祝島の山では、秋が深まってくると常緑樹に交じったハゼノキが落葉までの一時を鮮やかに紅葉させて、秋空の抜けるような青さにもよく映える。
紅葉が合図のように、島のあちこちで干し柿づくりが始まる。
我が家も含めて営業用に肥培管理する柿の木はなく半野生化しているので、実を着ける年と着けない年と裏表があるようだ。
毎年同じように実を着けて欲しいというのは、実を食す側の勝手な意向であって、柿の木の側にしてみれば知ったことではないだろう。
土も含めて完全にお天道さまのエネルギーだけに頼って育った果実なので、実だけをちゃっかりかすめ取る島民の側は、海のヒジキ同様に柿の実も、生産しているというのはまことにおこがましい言い方で、採集させてもらっているだけなのだ。
それにしても我が家の庭にある柿の木は、昨年も300個近い実を収穫させてもらったのに、今年も昨年に近い数の実を着けた。
私が幼少の頃にはすでに今の樹姿だったのでかなりの樹齢だと考えると、ちょっと頑張り過ぎではないかと家主の方がかえって心配になってくるが、せっかく着けてくれた実なので、木守り用の1個を残してありがたく干し柿にさせてもらった。
これまた、ハゼノキの紅葉を合図のように紅くなってきたのが卵を産むのを休んでいたコッコのとさか(鶏冠)だ。
そして先日思いだしたように卵を産み落として、それから毎日のように1個ずつ産んでくれている。
コッコが「再稼働」したのだ! 律義にも、とさかの色の変化は再稼働の事前通告だった。
柿の木が実を着けるのを休むのもコッコが卵を産むのを止めて巣籠りするのも、動植物として当然のことだから、自然の摂理にしたがって時がくれば再稼働するのも至極当然のことだと素直に思える。
人間の都合だけの、自然の摂理に全く反している人為的装置の原発とは決定的に再稼働の意味が違う、と私は思うのだ。
柿の木もコッコも、人間の都合を優先して安定して実を着けたり卵を産んだりさせようとすれば、自然の摂理からどんどん乖離していって、柿の実生産装置や鶏卵生産機になってしまう。
そうなると、彼らを安易に稼働させることは、農薬の過剰投与による沈黙の春や、鳥インフルエンザの大規模感染などを呼び込むことになり、原発同様に「再稼働STOP!」と言わざるをえない。
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