夜の社会から足を洗った私は、人生最悪とも言える4年間を過ごす事になる。 結婚した相手は、板前。当然、今とは違って親方のいう事を聞いてなんぼの世界である。 仕事は、彼と同じ観光ホテルの厨房であった。 彼はそこで板長をしていたからだ。 いくら、私が板長の嫁であろうと、そんな事は関係ない。 私は、新入りの使い走りと同様の扱いを、主人から受けていた。 他の人たちは、さぞやりにくかったであろう・・・。 私にどう接していいのか、困ったに違いない。 しかし、親方のいう事は絶対である。 一応「奥さん」と、呼ばれてはいたが、する事は下手間ばかりだった。 でも、ここで、私は多くの事を学んだ。 魚のさばき方、おろし方、刺身の切り方、焼き物の加減、味付け、揚げ物の揚がり具合の見方、 器の扱い、配膳の仕方、器の向き、盛り付けの方法、食材の扱い、上げればキリがない・・・。 確かに、仕事は厳しかった。 一日、立ちっ放しで、多い時には、何百匹という魚をおろす。 そして、何キロもの肉を、小口に切る。 当然、包丁も、その都度、違う物を使う。 切れなくなると、砥石で研ぐ。 私は、最後まで、砥石には触らせて貰えなかったが・・・。 後は、鍋磨き。 鍋も小鍋から、寸胴まで、様々である。 いかに効率よく磨くか、ない頭を捻って考える。 少しでも、時間が掛かり過ぎたり、磨き残しがあると、容赦なく殴られた。 他の若い衆と同じ扱いである。 休みなどない。 賄いを若い子が作り、それを大急ぎで口に入れる。味わう余裕などない・・・。 常に主人が側に居る。 一時たりとも、気が抜けなかった。 職場での失態は、主人の顔に泥を塗る事である。 そんな事にでもなったなら、家に帰ってから、半殺しにされる。 そう、家でもかなり酷い暴力と、暴言を受けていたからだ。 そして、約1年が過ぎ、主人が移動となった。 今度は、割烹の板長だった。 流石に、私は一緒には働けなかった。 仕方なく、近所の工場へパートとして努める事になったのである。
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多種多彩な職歴
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多種多彩な、私の職歴、一挙公開
めでたく、寿退社となった私は、3ヵ月後に迫った結婚式と、 それから始まるであろう、幸せ満ちた新婚生活を、ひたすら待ち続けていた。 結婚式の準備は、何かと慌しかったが、それはそれで、幸せだった。 が、思いも寄らぬ事態が発生した。 しっかりと、性病を感染させてくれたのである。 私は、結婚式10日前に病院へ行き、感染している事を知った。 そして、結婚式を1週間後に控えた日、破談となった。 そんな話は、伝わるのも早い。 元々、店に来ていたとある会社の一員だった彼が、店に来なくなったのである。 ママも、「どうしたのか?」と、尋ねたに違いない。 破談となって、間をおかず、ママから電話があった。 何も仕事をしていないなら、今直ぐにでも帰って来い、と言われた。 一応、悩みはしたが、私とて直ぐに普通の会社になど行きたくはなかった。 そうでなくても、私は傷心の身なのだ。 仕事など、頭にあろうはずもなかった。 が、そういつまでも、遊んではいられない。 ただ、OLになどなりたくはなかった。 社交的な訳ではない。どちらかと言えば、引っ込み思案で、人見知りが激しい。 だが、夜の仕事は、私に社会の裏側を教えてくれる。 人の本心や、本音、汚さや、裏表、そんなものばかりが見えて来る。 が、それと同時に、真の誠実さや、優しさ、思い遣り、そう言ったものも教えてくれた。 脳ある鷹は、爪を隠すのである。 私は、復帰を決めた。 以前に集めた名刺の山も、捨てずに取ってあったのも、何かの縁だろうと思った。 私は、何事に於いても、分岐点が来れば、それまでの物は全て処分する癖があった。 が、今回は何故か、捨てられる事なく、机の引き出しにしまわれていたのであった。 名刺の山を覚えている順に並べて、ホルダーに差し込んだ。 連絡可能時間を見ては、片っ端から電話をかけた。 復帰はいつでもいいと言われていた。 私が復帰するであろう日は、私のお客さんで一杯にしてやろうと思った。 