氏本農園・祝島だより

万葉集に詠われ歴史豊かな自然あふれる、万葉浪漫の瀬戸内海「祝島」での暮らしを氏本農園からお伝えします

祝島だより

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『あえて、農業とは』

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 昼夜の寒暖差が増して、庭の柿の実が干し柿づくりを催促するかのように色づいてきた。
海岸沿いでは枇杷の葉茶づくりの天日干し作業が始まった。 母ブーの放牧地には枯草の寝床が出現した。
 この瑞穂の国ではこぞって稔りに胸を躍らせるはずの季節がやってきたというのに、今年も福島をそこに加えられないことの怒りとやるせなさを自分のなかで持て余す。

 そんななか先週末には、自分にとって秋の恒例となっている北海道での小さなフォラムに参加するため帯広を訪れた。
 フォラムの出席者の職種分野はいつも多種多彩で、農業者はごく少数というのも日本の職業構成比率に照らせば違和感はない。 そしてどんなテーマでも多様なり口で鋭く切り込み、それでいて抑制を効かした表現でポジティブに論じる出席者の知性に接して毎回学ぶところが多い。

 今年のフォラムのテーマは「北海道農業の持続的発展」、TPP(環太平洋連携協定)参加の是非を含めての活発な議論が予想された。
 十勝は自他ともに認める北海道内はもとより日本国内屈指の農業主産地のため、日本のTPP参加による地域農業への影響について不安や期待が交錯しており、主催者側の時宜を得たテーマと会場選定だったと評価したい。

 十勝フォラムでは、TPPを意識しすぎて対外価格競争力など経済指標偏重で農業を論ずることの危険性を指摘する意見が出された。
 農業つまりアグリカルチャー(AGRICULTURE)は、業(アグリ)としてだけではなく、文化(カルチャー)としても論じないと本質を見誤る。 
 農業と表裏一体の「食」が食文化として語られるように、農業もそうあるべきだというフォラム出席者の感性を好ましく思った。
 農業は業としての強さと同時に文化としての優しさが合わせて求められるということだ。 文化としての優しさを持ってこそ業として本当の強さだと言っていいのかもしれない。

 「文明を標準語とするなら、文化は方言だ」とは的を射た名言だ。
グローバリゼーションという標準語的な隠れ蓑をまとった胡散臭い一握りの国のデファクト・スタンダード〜その典型がTPP〜を自国の農業・食という文化(方言)に無理やり押し付けようとする企業家や政治家に、私は感性の粗暴さを感じて空しくなる。

 ところで今夏「セバンの地球のなおし方」「未来の食卓」などの作品で知られるフランスのジャンポール・ジョー監督の新作ドキュメンタリー映画「地球が食べられなくなる日」が日本でも公開されている。
 食べられなくなる原因を生み出すのは、信頼性に欠ける不安定なテクノロジーに依存してまで目先の豊かさを求める現代人の刹那的なライフスタイルだというのが監督の視点で、彼にとってその象徴的テクノロジーが原子力発電と遺伝子組み換え作物だ。
 この作品のなかで原発事故に遭った福島は作物を生産できず不毛化した実例として、原発建設に反対しながら小規模でも循環型の農漁業を持続させている祝島は生き残る可能性の高い例として登場する。

 またこの映画にはフランスの農民運動家ジョゼ・ボベさんも登場している。
彼は以前、彼の住むフランスの田舎町に進出しようとした世界チェーンのハンバーガー店をトラクタで踏み潰して投獄された猛者だ。
 世界中どこでも同じ味、同じ食材の食べ物を提供しようとする企業は地域の「文化」を冒涜しており、農民としてそんな企業活動は容認できないというのが彼の言い分だ。
(参考「地球は売り物じゃない〜ジャンクフードと戦う農民たち」紀伊国屋書店)

