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緑に染まる−拾翠亭

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 京都市内大通りにはさまれた京都御所−堺町御門から砂利を踏みしめ西に戻ると目立たないほどに庵を隠すように小さな門がある。小道を通るとすぐにその庵らしき建物の玄関に突き当たった。落ち着いた初老の女性がすぐに対応してくれて、早速中に入ることができた。
 書院造、二層作り数奇屋風。屋根は、入母屋造で瓦葺で杮葺も混じっている。この敷地は、関白・摂政の任に就く資格のあった五摂家の一つ九条家の敷地であった。現在建物の敷地は40坪ほどだが、建物自体の敷地(庭を多く含む)は、3800坪ほどの広大な敷地だったといわれている。かつての建物は明治の初めにほとんど取り壊されたという。この建物自体は約二百年前ほどに建てられたという。
 建物の中では、南に位置する玄関から上がるとそこは控えの間となるその北隣が二層ある一層目の中でもっとも広い広間となる。控えの間は約7畳半、広間は約十畳。襖をはずしてあって、大広間となっていた。外見とちがってはいるとやや広めに感じるのは、前の縁が広く池に突き出しているからだ。広間は、東向きである。かつては、木立も低く東山を借景としていたという。また東向きにしたのは偶然でないことがこの広間に腰をおろすとよくわかる。快晴であれば陽光が高い木々の葉を掠めて、広縁の前に広がる勾玉の池をはじめ、その周りを彩る草木に柔らかに降り注ぐからだ。その名のとおり、広間に座って眼前に広がる庭を見ているだけで、緑に染まっていくような気持ちになる。広間の西側北よりに幅一間の床があり、炉が四畳半に区切られている。この庵とも言うべき建物はそもそも茶室であった。庭を望む茶事の立ち振る舞いが控えの間、広間、そして小間で行われていたことになる。深緑の茶を口元に寄せながら、音もなく鯉の泳ぐ勾玉の池を眺めて貴族たちは何を思っただろうか。
 拾翠亭の「翠」には、緑の美しいカワセミの意味もある。この緑広がる拾翠の庭にやってくるカワセミを見やり、勾玉のような緑の池を浮きつ沈みつする鯉を眺め、茶事を行う。「翠」を尽くした貴族の世界がここにはあるようだ。

古代京都を歩く其のニ

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 大分あけてしまいました。継続って本当に大事ですね。続けてブログをアップさせてる方には頭が下がります。
 さて、今回は前回の蚕ノ社に近い御室山稜の南に位置する周囲1キロほど、そして最高地点で110mしかない丘― 双ヶ丘です。
 双ヶ丘は、かの兼好法師が「徒然草」を執筆した所でも有名です。近くの長泉寺はその法師を偲んで建てられたものといわれています。
 双ヶ丘は、「つれづれの道」に沿って、中に入り、なだらかな道を登っていく事ができます。山道も足元が分かりやすく、歩く距離自体が大変短いので気楽に歩いていく事ができます。私は、今回、二の丘から入っていきました。ブナ・コナラ・ヒノキ様々な木々や植物がひしめき合って自生しています。歩いていくと、丘の中腹に土が盛り上がった場所が目立たない程度に点在します。そう、双ヶ丘は古墳そのものなのです。古墳時代は歴史が古く4・5世紀のものは、規模が大きく有名なのも多いですが、双ヶ丘の古墳は規模が小さく(特に二の丘附近のは)もう少し時代が後にいったものだと思われます。木立の隙間から御室の風景を眺める事ができます。遠くに見えるのは、比叡山。二の丘の山頂部文は、平らで、連なっている丘の一部なんだなと実感出来ました。ニの丘から、少し下ってから見慣れない草花を眺めながら、またしばらく登っていくとはっきりと視界が開けてきました。御室の北嶺です。一の丘の頂上は一番高く、仁和寺が眼下に見えます。頂上の足元には、横穴石室がありました。長さ14メートルもあり、広隆寺創健社秦氏のものであろうと伝えられています。双ヶ丘では、一番大きい古墳です。横穴式は古墳時代でも現代に一番近く、7世紀くらいのものではないかと思われます。須恵器や副葬品なども玄室から発見されたそうなので、埋葬されているものは有力者であったのは間違いなさそうです。私が登頂(?)する前にお弁当を拡げている家族がいました。仁和寺を前に御室山稜に囲まれて腰を下ろして眺めているのはなんとも京都の自然の頂上にいるようではありませんか。

