美しく歳を重ねるために

13年間は長いようであっという間だった。交流のあった方々有難うございました。新ブログfc2をよろしく。

ヒロシマ・平和公園など

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●今日は平和学習で、平和記念資料館に行った。
平和学習と言えば、8月6日に合わせて7月におこなったが、
この時期に行うことは珍しい。

実は、今日は午後から<演劇鑑賞>があるため、
午前中に平和学習を組んだのだ。

「原爆資料館見学」と、「原爆の語り部の方から話を聞く会」を計画したのだ。
全学ではなく、1学年のみの250人の行事である。

●「原爆資料館」はもう何度も見学しており、数え切れないほどであるが、
それでもその悲惨さは、いつ見ても心痛むものがある。
今日は月曜日で、12月の寒い時期ということもあってか、
来館者は比較的少なかった。

「語り部の話を聞く会」は学校内で行ったことは幾度かあるが、
この原爆資料館で行うのは久々でもある。

私は、資料館との連絡と、語り部の方の世話などの仕事を担当した。
今日まで、学年みんなで仕事を分担して事前準備をしてきた。
私も何度か資料館関係者と連絡調整を重ねてきたのだ。

●今日の語り部は、池田精子さんという方で、
12歳の時、爆心地から1.5キロ離れたところで被爆をした人であった。
被爆後もう61年もたつのに、その話は昨日のようだ。
体験した人でないと到底わからないであろう出来事を、熱心に話された。
修学旅行生への話は多いが、市内の生徒へ話すのはそう多くないと言うことで、
期待をされていたそうである。

体験から見た原爆の悲惨さを熱心に話された。
こうした語り部の方たちの熱意は、元気なうちに話さねばと言う使命感なのであろう。
顔のケロイド手術を15回もされたという。
「美しくなりたいためではない。元の姿になりたいだけだ。」
という一念で、辛さに耐えたと話された。

世界ではいつまでも争いが絶えない中で、
「命の尊さ、生きる喜び、平和の尊さ」を力説されたのだ。

生徒たちは1時間の話を、集中して聞き入っていた。
原爆体験者の生の声を聞く貴重な機会は、そうあるものではないのだから。
これは年を追うごとに、年々厳しいものになる。
今に体験者はいなくなるのだ。

今日は、いい機会に恵まれ、貴重な学習ができた。

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●芸術の「秋」もそろそろ終わりに近い今日この頃、
音楽に触れる機会を得た。

・10月27日(金)13:25〜14:45の80分間
・中学校体育館
・2学年生徒約240名・保護者・教師ら計、300名での鑑賞

・ロックバンド「GOD BREATH」のコンサート

・このバンドは、音楽を通じて平和の大切さを伝える活動をしている。(3人組み)
・バンドボーカルの佐々木祐滋さんは、平和公園に立つ「原爆の子の像」のモデルとなった
佐々木禎子さんの甥にあたる。
・普通のロックバンドとして活動していたが、数年前ある平和集会に参加した際、
「禎子さんの遺伝子を持つ以上、平和への祈りを伝えていくべき」
という言葉をかけられた。
・これがきっかけとなり、ロックを通して平和を訴える活動を始め、
その活動の様子はドキュメンタリー番組として全国放送された。
・現在、全国各地でのライブの他に、学校でのライブも積極的に行っており、子ども達に平和の大切さ・命の尊さを伝える活動をしている。

●ロックバンドのコンサートは初めてのことで、
それも学校で鑑賞することが出来ようとは思ってもいなかった。
私にとってロックとは、ただ騒々しいだけの音楽としか考えていなかった。

最初の頃は想像通りの大音響に、耳が痛くなるほどだった。
しかし、聞いているうちにいつしかその熱意が伝わってくるようになった。

佐々木禎子さんのことを歌った「INORI」を聞いているうちに、
不覚にも目に涙がにじんできたのだ。

●●別れがくると知っていたけれど 本当の気持ち言えなかった
色とりどりの折鶴たちに こっそり話しかけていました
愛する人たちのやさしさ 見るものすべて愛しかった
もう少しだけでいいから 皆のそばにいさせて下さい

