美しく歳を重ねるために

13年間は長いようであっという間だった。交流のあった方々有難うございました。新ブログfc2をよろしく。

ヒロシマ・平和公園など

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◆昨日は洗濯や掃除、服の片付けなどをした
 2月から3月は花粉が飛ぶため、思うように布団も干せずにいたので、久しぶりに
シーツをはずして布団を干したかと思うと、雨が降り出して慌てて取り込む始末だ。
 
次女の服や寝具も片づけ、衣装缶を出して服の入れ替え準備などにも取り掛かった。
しかし、いつまでもこんなことばかりしていても仕方がないと思い直して、
午後からはドイツ旅の準備を少しはする。
 
海外旅行保険はネットで入ると、かなりの割引がある。それでもあれこれ手続きは面倒だ。
保険料はクレジット決済なので、ネットでは気を使う。家に居ながらにして出来るのは便利だが。
 
航空会社のHPから会員入会手続きをするが、かなり詳しく書き込みをしなければならず
どうもうまくいかない箇所があって時間を取られた。
出発当日でも窓口で手続きはできると言うので、途中で作業を止めた。
 
その他、荷物の重量制限や乗り遅れた場合のチケットの扱いなどを調べたり、
分かりにくいことは電話で聞いたりした。
 
こんな作業も時間を取られるものだ。前回と同じ航空会社なら良いのだが今回は違うので
あれこれわからないことがあるのだ。
 
◆ここしばらくは毎日こんな調子だ。ブログ記事も同じ傾向で面白みに欠ける内容だ。
気分転換に、3月の27日(火)のテレビ局のモニター会があった日のことを書いてみる。
 
家を早めに出たので時間を潰すために「旧日本銀行広島支店」の「折り鶴展示」を見に行ったのだ。
これも早く書かねば忘れてしまいそうなので、今のうちに書き留めておくことにする。
 
この建物は被爆建物で、原爆投下当日石段に座っていた人の影が残っていたことで知られるが
現在はもう銀行として使われていないのだ。爆心地から360メートルの場所だ。
 
2000年から市が譲り受けて維持管理し「折り鶴展示場」として一般に無料公開している。
 
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1階は銀行業務に使われていた部屋だ。天井の高い重厚な建物だ。展示場は2階と3階にある。
 
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1年間に寄せられた折り鶴1200万羽のうちの700万羽がここに置かれている。
かなりの数だ。数部屋にぎっしりと飾られているのだ。
折り鶴を寄せた人々の思いを大切に保存しているものなのだ。
 
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今はもう壊された旧広島市民球場に以前は展示されていた。記事に書いたこともある。
記事を探してみたが見つからない。記事数が多くなり、見つけにくくなっている。
一つの記事に2つ以上の内容があると、タイトルも書庫もどちらに分類するかで変わってくる。
 
すぐ隣にある「頼山陽史跡資料館」にも行ってみようと寄ったが、休館だった。
 
仕方がないので近辺を歩いているうちに見つけたのが「袋町小学校・平和資料館」だった。
 
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ここにも折り鶴や当時の様子の写真などが置かれていた。
爆心地から460メートルの場所にあり、当時の小学校関係者はほぼ全滅に近かったという。
壁に残されたチョークで書いた「伝言」があった。
 
旅行者らしい人や、学校関係者らしい人たちがいた。
市内の人よりは、むしろ市外から来た人たちがやって来ることが多いのかもしれない。
私は市内に住んでいながら知らなかった場所だったのだ。
この日は2か所の原爆関係の見学ができた。
 
 
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広島の原爆ドームにしばらくの間足場が組まれていたが
これはドームの「健全度調査」のためのものだった。
広島市が3年に1回行うもので、1992年から行っており、今回で7回目だ。
 
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新聞にも載っていたが、2月の26日(日)に松井広島市長も視察をしたそうだ。
松井市長は同じ26日には「森下洋子講演会」の挨拶にも来ていたので
日曜日とはいえ、市長ともなると忙しいものである。
 
この調査と並行して、震度6弱の地震に耐えられるかの本格的な耐震調査も初めて実施されたという。
 
確かにこの大切な遺産を後世まで残していくためには、地震対策も必要となるのであろう。
それでなくても、いつまで持つかと思われるほど今にも崩れ落ちそうである。
健全度調査によって、必要とあれば保存工事をする。
 
過去の保存工事について調べてみた。
 
原爆ドームは、昭和28年(1953年)、広島県から広島市に譲与され、
ほぼ被爆後の原形のまま保存されていたが、年月とともに傷みが進行し小規模な崩落・落下が続いて
危険な状態となった。
そのため、昭和37年(1962年)以降は周囲に金網をはり、内側への立入りを禁止した。

保存を求める声が高まる中で、昭和41年(1966年)7月、広島市議会は原爆ドームの保存を決議し、保存工事のための募金運動を行ない、昭和42年(1967年)第1回保存工事を行なった。
その後、原爆ドームの現状を把握するために、3年毎に健全度調査を行い、保存対策を検討し、
必要に応じて補修工事などを実施することにした。
 
・第1回保存工事
工期   昭和42年(1967年)4月10日から8月5日まで
工事費  5,150万円(全額募金で充当)
工事内容 合成樹脂の注入による躯体の亀裂の接着、一部レンガ壁の立て起こし、内部への鉄骨補強 など
 
