氏本農園・祝島だより

万葉集に詠われ歴史豊かな自然あふれる、万葉浪漫の瀬戸内海「祝島」での暮らしを氏本農園からお伝えします

祝島だより

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『生きちょるよ』

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 今年もヒジキ獲りの時期がやってきて幾つかのヒジキ獲りチームが編成されている。 そして今年も私は「竹民(たけたみ)チーム」の非常勤メンバーに加えてもらっている。
 今年の竹民チームには、常勤メンバーとして若手Iターン組みの育くん、拓くんの「いく・たくコンビ」が加わり、民ちゃんも大張りきりだ。
 足場の悪い磯では濡れた重い生ヒジキ袋の運搬作業の力仕事はいく・たくコンビが担うことで、民ちゃんは刈り取りに専念できて身体の負担もずいぶんと軽くなったようだ。
 それでも肝心な釜炊きや箸を使っての異物の除去、袋詰めなど、経験がものを言う作業は、やはり民ちゃんやよっちゃんたち常連メンバーであるオバちゃんたちの担当だ。

 常連メンバーの最年長は民ちゃんの一番上のお姉さん、89歳のしだいさんで、みんなの食事の準備や片づけなど裏方的な仕事が多いが、立派な現役で不可欠な存在だ。
 しだいさんは自分でも無理をしないように、作業の合間には室内作業場の隅にあるコタツでよく昼寝をしている。
 そんな時に用事で作業場に入ったとき「起きちょる?」と聞くと、決まって「生きちょるよ」と返事が返ってくる。 

 こんなふうに生涯を通して居場所(役割)を作ってあげることのできる民ちゃんの優しさ、祝島という暮らしの優しさをしみじみと感じる。
 そして、先日あった京都での仏教者の集会に出席し、もう一人のゲスト雨宮処凛さんと司会者を交えたシンポジウムを思い出した。
 シンポジウムでは、ワーキング・プアーなど都会における貧困問題に積極的に取り組んでいる作家の雨宮さんは、原発問題とも通底する「差別」を指摘した。
(都会で使う電気を地方の原発で発電し、フクシマだったからあの程度の被害で済んだので、首都圏だったらどうなっていただろうか、などというのは差別的発想の典型だ。)
 そして「(全ての人々の)生存権は無条件で全面的に肯定されるべきだ」と強く訴えた。 
人々の生存権が等しく肯定される社会では差別は解消されるだろうし、非正規雇用の不当な労働環境も解消されるだろう。

 司会者が「雨宮さんの生存権の無条件全面肯定の意見について、氏本さんの立場ではどう考えますか?」と話を振ってきた。
 私は放牧豚を例にあげて「目に見えない土壌中の微生物や動植物までさまざまないのちに支えられてはじめて放牧豚は健康に育つので、放牧豚にとって不要で無駄ないのちなど一つも無い、というのは雨宮さんの主張に通じるのではないか」と応じた。
 本来はヒトの社会もそうであるはずなのに、ヒトと自然、ヒトとヒトがお互いに必要な存在だと感じられなくなっている現在の暮らしが危ういのだと思う。

 お天道さまが育て、薪で釜茹でし、天日と潮風で乾燥させた、典型的な脱原発エネルギーの干しヒジキは、ヒトと自然、ヒトとヒトのつながりが実感できる、雨宮さん的表現をするなら「生存権の全面肯定商品」ではないだろうか。
(画像はヒジキの釜茹でと天日干し作業)

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 寒いなりに穏やかな松の内が続いていて、放牧地のブーやモーたち、コッコ、それにマキも寛いだ様子でありがたい。
 私も農作業を早めに切り上げて昼間からゆっくりと本を読んで過ごしたりしているが、読んだ本で印象深かったのは、高木仁三郎さんの講演録「科学の原理と人間の原理」、池澤夏樹さんのエッセイ集「楽しい終末」の2冊。