そして、復帰した日、また、多くの花束に迎えられた。 ママには事前に一度だけ会っていた。 即、チイママとして、復帰して欲しいと、言われていた。 店の女の子は若干の入れ替えがあったようだが、 チーフも同じ、ママの右腕とまで言われていた子も、相変わらず居てくれた。 そして、また、以前と同じ仕事が始まった。 店の方針も、ママの体調も、変わってはいなかった。 私はまた、夜な夜な、バカ騒ぎをし、グチを聞き、接待の手伝いをし、歌い、踊った。 相変わらず、素人さが抜け切れず、初めてのお客さんには、 「キミ、まだ、新人・・・?」 などと、訊かれ、平気で、 「はい。慣れないものですから、多少の事は、多めに見てやって下さいね。」 などと、嘯いていた。 横で、常連さんに、大笑いされた・・・。 ママは、一層、体調が良くなかった。 殆ど、出勤してこない日が、長く続いたりもした。 流石に、私一人では、どうしようもない日もあったが、ママは何も言わなかった。 ただ、お茶を引く事だけはないように、それだけに頭を悩ませた。 景気はどんどん悪くなって行く。 接待のお客さんも、次第に減って来た。 それでも、何とか、切り盛りをし、赤字にだけはならないよう、気を配った。 女の子が何人か、辞めた。 ママは引き止めなかった。 代わりに、コンパニオンを雇う事になる。 仕方のない事だった。 コンパニオンは、その日によって、来る女の子が違う。 常連のお客さんを掴むのが難しかった。 コンパニオンの中にも、自分のお客さんを持っている子も居る。 そう言う子ばかりならいいが、さすがに、その場だけの子が多い。 時間が来ると、どんなに忙しくても、さっさと帰って行く。 引き止めるには、また、お金がかかる。 後は、残った女の子総動員で、何とかしのいでいた。 BOX席には、必ず、女の子が一人は居る。 これが、ラウンジの姿だ。スナックやパブとは違う。 お客さんはただ座って飲んでいればいい。その姿勢だけは崩す訳にはいかない。 その為、カウンター席の一人のお客さんには、 申し訳ないが、私が一人で何人もの相手をするようになってしまう。 慣れた人なら、文句も言わないが、それでも、やはり、いい気はしなかったであろう。 それでも、見捨てることなく、来てくれた人には、本当に感謝している。 そんな頃、私は、一人の男性と恋に落ちた。 妻子持ちの、所謂、不倫である。 ママには、店のお客とは寝るな!と言われている。 内緒で付き合うつもりはなかった。 正直に、付き合っている事を告げた。 彼も、私と付き合いながらも、店には来てくれていた。 ママは、何も言わなかった。 正直、お茶を引きそうな時は、容赦なく彼を呼びまくった。 が、店の中で私が彼の相手をする事はなかった。 申し訳ないと思いつつ、酷い時には、チーフが話し相手になってくれていたようだ。 私は、次第に疲れて行った。 社会の裏も見飽きていた。 人の心の醜さも、厭と言うほど見て来た。 彼との付き合いが始まって、暫くした頃、一人の男性に求婚された。 彼との付き合いにも、先がない事が判っている以上、私は大いに迷った。 勿論、彼には随分反対された。 が、彼の方とて、今の家庭を投げ出す訳にはいかない。 そんな中で、仕事の忙しさと、彼との話は平行線のまま、私は、本当に疲れていた。 私には、どうでも良かったのかもしれない・・・。 彼との未来が望めないなら、相手は誰でも良かったのだ。 ただ、彼との付き合いを、このままズルズルと続けている事に腹が立ったのかもしれない。 私は、ママにだけ事情を話し、そっと、店を辞めた。 彼とも別れるつもりで、もう一人の男性を選んでしまったのだ。 それが、大凶のくじだと知らず、引いてしまっていた・・・。 私は、地獄への階段を下りて行った。 (絵はKEIKO様よりお借りしました)