    雙岡に 無常所設けて 傍らに 櫻を植さすとて 契りおく花と雙の岡の上に
    あはれ幾代の春を過ぐさむ

 無常の中に桜の永遠なるをこの「ならびのおか」に見ていた兼好法師、またその心もこの丘にならんでいたのでしょう。

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  皆様お久しぶりです。がんばってアップしていきます。今回は飛鳥時代以前の古代京都のスポットを

取り上げます。 今回は「蚕の社」です。場所は、右京区太秦、北に鳴滝、双が丘を控え、桂側の北東に

あたるところですが、電車だと嵐山線「蚕の社」から歩いていけます。住宅地の中にあり、分かりやすく

はないですが、鬱蒼とした緑の一帯がそれとすぐ知れ、根がはえたようにそこにあった神社の過ごしてき

た歴史の深さに圧倒されます。森が大部分を占め、大国玉主をはじめ四神を祀る延喜式(鳥居をくぐって

拝殿が一番奥にある)が小さく感じる。拝殿・舞台・元糾の池を一直線に結ぶ道を小高い古木の葉先が包

むようにして覆っている。

 「蚕の社」自体は、向かって右側の本殿の中にあり、直接目の前に行く事は出来なかった。小さな社で

あった。それもそのはず、あくまで「蚕の社」はこの森の木島神社の一部であるからだ。しかし、この

「蚕」こそ、この神社を永らくこの地に根付かせた要因であったものであったといってよい。

  古代、日本においてその革新的技術は大陸経由から来たものばかりであった。この洛北に居をはった

渡来人を秦氏という。渡来人は主に朝鮮半島から渡ってきた人たちが多いといわれている。当時の特に大

和政権高揚の下支えになる働きをした。養蚕技術をもって大量の絹を生産したのは他ならぬこの秦氏であ

った。(なにしろ日本の輸出物の中心は第二次世界大戦まで絹であったのだからその影響力は計り知れな

い)太秦の地名も秦氏が関係している。雄略天皇は四散していた秦氏を呼び集め、寵臣秦酒公として賜っ

た。その結果、この地の経済的仕切り役となり、大量の絹を生産した。その絹を秦氏は天皇に租税として

送った。天皇はこのうずたかく庭に積まれた絹を見て、秦酒公に「兎豆麻佐」という姓を賜ったという。

  この「蚕の社」では、絶えず湧き出たという「元糾の池」を左に奥まった拝殿を正面にそして池の中

に「見柱鳥居」を見て(キリスト教ネストリウス派の「三身一体説」が影響しているという一説もある

が、定かではない)なんとも歴史の深さと共に人々の信心の深さも思わずにはいられなかった。

天空の往生院 三鈷寺

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  みなさま、かなり遅ればせながらあけましておめでとうございます。

