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			<title>京都の旅</title>
			<description>関西地方（特に京都）を旅した記録・写真が載っています。他の関西地方もアップされているので見てね！　また、思いついたままの「日々のつぶやき」にもコメントもお願いしますｍ－－ｍ= タイトル =</description>
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			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>京都の旅</title>
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			<description>関西地方（特に京都）を旅した記録・写真が載っています。他の関西地方もアップされているので見てね！　また、思いついたままの「日々のつぶやき」にもコメントもお願いしますｍ－－ｍ= タイトル =</description>
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			<title>緑に染まる－拾翠亭</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1475642/56/59803356/img_0?1255407667&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1475642/56/59803356/img_1?1255407667&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1475642/56/59803356/img_2?1255407667&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　京都市内大通りにはさまれた京都御所－堺町御門から砂利を踏みしめ西に戻ると目立たないほどに庵を隠すように小さな門がある。小道を通るとすぐにその庵らしき建物の玄関に突き当たった。落ち着いた初老の女性がすぐに対応してくれて、早速中に入ることができた。&lt;br /&gt;
　書院造、二層作り数奇屋風。屋根は、入母屋造で瓦葺で&amp;#26478;葺も混じっている。この敷地は、関白・摂政の任に就く資格のあった五摂家の一つ九条家の敷地であった。現在建物の敷地は40坪ほどだが、建物自体の敷地（庭を多く含む）は、3800坪ほどの広大な敷地だったといわれている。かつての建物は明治の初めにほとんど取り壊されたという。この建物自体は約二百年前ほどに建てられたという。&lt;br /&gt;
　建物の中では、南に位置する玄関から上がるとそこは控えの間となるその北隣が二層ある一層目の中でもっとも広い広間となる。控えの間は約7畳半、広間は約十畳。襖をはずしてあって、大広間となっていた。外見とちがってはいるとやや広めに感じるのは、前の縁が広く池に突き出しているからだ。広間は、東向きである。かつては、木立も低く東山を借景としていたという。また東向きにしたのは偶然でないことがこの広間に腰をおろすとよくわかる。快晴であれば陽光が高い木々の葉を掠めて、広縁の前に広がる勾玉の池をはじめ、その周りを彩る草木に柔らかに降り注ぐからだ。その名のとおり、広間に座って眼前に広がる庭を見ているだけで、緑に染まっていくような気持ちになる。広間の西側北よりに幅一間の床があり、炉が四畳半に区切られている。この庵とも言うべき建物はそもそも茶室であった。庭を望む茶事の立ち振る舞いが控えの間、広間、そして小間で行われていたことになる。深緑の茶を口元に寄せながら、音もなく鯉の泳ぐ勾玉の池を眺めて貴族たちは何を思っただろうか。&lt;br /&gt;
　拾翠亭の「翠」には、緑の美しいカワセミの意味もある。この緑広がる拾翠の庭にやってくるカワセミを見やり、勾玉のような緑の池を浮きつ沈みつする鯉を眺め、茶事を行う。「翠」を尽くした貴族の世界がここにはあるようだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fastball120/59803356.html</link>
			<pubDate>Tue, 13 Oct 2009 13:21:07 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>古代京都を歩く其のニ</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1496042/25/58959225/img_0?1243785375&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1496042/25/58959225/img_1?1243785375&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1496042/25/58959225/img_2?1243785375&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　大分あけてしまいました。継続って本当に大事ですね。続けてブログをアップさせてる方には頭が下がります。&lt;br /&gt;
　さて、今回は前回の蚕ノ社に近い御室山稜の南に位置する周囲1キロほど、そして最高地点で110ｍしかない丘―　双ヶ丘です。&lt;br /&gt;
　双ヶ丘は、かの兼好法師が「徒然草」を執筆した所でも有名です。近くの長泉寺はその法師を偲んで建てられたものといわれています。&lt;br /&gt;
　双ヶ丘は、「つれづれの道」に沿って、中に入り、なだらかな道を登っていく事ができます。山道も足元が分かりやすく、歩く距離自体が大変短いので気楽に歩いていく事ができます。私は、今回、二の丘から入っていきました。ブナ・コナラ・ヒノキ様々な木々や植物がひしめき合って自生しています。歩いていくと、丘の中腹に土が盛り上がった場所が目立たない程度に点在します。そう、双ヶ丘は古墳そのものなのです。古墳時代は歴史が古く4・5世紀のものは、規模が大きく有名なのも多いですが、双ヶ丘の古墳は規模が小さく（特に二の丘附近のは）もう少し時代が後にいったものだと思われます。木立の隙間から御室の風景を眺める事ができます。遠くに見えるのは、比叡山。二の丘の山頂部文は、平らで、連なっている丘の一部なんだなと実感出来ました。ニの丘から、少し下ってから見慣れない草花を眺めながら、またしばらく登っていくとはっきりと視界が開けてきました。御室の北嶺です。一の丘の頂上は一番高く、仁和寺が眼下に見えます。頂上の足元には、横穴石室がありました。長さ14メートルもあり、広隆寺創健社秦氏のものであろうと伝えられています。双ヶ丘では、一番大きい古墳です。横穴式は古墳時代でも現代に一番近く、7世紀くらいのものではないかと思われます。須恵器や副葬品なども玄室から発見されたそうなので、埋葬されているものは有力者であったのは間違いなさそうです。私が登頂（？）する前にお弁当を拡げている家族がいました。仁和寺を前に御室山稜に囲まれて腰を下ろして眺めているのはなんとも京都の自然の頂上にいるようではありませんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　雙岡に　無常所設けて　傍らに　櫻を植さすとて　契りおく花と雙の岡の上に&lt;br /&gt;