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天職とまで思っていた老人ホームを辞めた。 結婚詐欺にあったためだ。 騙し取られたのは、200万円。 勿論、現金などないので、あらゆるサラ金から、限度額いっぱいまで借りた。 支払いは、殆ど、利子分を支払っているに過ぎない状況だった。 このまま、ホームにいたのでは、何年掛かるか判らない・・・。 引き止められるのを、振り切って、嘘をでっち上げ、辞めた。 そして、運命の日は、直ぐにやって来た。 何気なく見た新聞の中の、従業員募集の記事。 新規開店のラウンジだった。 経験などない。 が、手っ取り早く、お金を貯めるには、この道しかないと思った。 新規開店なら、前から居る人との人間関係で悩む事もないだろうと思った。 早速、連絡をとり、面接を受けた。 一目で、この人になら着いて行かれると思った。 高級クラブ上がりのママだった。 店がオープンするまでの間、水商売のノウハウを教えられた。 ママは、月に何回かは同伴出勤だの、新服の日だの、くだらない規則は作らなかった。 ママから、徹底的に教わったのは、 「水商売と言えども、仕事をするなら、その道のプロになれ!」 と、言う事だった。 *客とは寝るな。 *身体目的が見え見えで、実際に手を出すような客は、追い出し、二度と来させるな。 *何故、高いお金を払ってでも来て下さっているのかを、忘れるな。 ママは、これだけを、徹底させた。 客と関係を持ったら、それが店に来させる為に、関係を持ったのであっても、即、クビだった。 ママは、肝臓に持病があった。 不安の内にオープンを迎えた。 ママは、休まず疲れも見せず、毎日笑顔で接待していた。 ママが、私のお手本だった。 ママのする事を、ことごとく盗んだ。 仕事は自分で覚えない限り、上達しないからだ。 名詞を頂くと、時間の合間に必ず、奥に行って、裏に日付・特徴・十八番・酒の種類など、 とにかく、次に来られた時に、直ぐに名前が言え、何が好きで、何を歌うか、話のジャンルは? 覚えられる事は全て覚えるしかなかった。 次第に、要領がつかめて来ると、覚え方のコツを発見した。(職業上の秘密)。 24歳だった。 決して若い方ではないが、ラウンジであったため、若い子よりは良かったのかもしれない・・。 次第に指名が増えた。 私は、元来、化粧が嫌いで、店にも、殆どスッピンに近い状態で出ていた。 途中で、化粧直しなど、一度もした事がない。 が、素人っぽさがいいと、よく言われた。 いつまで経っても、素人さの抜けない、垢抜けない野暮ったいホステスだった事だろう・・・。 が、オープンして半月後、ママから、トンでもない事を言われた。 「ゆき乃、明日から、チィママね。しっかり頼むわよ。」 「えっ・・・?」 反論の余地も無く、それだけ言うとさっさと帰ってしまった。 途方にくれ、唖然と、佇むしかなかった。 そして、その日から、ママは、体調不良の為、出勤が遅かったり、来なかったりした。 人が来る度、大学生のバイトチーフが、ママに電話し、指示を貰った。 何を出すのか、女の子は誰をつけるのか・・・。 その内、お客さんが増えて来ると、ママの連絡が間に合わなくなって来る。 そんな時は、仕方ない。私が、あれこれ。支持を出し、後からママに変更を言われたりした。 ママのバックアップのお陰もあって、私の名詞ホルダーは、あっと言う間に2冊目になった。 店がオープンしたのが、2月。 そして、8月末の私の誕生日には、閉店を少し早めて、パーティーを開いてくれた。 店の女の子の誕生日は、いつも、そうやって、祝ってくれたのである。 その日、いつも通りに出勤した私は、心臓が飛び出すほど驚いた。 いたるところ、花・花・花・・・。 「チーフ、これ何・・・?」 「何って、今日は、ゆきさん、誕生日でしょう・・・。」 「え?うっそぉ!」 店に入りきらない分は、大きなバケツをどこで借りたのか、店の外にまで飾られていた。 それぞれに、メッセージカードのあるものや、名前だけのもの・・・。花束で溢れていた。 来られない人からは、ごめんと書かれたカードがあった。 勿論、花束を抱えて、店に来て下さる人もいらした。 涙が零れた。 本当に嬉しかった。 ママに叱られた事は、数え切れない。 が、お客さんを怒らせた事は一度もない。それだけが、唯一の自己満足だった。 そんな私なのに・・・。 店は、面白かった。仕事は厳しかったが、その分、ちゃんと見返りがある。 「やるからには、プロになりなさい!」 ママのこの言葉は、その後の様々な仕事に於いても、私のモットーであった。 