 農漁業や食を文化として語らなくなれば、農漁村はただの食材製造場になり、食べ物はエサ化して、ヒトはエサ製造場から隔離された都市という畜舎で家畜化の道を辿ることを意味する。
 ヒトが家畜化したとき飼育する側は誰なのだろう? 
それは遺伝子組み換え種子や農薬、化学肥料などで世界を独占的に牛耳ろうと目論む一握りの巨大複合企業と、それらの企業と結託する一握りの国に他ならない。

 それでも私には、祝島はその時にも伝統的農漁業でしぶとく暮らしながら、老若男女が神舞を楽しんでいる光景が十分イメージできる。

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『標的の村』

沖縄には在日米軍基地・専用施設の74%が集中している。
その沖縄で豊かなヤンバルの森に包まれた高江(東村)という住民160人の小さな集落を取り上げた映画『標的の村』は、地元放送局所属の気鋭女性ジャーナリストが制作し、2012年ギャラクシー賞(テレビ部門)を受賞したノンフィクション番組を映画化したものだ。
(公式ウェブサイト http://www.hyoteki.com )

 高江では終戦後の米国占領下でゲリラ戦用の演習地として、1960年代にはベトナム戦用の演習場となって地元住民は南ベトナム人役をやらされた。そして現在もサバイバル演習場として頻繁に大型軍用ヘりが家屋の上空を飛び交っていて、そのうえオスプレイ用に6箇所のヘリパッドの建設が強引に進んでいる。
 演習施設の拡張に反対する高江の住民たちの、反対運動を含めた日々の暮らしを追ったのがこの作品で、8月中旬のポレポレ東中野を皮切りに上映が開始され、各地で反響を呼んでいるようだ。

 農業系雑誌に映画評を寄稿することになり一足早くDVDで観ることができたのだが、「原発」と「米軍基地」という集落が直面する問題は異なっているのに、祝島と高江があまりにも共通性が多いことに愕然とする。

 地域の豊かな自然に愛着しその恩恵をうけて安らかに暮らしたい住民たちと、その自然を壊して人間の強欲を貪ろうとする利権集団(ムラ)の対峙。
 事を推し進める利権ムラの真の当事者は住民の前には決して姿を見せない。住民たちに対するのは利権ムラに属して感情を押し殺して無表情で働く役人や工事労働者だ。
 住民側が持っている唯一の対抗手段は無抵抗・非暴力・現地直接行動である座り込みだけだが、大きな権力と資金力をもった推進側利権ムラはそんな住民を多額の損害賠償請求などのスラップ訴訟(恫喝裁判)で揺さぶりをかける。
 それでも住民たちは日々の暮らしのなかで歌や踊りや祭りでしたたかに結束を図る。高江では沖縄太鼓、祝島では神舞がその役割を果たしている。

 この共通性の多さは決して単なる偶然ではない。
私たち現代日本人の、自己の便利さ、安心さ、快適さなどのために他の誰かに犠牲を強いる利己的な生活姿勢が生み出す必然なのだ。 

 東京の2020年五輪開催が決まってしまった。
福島原発事故現場では汚染水漏れが続発する状況のもとで、安倍首相は国際五輪委員会総会での誘致演説で「フクシマの状況は完全に我々がコントロールできている」と説明した。 猪瀬都知事は「東京は福島からは250kmも離れていて安全だ」とも発言した。
 彼らにもそれぞれ言い分はあるかもしれないが、いまだに避難を強いられている15万人の前で同じ発言を胸を張ってできないならば、それは少なくとも「倫理的」に問題があるということだ。
 ここにも誰かに苦しみや不都合などの犠牲を強いながら自分たちの利益しか視野に入らない利己主義が如実に表れている。
 こうして「標的の村」リストの「高江」や「祝島」に「福島」という地名が新に加わろうとしている。

 このような不合理で浅ましい状況が進むのは我われ一人ひとりがそれを容認しているからに他ならない。
これに個人で抗い得る効果的な非暴力・現地直接行動は、節電や地産地消の食生活など日常の身の回りにたくさん存在していることにそろそろ気づこうではないか。