　　　　あはれ幾代の春を過ぐさむ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　無常の中に桜の永遠なるをこの「ならびのおか」に見ていた兼好法師、またその心もこの丘にならんでいたのでしょう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fastball120/58959225.html</link>
			<pubDate>Mon, 01 Jun 2009 00:56:15 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>古代京都を歩く（其の一）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1496042/55/58065655/img_0?1236480320&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　　皆様お久しぶりです。がんばってアップしていきます。今回は飛鳥時代以前の古代京都のスポットを&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
取り上げます。　今回は「蚕の社」です。場所は、右京区太秦、北に鳴滝、双が丘を控え、桂側の北東に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あたるところですが、電車だと嵐山線「蚕の社」から歩いていけます。住宅地の中にあり、分かりやすく&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はないですが、鬱蒼とした緑の一帯がそれとすぐ知れ、根がはえたようにそこにあった神社の過ごしてき&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
た歴史の深さに圧倒されます。森が大部分を占め、大国玉主をはじめ四神を祀る延喜式（鳥居をくぐって&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拝殿が一番奥にある）が小さく感じる。拝殿・舞台・元糾の池を一直線に結ぶ道を小高い古木の葉先が包&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
むようにして覆っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「蚕の社」自体は、向かって右側の本殿の中にあり、直接目の前に行く事は出来なかった。小さな社で&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あった。それもそのはず、あくまで「蚕の社」はこの森の木島神社の一部であるからだ。しかし、この&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「蚕」こそ、この神社を永らくこの地に根付かせた要因であったものであったといってよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　古代、日本においてその革新的技術は大陸経由から来たものばかりであった。この洛北に居をはった&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渡来人を秦氏という。渡来人は主に朝鮮半島から渡ってきた人たちが多いといわれている。当時の特に大&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和政権高揚の下支えになる働きをした。養蚕技術をもって大量の絹を生産したのは他ならぬこの秦氏であ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
った。（なにしろ日本の輸出物の中心は第二次世界大戦まで絹であったのだからその影響力は計り知れな&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
い）太秦の地名も秦氏が関係している。雄略天皇は四散していた秦氏を呼び集め、寵臣秦酒公として賜っ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
た。その結果、この地の経済的仕切り役となり、大量の絹を生産した。その絹を秦氏は天皇に租税として&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
送った。天皇はこのうずたかく庭に積まれた絹を見て、秦酒公に「兎豆麻佐」という姓を賜ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　この「蚕の社」では、絶えず湧き出たという「元糾の池」を左に奥まった拝殿を正面にそして池の中&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
に「見柱鳥居」を見て（キリスト教ネストリウス派の「三身一体説」が影響しているという一説もある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
が、定かではない）なんとも歴史の深さと共に人々の信心の深さも思わずにはいられなかった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fastball120/58065655.html</link>
