氏本農園・祝島だより

万葉集に詠われ歴史豊かな自然あふれる、万葉浪漫の瀬戸内海「祝島」での暮らしを氏本農園からお伝えします

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全52ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 1

 こいわい食堂がこの24日で無事(いまのところ)一周年を迎えるにあたって、小女将・太佳ちゃんはこの間物心両面で応援してくださった島内の方々にお礼をしたいという。
 相談の結果、お礼の手紙にそえてブーたちが再生した耕作放棄地に無農薬・無化肥で栽培した甘藷(さつまいも)をかまどで石焼き芋にして、島内全戸に配ろうという壮大な(?)感謝プロジェクトになった。

 小春日和だった昨日その感謝プロジェクト用の甘藷掘りをした。 我が家のブーたちのように16匹兄弟とまでいかないが、平均的に5〜6個の焼き芋に適した大きさの子いもがぶら下がっていた。
 ブーたちの化石燃料に頼らない鼻耕(整地兼畝作りだけは耕運機使用)と、土壌微生物も含めた自然のエネルギー循環、それらを支えている太陽光エネルギー、まさにお天道さまの恵みの子いもたちだ。化学肥料を使えばもっと子いもの数が増え大きくもなるのだろうが、これで十分な出来ではないかと思う。 

 この対極にあるのが工業的といわれる農業で、その典型が米国における加工原料用トウモロコシ(2級フィールドコーン)だ。
 このトウモロコシ生産は大型農業機械と大量の化石燃料、遺伝子組換え種子、除草剤(農薬)、流通を支えるこれまた輸送機関の化石燃料や加工を支える大量の電気エネルギーなしでは成り立たない農業の代表だ。 
 工業的な農業とは、いろいろなエネルギーを総動員して工業的な「効率」を追求する農業のことだ。工業的な効率性は同じことを何度も繰り返す単純化によって高まり、規模が大きくなることで増す。
 それに対して、有機農業に代表される本来の(!)農業での効率は、土壌中の微生物から豚や牛などの家畜、雑木林の木に至る生物多様性に基づく複雑性や相互依存性が生みだしたもので、同じ効率でも「工業的効率」の対極にあるものだ。

 このトウモロコシを使った商品はわれわれ日本人の生活にも深く静に食い込んでいる。 ある農水大臣が「日本の知財」と言った霜降り和牛肉も黒豚肉も国産鶏肉も、飼料の大半を占めている輸入のトウモロコシが形を変えたものだ。 
 大手酒造メーカーの日本酒にも、お刺身を食べるときの大手食品メーカーの醤油や、チューブ入り生わさびにさえもコーン油や増粘多糖類として入り込んでいる。
 ファストフードの店は加工トウモロコシなしでは1店も存在できない。 それはほとんどの製品に加工トウモロコシ由来の原料が使われていると同時に、その安さを支えているからだ。
 加工トウモロコシから直接、間接に作られた安い食品には高いコストが隠されている。 土壌の劣化、環境汚染、食物感染や肥満、大量の電気使用(その先に原発事故が潜んでいる)などなど。

 実は米国の加工原料用トウモロコシ生産者のほとんどは米国政府の補助金無しでは経営が成り立っていない。
 加工用トウモロコシ生産・流通を牛耳っているのは、一握りの遺伝子組換え種子企業、農薬・化学肥料企業、流通企業のいわゆる米国トウモロコシ村だ。
 もちろん加工用トウモロコシは米国にとって世界(の食料)を牛耳る最強な輸出品目なので、膨大な補助金(税金)を使ってでも米国政府はトウモロコシ村の主要村民として座っている。

 そのトウモロコシ輸出戦略〜米国産加工トウモロコシの傘に、これから需要増加が見込まれるアジアの人々を引き込もうとする動きがTPPに他ならない。

 食農雑誌の編集者をしている友人のTさんが「雑食動物のジレンマ(上・下)/マイケル・ポーラン著/東洋経済新報社」を送ってきてくれた。
 2年前に出版されたときから気になっていたのに、なかなか読む機会がなかった本だったので、さっそく読んだがすごく面白かった。(Tさんありがとう!) 
 著者は深い知性と洞察力で米国の抱えている食や農の課題を掘り下げながら、それらは米国に限らず経済先進国や開発途上国もふくめて普遍的で重要な課題だと教えてくれる。
 肥満人口の急増や医療制度の圧迫は工業的で大規模な農業の展開と密接に結びついていること、工業的な農業は人の健康だけでなく国土(環境)の健康まで蝕んでいることなど。
 そして著者は断言する。「農業とは大規模な運営には適応しない。それは農業が、生き、育ち、死んでいく動植物にかかわるものだからである。」