泣いて泣いて泣き疲れて 怖くて怖くて震えてた ※
祈り祈り祈り続けて 生きたいと思う毎日でした ※

折鶴を一羽折るたび 辛さがこみ上げてきました
だけど千羽に届けば 暖かい家にまた戻れる
願いは必ずかなうと 信じて祈り続けました
だけど涙が止まらない 近づく別れを肌で感じていたいから

※ ※
泣いて泣いて泣き疲れて 折鶴にいつも励まされ
祈り祈り祈り続けて 夢をつなげた毎日でした

別れがきたと感じます だから最後の気持ちを伝えたい
本当に本当にありがとう 私はずっと幸せでした

※ ※
泣いて泣いて泣き疲れて 折鶴にいつも励まされ
祈り祈り祈り続けて 夢をつなげた毎日でした
めぐりめぐりゆく季節をこえて 今でも今でも祈っている
二度と二度と辛い思いは 他の誰にもしてほしくはない

●詩を味わうだけでも、深い感動に浸ってしまう。
「現代の若者」「ロック」等という先入観はみごとに打ち砕かれた。
心にしみるいいコンサートであった。

▲写真は、「ウィキペディア フリー百科事典」より。
人物は、佐々木祐滋さん。バンドのHPより。

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●中国新聞社の西本雅実編集委員の話を聞いた。
<ニュースの窓>−被爆から61年の今夏の「原爆・平和報道」を検証し、そのあり方を話した。
報道現場の様々な裏側を披露してもらった。(中国新聞文化センター興銀ビル教室で)

■記事の中の一つの言葉にも、深い意味がある。

・「被団協50年の歩み」・・1955年8月6日、第1回原水禁世界大会・・5000人の聴衆を前に・・
→当時5000人の聴衆を収容する会場があったのだろうか?
当時の公会堂の収容人数は、1800人であった。
話した人の思い込みか、その裏を取らない記者の姿勢。被爆者の話はすべてそのまま信じる姿勢があるのでは。

・「忘却のヒバクシャ」・・広島市の広島機械製作所ー爆心地から3.5キロの食堂で、・・突風に吹き飛ばされた。気がつくと皮膚のただれた死体が周囲にあふれていた。・・
→爆心地から3.5キロも離れていれば、周囲に死体があふれていたというのはありえないのでは。

・「子に孫に世界へ語る・禎子さんの思い祈る・級友川野さん」・・生あるうちは「伝える責任」を果たし続けるつもりだ。・・
→「伝える責任」ストーリーのイメージにより記者が作文した部分で、実際の川野さんの思いではない?本人は表に出ることを嫌う人。

■今年の「平和宣言」・・被爆61年でなければならない文になっていない。今年独自の文ではない。
世界情勢などが盛り込まれてない。市民や市などの行動に触れた部分がない。

・読売の社説は、「<北>の核の脅威を見ない平和宣言」ということで、国際情勢に触れている。

・被爆61年式典ー報道も風化する傾向に、マンネリ化の傾向も。「61年」の部分を隠したら、いつのものか分からない。<61年>の意味はどこにあるのだろうか?

・式典参加は原水禁や原水協の参加者などの人々がほとんどで、全国からやってきた人々で、広島市民の参加は全体の10%もいない。

・テレビの全国放送も、以前はかなりの民放がやっていたが、今ではNHKのみとなった。
マスコミも風化してきているのではないだろうか。

●報道の現場からの伝える難しさなどについての話があった。
記者も若い人たちが多い中で、様々な困難さを抱えているようだ。
しかし、1945年8月6日に何が起きたのかを正確に伝えていきたいということであった。
ヒロシマの地元紙として、担うべきものや全国からの注目も大きいことを意見として言わせてもらった。

●終了後、
・企画展「ヒロシマを伝えた外国人たち」(市立中央図書館)
・宮武甫・松本栄一写真展・被爆直後のヒロシマを撮る(平和記念資料館)
の2つの企画展にも行った。

今年は平和学習をする機会が多く持てた。今日も平和記念資料館に行ったので、平和公園も覗いてみた。
この暑さの中で、修学旅行生らしき人たちが大勢来ていた。
いつまでも平和学習が続き、多くの人々が平和について考えていくことを願うものだ。