			<pubDate>Sun, 08 Mar 2009 11:45:20 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>天空の往生院　三鈷寺</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1496042/22/57615022/img_0?1233277568&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1496042/22/57615022/img_1?1233277568&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　　みなさま、かなり遅ればせながらあけましておめでとうございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今年は去年よりもう少し記事を載せたいと持っています。是非覗きに着ていただいて、コメントなども&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　いただけると嬉しいです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　さて、今年の初京都は年明けてからの1月3日～5日の間、偶然なのか殆ど歩いてばかりの旅にな&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
りました。今回紹介するお寺も洛西西山の中腹にあり、善峯寺からの国道を降りて、また標識に従って&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
400ｍくらい山を登っていきます。これが意外に階段に高さがあって、一苦労でした。登りきったところ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
に浄土宗西山派本山の「三鈷寺」がありました。かなりこじんまりしていて、妙心寺などのように様々な&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お堂を回るという感じではありませんでした。拝観料を払おうとすると住職さん自ら出てきて、説明を&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめてくれました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　少し早口調の説明でしたが、印象には残っています。三鈷寺は、善峯寺創建の源算上人の草庵とし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
て北尾往生院と号したのが始まりです。その後、4代目の法然上人門下の證空上人がここを念仏道場とし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
て三鈷寺と改められました。そしてその名前の由来は仏具の三鈷に背景の山容が似ている事からなづけら&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
れたそうです。寺宝としては、抱止阿弥陀如来像・金身不動明王、十一面観音菩薩と平安期に作られた落&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ち着いた表情の仏像があります。住職さんによると百人一首の成立に関わった蓮生が西山上人（證空上&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人）と一緒に仏像の下に埋葬されていると教えてくれました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　また三鈷寺の圧巻は、その高みから見渡せる京都展望景観です。しきりに「新幹線が走っていく&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
のがみえますやろ？」と教えてくれましたが、最後までわからずじまいでした。正面に優雅に悠久に広が&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
る東山三十六峰その稜線がなだらかで美しい。目を左に転じると北山に比叡山がある。「雪を被ってるん&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
んは珍しい事なんよ」と話をしてくれた。京都市外に御所は手が届くところにあるようであった。少し右&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
手には長岡京、もっと奥は奈良にまで続く盆地。「ここから長い間政情を眺めてきたんだよ」というお言&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
葉も納得できるものがある。なにしろ良く見える。住職さんは、「この景観を楽しんでいってください」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とお茶まで出してくれました。天空の隠れ寺ゆっくり京都の展望を楽しみたい人はまずは訪れるべし！で&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
す。　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fastball120/57615022.html</link>
			<pubDate>Fri, 30 Jan 2009 10:06:08 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>慈愛の女性　順教尼</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1486816/26/57214326/img_0?1230453224&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　旅をしていて良かったと思う事は、普段目にする事のない自然の美しさに立ち止まる事ができたり、日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
常知る由もない他人の人生を垣間見る事ができることです。どの時代も人は懸命に生きているものだと思&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
うのですが、それが見事に一つの短歌になって詠まれていました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　&lt;br /&gt;
　　何事も為せばなる　てふ言の葉を　胸に刻みて　生きに来し我&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　&lt;br /&gt;
　　この短歌を目にしたのは、京都洛南の観修寺の塔頭佛光院前の説明の立て札でした。「なんとあけっ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ぴろげだけど、素直で真っ直ぐな力強い歌だ」とすっかり魅せられました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　この短歌を詠んだのは、「大石順教尼」（明治21年～昭和43年）本名大石よね、彼女は元大阪堀江の&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