 私たち消費者は、買うか買わないかという投票行動で、自分と家族を守るのがいちばん確実な方法だ。
健気にも輸入トウモロコシに頼らない努力を続けているのは、決まって地域に根ざした中小零細企業が多いというのは示唆的だ。
 政府にTPP参加を迫る経団連傘下の大手企業には頼れない。 

『島の朝市、復活』

イメージ 1 イメージ 2

イメージ 2

 島の朝市が先週の土曜日に復活した。
 一昨年9月の上関原発建設予定地海域の埋め立てに使う灯埠標の搬入阻止行動以降、現場では予断を許さない緊迫した状況が続いて、やむなく中断していたものだ。

 今回の島の朝市が単なる再開ではないのは、この間祝島に移住してきた若手島人(候補生?)たちが準備や出店に積極的に関わってくれたことだ。
 これまでの朝市関係者を交えて、事前に移住者で集まって相談したことも、島内でのつながりを強めることに役立ったと思う。 朝市の話題だけでなくお互いのいろんな悩みや希望も話し合ったようだ。
 そして、過去の朝市には登場しなかった移住者による試作加工品もいくつか登場した。
 
 島の朝市の特徴は、定刻には始まらないことだ。 といっても開店が遅れるのではなく、早くなり過ぎるのだ。
 10時販売開始の2時間もまえ、会場設営の頃からすでに何人ものオバアちゃんが売り出しを待って集まってくる。
 それをみて常連のオバちゃん数人が「年寄りをあんまり待たせるもんじゃなぁで。早よう売っちゃりんさい!」と朝市運営委員の頭越しに指図して、毎度なしくずし的に朝市が開店してしまう。

 出店常連のタミちゃんはヒザを痛めて出店せず、弟子でこいわい食堂小女将(こかみ)太佳ちゃんは放牧豚が再生した水田跡地で育てた有機栽培のサツマイモで石焼イモを出したのだが、正直に正規開店時間の10時に合わせて焼いたものだから、焼イモを持ち込んだ頃には、他のブースはほとんど店じまいしており、「まだ祝島のことがようわかっちょらん」とタミちゃんからきつい指導が入った。

 ほとんどの出店商品が開店前に完売(氏本農園の放牧豚ミンチ肉、スライス肉もおかげさまで)したことからも、朝市の再開をみなさんが心待ちにしてくれていたのだろう。
 対面販売ではじめて顔見知りになった島民と移住者のあらたなつながりもできたはずだ。

 祝島に限らず朝市は地域に暮らす人々の生活の智恵が詰まっている。
朝市の活気は、地元の出来たてのものを作り手と買い手が直接に対面して売り買いでき、生の情報をやりとりし、みんなが自分の五感を動員できる充実感によるものからきていると思う。
 そのコミュニケーションが、とりわけ食材類では消費者の安心感の元となっている。
マスコミ報道をにぎわす食にまつわるいろいろな問題は、市場規模が巨大で複雑になり過ぎ、朝市の初心から乖離してきたことによるものだと思う。

 島の朝市は地域の自活・自立をめざす「自然エネルギー100%プロジェクト」でも大切な位置づけになるものだ。
 祝島では、このようにして移住者の若者たちの力を得ながら上関原発の呪縛からの脱却が、微速ではあるが具体的に一歩ずつ進んでいると思っている。

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3

イメージ 3

 こいわい食堂に太陽光を集めて太陽熱として利用するソーラー・クッカーが登場した。
シンプルな構造で扱いも簡便だし、環境を守ることにとりわけ熱心な小女将(こかみ)太佳ちゃんは、たちまち気に入ったようだ。 我が家に太陽光発電設備の設置工事をしてくれたエコテックという会社が紹介してくれたものだ。

 枇杷茶をソーラークッカーで沸かし、ご飯は果樹を剪定した枯木などを燃して歯釜で炊き、冷蔵庫の電源は太陽光発電、掃除などの生活中水は井戸水、便所は汲み取り不要な無水コンポスト方式と、着々と「お天道さまの恵み食堂」として、小女将の狙いどおり自然エネルギーの自給度を高めている。

