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井のなかの蛙 大海を知らず

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南京事件「虐殺」の構造(増補版)/秦郁彦著  中公新書  940円

「南京虐殺事件」は、日本陸軍における最大の不祥事であり、日本の歴史の最大の汚点である


しかしながら、この事件は70年を経ているにもかかわらず、日中間の外交において極めて政治的に利用されてきた。中国は、30万人虐殺というありえない数字を掲げ、南京虐殺記念館なるものを建築し、中国国民へ反日教育を続けていることは、誠に遺憾きわまりない。中国側が感情的なナショナリズムを鼓舞すれば、日本でも保守派や右翼の中に、南京虐殺は「存在しなかった」などど、これまた不見識、非常識きわまりない暴論が出てくる始末だ。

歴史の真実は、何人もゆがめ、捏造することは許されない


この言葉に反論できる人はいないだろう。それならば、われわれは、まず真実を探求し、感情的なナショナリズムの色眼鏡を一旦外し、理性的に歴史的事実を認識しなくてはならない。

秦氏は、「南京事件論争史」の章において、様々な南京事件史観をその被虐殺者数によって「大虐殺派」「中間派」「まぼろし派」の三派に分類している。秦氏は、自ら「中間派」と名乗る。「まぼろし」という言葉は、保守派の代名詞のようになってしまっているが、これは有名な鈴木明氏の著書「南京虐殺のまぼろし」から取られている言葉である。しかし、誤解されないように言っておきたいが、この鈴木氏の著書を読みもせず、「南京虐殺=まぼろし=存在しない=虐殺はなかった」と無知蒙昧きわまりないことを言っている連中もいるようだ。鈴木氏は、中国側の主張するような「30万人」の大虐殺などはなかったと言っているだけで、「虐殺行為」がなかったなどと一言もいっていない。「中国側に軍民あわせて数万人の犠牲者が出たと推定される」が「あまりりに政治的であったため」真相は分らないと言っているだけだ。

さて、南京事件について、これだけ日中間の軋轢となっている有名な事件について、日本ではその内容がどれだけ知られているだろう。

まず、「南京」というのは、当時の中国(国民党政府=蒋介石総統)の首都だったことを覚えておいてほしい。南京は、厚さ13m、高さ20mの城壁で囲まれた要塞都市でもあった。事件が起きたのは、1937年(昭和12年)12月、日中戦争(当時は、支那事変といった。)勃発の直後であった。また、南京攻略を行った日本陸軍の「中支那方面軍」の司令官は、松井石根(まついいわね)陸軍大将である。松井は、戦後「東京裁判」で南京事件当時の最高指揮官として「いわゆる」A級戦犯として起訴され、死刑を宣告される。昭和23年12月23日絞首刑にて没。
 当時、満州事変を契機とした満州国建国による日本の満州支配に対する中国側の反日感情が強まり、日本人居留民への中国人の暴行事件なども相次いで、それに対する日本側の中国人に対する憎悪感情も高まった。「暴支膺懲」(ぼうしようちょう=乱暴な支那人を懲らしめる)が、陸軍の合言葉であった。日中戦争は、両国の感情的対立を発端とする軍事衝突であり、日本側は何の計画も策略もなく、ただただ「中国憎し」「蒋介石憎し」で始めた無謀な戦争であったと私は考えている。

南京事件前後の概略


1937年7月7日 盧溝橋事件発生(北京郊外の盧溝橋での日中両軍の武力衝突)
1937年7月  日本軍北京制圧。南下追撃開始。
1937年8月  第二次上海事変(日中両軍の紛争が、上海に飛び火。日中全面戦争へ)日本は、上海派遣軍(松井石根司令官)を編成。陸軍は、(支那事変)拡大派と不拡大派に分かれたが、松井大将は、蒋介石のいる首都南京を攻略を頑に主張する。
1937年11月  上海派遣軍と第十軍を「中支那方面軍」(司令官:松井石根大将)に編成。第十軍が、方面軍や陸軍中央の方針を無視して、「独断南京追撃を敢行する」ことを決定。松井方面軍司令官も第十軍に同調。
1937年12月1日 大本営は、中支那方面軍の行動を追認する形で、南京攻略を命令。
1937年12月7日 蒋介石夫妻、南京を脱出。(翌日には、南京市長も脱出。市民を見捨てて逃げるとは、、、ひどいもんだ。)
1937年12月9日 南京防衛軍の唐将軍に対し降伏勧告。(10日拒否)
1937年12月10日 南京総攻撃。
1937年12月12日 唐将軍、南京脱出。(城外守備隊の中国軍は、総崩れになり南京城内に逆流し、大混乱。日本軍、城壁を突破して城内へ進入。)
1937年12月13日 南京陥落。(日本軍、国民政府庁舎に日章旗を掲揚)
1937年12月17日 南京入場式(松井大将南京入場)

