氏本農園・祝島だより

万葉集に詠われ歴史豊かな自然あふれる、万葉浪漫の瀬戸内海「祝島」での暮らしを氏本農園からお伝えします

祝島だより

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『理想の食卓』

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 新年最初なのに、去年の話もどうかと思ったのだが、自分なりに新年にふさわしい建設的な話題だと思って書くことにした。

 暮も押しつまった先週、こいわい食堂は年末年始の冬休みに入り、太佳ちゃんは実家に帰省するということで、私と太佳ちゃん二人の共同CEO(最高経営責任者)で、反省会を兼ねてささやかな2011年最後の晩餐を催した。
 
 料理は「お互いに持ち寄り」という申し合わせで、こいわい食堂側は冷蔵庫の中の在庫整理を兼ねていたと思う。
料理は結果的に次のようになって(画像は食べている途中のもの)いた。 こいわい食堂のしきたりにならって、それぞれ持ち込んだ者から料理の説明をした。 
(1) かまどで炊いたご飯:ハヤシさんの減農薬米
(2) 一本釣りのヤズ(はまちの現地名・天然物)をごま油と天然塩で軽く下味つけした刺身と、オリーブオイルと天然塩でカルパッチョ風刺身の2皿:一本釣り漁師ショウモトさんの差しいれ
(3) 天然小アジの一夜干しの焼き魚: 波止場で釣ったゴイ兄(ニィ)の差しいれ
(4) 祝島放牧豚のスモークベーコン:有機塩コショウだけで味付けした氏本農園の手作り
(5) 無農薬大根(おろし・和え物)と大根葉(おひたし):タミチャンの自家菜園から抜いてきた 
(6) 小松菜サラダ風:隣のヤマサキさん(タミチャンの姉さん)の差しいれ
(7) トマト:豚が出て行った放牧地に勝手にそだった、いわば豚による自然農モノで冬でも実っている(画像参照)
(8) 橙(だいだい):半野生化した無農薬ものを採集、風味付け用
(9) ワイン:いつもは近隣の純米地酒、ワイン通のある方からの差しいれで、今回限りの特別出品
 
 食べながら、食材や調理方法、調味料、食器などについても二人で以下のような話をした。
調理に要した燃料は、かまどの薪以外は小アジを焼いた我が家のガスだったが、こいわい食堂のかまどのオキ(活炭)で焼けば化石燃料を使用しなくてすんだ。(同じ敷地内で連携不足!)。
 使用した調味料は、オリーブオイル以外は全て国産原料を国内で商品化したものだった。 醤油や天然塩など古い製法のものは、手間はかかっているが化石燃料や電気の依存度は相対的に低く、余計な副原料も少ない場合が多い。 商品を意識して選択して買うことも日常の大切な「投票」行動だ。 そんな地味な日常行動が脱原発につながっている。 オリーブも祝島に生えているのでそのうちオイルも搾ったらどうだろうか。
 お箸は島内に自生する孟宗竹を漁師のノブヤンが漁の合間に削って作ったものだし、食器類もこいわい食堂開業の際に島内から集まったリサイクル品だが、これで十分だ。
 飲み物は貰い物の輸入ワインではなく、地酒とか枇杷の葉茶であれば完璧な地産地消だったのだろうが、食卓に少しは遊びや崩しも必要かもしれない。 レヴィ・ストロースは「人類にとって食べ物は口や身体にだけでなく、意見にも合うもの」と言ってはいるが、意見に重心をかけ過ぎても楽しさが減ってしまうだろう。

