祝島のこの時期は、初夏に向けて野山の植物が一年で最も元気に成長する、いわゆる「スプリング・フラッシュ」だ。畑や田んぼのあぜ道もあっという間に野草で覆い尽くされてしまい、歩くのも難儀になってしまう。
こんなときに頼りになるのが、2頭の放牧牛たちだ。私は彼らを「維持管理不要(メンテナンスフリー)、車庫・燃料も不要な高性能草刈り機」と尊敬と信頼を込めて呼んでいる。 排気ガスの代わりに堆肥になる糞まで落としていってくれる。(画像は使用前、使用後の休耕田)
半世紀以上前から畜産農家の先達は「牛や羊はどんなトラクターよりも傾斜地に強く、その歯は砥ぐ必要のない刈刃で、食べた草を燃料にして、人間のために食糧を生産してくれる」と語っているのだ。
それが現在では、家畜伝染病予防のためと称して、多くの牛たち(豚たちや鶏たちも)が畜舎に閉じ込められて、お天道さまのもとで存分に草を食んだり、土の上でくつろいで寝そべったりすることはほとんどかなわぬ夢だ。
畜舎の窓や扉は野鳥や野生動物が侵入しないように網戸などの工夫をすること、飼養者など関係者以外は家畜に近づかないようにとの行政的な指導も強まっている。
そうしてわざわざ輸入の化石燃料で動く機械をヒトが操作して草刈りしている。 確かにこうして農機メーカーや燃料会社の経営には貢献しているのだが、家畜の放牧飼育を信奉する一人としてはどうも腑に落ちない。
日本では高度経済成長期あたりから、社会規範の基準がだんだん本質からずれてきてしまっているように思えてならない。
あたかも経済成長さえすれば社会の全ての問題が解決するかのごとく、いまだに市場経済主義に社会正義や社会規範まで定義させようとする危うい考えがまかり通っている。
物質的には豊富になり、格段に生活の利便性が高まっているように見えても暮らしに安心感が生まれないのは、どうも社会の基盤を支えているこうした規範への疑念が人々の心の底にありそうだ。
商品(電気、食品などなど)を購入する消費者も、その商品を作る企業経営者とその企業の株主も、みんなが「良き一住民〜GoodCitizen」として自分たちの住む社会の「共通善」を人任せにせず考える必要があるのではないだろうか。
さしあたって原発再稼働問題はその象徴的なテーマだ。
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