氏本農園・祝島だより

万葉集に詠われ歴史豊かな自然あふれる、万葉浪漫の瀬戸内海「祝島」での暮らしを氏本農園からお伝えします

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『神舞の感想』

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 神舞が終わって一週間が経ったところで、私なりに振り返ってみた。
前回(2008年)の神舞は、鎌仲ひとみ監督の「ミツバチの羽音と地球の回転」と纐纈あや監督の「祝の島」という2本のドキュメンタリー映画が同時平行的に撮影中だったと記憶している。
 今回の神舞は、この2本のドキュメンタリー映画をとおして上関原発建設に反対し続けてきた祝島の存在がより広く知られるようになるとともに、どちらの映画にも取り上げられた神舞という伝統神事への関心も高まったのだろうか、前回以上に島外からの観衆が多かったようだ。
 前回の神舞以降に20人近くが祝島に移住してきたが、彼らも神舞の運営に大きな力となってくれて島の年配者を喜ばせた。 さらにはこの間の上関原発反対運動に参加していたカヤック隊などの若者も多数駆けつけてくれた。
 そんなことから、個人的な感想からいえば前回の神舞より活気があったように感じた。

 上関原発に反対する島民の一人として、前回と今回の神舞の間は、中国電力上関原発にとっての田の浦湾の埋立てを巡る対立と、その対立が激化した直後の東電福島原発事故という、原発問題の劇的な転換を経験した4年間だった。
 その劇的な転換とは、これまで原発に無関心だった多くの人が、安くてほとんど使い放題の原発電気に支えられたエネルギー浪費型、使い捨て型社会の致命的な危険性や、核燃料廃棄物の未来世代への押しつけに象徴される不公正で無責任な社会の在り方に関心を高めてきたことだった。

 だから今回の神舞は、島民だけでなく、原発反対運動が縁で今回の神舞に関わった島外の若者たちがこの間の体験をどのように生かして、環境負荷を抑えた持続性の高い祭りへ少しでもシフトできるか、というところに私は個人的な関心を寄せていた。

 仮設の神楽舞台などは伝統的に島内産の木や竹を紐を使って組み立て、しめ縄以外のほとんどが次回神舞用に保管される。 再利用できない神楽舞台に飾られた切紙は各戸にお守りとして配布される。 昼間の神楽なので照明関係の電気も全く使わなくて済む。
これらは全て先人たちの経験の賜物だ。

 しかし当の神舞に関わる我われは、島民も島外からの若者たちも、準備作業の段階から休憩時間には缶飲料やペットボトル飲料を手にし、祭りの期間中から打ち上げまでひたすら缶ビールをあおって、そして、おびただしい数の空き缶や空きペットボトルを発生させてしまった。(画像は空き缶収集場所の潰された空き缶の山)
 舞小屋近くの物産、飲食会場でも多くの使い捨てタイプの合成樹脂容器や割り箸が使われ、結果として大量の可燃ゴミとなった。

 祝島の神舞に限らず「祭り」はその地域や地域住民の「無事な暮らし」の象徴だと思う。 
ただし「無事」の意味は、これまで過去の長い期間、自然災害や疾病や怪我から幸いにも免れたことだったが、これからの「無事」は原発事故や環境汚染、大規模伝染病などによる命への脅威からの回避であり、その脅威のほとんどは人災だ。

 だとすれば、これからの「無事」は我われ自身で作り出さなければ叶えられないものだ。
缶飲料やペットボトル飲料の減量が自販機の減量を産み出し、電気の節約や不燃ゴミ、可燃ゴミの減量に直結し、環境負荷や社会コストがそれだけ軽減される。   
 
 これからの祭りは、神舞も含めて、これまで以上に地域の暮らしの姿勢が問われ、映し出すものになるはずだ。
 そして地域の人たちは祭りをとおして自分たちの暮らしぶりを確認し共有化しあうことになる。
その意味で、祝島にとって神舞は1,460日(4年)のうちの5日間の神事ではなく、1,460日間を通したものと考えるべきなのだろ。

『怪談二題』

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 私にとっては最近体験したとても不気味な話なのですが、怪談といえるかどうかの判断はブログを読まれた方にお任せします。