 そんな話の延長で、この食卓の特徴を二人で真面目にまとめてみた。
(1) 一人称で語れる(自分で作った、作業を手伝った、直接もらった)島内産の食材ばかり(ワインは除き)だ。 お店で買っていないのでお金が動いていない。 
(2) 島内の食物連鎖なので短かく(小さく)、人も含めてどんな動植物が関わっているか解りやすい。 フードマイレージ(運搬距離:距離が長いほど輸送燃料がかかり環境負荷を大きい)が極めて短いので、運送や加工に必要な大量のエネルギー(化石燃料や原発電気)を必要としないで済む。
(3) 隠れたコスト〜農業主体の開発途上国の幼児労働、環境破壊、大規模工業的畜産の家畜ストレス、深刻な病害虫や伝染病など社会リスク〜への後ろめたさがない、言い換えれば誰にも借りがない食材ばかりだ。
(4) このような食卓は祝島の特殊性ではなく、限界集落といわれるどこにでもある農山漁村に共通する、かつて日本のどこでも一般的だった家庭の食卓ではないか。
(5) いっしょに食べる人がいると話がはずむ。 やはり食卓は家族や気のあった仲間で楽しく囲むにかぎる。 個食は避けたい。

 こういう食卓なら、「いただきます」、「ごちそうさま」と感謝の思いを伝える相手が明確に意識できるようになるだろう。
 その相手とは、人間に食材として命をささげてくれた当の動植物だけでなく、その動植物の生活を食物連鎖の形で支えてきた自然生態系の無数の生きものたち、その生きものたちの活動に無害・無償のエネルギーを惜しみなく注いでくれる「お天道さま」にほかならない。

 こんな地産地消の食卓こそが、私にとってもこいわい食堂(=小女将の太佳ちゃん)にとっても理想だというのが、あらためて明確になった。

 TPP(環太平洋経済連携協定)に象徴される市場経済のグローバル化は、とりわけ食の分野では、共通の基準による無個性な食卓(ファストフード化)や個食を助長する方向にしか作用せず、各国の地域性や多様性を淘汰しこそすれ育てはしない。
「いただきます」を言う相手をイメージするのも難しくなるばかりだ。 食に関わる一人として、私がTPPに強い懸念を抱く理由だ。

 2012年は、お互いによりいっそう地産地消の「理想の食事」をめざして頑張ろう、ということで宴をお開きにした。 具体的な努力目標が見えて新年を迎えられるというのは幸せなことだ。

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 私にとって重たい一年、2011年がもうすぐ閉じようとしているが、心のなかにはその重たさが澱(おり)のように溜まったままだ。 その澱の中身は東電福島原発事故の終息が見えてこないことに象徴される閉塞感だ。
 あくまでも個人的だが、その閉塞感の背景には、あれほどの原発事故を被りながら社会生活の基本的枠組み〜パラダイムを変えようとする動きがあまり感じられないことにあると思っている。

 国政の場でも地方政治の場でも、もちろんその政治家を選ぶ立場のわれわれ有権者も、旧態然とした保守派(右派)と革新派(左派)という立場の延長から脱却できないなかでの論議だから、的を射てないというか隔靴掻痒というか、いたずらに時間やエネルギーを浪費しているように思えてならない。

 私たちがパラダイム・シフトすべきはまずその論議の立ち位置ではないかと思うのだ。
これからは「ローカリスト(地域主義者)」か「グローバリスト(地球主義者)」かという視点で論議したほうがより深堀できて納得がいくのではないだろうか。
 大都市と地方農山漁村、ファストフードとスローフード、大規模集中型発電(原発)と小規模分散型発電(自然エネルギー)、TPP(環太平洋経済連携協定)参加の是と非にしてもしかりだ。

 この12月は初頭から、気温こそマイナス10度前後だが通常は積雪がほとんどない中国内陸部の寧夏回族自治区で、想定外の積雪に足止めされたこともあって二週間にわたる長逗留となってしまった。 それを見越していたわけではなく白酒(バイチュ)を飲みすぎないようにと、読みたい本や雑誌をなぜか多めに持参していてじっくりと読むことができた。

 その雑誌のひとつに東日本大震災・原発事故の復興に関する実践的研究者4氏の対談記事があって、その中に印象的なフレイズがいくつかあった。
 曰く「この震災は日本社会が抱えていた構造的な問題を先鋭化させた」、「自分たちが築いてきた文明が自分たちの社会を破壊した」、「効率性、合理性を求めて中央集権化した東京中心のシステムが崩れて都市型社会はマヒしたが、孤立した小さな寒村では備蓄の食糧を持ち寄り薪を燃料にして当たり前のように生きていた」、「拡大成長路線のグローバル化の先にローカル化があって、地域の多様性が前面に出る方向に向うだろう」などなど。