バカ騒ぎするのも、真剣に、社会討論するのも、どちらも楽しかった。 カラオケも、古い曲から新曲まで、とにかく、覚えるしかなかった。 チークダンスも、店のエンディングも、今となっては光の向こうにある・・・。 水商売の裏話を話せば、何日でも語れるほど、色んな事がある。 時々、世の男性諸氏が、哀れな、可愛そうな人に思えたりしたが、 それも商売。夢を売って幾ら、なのだ。 楽しみたい人には、楽しさを。 安らぎたい人には、癒しを。 接待の人には、それなりに。 お客さんあっての店なのだ。 何で高いお金を出してまで、来て下さっているのか・・・。 それを、常に頭に置き、接待してきたつもりである。 約2年半になろうとしていた。 借金は、利子を含めるとかなりな額だったが、無事に返し終え、幾らかの蓄えも出来た。 そんな時、一人の男性と恋に落ちた。 店のお客の一人だった。 結婚を前提に付き合って欲しいと言われた。 ママに相談すると、 「ゆき乃が、それで幸せになれるなら・・・。」 と、寂しそうな瞳で、見つめられた。 「何かあったら、帰って来なさいよ。」 その言葉を最後に、私は、店を辞めた。 2冊の名詞ホルダーが、宝物だった。 後ろ髪、引かれつつ、結婚の準備に取り掛かった。 毎日が幸せだった。 そう、あの日までは・・・。 それは、結婚式があと1週間となった、残暑の残る蒸し暑い日だった・・・。 (写真は、尊敬するKEIKO姉様よりお借りしました)
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設計事務所で、安楽な仕事をしていた私に、とうとう、この日がやって来た。 あれ程待ち望んでいた、老人ホームで働ける時が来たのである。 ホームの仕事は、既に、大学生の4年間、アルバイトとして働いていたので、 夜勤と、入所者個人別の、ケース記録を付ける以外は、全て、経験済みだった。 面接でも、大いに期待していると、言われた。 まだ、介護福祉士などと言う、小難しい免許など必要なかったし、
ヘルパーなどと言う資格さえ、必要ない時代であった。
寮母になる為の条件など、何もない時代だったのである。 就職先は、若い子から、おばさんまで、色んな人が働いていた。 面接試験にさえ通れば誰でも就職出来た。 と、言うより、人材を集める方が、難しかったかもしれない。 そんな所へ、好んで就職を希望する事自体、珍しいと思われたらしい・・・。 大学で、老人福祉を専攻していた事もあって、 面接に行った筈が、是非来てくれと、懇願される様な有様だった。 それ程、当時の老人ホームの仕事は、きつかったのである。 今の様な紙おむつなど、当然無い。 布オムツで、それも、尿意を感じる事の出来る人に対しては、オムツ交換も随時行っていた。 意思表示の出来ない人は定時交換だったが、流石に、体格の良い人のオムツ交換は疲れる。 寝たきり防止の為に、少しでも、運動機能の残っている人には、オムツを使用しながらも、 車椅子に乗せて、トイレに連れて行った。 布オムツは、大便の場合のみ、リースに出し、そうでない物は、大型洗濯機で洗濯、乾燥した。 オムツたたみのボランティアさんも来てくれたが、任せ切りには出来ない。 時間のある時には、オムツをたたんだ。 食事の介護も、一人で何人もの人を見なければならない。 年を重ねると、嚥下(えんげ:飲み込む事)が悪くなるので、少量ずつを食べさせる。 一人に時間を掛け過ぎられない為、一度に何人かを順に回って、食べさせた。 一人の寮母に付き、二部屋、つまりは、12人を、担当していた。 仕事の合間に、その日の記録を、個人別に書く。 休みの日には、誰かに、簡単なメモ書きを頼んでおき、それを、書き写す。 当然、逆の場合もある。自分のケース記録を書きながら、頼まれた人の担当老人の様子も、 メモ書きしておかねばならなかった。 夜勤は二人。二階建ての建物だったので、一階と、二階に分かれて、担当した。 オムツ交換は、同時に行うが、認知症の進んだ老人の中には、勝手にオムツを外して、 部屋中、汚物だらけ、本人も、汚物塗れ・・・そんな事は日常茶飯事だった。 夜中に、風呂場に連れて行き、身体を洗い、部屋の掃除をする。 仮眠の時間になっても、時間が取れない事が多かった。 