「カビない食パン」
 7月上旬、早朝の定期船で不意に到着したお客のために近所のお店で急遽買った市販の食パンの残りが、そのあと台所の片隅に常温で1ヶ月忘れられていた。
 気づいて消費期限を確認すると7月22日になっていた。 もったいなかったけれどすっかりカビてしまっただろうとあきらめて袋を開封してみると、なんとアオカビやクロカビが全く発生していない。 袋の原材料欄にいろいろな成分が書かれているので、その効果かも知れない。
 でも食材というものは一定時間経過すればカビたり腐ったりするのが当たり前じゃないだろうか? それを人為的にカビないようにとか腐りにくくとか考えていろんなものを添加することって正しい選択なのか?
 カビが嫌がるものを日常的に普通に食品工場で作り、普通に食卓で口にしているヒトってどういう生きものなんだ、と考えたら急に不気味になって背筋がヒヤリとしてきた。

「二枚の団扇」
 最近我が家に二枚の団扇が登場した。 二枚とも成り行き上いただいたものだ。
 一枚は今年の神舞を仕切る神舞奉賛会から島内に各戸配布されたもので、骨や柄は伝統的な竹製で、もう一枚は先の山口県知事選挙に立候補した原発問題や再生エネルギーに熱心に取り組む、私も支持した候補者側があつらえたものだが、団扇の骨や柄は合成樹脂製だ。

 今読んでいる本(「人類が消えた世界」アラン・ワイズマン/ハヤカワノンフィクション文庫)のなかに「プラスチックは永遠なり」という章(201〜228ページ)があって、ヒトが生活から発生させるゴミの中でも、とりわけ厄介なのが難分解性のプラスチック(石油を原料とする合成樹脂類の総称)であること。 プラスチックゴミの大半は結果として海が捨て場になっていること。 波の衝撃や紫外線で微細にはなっても、数十年程度の時間軸では決して分解されることはないこと。 その間に目に見えないほど微細になったプラスチック類はプランクトンなどの海洋生物に餌とともに摂取され、生物濃縮の形で循環すること。 当然ながらその中にはPCBなど有毒成分が禁止される以前のプラスチック類の大半が含まれていること、など世界各国の調査研究結果が列挙されている。

 ウェブサイトで検索すると、国内のペットボトルリサイクル推進団体の情報でも、リサイクル処理量は公表されているが、リサイクルされない圧倒的多数のペットボトルがどこでどうなっているのかは、誰にも把握できていないようだ。
 時化が収まった翌日の祝島の海岸をみれば、おびただしい数のペットボトルをはじめとするプラスチックゴミが打ち寄せられていて、行方が把握できない理由の一部を実感できる。

 合成樹脂を作りっぱなし、使いっぱなしのヒトは、そのツケが結局ヒトに回ってくる。 作ったヒト(企業)ではなく使ったヒト(消費者)がほとんどそのツケを背負うことになる。
 それを気づいてのうえかどうか、真夏の日本では今日もおびただしい量の冷たいペットボトル飲料が自販機から買われるだろう。

 例の合成樹脂製の選挙団扇であおいでも、こんなことを考えると冷や汗が出て不気味なことこのうえない。
 余談だが、選挙団扇についていえば配布数も相当多いのでできるだけ選挙運動を安く抑えるための措置なのだろうが、候補者本人というより、彼の選挙運動スタッフの判断なのではないかと思う。
 それにしても大量消費社会、エネルギー浪費型社会から脱却し、持続型社会への発想転換、整合性を持った行動というのがいかに大変かこのような場面で垣間見えてくる。

 ちなみに私の知る範囲で最もエネルギー浪費型社会から距離を置いている「こいわい食堂」の小女将(こかみ)太佳ちゃんは、神舞団扇が竹製だからと評価するのではなく、欲しい家にだけ配布しないと結局はいろいろな無駄を発生させ、神舞の持続性を損なうと指摘する。
 けだし卓見ではある。

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 6時45分に現場に集合してみると、朝7時からの舞小屋建て作業はとっくにフライングスタートしていた。島民たちの心のなかではもうとっくに神舞が始まっている高揚した雰囲気を感じる。
 平均年齢70超えの島民たちはエンジン全開で作業を行っており、その中にUターン者やIターン者、早めに帰省してきた祝島出身者も混じって作業している光景からは、祭りが近いゆえのものとはまた違う活気も伝わってくる。
 