 寧夏回族自治区の州都、銀川市の小さな公園は、夏に訪れたときには市民が木陰で胡弓の練習をしたりしていたが、今回はひっそりと冬眠しているかのようだった。
 銀川市から400km南下した標高1500mの黄土高原の農村でも、夏のトウモロコシの段々畑がすっかり黄土色の単調な景色に変わっていたが、黄土煉瓦の農家では農耕の春を待って人々も牛たちも淡々と暮らしていた。

 中国の急速に工業化・都市化する社会のなかで、この村が日本における東北の寒村や祝島に重なって見えた。
 人類の文明が開花して以降の長い期間を先進的立場にいる中国には、このような農村を人の住めない死の大地にしてしまうような日本の轍を踏まないよう願うばかりだ。

 今年も一年間このブログにお付き合いくださってありがとうございました。
皆さまにとって2012年が希望に満ちた良い新年でありますようお祈りいたします。

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 こいわい食堂がこの24日で無事(いまのところ)一周年を迎えるにあたって、小女将・太佳ちゃんはこの間物心両面で応援してくださった島内の方々にお礼をしたいという。
 相談の結果、お礼の手紙にそえてブーたちが再生した耕作放棄地に無農薬・無化肥で栽培した甘藷(さつまいも)をかまどで石焼き芋にして、島内全戸に配ろうという壮大な(?)感謝プロジェクトになった。

 小春日和だった昨日その感謝プロジェクト用の甘藷掘りをした。 我が家のブーたちのように16匹兄弟とまでいかないが、平均的に5〜6個の焼き芋に適した大きさの子いもがぶら下がっていた。
 ブーたちの化石燃料に頼らない鼻耕(整地兼畝作りだけは耕運機使用)と、土壌微生物も含めた自然のエネルギー循環、それらを支えている太陽光エネルギー、まさにお天道さまの恵みの子いもたちだ。化学肥料を使えばもっと子いもの数が増え大きくもなるのだろうが、これで十分な出来ではないかと思う。 

 この対極にあるのが工業的といわれる農業で、その典型が米国における加工原料用トウモロコシ(2級フィールドコーン)だ。
 このトウモロコシ生産は大型農業機械と大量の化石燃料、遺伝子組換え種子、除草剤(農薬)、流通を支えるこれまた輸送機関の化石燃料や加工を支える大量の電気エネルギーなしでは成り立たない農業の代表だ。 
 工業的な農業とは、いろいろなエネルギーを総動員して工業的な「効率」を追求する農業のことだ。工業的な効率性は同じことを何度も繰り返す単純化によって高まり、規模が大きくなることで増す。
 それに対して、有機農業に代表される本来の(!)農業での効率は、土壌中の微生物から豚や牛などの家畜、雑木林の木に至る生物多様性に基づく複雑性や相互依存性が生みだしたもので、同じ効率でも「工業的効率」の対極にあるものだ。

 このトウモロコシを使った商品はわれわれ日本人の生活にも深く静に食い込んでいる。 ある農水大臣が「日本の知財」と言った霜降り和牛肉も黒豚肉も国産鶏肉も、飼料の大半を占めている輸入のトウモロコシが形を変えたものだ。 
 大手酒造メーカーの日本酒にも、お刺身を食べるときの大手食品メーカーの醤油や、チューブ入り生わさびにさえもコーン油や増粘多糖類として入り込んでいる。
 ファストフードの店は加工トウモロコシなしでは1店も存在できない。 それはほとんどの製品に加工トウモロコシ由来の原料が使われていると同時に、その安さを支えているからだ。
 加工トウモロコシから直接、間接に作られた安い食品には高いコストが隠されている。 土壌の劣化、環境汚染、食物感染や肥満、大量の電気使用(その先に原発事故が潜んでいる)などなど。