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●今日は午前中は職場で仕事をし、お昼に家に戻ってみたら、
ブログにアメリカからコメントが来ていてビックリした。
世界は狭くなったものだ。

●午後からは市内出張で、またしても平和資料館へ。今年は何度もここへ来たものだ。
ただし今日は平和問題ではなく、「道徳」の研究会が地下のホールであったのだ。

途中休憩があったので、1階に上がってみると、なんと大雨だった。
バイクの荷台に、ジムへ行くための着替えのバックがくくりつけていたので、土砂降りの中を取り入れに行った。

研究会が終了した頃には、もうすっかり晴れていたが、雷がなるほどのひどい雨だったらしい。
あたりは、すっかり綺麗に洗われて気持ちいいものだ。

バイクを走らせると、風は涼しいというより少し寒いくらい。
これこそ、大広域の==<打ち水>==効果だ。
自然の恵みは素晴らしい。人工的にこれだけの事をしようと思えばどれだけの水量がいるか?

●平和資料館の近くに「被爆アオギリ」があると記憶していたので、その近辺を歩いてみたら、
すぐ近くにあった。

被爆樹木とはいえ、大きく成長し伸びやかに天を仰いでいた。
すぐそばに、<アオギリ2世>が育っていた。
平成12年に100メートル先で苗木が発見され、3年後に親木のそばへ移植されたものだ。
木のそばにはアオギリについての説明板があり、ボタンを押すと<アオギリの歌>が流れてきた。
よく知られた歌だが、曲を聞いてみると初めて聞いたものだった。

●この夏は、外に出る仕事が多い。
遠くであることが多く、移動に時間が取られるので、かなり忙しい毎日だ。

このところ、整形のジムにほとんど行っていない。
忙しさ(ブログも含めて)や、体重の安定、気力の減退など様々な理由があるが、
今日も行けなかった。週2〜3回どころか、もう1週間以上行っていないのだ。
明日からは盆休みで、しばらくは病院もお休みだ。
心なしか体力が落ちてきた感じがする。階段を上がるのに息切れがする有様だ。
家で何かをしなくてはならないが・・・これが思うようにならないものだ。

●今日も忙しい一日だった。

広島の被爆樹木

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●「守ろう。育てよう。広島の被爆樹木」−−「緑」の伝言プロジェクト
という内容で、新聞に全面広告が出ていた。

<「緑」の伝言。チカラいっぱい生きていく、160本の物語。>
・・・爆心地から概ね2キロ以内で被爆し、再び芽吹いた木々たちを、
広島市では「被爆樹木」として登録している。今年は新たに8本が登録され約160本になった。
熱線にも爆風にも耐えて生き続け、緑で広島の街を元気にしている、
その一本一本に語り継ぎたいたい物語がある。埋もれている物語があるかもしれない。

あなたの知っている被爆樹木のことをぜひ「緑の伝言」サイトへお寄せください。
もっと知ってください。[被爆樹木]のこと。[緑]の伝言サイト

●被爆樹木については、断片的には知っていたが、
こういった取り組みがなされていることは知らなかった。
被爆<アオギリ>や<エノキ>についてはよく知られている。

原爆投下後、「広島には75年は草木も生えない」といわれながら、
草木はたくましく生えて成長していった。
アニメ「はだしのゲン」でも、草の芽吹きに感動する場面があったと記憶している。

●自然も人間も、逆境の中から立ち上がろうとする強さを持ち合わせていた。
様々な悪条件を背負いながら。
強い意志とか信念などというものではなく、生き物の持つ自然な姿なのであろうが。
でも、生き残ってさらに生き続けるという選ばれた運命の中で、
背負わされたものは大ききけれど、そんな理屈なしで生きていく。
そこに生き物の普遍的な強さを感じる。

生物は、肉体的な生きる命には限りがある。
その命あるうちに、原爆の生き証人としての存在を大切に守りたいものである。

被爆者の「語り部活動」も年々厳しい状況になってきている。
その稀にみる体験を、後世に残していくことは、後に続く者への力になる。

「緑」の伝言も、意識を持ってかかわっていかなければならない。

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