脱島国根性!

井のなかの蛙 大海を知らず

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昨日、和歌山毒入りカレー事件の上告審があり、林真須美被告の死刑判決が確定した。私がこの判決で注目したポイントは、以下の三点だった。

1 状況証拠だけで死刑にできるのか
2 被告は一貫して否認していること
3 動機が不明なこと

1については、検察側があげた1700点に及ぶ状況証拠について「林被告がカレー事件の犯人であることは合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に証明されている」とし、3の動機については、「犯行動機が解明されていないことは林被告が犯人だという認定を左右しない」とし、上告を棄却し、死刑が確定した。

わたしは、哲学者(自称)であるからして、このような哲学不毛の国の裁判官の判決文の挙げ足をことさら取ろうなどとは思わない。わたしが言いたいことをオレ流に簡潔に言うならばこうだ。

(たいがいの犯罪は)犯行現場をだれも目撃していないのがほとんどなのだから、刑事裁判において、われわれは検察官の証拠だけをもとに判断しなければならない。しかし、今回のように状況証拠だけでは、絶対に100%クロだとは言い切れるはずがない。検察官も裁判官も神様ではないのだから、犯行現場をだれも見ていない犯罪、物証がとぼしい状況証拠について、100%有罪だと言い切れるはずがない。たとえ、状況証拠が1,000あろうが、10,000あろうが同じことだ。(God only knows = 誰にもわからない。)この大前提に賛成してもらえるだろうか。


これをアプリオリな前提とするならば、つまり、

林被告が99%クロに近くても、100%の確証がない以上、1%の冤罪の可能性が残るということだ。


しかも、被告は一貫して無罪を主張している。

1%の冤罪の可能性が残る事件で、犯人を死刑にしていいのか。


私の言いたいことはこれだけだ。

死刑になった後に、真犯人が現れる、林被告が犯人ではないことを証明する新たな証拠が発見されることがあっても、刑が執行されてからでは、取り返しがつかないということだ。これが、死刑と無期懲役の違いだ。

昨日はまた、1990年に栃木県足利市で起きた幼女殺害事件で無期懲役が確定している被告の再審請求で、有罪の有力な証拠であった体液のDNA鑑定が、別人のものである可能性があるとの衝撃的なニュースも速報された。


もし、これが本当なら、

誤った証拠(しかも現在では有力な証拠とされるDNA鑑定)によって、別人が逮捕されてしまった最悪の人権蹂躙となる。


もし、このような冤罪で、死刑にされていたらどうなのか。少し、想像力を働かせて考えてみてほしい。

元最高裁判事で、現在は熱心な死刑廃止論者である団藤重光博士の言葉を引用する。

「死刑事件では、事実認定の関係で、特別にむずかしい問題にぶつかります。普通の事件では、合理的な疑いがあれば無罪、合理的な疑いを超える心証がとれれば有罪、というのが刑事裁判の大原則です。ところが、死刑事件については、それでいくとどうなるか。私は最高裁判所に在職中に、記録をいくら読んでも、合理的な疑いの余地があるとまではとうて言えない、しかし絶対に間違いがないかと言うと、一抹の不安がどうしても拭い切れない、そういう事件にぶつかりました。・・・(中略)しかも、もし有罪とすれば、情状は非常に悪い事案でしたから、極刑をもって臨む以外にはないというような事件だったのです。私は裁判長ではなかったのですが、深刻に悩みました。しかし、死刑制度がある以上は、何とも仕方なかったのです。
いよいよ宣告の日になって、裁判長が上告棄却の判決を言い渡しました。ところが、われわれが退廷する時に、傍聴席にいた被告人の家族とおぼしき人たちから「人殺しっ」という罵声を背後から浴びせかけられました。(中略)その声は今でも耳の底に焼き付いたように残っていて忘れることができません。」(「死刑廃止論」第六版 8〜9頁。有斐閣)