芸妓であった。しかし、明治38年に義父中川萬次郎の狂乱5人の斬殺事件（堀江事件）に巻き込まれ、一&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
命は取り留められながらも、両腕を切断、まだ17歳の彼女の人生に大きな影を落とす事となった。一周忌&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の法要を終えた翌年からよねは、口で書画をすることを思いつく、明治45年には日本画家の山口章平と結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
婚をした。その後、２児をもうけ忙しい日常を過ごす一方、国文学を藤村僧正に指示したりと彼女の創作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
活動が止まっているわけではなかった。創作を続け、ついに昭和３０年には口筆による般若写経が日展に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入選した。その間の彼女は再度「堀江事件」で亡くなった人たちのために天徳院僧正を師として出家得度&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
している。また、戦時中は、陸軍の要請を受け、各地を慰問して歩き、身体障害者の福祉相談所をここ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（写真）に発足している。ここは後の佛光院である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その後は、東洋で初めて世界身体障害者として会員になり、昭和４１年にはミュンヘンで個展も開き、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
印象を強くした。しかしその波乱に満ちた人生は二年後の昭和４３年終わりを告げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　&lt;br /&gt;
　　何事も為せばなる　てふ言の葉を　胸に刻みて　生きにきし我&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　両腕を失いながらも、常に前に前に歩を進めてきた順教尼が「何事も為せばなる」（なんでもなんと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かすればなんとかなるものだ）という言葉を胸に抱いて生きてきたという事実は人間の人生そのものに&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幸あれ！といってくれている気がして勇気をもらった歌でした。純粋に前をむいて生きるという姿勢を&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貫いた順教尼に拍手を送りたいです。ちなみにこのお堂には彼女と同じくらいの背丈という観音像があり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ました。とても穏やかな表情で私を迎えてくれました。合掌です。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fastball120/57214326.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Dec 2008 17:33:44 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>皆様おひさしぶりです</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1466014/27/56826827/img_0?1227630764&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　　どうもご無沙汰してしまって、2ヶ月ブログを放置してしまいました。＋＋：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　最近、仕事の疲れからか体調を崩してまして、ダウンしていたところです。　しかし、年末まで休みが&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ないので気が抜けません。　みなさま、今は体調を崩しやすい時期なのでどうかご自愛くださいね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、京都ネタアップします。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fastball120/56826827.html</link>
			<pubDate>Wed, 26 Nov 2008 01:32:44 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>　神苑　平安神宮の奥庭</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1486816/49/56083149/img_0?1222586225&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1486816/49/56083149/img_1?1222586225&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1486816/49/56083149/img_2?1222586225&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　京都市の中心にその威を張るかのようにあるのは平安神宮。ここは、明治28年京都遷都1100という長い&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歴史を記念して造営された。御祭神は、桓武天皇彼は平城京から長岡京遷都を経て、794年に平安京に天&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遷都を決め、飢饉を防いだり、律令制度を細分して実用化するなど当時の政治を修めようとした天皇であ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