 オジンたちは舞小屋建ての作業、オバンたちは舞小屋近くの倉庫の日陰で舞小屋で使うワラ縄や鳥居のしめ縄や房に使う稲ワラを漉くところから取り掛かっている。 
 舞小屋に使う資材は、島の山林から切り出してきた古木の支柱、それを補強するのは真竹、それらを固定するのは大小の麻縄などだ。
 近年では金属パイプや番線など建築現場で使う架設用足場資材も一部補助的に使うようにはなったが、屋根を覆う苫も含めて、ほとんどが解体保管しておき次回にも再利用できるものだ。
 例外的に一回しか使用できない真竹やワラ縄は燃料としてリサイクルされて簡単に自然に戻せる。

 こうして見ると神舞自体が、参加している現世代を越えて環境に負荷を押し付けることは全くない。現世代の責任の範囲で執り行うという姿勢が原発ムラと決定的に違うところだ。
 このような祭りへの姿勢が神舞の持続可能性を高めている要因だと思う。 持続させるためにこのような工夫を積み重ねてきたのだと言い換えられるかもしれない。

 このような環境に負荷をかけないちょっとした工夫の積み重ねが、祭りだけでなく地域社会の持続可能性も高めてくれている。 このブログでも先に何度か触れたが、地域社会が祭りを持っていることの大きな意義がここらあたりに含まれているのだろう。
 私を含めてUターン者やIターン者など新しい島民は、神舞を通じて先人たちの暮らしの姿勢や技を受け継ぐ必要がある。
 それは祝島という地域に対する責任という気負いでなく、祝島での自分と家族が安らかな暮らしを営むことへの責任で十分だ。

 今週月曜日には、上関原発建設推進派の多い室津地区でも12年ぶりに伝統の祭りが復活開催された。室津では少数派の原発反対派の漁師さんも一緒に加わって祭りの準備をしていたのを見かけて、なぜか無性にうれしかった。
 上関原発建設工事は知事の建設用地埋立て認可も近く失効して、建設計画自体が当分の間は動かないこととも関係しているのだろうか。
 いずれにしても祭りの復活は地域にとって良い兆しではないのかと私は思う。

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 1945年8月6日、人類が発明した忌まわしい原子爆弾が広島で最初に人類を殺めてしまった日。
その67年後の現在もなお、被爆者やその方々の住む地域にとっては物心両面でさまざまな被曝後遺症の苦しみが続いている。

 66年後の2011年3月11日、原発は語呂が悪いと「原電」という表現を使って(現山口県知事は最近まで議会答弁や記者会見で使っていた)、原子力発電は原子爆弾とちがい核の平和利用だからという詭弁のもとで、世界有数の原発立地国への道を突き進み、福島で再度死の世界を再現させてしまった日本。
福島で原発廃炉が完了し、住む(んでいた)人々や土地がもとの福島になるのにいったい今後どのくらいの長い時間が必要なのか。
これまでの国内の原発稼働によって広島型原爆何千発分もの核兵器の原料となるプルトニウムを抱え込んでしまっている。

 にも関わらず、国民の生活を守るためという新手の詭弁で、停止中の原発を再稼働させようとする動きが経団連を中心とした政財界で強まってきている。
 再稼働を後押ししているのは、停電の恐怖を煽る電力ムラにまんまと乗せられた停電恐怖症の市民だ。
そんな停電恐怖症の市民の多くは共通して選挙棄権症、風評過敏症などの合併症を抱える「当座的自分的生活以外無関心症候群」だ。

「8・6ひろしま」、「3・11ふくしま」、少なくとも日本人であるならどちらにも無関係ではありえないし、無関心であってはならないと思う。
 毎年「8・6ひろしま」は、人類が核を利用しようとすることの愚かさと傲慢さを再認識し、核不使用の決意を新たにする日であり、「3・11ふくしま」は核の平和利用の詭弁を許さず、安易なエネルギー浪費型の暮らしをそれまでより一歩でも改善する再起動の日にしたい。

 先月開催された「原発を裁く広島民衆法廷」での私の陳述の一部を、8月5日付け北海道新聞日曜版の編集委員コラム「異聞風聞」が取り上げてくれたらしい。
 暮らしの根幹をなす安心・安全な食べ物の生産、農水産業の存立と原発の存在は全く相容れないということを訴えたくだりのようだ。
 多額の漁業補償金を拒否し、30年間にわたる中国電力の上関原発建設阻止の原動力となっている祝島の漁師さんたちに劣らず、食べ物の生産に関わる我われ国内の農民の役割も大きいはずだ。