 数年前から肉牛プロジェクトのお手伝いで中国内陸部の黄土高原地帯の農村部に足をはこんでいるが、かなりの農家が土壁でかこまれた内庭にこのソーラークッカーを置いていてお湯を沸かしている。
 それでなくてもはげ山のような山肌の潅木がマキとして伐採されるのを防ぐ州政府の対策でもあるらしいが、雨が少なく晴天の多いこの地域ではすごく合理的だと感心し、つねづね祝島でも見習って導入したいと思っていたところだった。

 他にも、村ぐるみで各農家の牛舎床下に糞尿からメタンガスを発生させる発酵槽を設置し台所用燃料にしようと取り組んでいる地域もある。 公共事業大国である中国の農業公共工事だろうとうがった見方もないわけではないが、地方の自治政府レベルでは環境保全に真剣に取り組んでいることも事実だ。

 農村部を貫く高速道路を走っていると頻繁に大型トレーラの車列に出会う。 荷台に積まれているのは発電用大型風車のタワー(柱)やブレード(羽根)だ。 発電用風車の設置台数が世界で最も増加しているのが中国だと何かの資料で読んだ。
 しかし一方で今後建設が計画される原子力発電所数が最も多いのも中国だという。 とにかく国全体で電気エネルギーの需要が急増しているのだ。

 そのことは、くだんの農村地帯を訪問するたびに人々の生活が変化していることからも実感する。
農村部でも携帯電話やテレビはいわずもがな冷蔵庫や洗濯機などの電化製品やファストフード系のカップ麺などの普及が著しい。
 反面、生活排水の処理や使用済みレジ袋や発泡資材の処理などのインフラ整備や人々の意識が追いつけていないので、そのひずみが環境に大きな負荷をかけるようになってきた。
 訪問先の農家でソーラークッカーがお役ご免になって庭の片隅に裏返しにされ、それまで出してくれていた熱い中国茶がペットボトルの中国茶に変わって、ほろ苦い複雑な気持ちを味わうことが増えてきた。

 日本人がそうであったように、電化製品に囲まれた便利な生活に憧れ、そんな生活を求める中国農村部の人たちを少なくとも私は責めることはできない。
 ただ、かつての日本で昭和の時代に、冷蔵庫の普及が各地の優れた伝統保存食やその作り方を衰退させ、結果として食文化の多様性や食への理解度を低下させたのも否めない事実だ。
 そしてその延長線上で日本はさまざまな食を巡る深刻な問題を抱え込んで、社会の大きな不安要因や社会コストを発生させてしまった。  そのようなことを中国が繰り返さないよう願うばかりだ。

『お天道さまの恵み』

イメージ 1 イメージ 2

イメージ 2

 我が家の渋柿の木が今年も120個ほど実を着けた。 私がものごころついたときには既に今と同じ樹姿だったのを記憶しているので相当な樹齢なのだろう。
その樹齢に加え前年は450個も実を着けたし、今年は裏年だろうと期待していなかったのに、それでも思いのほか実を着けてくれた。
 昨年は焼酎で渋抜きを試みて失敗し、タミちゃんに「大学で4年も勉強したのに柿一つの渋抜きもようせん」とさんざんこき下ろされた。
 また今年もその轍を踏むとタミちゃんが生きているかぎりその汚名から抜けられないのは決定的なので、リスクをさけて今年は干し柿にすることにした。

 先日、ちょうど来島した太佳ちゃんの友人たちや台湾からの留学生に手伝ってもらって、みんなで楽しく干し柿づくりをした。 吊るす縄も自分たちでワラで編んだ。 干し柿にもワラ縄編みにも昔の人たちの智恵がてんこ盛りだということを、やってみて改めて感じる。
 そして昔の人たちの智恵もさることながら、半世紀以上も柿の木を元気に養い毎年のように実を着けさせる太陽の力〜お天道さまの恵みに素直に感謝の気持ちがわいてくる。

 動植物だけでなく、海も土も石油や石炭などの化石燃料さえもつまるところお天道さまからの授かりものだ。 現在の人類は、授かりものだからと節約しながら大切に使おうとするわけでもなく浪費するばかりだ。
 素直にお天道さまの恵みを受けて暮らす他の動植物にとっては、人類は風上にも置けない存在なのだろうと自分でも思ってしまう。

