に、
猿猴川や川口周辺を漁場にして暮らしてた。
貝塚からは、大量の貝殻のほか鯛などの魚の骨が出土しており、
豊漁や水難防止を願う対象として、身近な動物か架空の動物を川神として崇め祭ってきたのだろう。
その後、この川神に加え、えんこう民話が伝わり、猿猴川の妖精・妖怪が浮上してきたと見られる。
一方、川神は、厳島神社信仰の広がりと共に、しだいに忘れさられていったのだろう。 猿猴川の妖精・妖怪の名称は、毛利氏時代には「ゑんろう・ヱンロウ(猿郎)」と呼称されていた。
毛利氏の居城があった安芸高田市吉田町の可愛川の淵にいたとされる”がたろう(河太郎)”と
猿猴川のえんこうが合わさり、このように呼ばれたのだろう。
江戸時代に入り福島氏時代には「ゑんかう・ヱンカウ(えんこうの古語)」に変り、
浅野氏時代には「猿猴」の漢字表現も見受けられる。」
河童伝説一つとっても、いくらでも話は尽きないのである。
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2016年01月10日
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