第一、仮眠時間自体、一人2時間である。眠れる筈も無い。 大抵は、書き残して貯めていたケース記録を書いたりして、時間が潰れた。 朝になると、早出さんが来て朝食になる。 それでも、合わせて4人。一人で何人を担当しただろうか・・・。 ディルームに出られる人は、車椅子に座らせて、連れて行く。 自分の事が自分で出来る人は、1/5程度で、後は、寝たきりか、介護で車椅子移動だった。 老人を、車椅子に移動させる時や、その逆の時、また、おむつ交換は、 原則、二人でする事になっていたが、度台、無理な事である。 寮母の数が少ないのだ。 二人で・・・などと悠長な事はしていられなかった。 その為、私は、3度も、ギックリ腰になった。 未だに、コルセットが必要な腰である。 それでも、きつい、辛い、辞めたい、などと、思った事は一度もない。 正に天職だと思っていたからだ。 が、そんな日々を送って何年かが過ぎた頃、私は、結婚詐欺にあった。 サラ金と言う物を、初めて知った。 200万円、騙し取られた。 元金はあらゆるサラ金で、200万だが、金利が着く。 この仕事では、到底返し切れないと思わざるを得なかった。 天職とまで思い、将来を嘱望されていたにも拘らず、辞めるしかなかった。 もっと、給料の良い職に就くしか手がなかった。 随分、引き止められたが、家庭の事情で・・・と、押し切る様な形で、私は、ホームと、別れた。 いつかまた、必ず復活してみせる。 これが私の天職なのだ! そんな思いを抱いて、私は、また、転職する事になる・・・。 が、ホームの仕事に戻る事は無かった。 私が、再就職しようと思った頃には、既に、ヘルパーの資格だの、 介護福祉士の免許だのが、必要だった。 時代は、流れて行ってしまったのである。 私は、取り残されてしまっていた・・・。 そして、その間に、私は、また、違う天職を見つけてしまっていた。 それは、まだまだ、先の事だ。 とにかく、ホームを辞めた私は、借金を返す為に、新たな仕事を探す事になってしまったのだ。 それは・・・。
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家庭教師の子供らに、後ろ髪、引かれつつも、正社員として、働ける様になったのは、 私自身、一番、苦手な、事務員であった。 それも、設計事務所などと言う、今まで、全く、関係のない、未知の世界であった。 面接も何もなく、次の月曜日から来てくれとだけ言われ、私は、何を着ていけばいいのか、 持って行く物は、何が必要なのか、何も判らないまま、取り敢えず、普通のスーツを着、 自転車で、出掛けた。 車はあったが、街中なので、駐車場がなかったからである。 自転車でも、20分もあれば行かれる。 朝、通勤ラッシュで込み合う自動車の列を横目で見ながらの、チャリ漕ぎは、気分爽快であった。 行きは下り坂だった事もあって、実に、気持ち良かった。 設計事務所と言っても、実に小さな所だった。 一応は株式会社であったが、社員は、所長と、年配の設計者、そして、事務員になった私。 三人だけの、可愛い会社であった。 請け負うのは、主に、公的施設の、補修や改修、改築などで、 たまに、新築工事を請け負う事もあったが、 一度に、幾つかの設計をこなせる為、新築よりも、 改修などの方が、効率がいいのだと、聞かされた。 当時の事だ。今の様に、CADなどと言う、PCを駆使して設計図を引く事など、夢のまた夢。 考えも出来ない事だった。 そこで、私が、朝、一番にする事は、先ずは、掃除。 と言っても、二部屋しかない間借りの会社だけあって、箒で掃いて、机を拭いて終わりである。 そして、所長が、毎朝飲んでいるので、青汁を作る。 冷蔵庫から、野菜や、果物を適当に取り出しては、青汁製造機なる物で絞って、 ガーゼで絞って、冷蔵庫に入れて置くと、所長が出勤して来て、飲むのである。 前日に、叱られた時などは、野菜を多くし、果物を少なめにして、 メチャメチャ飲みにくいであろう物を作っては、憂さ晴らしをしていた。 何とも、意地悪な事務員である。 私は、とにかく、机に向って、じっと同じ姿勢で居るのが、実に厭で堪らなかった。 時々、用事を頼まれたりして、外出出来るのが、何より嬉しかった。 