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『エシカル消費』

 最近マスコミで「エシカル消費」という表現をときどき見かけるようになった。
エシカル(ethical)とは倫理的という意味なので、エシカル消費とは倫理的な消費行動とでも言えばよいのだろうか。
 幼児労働などによる低労賃で不当に低価格な輸入生産物などを買わない消費行動などに用いられている。これまで「フェアトレード」とか表現されていた消費行動に重なるところが多いように思う。

 本来が消費者には選ぶ権利、買わない権利があるので、その際の判断基準に「倫理にかなっているか」という視点を強調しているにすぎない。
 あえてエシカル消費と訴えざるを得ないところに現在の消費者の判断基準が価格偏重なことによる問題が社会的に深刻化しているのではないか。

 ここ数年来上関原発問題の現地学習や原発建設反対運動の応援で都市部からの来島者が増えている。それに伴って氏本農園の見学やこいわい食堂の利用も少なくない。
 その方たちと交流するなかで、多くの方が異口同音に「都会に帰ってからも祝島の原発建設反対運動に私たちが協力できることがありますか?」と問ってくる。 うれしい半面で少し残念な思いがしないではない。
 そんな質問を発する方にとって原発反対運動は非日常的で特別な運動として映っているのだろうが、そうではなく日々どの商品を買うかの選択が原発依存を続けるか脱原発に向かうかの分岐点という意味で典型的なエシカル消費なのだ。
 敢えてもう一歩踏み込むならば、どれを買うかの前に「どれも買わないで済ます」という選択肢も「エシカル」として常に持っていたいものだ。
 例えば電気を購入する際に、原発で発電した電気は購入したくないが日本の現状では発電源別に電気が選択できないというのであれば、できるだけ電気の使用自体を抑えるというのがエシカル消費なのではないだろうか。

 先週末にはドイツ人のフォトジャーナリストが取材のために来島していた。
彼は「日本では福島の原発事故が継続中なのにどうして原発を再稼働させたり新規建設を目指す政権を選択するのか?」と単刀直入に質問してきた。
 日本人の行動は福島の原発事故を契機に脱原発の道を選択したドイツ人からみれば理解し難いのだろう。(この記事を書いている時点で、ドイツのメルケル首相が現地でのインタビューで「福島の現状を考えると、ドイツで原発全廃という私の政策決定は間違っていない」と述べている。)

 京大原子炉研の小出裕章さんが最近の生協広報誌インタビューで、ドイツでは「原発から生じる核のごみは無毒化する手段がなく、子々孫々にそれを押し付ける以外にない。それは倫理的に正しくない」と考えているからで、日本では「電気が欲しいから原子力も仕方がないという意見を受け入れて裏書きしているのは私たち自身だから、私たちが変わらなければならない。」と述べて、「倫理」というカネ以外の価値基準で暮らしを律する必要に言及している。
 
 話は少しそれるが、私から見てエシカルという視点で「いかがなものか?」が多いのが、我が国の首都・東京だ。
 2020年オリンピック誘致に躍起になっているが、福島原発事故の現状から都民だけでなく国民の関心をそらそうとしているとしか思えない。
 国会も深刻な福島の汚染水漏れ対策の審議を、開催都市を決めるオリンピック委員会総会以降に先送りして、東京へのマイナスイメージを抑えようとしている。
 都の郊外部小平市ではオリンピック誘致に呼応して大切な緑地をつぶして大きな道路建設も強行されようとしていたが、その是非を問うための住民投票が投票率が低すぎて成立しなかった。

 12月から都バスが都心部の繁華街と駅を結ぶ一部路線で終夜運行を始めるという新聞記事があった(8月31日付日経新聞)。「TOKYOに人・カネを呼ぶ」との見出しがついていて、繁華街の活性化効果があり外食業界などから経済効果を期待する声が大きいという。
 これまで以上に電気エネルギーに依存する方向に暮らしを誘導して、その先に猪瀬知事はどんな暮らしの豊かさを描くのか? 東京都民の電力生産を担って今回の原発事故に至っった福島の、流浪を余儀なくされている多くの福島県民にどう説明するのか?
 残念ながら私は東京に国の首都としての品格が感じられない。 都市として大きくなりすぎてしまった東京にもはやそんなことを求めること自体が無理なことなのだろうか。 巨大都市のイメージが絶滅恐竜に重なる。
 都市も企業も、いろんな組織もほどほどのサイズで良しとして、肥大化すべきではないということなのだろう。