 両者に共通するのは、1990年代前半の作品なのにまるで2011・3・11の東電福島原発事故を受けて記されたような先見的内容であること、
 原発という問題を単にヒトへの健康被害や環境汚染といった次元ではなく、人類が多様な動植物の一種として地球上でどういう暮らしをすべきか、ならば核〜原子力との関係はどうあるべきかという観点で、人類は核に手を出してはならないという根源的視点で持論を展開していることなどだ。
 20年前の著作が新作のように感じること自体が、この間我われが知的成長停止に陥って失われた20年だったということに他ならないし、経団連が愚痴る経済停滞、デフレ不況なる現象も、この半世紀原発推進一筋の企業経営者たちの知的成長停止、あえて言えば退化が最大の原因ではないのか。

 そんな閉塞感が充満するなかで迎えた2013年だが、過疎高齢化・限界集落といわれる祝島では明るい動きも出ている。
 昨年12月、祝島への若手移住者が主体になって、何でも屋グループ『祝島わっしょい』がスタートした。 主要業務は高齢者の御用聞きだが、その名のとおり島の暮らしに役立つことなら何でもやる。
 それは、御用聞き仕事で高齢者の多い島民をサポートしながら、一方で移住者たちが島民から持続性の高い暮らしのノウハウを伝授されることにもつながるのだ。
 なにより仕事をハローワークから回してもらうのではなく、仕事を自分たちで産み出し地産地消しようとする主体的な姿勢を評価したい。

 一昨年スタートした祝島自然エネルギー100%プロジェクトも、本質は祝島という離島の暮らしに必要なエネルギー全般の地産地消をめざすこと、という思いが個人的には強い。
だから私にとって「わっしょい」の発足はメガソーラーにも劣らないインパクトを感じるのだ。
 脱原発が起点になってはいるが、なにも電源を原発から太陽光や風力といった代替電源に転換するためだけのプロジェクトではないはずだ。 
 私からすれば、ツイッターなどでしばしば「2年もかけてソーラーパネルの設置が未だにたったの2箇所しかない」的なコメントを目にすると、そもそもその視点に対して、視野が限定的なところや時間的なせっかちさに都会的で刹那的な生活観の臭いを感じてしまう。

 島民にとっては30年続けているデモ、親子3世代かけて築く石垣棚田、千年続けてきた神舞神事といった時間的感覚が暮らしの中に現在も息づいている。
 決して平坦ではなかっただろうなかで千年かけて築いてきた島の暮らしは、また千年かけて試行錯誤しながら一年一年積み重ねて行けばよい。
 そのくらい波長の長い時間軸が祝島の暮らしには似合っていると思う。

『懐かしい未来へ』

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 今年が閉じようとしているのに、年の最後を締めくくるこの度の衆議院選挙結果によって、個人的には何とも後味の悪い一年になってしまった。
この衆院選結果も我われ有権者の選択の結果なので、誰のせいにする訳にもいかないのだと思えば、余計に後味の悪さが尾を引く。
 まるで、食材の栽培から調理まで一つひとつ手作りした安心で美味しいこいわい食堂の料理のお品書きの最後に、自販機から買ってきた人工甘味料の清涼飲料を記載するようなものだ。

 その後味の悪さを少しでも紛らわし自分の手で新年を招き入れたいと、太佳ちゃんや息子を誘って今年も我が家やこいわい食堂などのしめ縄作りをした。
 指導役は名田(みょうでん)さん、93歳のおばあちゃんだ。 彼女は立派な現役で、日頃から畑仕事のかたわら古布を利用したいろどりも若々しい室内用草鞋(画像はその草鞋としめ縄)なども作ってくれ、訪中の際のお土産などに重宝している。
 みんなで名田さんと一緒にしめ縄作りをしながら、老若男女合い交えて新年を迎えるための作業ができるような暮らしを何としても続けていきたい、と強く思った。
 それは郷愁でも感傷でもなく、3・11福島原発事故を受けた我われが目指すべき社会「懐かしい未来」のワンシーンなのだ。