本職の裁判官でもこのように悩むのに、ましてやこの重責に一般の裁判員が耐えられるのか、非常に酷な気がする。

やはり、死刑は廃止すべきだ。


松本サリン事件で、奥さんがサリンの被害者(最近、お亡くなりになった)であるのに、なんと第一通報者ということだけで、家宅捜索及び連日深夜まで及ぶ事情聴取(事情聴取にもかかわらず、ポリグラフにもかけられたという)を受け、長野県警に犯人扱いされた河野義行さんは、死刑廃止論者であることをご存知だろうか。



河野さんは、犯罪の被害者になること以上に、「犯罪の加害者に間違えられることの」恐ろしさを身にしみて感じたのだろう。

十人の真犯人を逃すとも 一人の無辜を罰するなかれ

(映画「それでもボクはやっていない」 周防正行監督 2007年)より


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閉じる コメント(7)

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お久しぶりです。
(コメントしようのないほど)おっしゃるとおりです。

先週のサンデープロジェクトでは検察が証拠を恣意的に(取捨選択して)提示することについて、取り上げていました。
冤罪を発生さす要因は依然残ったままです。裁判員制度がはじまり、国民が冤罪の恐ろしさを肌で感じる契機となれば、と思っています。

2009/4/22(水) 午後 10:24 [ sat**ukurod*wi* ] 返信する

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サトル様、コメントありがとうございました。わたしは、裁判制度の趣旨そのものについては賛成ですが、やはり死刑事件については、裁判員の負担があまり重すぎるように思います。アメリカの陪審制のように量刑については裁判官が行うようにすべきでした。しかし、裁判員が死刑事件に関わり、死刑判決を出す重みの意味を考えるようになればと思っています。

2009/4/22(水) 午後 10:53 [ FCTOKYO1964 ] 返信する

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トラックバックありがとうございます。私も死刑制度には反対です。何といっても冤罪の可能性は皆無にはならないでしょうから。それと死刑制度がなければ、被疑者は観念する可能性も増えて自白の確率も上がると考えています。死刑となれば、最後まで抵抗する場合も多いのではないでしょうか。

2009/4/23(木) 午前 7:55 [ ホームズ ] 返信する

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ガリレオさん、いつもコメントありがとうございます。わたしも同じように思うところがあります。最近の通り魔事件の犯人は、自暴自棄になり、死刑になりたいからと犯罪をおかしていますが、まさか無期懲役になりたいからと犯罪を犯すというような人間はいないでしょう。反省しないまま死刑になっても、遺族は喜ぶでしょうか。自分の犯した罪を一生かけて償わせ、反省させる。こっちの方がどれだけ本人と遺族のために善いことかと思うのですが。

2009/4/23(木) 午後 9:31 [ FCTOKYO1964 ] 返信する

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わたしは死刑廃止論者ではないんです
でも これはアメリカでは無罪になるパターンですよね
三種の神器がそろってませんから(最初に併記なさってる三つですね
むー

2010/5/16(日) 午後 8:18 [ hiro ] 返信する

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hiromizutama1217さん、ご訪問&コメントありがとうございました。動機が不明、一貫して否認、、、もし、無実の人の真の訴え(わたしは、やってない)だとしたら、これはありえることです。世論に迎合した厳罰化の風潮が、「疑わしきは罰せず」という民主主義国家での刑事訴訟法の原理原則がねじまげられてきているように感じます。これが、冤罪を生む温床であるように思えます。

2010/5/17(月) 午後 9:38 [ FCTOKYO1964 ] 返信する

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被疑者の人権を守る、、などどいうと、左翼だとレッテルを貼る人がいるけれども、そんなステレオタイプの見方しかできない人は、新右翼の鈴木邦男氏が、死刑廃止論者であり、林真寿美被告の支援をしていることを理解できないだろう。
http://masumi-shien.com/
こういう言い方が適当かどうかわからないが、鈴木氏は、言うなれば、天皇制民主主義者であろう。検察が起訴したものを99.9%有罪にするというのなら、裁判はないに等しい。。。この国では。

2011/2/27(日) 午前 9:44 [ FCTOKYO1964 ] 返信する

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