・第2回保存工事
工期   平成元年(1989年)10月31日から平成2年(1990年)3月31日まで
工事費  2億378万円(うち募金で1億円を充当)
工事内容 壁体・窓部の亀裂箇所等への合成樹脂の注入、壁上部及び窓台上部への防水モルタル被覆 など
 
・第3回保存工事
工期   平成14年(2002年)10月8日から平成15年(2003年)3月10日まで
工事費  7,237万円(うち広島市原爆ドーム保存事業基金で3,625万円を充当)
工事内容 壁上部及び窓台上部の防水モルタルを保護するための金属板での被覆 など 
 
募金運動は記憶にある。かなりの額だが、工事には更に莫大な費用がかかるものなのである。
 
 
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先般、広島の平和公園内を歩いていたらこんなものを見つけた。
「蟻塚」の大型のような山がたくさんある。
おまけに鼻にツーンと来るような変なにおいもする。
 
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それにしても不思議なものだ。何だろう・・・?
そばに説明書きの看板があった。
 
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「平和記念公園樹木いきいきボランティアによる木片チップの敷きならし」だったのだ。
公園内の樹木への栄養となるものを敷いたものだったのだ。なるほど・・・納得。
 
すぐ近くでは「緑陰将棋」をやっている人たちがいた。
真夏なら木陰での将棋は良いだろうが、こんな寒い時期でも好きな将棋のためなら
少々の寒さは我慢できるのだろうか・・・?
これも不思議な光景だった。
 
 
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被爆樹木巡り

昨日は雨の降る中を「被爆樹木巡り」に出かけた。
 
新聞に案内があったので、まずは広島市の平和推進課に電話で申し込んだ。
樹木の保存活動を支援する「緑の伝言プロジェクト」中国新聞社、中国博報堂主催)の一環で30人定員だった。
 
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樹木医の堀口力さんのガイドで市内中心部の6か所を巡った。
当初の予定では7か所だったが、雨もひどくなり1か所を省略した。
それでも2時間近くかかり、雨の中で傘、メモ帳、カメラなどを持つのは面倒だった。
 
10時にスタートして、
  平和公園内のアオギリ
被爆樹木の出発点となったもの。
今年7月に亡くなった原爆の語り部の沼田鈴子さんの縁からここ移植したもの。
亡くなる直前まで堀口さんに「アオギリをいつまでも頼みます・・・」と言われていたとか。
木の前にあるボタンを押すと「アオギリの歌」が流れる装置も設置されている。
訪れた高校生がそれを聞いていた。
 
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  住吉神社内の松
  広島市役所内のソメイヨシノ
  愛宕池のクロガネモチなど
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白神社のクスノキ
  頼山陽史跡資料館のクロガネモチ
ここは隣が日本銀行の堅固な建物のため、被害が食い止められたようだという。
 
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などを巡った。
 
樹木医という名前は知っていたが、初めて接する職業の人でさすがに詳しい説明だった。
ガイドの説明が付いているものは分かりやすくて良い。
自分だけで説明板を読みながら行くのも案外効率が悪いのだ。
 
2時間後に到着し、歩数計を見ると7キロ1万歩を超えていた。
合羽に長靴の完全防備をしたが、歩けば汗も出て蒸れるし大変だった。
 
ポスターとパンフレットを貰った。
 
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「被爆樹木」は爆心地から半径2キロ以内と定めており
(それ以上の距離にすると山などにかかったりするので中心部の平地と限定したとか)
55か所に約170本残っており、被爆の実相を語り続けている。貴重な経験をした。
 
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今日の朝刊に記事が小さく載っていた。若い女性記者らしい人も見かけたので記事になったようだ。
雨の中を2時間余りもかけて写真もかなり撮っていたが、写真はなく記事は小さなものだった。
記者の仕事も大変だ。
 
 
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■先般中国新聞社へ出かけた時に、帰りは平和公園内を通り抜けてバスセンターへ行った。
平和公園には年中観光客がいる。
やや寒くなった11月のこの時期だが、修学旅行生がまだたくさんいるのだ。
 
「原爆の子の像」には多くの中学生らしい旅行生がいた。
集会のようなものをしていたのだ。
 
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この像は被爆後中学校1年生で亡くなった佐々木禎子さんにかかわりのある像なのだ。
全国や世界からの寄付金で建てられたもので、今でも修学旅行での平和学習で訪れることが多い。
もちろん一般の旅行客もいる。
 
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平和公園内には数々の記念の碑や像があるが、ドームや慰霊碑などと並んで訪れる人の多い場所だ。
像の後には多くの折り鶴が所狭しと置かれ、平和への願いが伝わってくる。
 
■さらに歩いて行くと原爆ドームがあるのだが、ドーム緑地帯といわれる場所の一番端の
元安橋東詰めにこのようなものがあった「広島市道路元標」とある。
 
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思わず見過ごすようなものだったのだが、一瞬何のことだか分からなかった。
説明板もあるので思わず見入った。
広島市のスタートはここからというものなのだ。
 
ネットでも調べてみた。
 
かつて広島市から各地への里程は,この元標を起点として算出された。
原爆被災までは,現在の場所より約30メートル東寄りにあった広島郵便局の前に建っていた。強い原爆の熱線をあびて焼け,角が欠落した。広島市制の発足当時(明治22年,1889年)に建てられたものだろうか。(広島平和文化センター ヒロシマ読本)
 
なるほど・・・この年になっても知らないことはまだまだいくらでもある。
 
 
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