 高齢者が望むかぎり現役でいられる社会、その高齢者から引き継ぐ知恵や技を太佳ちゃんや息子たちが活かして、衣食住に必要なモノは買うのではなく、できるだけ自分たちの手で作る自給度の高い暮らしこそエネルギー100%自給社会の姿であり、目指すべき未来なのではないだろうか。
 そのような未来は、これから新たに開発する科学技術がなければ到達できないものではなく、これまでの先人たちの自然への畏敬〜自然生態系や生物多様性の意識に裏打ちされた経験や知恵といった既知の集積をもとにした、時間軸でも先人たちと確実につながっているという実感において「懐かしい」のだ。

 一部の学者や企業家、役人は未だに数値的増加しか「成長」と認められない呪縛意識から抜け出せずにいて、成長のためにはTPP参加が不可欠だなどと叫んでいる。
 それに、どんなに精度の高い科学的技術も、その信頼性は技術そのものではなくその技術を使うヒト側の資質に決定的に制約されることを認めたがらない。
 彼らは「成熟」こそが究極の成長だと理解する知性と勇気を欠いている。 ここ数日の安倍総理や関係閣僚による原発新増設復活への言及はその典型例だ。 彼らにこそ意識的成長〜成熟が必要なのだ。

 新年が「懐かしい未来」への一歩となることを願って、大晦日の除夜の鐘をつきたい。

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一般には馴染みはないだろうが獣医畜産新報(JVM)という専門誌がある。
今年になってその本の表紙写真を祝島在住のカメラマン、佐野高太郎さんが担当していて、氏本農園の動物や島ネコを順次紹介してくれている。

vol.6 せっせと卵を産んでいた頃のトサカの色が鮮やかなコッコ(今の時節は卵を産まず悠々自適に暮らしている)
vol.7 ブーのための残飯をしばしば横取りしながらしらばっくれている島ニャンコ
vol.8 ミカンを差し入れしてもらって満足気なブー(食べ物ならゴーヤ以外はなんでも喜ぶ)
vol.9 専用送迎車?に乗って農作業に向かう、気合いの入った牧用犬のマキ

 祝島という小さなコミュニティに暮らしているからこそ、ヒトも家畜も野良ネコさえもが、一把ひとからげではなく個として目を向けられ個として扱われ、このように取り上げてもらえる。

 政府が原発ゼロのエネルギー戦略を公表してから、経済界からの反発はすさまじいものがある。 
それに便乗して既存原発や関連核施設の立地自治体からも見直し・再稼働の声が高まっている。
 経済界を代表する経営者たちが、原発を復活しないなら安いコスト環境を求めて海外に生産拠点を求めざるを得ないなど言うのは、ほとんど聞くに堪えず情けない。
 企業の利益確保という海外移転の理由は、移転先の国や国民を安い労賃や電力を供給する役割、生産された商品を売りつける相手としか見ていない「搾取」の視点だ。
 最近の中国各地での残念なデモ騒動の伏線にはそんな日本企業の姿勢への反発があると私は考えている。

 企業の移転による地域空洞化や原発休止による税収減少を恐れる地方自治体側も、そんな企業の主張に同調して、地域の住民は賃金カットや非正規雇用の拡大で不幸感を増幅させている。
 市町村合併などで財政の帳尻を合わせ、自治体の住民を見る視点は、個ではなく群れ・集団で、個への敬意や優しさがどんどん欠落してきている。
 それは海外移転を口走る大手企業の従業員への視点と驚くほど重なってくる。

 大き過ぎて、個を大切にできない社会、個を集合体の群れでしか語れない社会は冷たく不気味でしかない。
 フェイスブックなどITツールは、そんな大きな社会を少しでもカバーして個とそのつながりを回復させようとしているのだろうが、それも何だか寂しい。
 グローバル化によるバーチャルな世界の拡大ではなく、五感でつながる規模の暮らしへの回帰という発想転換が今こそ必要なのではないだろうかと思う。

