今月10日以降、祝島では上関原発建設に反対する島民たちが、中国電力が原発建設予定地の海の埋め立てを強行しようとして、埋め立て作業区域を特定するため海上に浮かべるブイを埠頭から海上に運び出そうとする動きを身体を張って阻止し続けている。
漁師さんは漁を、農家は農作業をそれぞれ投げ打って、島から30分の場所にある埠頭に朝7時前から夕方中電側が作業断念を表明するまで、阻止行動を続けているのだ。
経済的にも精神的にも、何より高齢化している島民には肉体的に厳しい阻止行動だが、弱音を吐く人は誰もいない。
私も抗議行動の現場に行く前か、夕方抗議行動から帰ってきてから豚や牛たちの最低限の世話だけしながら参加している。
この間、豚や牛への野菜くずなど島民からの差し入れがぐっと減ってきた。 長時間にわたる連日の抗議行動で、家庭で十分な食事の準備もできないのだと容易に想像できる。
豚や牛たちとのコミュニケーションも不足しがちなのが気になるが、主の状況を知ってかトラブルなく過ごしてくれている。
我が家の庭で飼っている未熟児子豚の「ゆうきだいきち」もほとんど放っておかれている状態のなかで、健気にもサッカーボールで一人遊びすることを覚えてしまった。
当初連れてきたとき500gだったのに今では5kg以上となって丸々している。
抗議行動の現地で、作業船の接岸を阻止している祝島漁船に対して中電の現場責任者がマイクで叫ぶ内容に、各方面から疑問や非難の声が高まっている。
島で生まれ島で一生を終えようとする島民に、仕事上の転勤でたった数年しかそこにいない中電社員が投げつけるあまりに不見識、非常識な発言には品性が全くない。
そしてそのような言動をさせる中電という企業にも社会の公器としての自覚や品格が全く感じられない。
そんな企業にわれわれの暮らしに必要なエネルギーを託す信用はとても寄せられない。 「海は汚しません」という言葉も信用できないので、彼らにみんな(次代の人たちを含めて)の大切な海をいじらせるわけには絶対にいかない。
海の埋立て免許を交付しながら現地で起きている事は個別企業の問題だと他人事を決め込んでいる県庁も、さすがに中電に慎重な物言いを指導せざるを得なくなってしまった。
しかし埋立て免許の交付責任を、事業企業の言動を指導する程度だと考えている県庁も中電に劣らずお粗末だ。 本来は埋め立て海域の自然生態系への配慮など本質的な場面に関与すべきはずだが、お手軽にできることしかせずにお茶を濁して、無責任・事なかれ主義を露呈している。
現在、スウェーデンや祝島の状況を通して原発やエネルギー政策の是非を問うドキュメンタリー「ミツバチの羽音と地球の回転」を製作中の鎌仲ひとみ監督へのインタビュー記事が毎日新聞に掲載されていた。
http://mainichi.jp/area/hiroshima/news/20090919ddlk34070574000c.html
そのなかで、鎌仲さんは「六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場でプルトニウムを抽出し、それを日本の新しいタイプの原発の燃料に使う。これは国家のエネルギー政策なのにあたかも「六ケ所の問題」という風に矮小(わいしょう)化されてきた。六ケ所村に膨大な放射性廃棄物を送り出している日本人全体の問題だと思い、映画「六ヶ所村ラプソディ」を作った。上関原発も「私たちの問題」だと、実感を持って理解してほしい。漁師の暮らしや漁を踏みにじっているのは中電だけではなく、黙ってそれをさせている私たち一人一人が連なっているんだと。そういう構造の中にいることを見てほしい。」と述べてくれている。
新政権のCO2を25%削減という野心的な公約に、財界からは経済成長を阻害するとして一斉に反発の声があがっている。(そのために原発が必要だという。)
一方で財界要人もしばしば持続的社会、循環型社会とかコメントするが、しかしこれまでの成長の概念を脱却したところにはじめて持続的な循環型社会があるのではないだろうか。
生態学的にいえば、成長上昇曲線の先には必ず頂点や絶頂期があり、それを機に降下曲線をたどるのが万物の宿命なはずだ。
何のことはない、財界の面々は自分がトップでいる間は会社の業績が右肩上がりであってほしいという保身思考でしかなく、次世代のことは他人まかせというふうにしか、私には映らない。
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