 今年は去年よりもう少し記事を載せたいと持っています。是非覗きに着ていただいて、コメントなども

 いただけると嬉しいです。

  さて、今年の初京都は年明けてからの1月3日〜5日の間、偶然なのか殆ど歩いてばかりの旅にな

りました。今回紹介するお寺も洛西西山の中腹にあり、善峯寺からの国道を降りて、また標識に従って

400mくらい山を登っていきます。これが意外に階段に高さがあって、一苦労でした。登りきったところ

に浄土宗西山派本山の「三鈷寺」がありました。かなりこじんまりしていて、妙心寺などのように様々な

お堂を回るという感じではありませんでした。拝観料を払おうとすると住職さん自ら出てきて、説明を

はじめてくれました。

   少し早口調の説明でしたが、印象には残っています。三鈷寺は、善峯寺創建の源算上人の草庵とし

て北尾往生院と号したのが始まりです。その後、4代目の法然上人門下の證空上人がここを念仏道場とし

て三鈷寺と改められました。そしてその名前の由来は仏具の三鈷に背景の山容が似ている事からなづけら

れたそうです。寺宝としては、抱止阿弥陀如来像・金身不動明王、十一面観音菩薩と平安期に作られた落

ち着いた表情の仏像があります。住職さんによると百人一首の成立に関わった蓮生が西山上人(證空上

人)と一緒に仏像の下に埋葬されていると教えてくれました。

    また三鈷寺の圧巻は、その高みから見渡せる京都展望景観です。しきりに「新幹線が走っていく

のがみえますやろ?」と教えてくれましたが、最後までわからずじまいでした。正面に優雅に悠久に広が

る東山三十六峰その稜線がなだらかで美しい。目を左に転じると北山に比叡山がある。「雪を被ってるん

んは珍しい事なんよ」と話をしてくれた。京都市外に御所は手が届くところにあるようであった。少し右

手には長岡京、もっと奥は奈良にまで続く盆地。「ここから長い間政情を眺めてきたんだよ」というお言

葉も納得できるものがある。なにしろ良く見える。住職さんは、「この景観を楽しんでいってください」

とお茶まで出してくれました。天空の隠れ寺ゆっくり京都の展望を楽しみたい人はまずは訪れるべし!で

す。 

慈愛の女性 順教尼

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 旅をしていて良かったと思う事は、普段目にする事のない自然の美しさに立ち止まる事ができたり、日

常知る由もない他人の人生を垣間見る事ができることです。どの時代も人は懸命に生きているものだと思

うのですが、それが見事に一つの短歌になって詠まれていました。

    
  何事も為せばなる てふ言の葉を 胸に刻みて 生きに来し我

      
  この短歌を目にしたのは、京都洛南の観修寺の塔頭佛光院前の説明の立て札でした。「なんとあけっ

ぴろげだけど、素直で真っ直ぐな力強い歌だ」とすっかり魅せられました。

  この短歌を詠んだのは、「大石順教尼」(明治21年〜昭和43年)本名大石よね、彼女は元大阪堀江の

芸妓であった。しかし、明治38年に義父中川萬次郎の狂乱5人の斬殺事件(堀江事件)に巻き込まれ、一

命は取り留められながらも、両腕を切断、まだ17歳の彼女の人生に大きな影を落とす事となった。一周忌

の法要を終えた翌年からよねは、口で書画をすることを思いつく、明治45年には日本画家の山口章平と結

婚をした。その後、2児をもうけ忙しい日常を過ごす一方、国文学を藤村僧正に指示したりと彼女の創作

活動が止まっているわけではなかった。創作を続け、ついに昭和30年には口筆による般若写経が日展に

入選した。その間の彼女は再度「堀江事件」で亡くなった人たちのために天徳院僧正を師として出家得度

している。また、戦時中は、陸軍の要請を受け、各地を慰問して歩き、身体障害者の福祉相談所をここ

(写真)に発足している。ここは後の佛光院である。

 その後は、東洋で初めて世界身体障害者として会員になり、昭和41年にはミュンヘンで個展も開き、

印象を強くした。しかしその波乱に満ちた人生は二年後の昭和43年終わりを告げた。

  
  何事も為せばなる てふ言の葉を 胸に刻みて 生きにきし我

  両腕を失いながらも、常に前に前に歩を進めてきた順教尼が「何事も為せばなる」(なんでもなんと

かすればなんとかなるものだ)という言葉を胸に抱いて生きてきたという事実は人間の人生そのものに

幸あれ!といってくれている気がして勇気をもらった歌でした。純粋に前をむいて生きるという姿勢を

貫いた順教尼に拍手を送りたいです。ちなみにこのお堂には彼女と同じくらいの背丈という観音像があり

ました。とても穏やかな表情で私を迎えてくれました。合掌です。

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