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『お種戻し』

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 酷暑というにふさわしい暑さが続いている。
豪雨被害に遭った山陰側とは対照的に瀬戸内海側は半月以上も雨が降っていないので、放牧地の豚たちも泥浴び用ぬかるみが渇水状態だし、さすがに自然農の畑作物たちも心なしか元気が無い。
 それでも15日の夜、盆踊りから帰宅したら部屋を吹き抜ける風の感触が前夜までと違って爽やかだということに、ほろ酔いの身でも気づいた。
 翌16日の朝の放牧地ではほとんどアブが姿を消していた。たまに近寄ってきたアブも羽音からして元気が失せて動きが鈍い。季節の移ろいを実感できることになんだかホッとする。

 そんな16日は早々に農作業を切り上げて、神舞奉賛会長や自治会長、神舞を取り仕切る総代さんたちと大分県国東半島の東端にある石清水八幡伊美別宮に「お種戻し」のお参りに行ってきた。(画像:伊美別宮神殿)
 千年以上昔のこと京都石清水八幡宮の神官たちが乗った御座船が祝島沖で遭難しかかり、上陸した祝島で原住民に手厚くもてなされた返礼として、農耕の術を持っていなかった島人に神官たちは5種類(五穀)の種子とその栽培方法を伝授し、そのおかげで祝島では島民の生活が安定したという。
 祝島の住民たちは以降、周防灘をわたって豊後国伊美別宮にその年に収穫した五穀の種子を持参し(お種戻し)てお参りし、その感謝とこれからの豊作を祈願した。
 一方で伊美別宮側は祝島に豊作の神である大歳社を祀って数年おき(現在は4年ごと)に祝島に出向き豊作祈願の神楽を奉納してくれるようになった、という「神舞」故事に則って現在も続いているのだ。

 この「お種戻し(および神舞)」の故事は現在でもというか、むしろ現在だからこその強い示唆を私に与えてくれる。
 地域(集落)の暮らしの持続力の根源は「住んでいる人がそこで自分たちで作ったものを自分たちで食べる」ということだ。
「食料自治」と言ってよいかもしれない。そしてそれは集落単位だけでなく、道州制や国際的なTPPのレベルでも論議されるべきだと私は思う。
 種子は種子企業に依存せず、遺伝子組み換え種子やF1交雑種ではなく、土着性の強い在来品種で自家採集を繰り返す必要がある。
 煮炊きの燃料はもちろん地元の薪や炭を使うし、味つけの調味料の味噌や醤油も地域で作る技術をお年寄りから若者が受け継ぎ伝承していきたい。
 調理方法も煮炊きに限らず、発酵や天日乾燥、塩漬けなどによる保存食も地域食の豊かさを増してくれる。
 そしてこのような食事は「地産地消」とか「心土不二」といわれるように、そこに住む人々の心身の健康につながる。

 お盆前には10日間ほど福島県から、福島原発事故を逃れた子供たちや保護者10数人が保養で祝島に滞在していた。
 子供たちは汲みあげた井戸水が適度に冷たくそのまま飲んでも美味しいのが解ると、滞在期間中は自販機のペットボトル飲料を買うのを控えて、毎日何度も我が家の井戸水を汲みにきた。
 
 こいわい食堂がお手伝いして、ある日の夕食を全て子供たちの手による自炊にあてた。祝島産のお米をかまどで炊いた。 精米、井戸水を汲みあげての米とぎ、葉釜のセット、薪のセット、着火、火吹き竹での火吹き。
 放牧豚肉、放牧豚が再生した畑で育ったジャガイモなどの自然農野菜を使って豚汁も作った。もちろん味噌も島味噌だ。子供たちの真剣な表情がいまでもほほえましく思い出される。(画像:子供たちの自炊活動)
 食事をしながら保護者やボランティアの方々ともこのような食生活が脱原発につながっているのではないかと話し合った。