『妨害予防権』

 2030年代に原発稼働ゼロを目指すとした新エネ・環境戦略の14日政府発表を受けて、案の定、早速に経済界や日経新聞など一部のマスコミから批判や反発の大合唱が起きている。
 しかしそれら反対理由の多くは、少なくとも一庶民にすぎない私にとって合点のいかないものが多いし、苦笑したくなる幼稚なすり替え論も少なくない。

 彼らの論調の基本は、天下国家や経済を考えるのは彼らの役目であって、そんな大局観を庶民は到底持ち合わせていないのだという、上から目線の視点だ。
 そして、経済が立ち行かなくなって困るのはあなたたち庶民だよ、という脅し文句を随所にチラつかせる。
 使用済み核燃料をどうするかという根本問題を詰めないままの原発ゼロは矛盾であり無責任だとの発言もある。それを言うなら、その根本問題を先送りにして強引に原発建設を進め、問題が表面化すればカネでその場を繕って、ついには東電福島原発事故に至った過去の長い自民党政権と経済界の方がよほど無責任で罪深い。

 さらには海外からの意見として都合のよい原発ゼロに反対の立場から発言させて、国内の原発推進側を後押しさせている。
 たとえば米国元国防副長官は、日経新聞への寄稿で「日本がパワフルでモダンな社会を維持するためには、1日1年を通して100%頼れるエネルギーが必要で原子力は不可欠だ」と言いきっている。
 私は国粋主義者ではないが、他国民から日本の社会がパワフルでモダンであるべきだなど助言を受ける必要を全く感じないし、何よりそのパワフルでモダンな社会の典型事例である米国が、その一つの結果として9・11同時多発テロを誘発させているではないか。

 どの論調も、いまだに流浪を余儀なくされている東電福島原発事故の被災者を納得させるものではなく、ないがしろにするものでしかない。 幾多の動植物の命を育んできた豊穣の大地や海を人間の手で不毛にしてしまったことへの反省のカケラも感じられず、むしろそんな感情論に浸っている場合ではないという冷酷な開き直りを感じる。

 これに先立つ9月4日に最高裁小法廷で、上関原発建設のための田の浦湾埋立て作業を巡って、埋立て免許を受けた中国電力側が、阻止しようとした祝島漁民などの行為を作業妨害であるとして処分(妨害禁止)を求めた申立てを認める決定をしたことが報じられた。
 その根拠として埋立て免許を受けた事業者側の「妨害予防権」という権利を初めて示したとも報じられた。
 最高裁における最終判断なので今後同様の訴訟で、免許を受けた事業者(企業)に圧倒的に有利な判例となる、というのは法律に素人の私にも見当がつく。

 上関原発に反対する島民たちはこれまで「島民の会」を中心に、非暴力・非抵抗で阻止行動をしてきたが、この論理を事業者側である企業が振り回せば、工事に反対する住民などの現地での阻止行動は「妨害予防権」のもとでやみくもに訴えられ、住民側が敗訴してしまうのだ。
 これまでもスラップ訴訟(企業が資金力にモノを言わせて、企業の活動に批判的な一般住民を被告として訴え、裁判の高額な費用負担や損害賠償で恫喝する訴訟行為)が批判されてきたが、さらにスラップを助長する、住民側からみて極めて反民主的、不公正な判決といわざるをえない。

 もし、次の国政選挙で政権が交代し、民主党政権の「原発ゼロ社会を目指す新エネ・環境戦略」が反故にされ、原発新増設も復活したなら、これまでのように我われ住民が現地で上関原発建設を阻止する手だては、今度こそ全く無くなってしまう。
 このようにして、原発利権に固執する側は様々な手を打って、虎視眈々と復活を期していると思えば、私はとても今回の新エネ・環境戦略の公表で浮かれる気分にはなれない。


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