る。平安神宮には、京都での有終の座におわした孝明天皇をも御祭神として昭和15年合祀されました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　正面に緑深い東山を仰ぎ見て、平安神宮の庭園である「神苑」はその背にある。明治から昭和にかけて&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数々の庭園をてがけた小川治兵衛（植治）が精を尽くして造園した。一言、お薦めの庭園である。人の往&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
来の多い応天門とは打って変わって、静かなる時が迎えてくれた。一歩踏み入れると、春には圧倒される&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であろう枝垂桜が目の前をさえぎるように並び立ち出迎えてくれた。左に進むと京都、いや日本で初とい&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
う電車の車両が一台草木に囲まれて置いてある。狭い歩道の脇には、数百とも思われる植物が、「古今和&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歌集」「源氏物語」「枕草子」など平安文学の中で詠まれたままにその歌が紹介され上品に点在してい&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　優雅な時間過ごせるのは池を中心とした西神苑・中神苑・東神苑である。西神苑の池端には、花菖蒲&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
が起立して、池の水面の光をその葉先が掠めていた。中神苑は、池一面を覆う睡蓮とその上を飛ぶ蜂に夏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の時の緩やかさを感じながら、池を渡る龍の背中とも呼べる臥龍石を踏み渡り改めて夏の池の美しさを堪&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
能することができた。なお臥龍石は豊臣秀吉が三条大橋の橋脚で使った素材と同じものであった。場所が&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全く違うので不思議な感じがした。東神苑は、遠く池の真ん中に鶴亀の石一組その姿を認めることが出来&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
る。なぜかこの一組の石とても仲がよさそうに見えるのであった。また東神苑には大正期に御所より移さ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
れた尚美と太平閣がこれ以上ない配置で落ち着いている。沈み行く夏の太陽の陽をいっぱいに浴びて泰平&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
閣は黄金に輝く遊覧船となった。警備の人が追い出しをかけても外国人の方が去ろうとしなかったのも分&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かる気がした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　平安神宮の神苑また静かに歩きたい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fastball120/56083149.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Sep 2008 16:17:05 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>真夏の池泉回遊庭園―渉成園</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1486816/65/55748965/img_5?1220286180&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1486816/65/55748965/img_6?1220286180&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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　　今年の夏、京都には盆近く訪問した。その頃西日本は、猛暑続きで気温35度以上の日が続いていた。風情がないといわれるかもしれないが、私は京都を回る時、地下鉄を使うことが多い、しかし今回は自転車で回ることにした。公共機関で見逃してしまっている街角の風景を堪能できると思ったのだ。結論から言うと、色んなところを見回るといった意味では京都の場合、地下鉄などの交通機関を利用したほうが時間的には節約できるかもしれないと思った。自転車は意外に境内に泊める場所がなく、私などはラーメン店の前に泊めたりして、撤去の難を逃れた。何しろ、自転車撤去を食らうと手数料なんだろうけど、1万円～2万円がかかるという。車のレッカーを想起させてしまう・・・&lt;br /&gt;
　　炎暑といっていい暑さの京都だったが、自転車は結構涼風を浴びれていいかもしれないと思った。自転車を泊めて歩くと汗が止まらなかった。ただ、私は酷暑といえるほどの暑さも受け入れられる。これが夏なのだから。&lt;br /&gt;
　　京都で一番最初に立ち寄った渉成園は、以前から気になっていた庭園である。帰りの新幹線に間に合うように帰りはタクシーで京都駅に向かうことが多いのだが、時にタクシーが河原町通りを南下すると右手にいつも木々に覆いかぶされた朽ちかけたような石垣を確認していた。いつも何だろうと思っていたので、今回行ってみることにしたのだ。&lt;br /&gt;
　　渉成園は、東本願寺の別邸で、1653年徳川将軍家光から現地を寄進され、宣如上人がそこを隠居の地と定めたのが起こりである。豊臣秀吉が保護していた西本願寺と方広寺を結ぶ線を断ち切るという意味で徳川家康が、秀吉の死後東本願寺を建立させたというのも面白いが、さらに渉成園がその線を重ねて断ち切っているところが徹底していると感じがさせられる。&lt;br /&gt;
　　同庭園は、広さ1700坪もある印月地を中心に茶店・酒店・飯店を初めとする茶席や印月池を渡る橋や石仏を置くための石幢・藤棚など四季を通じてその美しさを愛でることが出来る楽園のような庭園であった。&lt;br /&gt;
