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上記の写真は、能舞台・伏見城の石垣と御香宮を紹介するのには、断片過ぎて物足りません。すみません。m−−m。御香宮神社は、近鉄線「桃山御陵」駅から、徒歩5分くらいのところにあり、京都駅からも大変行きやすい場所にあります。そんな分かりやすい場所にある御香宮神社は、これほどまでに歴史の足跡をたくさん残した場所もあるまいというくらい、時代の変遷の風に吹かれてきました。「御香宮」という名は、その名の通り湧き水が香っていたことから清和天皇が「御香」の命名されたことによります。862年という昔のことです。近世、秀吉が伏見城の鬼門として厄払いのため、御香宮を定め、以来多くの大名がかかわることになります。御香の水は、歴代徳川将軍の産湯となり、また庭、極彩色の拝殿・絵馬殿・弁天の社、伏見奉行など、決して広くないここの境内には様々な要素が絡み合って、色々見ているとなんだか笑いがこぼれてきます。
私が注目したのは表門を入ってすぐ左にある「伏見義民の碑」です。題字は三条実美公、碑文は勝海舟がとったとされる碑は勇気ある伏見人を静にたたえている。
安永8年(1779)伏見奉行となった小堀政方(まさみち)の悪政に堪りかね、町民7名がご法度の幕府への直訴を行い、伏見の町民を救ったものの、自らは悲惨な最期を遂げた。平安な生活に戻った伏見の町民は、この話を後世に伝えようと文殊九助没後100年の慰霊法要に際して、地元有志により顕彰碑が建立された。
「伏見義民」とは鍛冶屋の文殊九助、麹屋の麹屋伝兵衛、薪炭屋の柴屋伊兵衛、塩屋の伏見屋清左衛門、深草焼の焼塩屋権兵衛、百姓の丸屋九兵衛、材木屋の板屋市右衛門の7人で、他に町民200名余が協力していた。当事の伏見奉行小堀政方(まさみち)は、幕府の重臣・老中田沼意次の権威を背後に重ねて無法な御用金を町民に要求していた。この悪政に耐えかねて、伏見の代表として文明5年(1785)7月、文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛の3名は直訴に江戸へ出立。途中、伝兵衛は、過労死。残った九助と九兵衛の二人は、追ってきた伏見奉行の役人から逃れ、深川の陽岳寺(東京都江東区深川)に隠れ、和尚の庇護を受け直訴の機会を窺った。天明5年(1785)9月26日、下城途中の寺社奉行松平伯耆守の駕籠に向かって訴訟状を差し出した。当時、直訴は切り捨て御免であり、決死の覚悟であったことをは間違いない。が、思いは叶い、諸悪の根源小堀政方は罷免、領地没収となった。しかし、伏見では面子をつぶされた奉行役人が関係者を次々呼び出し、厳しい詮議を始めた。直訴に同行しなかった4人は厳罰に処され、獄中死した。文殊九助・丸屋九兵衛は松平伯耆守の温情で一旦伏見に戻っていたが、幕府は権威を保つため江戸送りとなり牢獄に。取り調べは長期に及び九助は獄死。残った九兵衛は、無罪を勝ち取るが力尽き亡くなった。この二人の遺体を引き取ったのは陽岳寺の和尚。先に亡くなっていた伝兵衛の遺体と一緒に丁重に陽岳寺境内に葬った。3人の墓は今も「伏見義民の墓」と刻して陽岳寺本堂の前にある。なお、幕府の最終判断は全員無罪であったが、直訴した7人全員はこの世にいない人となっていた。
責任追及をお祭りの如くにやる現代とは違い直訴は厳罰だった。死を覚悟しても、圧政の不条理さに反発を貫いた7人は、人間としての誇りを最後まで捨てなかった気高き人であると思う。いつの世も美しい物語を人間はつむぎだせるということを人は忘れないでほしい。
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