 今回の東電福島原発事故で、原発問題は技術の問題ではなく倫理や知性の問題だと改めて思った。
 たかだか寿命100年足らずの人類が、廃棄物の処理を含めれば数万年レベルの対応が必要な「核」を利用しようとする発想自体が傲慢さの極みではないか。
 人類は核の責任ある管理が可能な思想、技術を持ち合わせるだけの知性を持てていないし、持てるはずもない。
 われわれ人類を含めて地球表層に暮らす生きとし生けるものは、太陽からの恵みをうけてその範囲内で暮らすのがその数十年の寿命にふさわしい安全、安心で身の丈の暮らしであり、そもそも核をいじるほどの知性は必要ないのだ。
 数万年を寿命の一部ととらえることのできる存在〜天然の太陽〜だけが核を操作できる資格があるのだということをわれわれは認識すべきだ。

 太陽の恵みでは飽き足らず、人工太陽〜原発を作ってしまえという人類の強欲な発想の先には、繁栄ではなく破滅しか待ち構えていないと思う。
 「海や山を傷めたらバチが当たる。海はカネで売れん」といって上関原発の海の埋め立てに反対する祝島のオジちゃんやオバちゃんたちは無意識に海や山がお天道さまの恵みだと分かっている。
 上関原発のカネで地域の活性化をという原発推進派住民と、どちらの思考が地域の活性化につながるというのだろう?
 夕陽に染まった鮮やかな朱色の吊るし柿をながめながらそんなことを考えた。

イメージ 1 イメージ 2

イメージ 2

 祝島への関心が高まっていることもあって、いろんな方々がネット上で祝島に言及している。
なかには祝島出身と思われる方などもブログで、祝島がこうあって欲しいとかこうなって欲しくないなどと踏み込んで書いている。
 Iターン者は来て欲しくないとか自然エネルギー100%プロジェクトは島民の意思ではなく島外からの押し付けだなど中傷の類にまで及んでいるものもあり、それが町長選挙中には対立候補側に山戸候補の揚げ足取りに利用されたりもした。

 私としては、どんなことを書こうが、書いた方々のウェブ上での表現の自由は尊重したいし、その表現の元となるそれぞれの考え方の多様性は受け入れようと思う。
 Iターン者の受入れや自然エネルギー100%プロジェクトが祝島が持続するために必要な変化を促す行動だということを、変化を望まない人に理解してもらうのが相当に難儀なことも分かっている。

 それでも敢えて、私が違和感を覚えるのは以下の理由だ。
 その一つは匿名性だ。 祝島在住という、すでにそれ自体特定される人々を、自分の側は住所も氏名も伏せて批判や意見するのはフェアではない。 自分の意見に責任が持てるなら堂々と実名でするべきだと思う。

 二つには、祝島に限らないがそこに暮らしていない人が暮らしている人を語るときには、自ずから節度のある表現であるべきと思っている。 
 私にとっては、たとえ祝島と縁もゆかりもないIターン者であっても、祝島という地域社会の一員になろうと飛び込んだ人たちは祝島の一員〜島びとだ。  祝島に住みたいけれど仕事がないという人もいるが、その人は現在の仕事と暮らしを優先していることに他ならない。
 Iターンの人たちは祝島の暮らし(ソーシャルスタイル)に自分たちを馴染ませるため、自分たちなりの生業を苦労しながら創り出そうとそれぞれ奮闘している。 自分に合う仕事がないから島に住めないというのではなく、島に住みたいからそのために仕事を生み出そうとしているのだ。
 その生き方はまさしく地域の暮らしの在りようとしてのスローフード思想に通じていると思う。

「生活と自治10月号/生活クラブ生協機関紙」で宮台真司氏(首都大学東京教授)は、個々のライフスタイルではなくソーシャルスタイルとしてのスローフード思想に言及していて示唆が多い。
 また既刊ではあるが、福岡新一氏の「生物と無生物の間(講談社新書2007)」に書かれている「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」や「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」などのフレイズは何度読み返しても新鮮だ。
 ダーウィンの言葉とされる「生き残れるのは強い個体でも賢い個体でもなく変化できた個体だ」に通じるものを感じる。

 これは個々の生命体に限ってのことではなく、その集合体である地域社会にも当てはまると考えたとき、極めて示唆的だ。 祝島という地域社会が持続するためには常に変化し続けなければならないということではないだろうか。

 私は匿名記事のエキセントリックな表現の背後に、書いた人が抱いている寂しさとか孤独さを感じてしまう。
 匿名の方々には仮想のウェブ社会で祝島を論じるより実存社会の祝島に渡って一緒に変化の手伝いをしないかと呼掛けたい。
(画像は再生した耕作放棄地に共同で野菜の苗立てをしたり、島のオバチャンに枇杷の茶葉採りの指導を受けるIターンの人たち〜それぞれに日よけの被り物が違う、この多様性!)

全52ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事