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では、始めよう。よくよく聞けよ、聞いて残せよ。
先ず、命、人の生命について答えよう。
命とは、神の与えられしものなり。命に生を与えるものは、神のみ力、お仕組みによる。
生とは現界での状態であり、命とは、無限に続く、魂のことなり。
それ故(ゆえ)、命は死と生を繰り返すなるが、命は無限に、与えられし時から、無限に続き、この世の生を持つこともあれば、死としてあの世に帰ることもある。
しかし、一つ一つの命、魂は、せねばならぬみ役が定められており、命の続く限り、それぞれの勤めとして、果たしていかねばならぬ。生は、人の肉体をもってこの世で行を積むが、死はこの世での肉体の終わりであり、あの世では、霊魂となる。しかし、貫くものは一つなり。
しかし、その命、魂であっても、終わるときが来る。
それは、神のご意志、ご意図にそぐわず、神のみ光をもってしても、浄まらず、曇りを消せぬまでに、その命、魂が汚れしときなり。
そのとき、神は自らのお仕組みにより、その命を消される。しかし、それは、その魂の終わりであっても、この世での人類全てが消え去るのではなく、再びの生を与えられし魂、命は、この世で、あの世から命ぜられし行を積む。
よく生きて、よく死に、あの世での修行を終えずば、この世でもあの世でも、行は続く。
なれば、仮にこの世で、どのような善行(ぜんこう)を積もうとも、もしそれが、神のご意志、ご意図にそぐわずば、それは神の命ぜしものでなければ、し残した行となってあの世に持ち越される。
神は、人を、人類を、神のご意志、ご意図でお作りになられた。
しかし、今、この世は、神の求められし地球のあるべき姿でなく、人もあるべき姿形ではなくなった。
神は、人類 全ての生の存続を望まれる。神の心を持ち、神のことばを持ちて、自らの存在の意味を知り、自らのみ役を悟り、自らのみ役を果たさんとする魂を救い、そうした神の国で再生するを、全ての人類に、切に望んでおられる。
それは、人を分けるためでなく、人全てが神からの魂、命を、大切に使い、そしてこの世に神の国を復活させるためなり。
そして、この世に起こる不幸現象は、全て、神が人に、自らのみ役を認識させるために与えられる、神からのお伝えなのである。
その不幸現象、病苦、事故、災害、その他の現象から、自らのみ役を、神の御心に適(かな)う霊行を、それぞれの行うべき行を、人に悟らせんとされておる。それ故、神の御心(みこころ)を知るためには、その不幸現象から、神のご意図、ご意志を読み取る努力が必要である。
例えるなら、戦争は、人の自我、我欲、我利(がり)、我執(がしゅう)の最たるものなり。
自己の我利、我欲、我執、その一事のために、人は命を、家族を、失ってまで、己れの欲望を 満たさんとする。
しかし、本来の姿に立ち返るとき、人は平和に暮らすことが可能な筈(はず)なり。
なのに何故(なにゆえ)、人は、人同士、殺し合うのか。そのように作られているのであろうか。
それは誤りなり。神は、人に、殺し合うことの悲惨さをもって、愛の尊さ、平和の有り難さを知らしめんとされ、それを仕組まれしなり。
人は、我(が)の塊(かたまり)であってはならぬ。神と共にあるとき、人は、己れを小さく、弱く、狭くしていることができるものなり。
しかし、人が神と離れ始めるとき、我は強く、大きく、魂の内に広がり、神の声を聞こえなくなるよう、自らを仕向けてゆく。それは、人類にとっての、地球全体にとっての大きな危機を意味する。
人が己れの我をのさばらせ、己れの立場のみを考え、己れのの幸せを求めることは、神のお仕組みを妨(さまた)げ、神のお仕組みを起こらなくさせてゆく。
神は、そうした危機を避けさせ、取り返しのつかなくなる前に、人類の一部に戦争を起こさせ、或いは災害を起こして、その元となっている、人の誤り、間違いに気付かせ、悟らせんとされる。
人が賜りし肉体は、永遠の生は与えられぬ。
しかし、魂は、この世の肉体が滅びても、あの世に帰り、その活動を続ける。命を持ち続ける。
魂と命、それは神の御心を映し、ご意志、ご意図を実現させるために、肉体が与えられる。しかし、ひとたび肉体を手に入れし魂は、我を持ち始め、欲望、執着を持ち始めて、神の御心を映さぬものとなる。
なれば、魂の曇りを消し、魂が、再び神の御心を映せるまでに、魂を浄め、高めねばあんらぬ。
さなくば、この世は、人の欲望のみが渦巻く地獄ともなるらん。
神は、この世の立て替え、立て直しの時期を近き明日に定められし。
その時までの短き間に、一人でも多くの魂、生命、肉体が、この世にいる間に、果たさねばならぬみ役を、十分に果たさねばならず、それは、選ばれし幾人かの人が行うのではなく、人々が集まり、神の手足となりて、互いを助け合って、行わねばできぬことなり。