　　印月池とは少し切り離された格好で、二軒の書院がある。これを「臨池亭」という。池の奥には小さな滝があり、大人しく池に注ぎこんでいる。その滝に向かって軒を延ばすように佇んでいるのが「滴翠軒」、その長く伸びた軒先がなんとも優雅だ。印月池はもともと京都市内の高瀬川から引水をしていたが、近年水位が大分減ったため、琵琶湖から引水をしている。これを琵琶湖疏水というらしい。かの小滝の水も琵琶湖の水なのである。夏故に、池の水が干からびているといったことはなく、鯉が眠りに沈んで尚余りあるくらいに水量は豊かであった。蝉時雨を浴びながら歩を進めると小高い斜面にぶつかった。「丹楓渓」という場所だ。京都の山奥にある渓谷を思わせるのは、その楓の色なのだろう。秋はその葉が紅葉して、渓谷然としたたたずまいを見せるのに違いない。そこから、印月池全体を望むことが出来る。左奥には、回棹廊が藤棚を背にして池の端に掛かっている。それは、小さな橋で二人も通れば譲り合って渡る幅だった。渡りきるとそこは「印月池」の北島にあたる小高い丘があり、そこに建っているのが「縮遠亭」であるここは、「飯店」とも呼ばれ、その小高いところから右に「丹楓渓」そして左奥に「漱枕居」（酒店）を望んで、食を堪能したのに違いない。庵のような「縮遠亭」は、四坪ほどの「抹茶席」と三坪ほどの「上部席」があり、その間に板が敷いてある。その小さな丘の麓（？）あたる歩道には、「茶席」の水を引いていた「塩釜」や蕨手がなく簡素な石幢がある。「縮遠亭」から印月池を越えて正面を眺め見ると明治天皇が休息されたという「&amp;#38316;風亭」が泰然とある。能も鑑賞できるといった変わった造りの書院でやはりここからも印月池全体を見渡せる。その奥には、河原町通りからお入りになったのであろう大玄関、そして馬車をつける馬繋ぎがある。&lt;br /&gt;
　　夏の光が弾ける池泉回遊庭園の渉成園は、生気溢れる緑も眩しいくらいだった。「&amp;#38316;風亭」の前の芝生は、光をあびてむしろ白く光り、池の淵の奥に並び立つ木々は庭の影を作り出し、濃い緑だった。印月池に広がり咲く蓮は渉成園を毎年訪れる夏を喜び迎えているようで、水面に揺れる光の煌きと蓮の小島を眺めていると幸せな白昼夢に引きずり込まれていくようだった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fastball120/55748965.html</link>
			<pubDate>Tue, 02 Sep 2008 01:23:00 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>ロマンスの果ての門跡寺　勧修寺</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1486816/47/55383947/img_0?1217735134&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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　　　勧修寺は、京都府山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基（創立者）は、醍醐天皇、開山（初代住職）は承俊、本尊は千手観音。&lt;br /&gt;
　　昌泰年間の創立と伝えられる。加賀・山科・三河・備前に広大な寺領を抱え、紀伊の西国寺社の本山の存在でもあった。ところが寺社の運命はこの勧修寺にも例外なく当てはまった。応仁の乱・文明の兵火で寺のお堂の悉くは消失。さらに豊臣秀吉が伏見街道を広げるために寺領を削ったため、かなり荒廃した状態になったという。&lt;br /&gt;
　　復興は、江戸時代に入ってからしばらく天和2年1682年、霊元天皇皇子の済深法親王が29世長吏として入寺してからであった。法親王が東大寺大仏殿再建に功があったとして、寺領が加増された。現存する本堂、宸殿、書院等の伽藍は、霊元天皇、明正天皇などの旧殿を下賜されたものである。境内は、白い築地塀が長く前方に延びて、千年余の歴史を持つ勧修寺の堂々たる趣をまずかもし出している。歴代天皇から下賜された本堂、書院はやはり皇居内の建造物だけであって上品なたたずまいである。本堂を背に正面を見ると水戸光圀公から寄贈された背の低い灯篭がまず目に飛び込んでくる。左奥には池泉式の氷室の池がぐるりと大きく中島を囲んである。右には昭和創建の五大堂が池のたもとに静かにある。池の中島は大きく、巨大な古木が五大堂に負けないくらいの高さで風に揺れていた。&lt;br /&gt;
この優雅な雰囲気をもつ観修寺は、醍醐天皇が早く世を去った母、藤原胤子の追善のために創建したものだという。創建した醍醐天皇出生にはこんなエピソードがある。藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。ある時、鷹狩のため南山階に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘（列子）に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。その後、高藤と列子は長く会うこともなかったが、6年後、高藤はようやく列子と再会する。列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子であった。醍醐天皇は、叔父の宮道弥益の邸宅を寺に改めさせた。そうして勧修寺はできた。一夜限りのロマンスが生んだ寺なのである。まずは、人とのつながりがあるのが面白かった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fastball120/55383947.html</link>
			<pubDate>Sun, 03 Aug 2008 12:45:34 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>新撰組壬生屯所附近</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-d5-2b/fastball120/folder/1486816/39/54818239/img_0?1214105608&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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　　皆様元気でお過ごしでしょうか？　今回も壬生附近の新撰組ゆかりの場所を写真と共にご紹介いたし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　もともと壬生は「水の溢れる場所」という意味があり、京都壬生の他にも全国他に二箇所あるそう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