南京事件は、上記の12月13日の南京陥落以降、1938年1月1日に市政府に替わる自治委員会が設立されるまでの2〜3週間程度の間に起きたとみられる。結論からいうと、秦氏は、各部隊が作成した陸軍の公文書である「戦闘詳報」や、陸軍士官学校卒業生の親睦団体「偕行社」が編纂した「南京戦史」、また中国側資料など第一級資料を丹念に検証し、"被虐殺者数を約4万人とし、そのうちわけを軍人(敗残兵、捕虜)の不法殺害3万人、民間人の不法殺害1万人と推計している。" なお、秦氏は、「この20年、事情変更をもたらすような新史料は出現せず、今後もなさそうだと見きわめがついたので、あらためて4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい。」(312頁)とある。この推計にいたる客観的な史料検証は、秦氏ならではの功績であろう。詳しくは、ぜひ、この本を読んでもらって、自身で判断してほしい。新書で1000円で買える。つまらない映画を一本見るくらいなら、この一冊を書店で手にとってほしい。

実際に自分で本も読まず、他人の意見の受け売りでは、「大虐殺」だろうが「まぼろし」だろうが、それは自分自身の判断に基づく意見などとは到底言えないはずだ。生半可な知識から生ずる言行ほど、いい加減で無責任なものはない。

犠牲者が、たとえ何人だろうと「南京虐殺」はあった


「虐殺」とは、国際法に違反する捕虜や民間人の不法殺害「行為」をさすのであって、被害者数によって「虐殺」あるいは「大虐殺」だとか「虐殺でない」などという議論は、全くナンセンスな話だ。

私も、自分の親の世代の日本人が、こんな蛮行を行ったとは信じたくない。便衣兵(敗残兵)狩りとして、(状況的に市民もまきこまれたようだ)数万人の捕虜を国際法に違反して、違法に殺害したのは、ほぼ事実だ。

私が許せないのは、婦女子に対する強姦行為が行われていた事実だ。
「・・・問題の家屋は天野郷三予備中尉(歩33連隊第8中隊長)と十数名の兵士の宿泊所で、かけつけた本郷大尉が天野の室に入ろうとすると、兵士たちが押しとどめる。無理に入ってみると、天野が女と寝台に寝ていて、隣室にも3、4人の女がいた。問いただすと、天野は連日あちこちから女を連行しては、部下とともに強姦していたことがわかった。」(178頁)しかも、この中尉は、「弁護士であり、部下には法学士もいたという。」結局、この天野中尉は、軍法会議にかけられ、旅順陸軍刑務所に服役したが、戦後、弁護士を再開し、昭和39年に没したという。

もし、あの時の日本軍が、国際法を遵守し、南京市民の安全を確保し、捕虜を適切に扱っていたなら、、、現代の日中関係は、もっと「まし」だったとうと思う。誠に残念なことだ。日本が、世界にはずべき「蛮行」を行ったことは、「水に流す」ことはできない。贖罪としてではなく、未来に二度とこのような行為を行わないために、他国から尊敬される国になるために、認めたくない歴史の事実から目をそむけず、理性の目を持って、しっかりと向き合うべきだ。

おすすめ度 ★★★★☆

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閉じる コメント(3)

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こんにちわ、明日は盧溝橋事件の日ですね。
記事にしてみました。
[http://blogs.yahoo.co.jp/ureeruhiroshi/40865284.html
南京事件当時の映像です
[http://blogs.yahoo.co.jp/ureeruhiroshi/33144905.html

2008/7/6(日) 午後 0:46 ure*ruh**oshi 返信する

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「南京大虐殺は、南京城内外で、12万人以上」という笠原氏の研究に納得しています。
南京城の外、南京市は広いので、今後の調査研究が進めば、ヒョットすると30万人になるかも知れないとも思っています。
歴史を誤魔化すと特にアジアの世界で生きていけなくなります。
右翼の人はそれが分かっていない。
信用されない国、信用されない国民になってしまいます。
それが、最大の問題です。憂国。

2008/8/1(金) 午前 5:40 [ イエスちゃん ] 返信する

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日本を激怒させ国民党政府軍と戦争をさせる為に、同年七月二十九日、中国保安隊によって日本人婦女子を含む二百二十三人が残虐に虐殺された「通州事件」や、同年八月九日に起こった「大山大尉惨殺事件」、更には、1937年八月十三日、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中(ちょうじちゅう)の謀略によって、上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊四千二百人に対して、三万人の国民党政府軍が総攻撃を仕掛けた第二次上海事変を起こすなど、中国は日本に対して次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を取っていた日本も、中国との全面戦争を余儀なくされたのであり、不当に日本が中国を侵略したわけではない。

上海事変で勝利した日本軍は、敗走する国民党政府軍を追撃し、国民党政府の首都であった南京を攻略し、同年十二月十三日に南京占領。このとき敗残兵が住民に対して略奪、虐殺を行なった。
それらの敗残兵が民間人の衣服を奪って便衣兵(ゲリラ)となったことから、日本軍は便衣兵の掃討作戦を行った。
『本当の日本の歴史 理論近現代史学』より引用

2017/2/26(日) 午前 8:34 [ 日中国交正常化45年南京80年に学ぶ ] 返信する

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