出会いし者は、早急に神のご意志、ご意図を確認し、己れのみ役を確認し直し、自らの役目を果たしていかねば、間に合わぬ。
神がどのようにお仕組みを仕組まれようと、それに人が気付かずば、この世は変わらぬ。仕組みも止まる。
止まり、滅びるか。気付きて動くか。それは各々(おのおの)の決めることなり。
あるいは、各々(おのおの)が、振り返り、顧(かえり)みて、いかなる悟りを得るかにかかろう。
それは、各々の生き方、この世での行の積み方により、変わってこよう。よき生き方、行の積み方をされし者は、悟りも速かろう。しかし、神の御心に適わぬ行い多き者、曇り汚れの激しき者は、いかなるお仕組みにも悟りを得ず、曇り汚れをさらに深めゆこう。
最後(さいご)の時に、人は、最期の悟りを与えられる。しかし、最期の悟りの時では既(すで)に遅し。悟り得ても、肉体は既になく、魂の消滅とともに、永遠の時の中から消えゆくなり。
時は短し。与えられし時は短し。
いかなる努力も、神の御心(みこころ)に適わぬ努力、自らのみ役を担(にな)わぬ努力は、ただ我欲からなされる行いにて、神は見捨てられよう。そして、魂を消滅させられよう。神は、気付きぢ魂のみを残し、集め、新たにそれぞれのみ役を与えられる。その時、残りし魂は、神の御心を素直に映す魂なり。神のご意志、ご意図に通じる心を備わせられし魂なり。
よいな、今日そなたが我々のことばを聞き、書き留(と)め、この世に残すことは、必ず他の人に読ませ、知らしめ、一人でも多くの魂に気付きを与えんためなり。一人は全て、全ては一人。一人一人が独りではならぬ。
一人一人が集まり集あ(つど)いて、神の御心に調和し、一つの生命体のようにして全体を作り、この世を動かしテイク時、我(が)は消え、欲もなく、争いもなくなろう。なぜなら、人を動かすものは一つなればなり。
人が人と比べ合い、違いを見付け、他を憎み、そねみ、羨(うらや)む。それは我(が)にて、神の御心に遠きものなり。
神の御心に、人の心が通じゆき、一つに和する時、人は我なく欲なく、己れなく、人との違いも、み役の違い、課せられし行の違いに過ぎぬことを知り、故(ゆえ)に争うことなく、妬(ねた)み そねむこともなし。
人が己れをなくし、神と真(しん)に心 調和させ、神のご意志が即ち 自らの意志となるとき、それは この世に神の国を実現させ得たときなり。その時、人は、神に近く、神の御心に適い、神の御心を映したこの世を作り得よう。
神はただ、人に幸せを与え、人を平和に楽しく暮らさせんために、今日(こんにち)までの長い歴史、時の流れを費やされた。歴史、時の流れ、人の営み、万物の盛衰、生命の興亡、何一つ、意味無きものはない。
来たるべき日、神の国がこの世に生まれしとき、人は再び、その意味を知ろう。
そして、その時にこそ、人は人として、神の子として、神の映された心を持ち、神の御心を見、思い、悟ることとなろう。
それまでは、人は、人としてのみ、この世を、この世での現象を、見聞き感じることしかできぬ。
しかし、間もなくの日、来るべき時の訪れる日、人は己れの役割と、神の御心と、他の生命、全ての生命、自然、物質、地球、それら全てと和する魂を与えられる。否、自ら浄まり高まっておらねばならぬ。
よいか、今日、我々はことさら長く、神のご意図ご意志をそなたに伝えし。
なれど、それは、一つ一つが異なることを意味するのではなく。意味することはただ一つなることを、そなたに、或いは、これを読まれる人の魂に、悟って頂きたいがためなり。
よいな、人、一人一人、生命の元は一つなり。
なれど、肉体を持ち、我(が)を持ちし時から、人は、神の御心から急速に離れてゆくものなり。
なれば、気付きし者は、今すぐ神の御心に立ち返り、清い魂を取り戻さねばならぬ。そして、霊行を求め、霊行を積まねばならぬ。
人は、霊行を通じてのみ、神の御心を知ることができる。それは、我(が)のない、欲のない、汚れ、曇りとは、最も遠き行であり、神の御心に最も近き行いなればなり。
神は、人類全ての救済のため、人類全てを生まれ変わらせるために、仕組みをもって示されてきた。その仕組みを学び、悟れよ。肝に銘じ、肚(はら)に刻めよ。
よいな、そなたももうすぐ変わりゆこう。神の御心に近づくための、幾つかの鍛え、試しが与えられよう。
耐えて、忍べよ。清き魂には、それも辛く苦しいものではないはず。有り難いお仕組みとして、感謝し、喜びて、行に励めよ。共に行じ、共に越えなん。神のお仕組みなれば、共に導き、高まりゆかん。
今日は長き伝えになりし。今日も、明日も、人は人として、なすべきことあり。
なれば、そなたも、その行をなされよ。そして、明日また新たな通信をせん。
ひふみともこ著 「神から人へ・上」より抜粋
ひふみともこHP
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