 実は米国の加工原料用トウモロコシ生産者のほとんどは米国政府の補助金無しでは経営が成り立っていない。
 加工用トウモロコシ生産・流通を牛耳っているのは、一握りの遺伝子組換え種子企業、農薬・化学肥料企業、流通企業のいわゆる米国トウモロコシ村だ。
 もちろん加工用トウモロコシは米国にとって世界(の食料)を牛耳る最強な輸出品目なので、膨大な補助金(税金)を使ってでも米国政府はトウモロコシ村の主要村民として座っている。

 そのトウモロコシ輸出戦略〜米国産加工トウモロコシの傘に、これから需要増加が見込まれるアジアの人々を引き込もうとする動きがTPPに他ならない。

 食農雑誌の編集者をしている友人のTさんが「雑食動物のジレンマ(上・下)/マイケル・ポーラン著/東洋経済新報社」を送ってきてくれた。
 2年前に出版されたときから気になっていたのに、なかなか読む機会がなかった本だったので、さっそく読んだがすごく面白かった。(Tさんありがとう!) 
 著者は深い知性と洞察力で米国の抱えている食や農の課題を掘り下げながら、それらは米国に限らず経済先進国や開発途上国もふくめて普遍的で重要な課題だと教えてくれる。
 肥満人口の急増や医療制度の圧迫は工業的で大規模な農業の展開と密接に結びついていること、工業的な農業は人の健康だけでなく国土(環境)の健康まで蝕んでいることなど。
 そして著者は断言する。「農業とは大規模な運営には適応しない。それは農業が、生き、育ち、死んでいく動植物にかかわるものだからである。」

 私たち消費者は、買うか買わないかという投票行動で、自分と家族を守るのがいちばん確実な方法だ。
健気にも輸入トウモロコシに頼らない努力を続けているのは、決まって地域に根ざした中小零細企業が多いというのは示唆的だ。
 政府にTPP参加を迫る経団連傘下の大手企業には頼れない。 

『島の朝市、復活』

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 島の朝市が先週の土曜日に復活した。
 一昨年9月の上関原発建設予定地海域の埋め立てに使う灯埠標の搬入阻止行動以降、現場では予断を許さない緊迫した状況が続いて、やむなく中断していたものだ。

 今回の島の朝市が単なる再開ではないのは、この間祝島に移住してきた若手島人(候補生?)たちが準備や出店に積極的に関わってくれたことだ。
 これまでの朝市関係者を交えて、事前に移住者で集まって相談したことも、島内でのつながりを強めることに役立ったと思う。 朝市の話題だけでなくお互いのいろんな悩みや希望も話し合ったようだ。
 そして、過去の朝市には登場しなかった移住者による試作加工品もいくつか登場した。
 
 島の朝市の特徴は、定刻には始まらないことだ。 といっても開店が遅れるのではなく、早くなり過ぎるのだ。
 10時販売開始の2時間もまえ、会場設営の頃からすでに何人ものオバアちゃんが売り出しを待って集まってくる。
 それをみて常連のオバちゃん数人が「年寄りをあんまり待たせるもんじゃなぁで。早よう売っちゃりんさい!」と朝市運営委員の頭越しに指図して、毎度なしくずし的に朝市が開店してしまう。

 出店常連のタミちゃんはヒザを痛めて出店せず、弟子でこいわい食堂小女将(こかみ)太佳ちゃんは放牧豚が再生した水田跡地で育てた有機栽培のサツマイモで石焼イモを出したのだが、正直に正規開店時間の10時に合わせて焼いたものだから、焼イモを持ち込んだ頃には、他のブースはほとんど店じまいしており、「まだ祝島のことがようわかっちょらん」とタミちゃんからきつい指導が入った。

 ほとんどの出店商品が開店前に完売(氏本農園の放牧豚ミンチ肉、スライス肉もおかげさまで)したことからも、朝市の再開をみなさんが心待ちにしてくれていたのだろう。
 対面販売ではじめて顔見知りになった島民と移住者のあらたなつながりもできたはずだ。