 奇しくも「しま」でつながる「ひろしま」「ふくしま」の悲劇を二度と繰り返さないためには、速やかに脱原発の行動を一人ひとりが今住んでいる場所で、出来るところから取り組むことが必要だと思う。
 その点で、漁民や農民が中心の祝島が「自然エネルギー100%プロジェクト」に取り組む「いわいしま」の役割は小さくない。

「いわいしま」では、原発騒動による2度の中断を乗り越えて復活させた、千年以上にわたり伝承されてきた4年に一度の伝統神事「神舞」を10日後に控え、幸せな高揚感につつまれている。
 上関原発建設が中断に追い込まれ、予定地の埋立免許の失効も確実で、束の間ではあるが久しぶりに穏やかな気持ちで迎える神舞神楽は、私にとって金銭ではとうてい測れない(プライスレス)豊かな体験だ。

『苫編み』

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 祝島のあちこちで、それぞれに「神舞」へのカウントダウン作業がはじまっている。
オジンたちは総出で、神様船を送迎する櫂伝馬船や神楽を奉納する仮舞台の骨組みとなる古木の柱を倉庫から引き出して汗をかく。
 一方で仮舞台の屋根や壁を覆う苫を編むのは主にオバンたちの役目だ。元気なオジンたちが山で刈ってきた茅を、風通しの良い海岸で天日干してから枯れ草を漉きながら根気良く180×80cmの苫に編み上げるのは主にオバンたちの仕事だ。
 自治会を構成する区ごとに、作業に適した日陰のある家に集って、おしゃべりをしながらみんなで編む。 単調な作業なのでおしゃべりという潤滑油は必需品なのだろう。
 私の住む6区は役者が揃っていて、豪壮な石垣棚田で有名な平(たいら)のマンちゃんが茅刈り主任で、苫編みの作業場は伊藤のフンミーさん宅だ(お二人ともドキュメンタリー映画「祝の島」では主役級で登場している方だ)。
 しかし高齢化も進み苫編み技術の次代への受け渡しも不可欠だということで、今回から6区では私も苫編みに参加した。
 島に自生している茅と稲ワラの縄、自作の木製苫編み道具を使って手編みする、化石燃料由来の資材も電気も全く必要としない、完璧に脱原発的、伝統的かつ最先端の民具だ。
 コミュニティに「祭り」が伝わっていることで、このような生活の智恵が詰まった、環境に優しい伝統の業が脈々と受け継がれていく。
 そして、そんな暮らしに共感してくれる祝島への移住者が増えてきているのもすごくうれしいことだ。前回の神舞には居なかった顔が随分と増えてきている。
 神舞の伝承に尽力してきてくれた島の先人たちを心から尊敬し誇りに思う。

 先日の山口県知事選挙では飯田てつなりさんの当選がかなわなかったのはとても残念なことだったが、劣らず残念だったのは、投票率が45%程度だったことだ。
 下関市や宇部市など県内の主要都市部に至っては30%代だったから3人に2人は投票権を放棄したことになる。
 前回ブログにも書いたが、政治への無関心は自分の明日からの暮らしや子供たちの未来への無責任と同義だ。
 時の権力やその権力と結託した利権者に、投票棄権という形で白紙委任した自分たちの無関心や無責任さが一部の権力者の暴走を許して、ついには福島原発事故に到ったことを私たちは肝に銘じなければならない。
 コミュニティが大規模化し都市化することで、インフラの集積が進み生活の利便性は高まったとしても、住民の無関心や無責任が助長されるなら、都市化することの意義はどこにあるのだろう。 市町村合併までして大規模化することの意義はどこにあるのだろう。はなはだ疑問だ。
 「祭り」でアイデンティティを共有しながら暮らせるコミュニティの方がヒトにとって身の丈で満足度は高いのではないだろうか。(ここでいう「祭り」はイベント会社に丸投げするようなものではないのは当然だ)

 グローバル化が進むなかで「スーパーシチズン」とか「グローバルシチズン」とかの表現を時折目にする。コミュニティのみならず国境さえも意識せずに暮らす人々のことを指すようだが、私にはそのスーパーシチズンたちが、お釈迦さまの手のひらで飛び回っている孫悟空に重なって滑稽だ。
 ヒトであるかぎりは地球村の一員からは抜け出せず、その村を形づくるおびただしい多様性のどこかに自分を収めないわけにはいかないのだから。


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