後は、所長が、実際に現場に行ったり、打ち合わせなどで、会社に居ない事が多かったのも 私にとっては、ラッキーだった。 実際に私がする仕事と言えば、 例えば、所長の描いた設計図の仕上げを、教わると、ただ、それをしていればいいだけであった。 設計図にも、色んな角度からの物があり、 中には、『ラーメン図』などと言う、美味しそうな設計図がある。 初めて聞いた時には、流石に、吹き出してしまった。 仕上げと言っても、ガラスの部分は黒く塗り潰すとか、 扉は、引き戸か、押し戸か判る様に書き加える程度で、 実に簡単で、塗り絵をしている様な物であった。 後は、『青焼き』と言う、特別なコピー方法があり、 設計図は、今でもこの青焼きを使ってでないと、入札に参加出来ない事もある。 そして、『申請書折り』と言う、これまた、特別な折り方で、折って、表紙を付けるのである。 主な仕事は、これだけ。 後は、電話番と、訪問客の接待だが、 電話は殆ど掛かって来る事はなく、掛かって来ても、留守の事が多いので、 後でこちらから連絡する事だけを伝えて所長のポケベルを鳴らし、所長から連絡があると、 電話があった事を伝えるだけで良かった。 訪問客が来た時にも、お茶は一切出さない。 設計図を広げて、話す事が多いので、 万が一、溢した時には、設計図がダメになってしまうからである。 そんなこんなで、実に楽な仕事であった。 これで、普通の一般事務員さん達と、同じ位のお給料を貰える。 何だか、とても、申し訳ない様な気にもなったが、楽して沢山貰えるなら、 それが良いに決まっている。 唯一、困ったのは、時間を持て余す事だった。 何もする事が無い時が、実に多いのである。 電話も、来客も無い日が殆どだった。 朝の青汁を作った後は、する事がない。 これ程苦痛な事はない。 仕方ないので、編み物や、読書など、殆ど、趣味の時間であった。 こんなのが、仕事と言えるのか・・・? こんなので、お給料を、人並みに頂いていいのか・・・? 内心、そう思いつつ、時が過ぎて行った。 ボーナスも、それなりに、何か月分かを頂いた。 ある程度、設計図を見て、出来上がり、完成の建物が、 頭の中で立体的に思い描ける様にまで、なっていた。 現存している建物の、古い設計図を引っ張り出しては、自分の知っている建物を思い出し、 『これが、ここで・・・。』などと、自分なりに考えては、変に納得し、判る事が、嬉しかった。 慣れて来ると、結構、設計も面白い物だと思った。 が、設計の勉強をしようなどと、思った事は一度もない。 仕上げをするだけで、充分、満足だった。 1年半ほどした頃、小・中・高と、同級だった、友人から、思いがけない誘いを受けた。 私が、以前、大学を卒業し、地元に戻った時から、したかった事が、実現するかもしれない・・・。 そんな、話だった。 私は、大いに喜んだが、ここも、直ぐに辞められたのでは、事務員が居なくなる。 事務員が居ないと、所長は外出が出来なくなる。 辞めたいと、申し出た時に、代わりに働きに来てくれる人は居ないか、探して欲しいと、言われた。 当然の事である。 楽をさせて貰ってお給料を頂き、仕事か、趣味の時間か判らない様な時間を過ごしたに過ぎない。 「はい、さようなら・・・。」 では、実に申し訳ない。 何人もの知り合いに、声を掛けたが、いい返事は返って来なかった。 折角の友人からの誘いを断る訳にもいかない。 何分、私の方から頼んでいたのである。 サンドイッチ状態で、四面楚歌。 そんな時、従妹が、仕事を探していると聞かされた。 渡りに船だった。 一週間、二人で働いて、仕事の手順や、引継ぎをした。 彼女も、ホントにこんなに楽なのか、最初は訝しがったが、 実際、勤めてから、何ヶ月かした頃、連絡があり、実に良い職場だと、喜んでくれた。 その頃、私は、やっと、やりたかった仕事に就け、毎日が、楽しくて仕方なかった。 持ちつ持たれつで、正に、捨てる神あれば、拾う神ありであった。 さぁて、私は、やり甲斐のある仕事に就いたのだ。頑張らねば・・・。 これこそ私の天職とまで思っていた仕事。 次回は、それをご紹介致します・・・。お楽しみに!
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