です。（一つは広島）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　1862年、文久2年松平主税介は労使組の募集の発議の責任者となった。（京都で暗躍する浪人の京都取締りの仕事）　それを策動したのは、羽州の浪士の清河八郎である。清河はその浪士組を京都守護のためと触れ回って募集しておいて、それを攘夷建白書を以ってそっくり倒幕の一勢力に仕立てようとした。まるで手品師というか相当に肝の据わった人物であると思われる。）清河の募集によって浪士組は&lt;br /&gt;
はるばる京都までやってきたが、もともとは清河の策であって、京都を守護する大掛かりな仕事などはっきりしていなかったので、浪士組みの大半は、京都についてからものの二十日あまりで京都をたち、江戸に帰った。しかし、帰らなかったのは近藤勇、沖田総司、土方歳三をはじめとする生え抜きのメンバーであった。彼らは、見回り組の佐々木只三郎に手配してもらい、守護職の仕事を与えられる。この時「松平肥後守預」となって「新撰組」が結成されたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　京都に腰を据えてから京都を撤退する1868年の5年間、新撰組は多くの仕事をすることになるが、西本願寺に移動してもなお、活動場所はやはりこの壬生周辺ということになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　近藤勇は、えくぼがあり、寡黙で「いい人」の印象があったという。好きな話題は、剣と槍。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
沖田総司は剣を振るえば、三段突きも一本に見せるほどの凄腕で重要局面では大きな仕事を果たしている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
が、壬生寺の近所の子供と遊ぶなど無邪気な一面もあったそうだが、新撰組としての彼らは実に厳しい戒&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
律のもとで行動していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　一、　士道ニ背キ間敷事&lt;br /&gt;
　　一、　局ヲ脱するヲ不許&lt;br /&gt;
　　一、　勝手ニ金策致不許&lt;br /&gt;
　　一、　勝手ニ訴訟取扱不許&lt;br /&gt;
　　一、　私の闘争ヲ不許可&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　という「局中法度書」があり、破れば一にも二にも切腹という厳罰であった。仲間内だからという枠&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
を超え、厳しい掟は厳守された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　そんな彼らが行動していた場所を紹介します。　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　／兩源　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　その境内では、練兵訓練がされていました。境内はそんなに大きくないので後に練兵場所を&lt;br /&gt;
　　　西本願寺に移しました。尚、ここには芹沢鴨のお墓があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　◆“木家&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　新撰組が京都に来た1863年、間借りした最初の場所、庭の灯篭等は当時以前のものでとても&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古いものだそうです。局長の芹沢はここで暗殺されました。ただ、内ゲバは聞こえが悪いので新撰組とし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
てはあくまで長州などの下手人にやられたということにして葬儀を開いたものですから、八木家の人は笑&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いをこらえて葬儀に出席したそうです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　前川邸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　現在ここは何かの製作所になっています。ただ近藤勇が筆書きしたものや池田屋事件の主犯&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　格古高俊太郎を尋問（厳しい取調べだったそうです）したり、切腹を行わせたのはここだったそうで&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　ぁ仝鏤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　生え抜きの山南敬助の墓があります。扉は閉まっていますが、お参りの方はどうぞととも取&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
れる掲示はあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　ここまで取り上げてなんですけれども私はどちかというと長州びいきです。でも、新時代に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
向かって皆士道を捨ててしまったこの時代に自らが命の中心に据えた道を決して裏切ることなく貫き通し&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
た彼らには心から敬服いたします。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fastball120/54818239.html</link>
			<pubDate>Sun, 22 Jun 2008 12:33:28 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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