名古屋高裁刑事第2部の門野博判事らは12月26日、数々の証拠で無実が明白になり、名古屋高裁刑事第1部が再審開始を認めざるをえなかった名張毒ぶどう酒えん罪事件の奥西勝さんに対し、デッチあげ死刑判決を居直る再審開始決定取り消しを行った。
「証拠が存在しないのは無罪の理由にならない」
死刑判決では、犯人にデッチあげられた奥西さんが所持していた農薬「ニッカリンT」が、犯行に使われたぶどう酒に混入された毒物とされている。ところが、ぶどう酒内には「ニッカリンT」の成分が含まれていなかった。この点について、門野は「(成分が)検出されないこともある」から「農薬がニッカリンTでないとはいえない」と居直った。
近代刑事裁判の「無罪推定の原則」では、「ニッカリンT」が使用されたと認定するにはそれを裏付ける積極的な証拠が必要だ。ところが、門野は「使われなかったという証拠がないから使われた」という詭弁で、「無罪推定の原則」を公然と否定し、奥西さんを再び犯人にデッチあげた。
「他の可能性は明白な再審開始理由ではない」
ぶどう酒の王冠を覆う封かん紙を破らずに王冠を開けることが可能なこと、王冠の足の折れ曲がりは人間の歯ではなく栓抜きのような器具を使用したことを証明した「2度開栓実験」の鑑定結果は、奥西さんしか犯行はできないという死刑判決の誤りを明らかにした。これについても、門野は「新証拠は新規性は認められるが、(死刑判決を覆すほどの)明白性は認められない」と切り捨てた。「認定以外のやり方が可能だとしてもやらなかった証明とはならない」という論理で門野が言いたいのは、「無実であることが百パーセント証明されない限り有罪だ」ということなのだ。
さらに許せないのは、「自らが極刑となることが予想される重大犯罪について進んでうその自白をするとは考えられない」などと、松川事件などこれまでの死刑えん罪事件が示してきた歴史的事実と日本の刑事捜査の現実をなんの根拠もなく否定し、極刑すらもが救いに思えてしまうようなすさまじい警察の拷問的取調べを免罪していることである。
「証拠がなくても有罪」犯人ねつ造の確信犯
では、このように近代刑事裁判の原則を公然と踏みにじって恥じない門野博という人物は、いかなる人物なのか。
門野は、この再審開始決定取り消しの前の06年7月にも、02年に三重県亀山市で発生した殺人事件で、証拠なしの無期判決を下している。
捜査段階では被告のアリバイを裏付けていた知人が公判では証言を撤回するなど、警察の意図的デッチあげの可能性が非常に高い事件である。現場には大量の血痕が残されていたのに事件直後の被告の衣服などには血痕が見つかっておらず、凶器も発見されていない。指紋もなく、被告が犯人とする直接証拠は何もない。しかし、門野は「物証はないものの間接事実を総合すれば被告が犯人であることを認定できる」と、被告がたまたま事件直後に借金を返した事実について説明しないから犯人だと決めつけたのだ。
無実の可能性があっても状況証拠だけで有罪
門野は、1998年7月1日のいわゆる「ロス疑惑事件」控訴審判決に陪席裁判官として参加している。
この判決で東京高裁第3刑事部は、有罪の立証がないとして被告を無罪にした。しかし、判決は、「もし情況証拠から推認をする過程にいくらかの疑問が残ることを理由として、…安易に疑いが残ると判断して証明不十分とするならば、情況証拠による犯罪立証の余地は、大幅に狭められ過ぎる」「(刑事裁判における)合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証」とは「反対事実の疑いを全く残さない場合をいうのではなく、抽象的には反対事実の疑いを入れる余地がある場合であっても、社会経験上はその疑いに合理性がないと一般的に判断されるような場合は、有罪認定を可能とする趣旨」であると、「社会経験」の名で状況証拠での有罪認定の基準を大幅に緩和し、“あやしければ有罪”というデッチあげの論理を打ち出しているのである。ただ、そのあまりのでたらめさに動揺し「中核となる要証事実について、質の高い情況証拠による立証が不可欠」として、共謀の相手も内容も不明ではさすがに有罪にできないとしたにすぎない。
こうした経歴の中で、“単に無実の可能性があるからといって状況証拠のみで有罪判決を書くことをためらってはならない”“証拠がなくても有罪判決を書くのが官僚裁判官の使命”と学んで来た門野は、今や「中核となる要証事実について、質の高い情況証拠による立証が不可欠」というためらいも捨て去り、使用された毒物などの「中核となる要証事実」で証拠がなくても有罪と決めつけるところまで腐敗を極めたのである。
デッチあげが使命の官僚裁判官の追放を
このような“あやしければ有罪”というのは一人門野のみの特徴ではない。和歌山カレーえん罪事件の和歌山地裁判事・小川育央、恵庭えん罪事件の札幌地裁判事の遠藤和正など“証拠がなくても有罪”というかつての魔女裁判を思い起こさせる前近代的な裁判を強行して恥じない判事が増えている。
前記の亀山市の事件では、検察は公判が維持できないと一度は被疑者を釈放している。そのような証拠のないケースでも起訴さえすれば有罪という官僚裁判官の有罪判決乱発が、警察に証拠収集は不必要との考えを蔓延させ、ますます証拠なき有罪判決を不可避とさせているのだ。
私たちは、このような下劣で恥知らずな官僚裁判官たちにいつまで私たち自身の自由と人権をゆだね続けなければならないのだろうか。えん罪被害者の救援に努めるだけでなく、えん罪を続発させて恥じない腐敗した官僚裁判官の手から市民の手に刑事裁判を取り戻すために闘う必要があるのではないだろうか。