 食糧自治はエネルギー自治へ、福島の悲劇を二度と繰り返さない脱原発社会へ真っ直ぐにつながっている。 
 祝島にとって脱原発意識の原点は「お種戻し」かもしれない。

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『酷暑』

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 今年の夏はことさら不快な暑さに見舞われそうだ。
先日の参議院選挙で有権者は衆参ネジレ解消を選択した。
 確かに政策決定は迅速化して当面の政治はねじれ状態だったこれまでよりは時間的には効率化するだろうが、それはいわゆるコンビニ的な利便性で、政治の質的向上とはほとんど関係無いと私は思う。
 政治の質は政治家の質に基づき、政治家の質は有権者の質に完全に依拠するので、結局は我々国民一人ひとりの知性に帰結する。

 昨年末の衆議院選挙後に自民党が政権与党に復帰して既存原発再稼働が現実化すると、とたんに停電非常事態や節電の論議が、政治家からも電力会社からもマスコミ報道でも見事に聞こえてこなくなった。
 アベノミクスという曖昧模糊とした表現で経済成長を主張する安倍さんからは、知的冷静さではなく旧態然とした野暮ったさしか伝わってこない。

 今月上旬、梅雨明け直前にドイツ在住の日本人夫婦が祝島に訪ねてきてくれて、こいわい食堂で食事をしながら、練塀蔵で酒を飲みながら、ゆっくりと有意義で楽しい議論の時間を過ごすことができた。
 それというのもご主人はボンにある国連・気象変動枠組条約本部事務局にプログラムオフィサーとして勤務し、加盟各国から提出された年次報告書の審査を担当していて、その現状を聞かせてもらえたからだ。
 地球にとって人類の存在が過負担ではないかという視点や、人類の地球環境への影響度を適性な状態まで修正(低下)させるべきだという視点では一致するのだそうだが、その方法論になるとまとまりがつかなくなるらしい。

 世界中から多様な人種、価値観の職員が集まって気象変動という一つのテーマに取り組んでいるのだから意見や主張は当然ながら多様なのもやむを得ないが、そこのところは個人的に言わせてもらうとすでにはっきりしている。
 人の生活エネルギー総量を減らすことに尽きる。
生活エネルギーの代表格である電気でいえば、発電手段を原発から太陽光や風力などに代替するのはその場しのぎでしかなく、電気自体への依存度を下げるという暮らしの姿勢こそが不可欠なのだと思う。

 東京都庁では街の活性化のため地下鉄の終電時間延長や将来的には24時間運行も検討しているという。(日経新聞) 不夜城化することでますます電気エネルギーへの依存思考を強めていっている。 そういう都市像からは私にはクールさやスマートさが伝わってこない。

 猛暑を乗り切るには一番気温の上がる昼下がりの時間帯を寝て過ごすに限る。
戸口も窓も網戸にしてあるので、小さな離島ならではの適度な涼しさの海風が部屋のなかをわたっていく。屋外は30度以上あってもエアコンも扇風機も必要ない。
 原発電気はもとよりソーラー電気も使わないエネルギーフリーという後ろめたさの少なさが、昼寝をいっそう爽やかなものにしてくれる。
 この優しい涼しさはエアコンでは決して作れないし、なによりこの優しい涼しさを味わおうとするなら、昼夜窓や戸口を網戸のままにしておける地域社会の治安のよさが必須条件だ。

 畳に寝転がったまま見上げると、網戸をとおして白蓮木の艶やのある枝葉と青空が見える。
戸口の網戸下の日蔭にはそこが風の通り道だと分かっている犬のマキも私に付き合って昼寝している。庭の柿の木にとまっている蝉たちも昼下がりは鳴くのをやめて、私の眠りを深くしてくれる。
 放牧地の豚たちも泥浴びや昼寝だ。
みんなで昼寝というは結構クールでスマートなサマータイムなのではないだろうか。

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