 祝島に限らず朝市は地域に暮らす人々の生活の智恵が詰まっている。
朝市の活気は、地元の出来たてのものを作り手と買い手が直接に対面して売り買いでき、生の情報をやりとりし、みんなが自分の五感を動員できる充実感によるものからきていると思う。
 そのコミュニケーションが、とりわけ食材類では消費者の安心感の元となっている。
マスコミ報道をにぎわす食にまつわるいろいろな問題は、市場規模が巨大で複雑になり過ぎ、朝市の初心から乖離してきたことによるものだと思う。

 島の朝市は地域の自活・自立をめざす「自然エネルギー100%プロジェクト」でも大切な位置づけになるものだ。
 祝島では、このようにして移住者の若者たちの力を得ながら上関原発の呪縛からの脱却が、微速ではあるが具体的に一歩ずつ進んでいると思っている。

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 祝島への関心が高まっていることもあって、いろんな方々がネット上で祝島に言及している。
なかには祝島出身と思われる方などもブログで、祝島がこうあって欲しいとかこうなって欲しくないなどと踏み込んで書いている。
 Iターン者は来て欲しくないとか自然エネルギー100%プロジェクトは島民の意思ではなく島外からの押し付けだなど中傷の類にまで及んでいるものもあり、それが町長選挙中には対立候補側に山戸候補の揚げ足取りに利用されたりもした。

 私としては、どんなことを書こうが、書いた方々のウェブ上での表現の自由は尊重したいし、その表現の元となるそれぞれの考え方の多様性は受け入れようと思う。
 Iターン者の受入れや自然エネルギー100%プロジェクトが祝島が持続するために必要な変化を促す行動だということを、変化を望まない人に理解してもらうのが相当に難儀なことも分かっている。

 それでも敢えて、私が違和感を覚えるのは以下の理由だ。
 その一つは匿名性だ。 祝島在住という、すでにそれ自体特定される人々を、自分の側は住所も氏名も伏せて批判や意見するのはフェアではない。 自分の意見に責任が持てるなら堂々と実名でするべきだと思う。

 二つには、祝島に限らないがそこに暮らしていない人が暮らしている人を語るときには、自ずから節度のある表現であるべきと思っている。 
 私にとっては、たとえ祝島と縁もゆかりもないIターン者であっても、祝島という地域社会の一員になろうと飛び込んだ人たちは祝島の一員〜島びとだ。  祝島に住みたいけれど仕事がないという人もいるが、その人は現在の仕事と暮らしを優先していることに他ならない。
 Iターンの人たちは祝島の暮らし(ソーシャルスタイル)に自分たちを馴染ませるため、自分たちなりの生業を苦労しながら創り出そうとそれぞれ奮闘している。 自分に合う仕事がないから島に住めないというのではなく、島に住みたいからそのために仕事を生み出そうとしているのだ。
 その生き方はまさしく地域の暮らしの在りようとしてのスローフード思想に通じていると思う。

「生活と自治10月号/生活クラブ生協機関紙」で宮台真司氏(首都大学東京教授)は、個々のライフスタイルではなくソーシャルスタイルとしてのスローフード思想に言及していて示唆が多い。
 また既刊ではあるが、福岡新一氏の「生物と無生物の間(講談社新書2007)」に書かれている「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」や「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」などのフレイズは何度読み返しても新鮮だ。
 ダーウィンの言葉とされる「生き残れるのは強い個体でも賢い個体でもなく変化できた個体だ」に通じるものを感じる。

 これは個々の生命体に限ってのことではなく、その集合体である地域社会にも当てはまると考えたとき、極めて示唆的だ。 祝島という地域社会が持続するためには常に変化し続けなければならないということではないだろうか。

 私は匿名記事のエキセントリックな表現の背後に、書いた人が抱いている寂しさとか孤独さを感じてしまう。
 匿名の方々には仮想のウェブ社会で祝島を論じるより実存社会の祝島に渡って一緒に変化の手伝いをしないかと呼掛けたい。
(画像は再生した耕作放棄地に共同で野菜の苗立てをしたり、島のオバチャンに枇杷の茶葉採りの指導を受けるIターンの人たち〜それぞれに日よけの被り物が違う、この多様性!)


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