自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

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 今井亮一さんから、私も会員である国賠ネットのメーリングリストに〈裁判員制度を大河ドラマ風に見ると〉という投稿があった。投稿内容をここで紹介はできないが、それになぞらえて〈裁判員制度不要論を大河ドラマ風に見ると〉次のようになるのではないか。

第1章 プロローグ

 刑事裁判は絶望的な状況というのが、刑事裁判にかかわってきた多くの弁護士や法律家の共通認識だった。最近では多くのえん罪の表面化で刑事裁判に対する不信は市民の間にも広がり始めた。
 その背景には、職業裁判官による安易な有罪判決乱発が、警察の捜査能力、実は証拠ねつ造能力を低下させ、戦後刑事手続きの基本的犯人ねつ造手段だった「精密司法」が維持できなくなったことがある。それに代わったのが、「間接証拠の積み重ね」と称する、容疑者の中で一番怪しいものを犯人とし、有罪認定に直接証拠はいらないという「ラフ(粗雑)司法」だった。その典型的ケースが和歌山カレーえん罪事件であり、恵庭、北陵クリニックのえん罪事件だ。しかし、腐敗したマスコミを動員した犯人視キャンペーンも、その粗雑さを隠蔽して市民を納得させることができないでいる。
 そして、もはや職業裁判官たちにいかなる改革も期待できないという認識も広がっている。それが「絶望」の意味だ。
 そうした日本の刑事手続きの歪みと人権侵害状況は、規約人権委員会の勧告などで国際的にも共通認識となっている。

第2章 司法改革の開始

 こうした市民の不信の高まりと国際的批判に追いつめられて、突然自民党政府などが言い出したのが「司法改革」における刑事手続きの「改革」だった。
 その目的は、第一に、形式的な「改革」を打ち出すことで市民の不信の高まりと国際的批判をかわすこと、第二に「改革」を表面的、形式的なものにとどめることで、犯人ねつ造を基本とする治安維持法型戦後刑事手続きの実質を維持し続けることにある。

第3章 裁判員制度の登場

 陪審制の目的は、同僚である市民の承認なしに、ある市民に対する国家の刑罰権行使を許さないことにある。それは市民による直接的な裁判権の掌握であって、決して一般的な市民参加でも裁判監視でもない。ただ陪審制のみが、専制時代のような国家の恣意的な刑罰権行使から市民の人権と自由を守る唯一の途である。陪審員となることは、被告席に立たされた市民の人権を守るという、同僚である市民の絶対的義務なのだ。
 だからこそ、陪審制をとった多くの国で行政権力は様々な詭弁で陪審制を後退させようとしてきた。日本では戦時体制を口実に陪審制が停止され、戦後も政府はその復活を拒否してきた。それを可能としてきた理由が、市民よりも司法官僚を信頼し、陪審制を嫌悪してきた日本の多くの法律家の腐敗であり、自分自身を信頼できず官僚に引きずり回されてヨシとしてきた多くの市民の無関心だ。民主主義の絶対的基礎である武装した市民の存在を欠く日本の戦後民主主義の歪みがここに示されている。
 そして、陪審制の復活を阻止するために最終的に政府が打ち出したのが裁判員制度である。したがって、その目的は職業裁判官の裁判権(有罪・無罪の認定権)行使を維持し続けるところにある。
 そのために裁判員制度は第一に、職業裁判官に評議への参加を認め、評決への事実上の拒否権を与えた。
 第二に、陪審制を市民による裁判権行使とするために不可欠な、刑事裁判の基本原則の公的表明=説示を排除した。その結果、有罪推定などと言われる日本の反近代的、人権侵害的刑事原則も表面化せず維持され続けている。
 第三に、法令解釈を職業裁判官の専権とし、裁判員がそれに従う義務を導入した。法令解釈と事実認定の基準を明確に分けることは困難なことから、密室の中で職業裁判官による評議の誘導、市民への結論の強制が可能となった。
 第四に、誰に裁かれるかを選ぶ被告人の権利を否定し、裁判員裁判を強制としただけでなく、被告人の「理由なき忌避」の行使を実質的に困難とした。

第4章 制度不要論の誕生

 職業裁判官による反近代的刑事裁判を実質的に維持するためのこのような多くの問題点の存在を背景として、「改革」に込めた政府の意図の貫徹を市民が阻止できるはずがないという絶望と市民自身への不信から、裁判員制度を正面から批判するのではなく「前の方がましだった」とただ感情的反発をあおり立てる運動が生まれた。「裁判員制度はいらない」と称する裁判員制度不要論である。
 特徴の第一は、「裁判員になったらクビになる」などという市民への脅しと、「信号も守れない」「義務教育を終えただけ」の市民に裁判は任せられないという市民蔑視である。その背景には、刑事裁判とは犯罪者を断罪する場という日本の司法界を支配する転倒した裁判観がある。シロウトに狡猾な犯罪者のウソを見抜けるはずがないというわけだ。
 第二は、“いらない運動”の問答無用の「絶対反対」に示される、裁判員制度を分析し、批判することを「改良主義」への屈服として拒否する反知性主義だ。
 第三に、こうした批判なき反対論・不要論は、どのような根拠でなされたものでも“反対”論は諸手を上げて歓迎するが、少しでも反対論・不要論の問題性を指摘する意見は罵倒する硬直姿勢を生み出す。不要論者にとって“裁判員制度反対”は敵味方を分ける踏み絵だ。“反対”ならば、免田事件など死刑えん罪事件は「有罪の証拠があったから有罪判決を出しただけだ」とうそぶく西野喜一元判事のような反動的人物も歓迎され、“反対”を言わなければ刑事手続きの現状を真剣に憂慮し説示の必要性を訴える五十嵐双葉弁護士などは罵倒される。
 第四に、こうした批判なき反対論・不要論の行き着く先は、市民は職業裁判官を信頼してまかせておけば良い、裁判員制度導入前に戻るべきだという、職業裁判官・司法官僚賛美、日本の刑事手続き賛美の翼賛運動だ。
 私は、裁判員制度批判の必要性、つまり近代刑事裁判制度がどうあるべきか、それに比較して日本の刑事裁判制度がどうなっているか、裁判員制度は現状に対してどのような影響を持つか、まず真剣に検討し、具体的に批判していく必要があることを繰り返し訴えてきた。西野元判事の反動的著作を“いらない運動”が推薦した際には事務局のN弁護士に直接抗議した。しかし、そうした訴えを「いらない運動」の人々は一顧もしない。
 不要論者は主観的には政府の悪法・制度改悪に反対して闘っているつもりだろう。しかし、彼・彼女たちが、現在の刑事裁判をどう変えるべきか議論することを改革論議に巻き込まれるとか政府に取り込まれるとして拒否している限り、すでに命運のつきた戦後刑事裁判制度の復活を夢想する翼賛運動となるしかない。これが、私が破防法団体適用反対闘争などでこれまで肩を並べて闘ってきた、不要論を主張する人びとと袂を分かつしかなかった理由である。

第5章 不要論が生むもの

 これまで、市民は法廷の外や傍聴席で裁判を批判してきた。いわば、土俵の下から力士の取り組みを批判する観客だった。その批判の正当性を無視できなくなったからこそ「だったら土俵に上がって自分でやってみろ」という声が出てきたのだ。ところがそうした声をかけられた瞬間、「いや力士を信頼している」と後ずさりしてしまったのが不要論だ。
 「だったら黙ってろ」となるのが当然だし、自分で責任を取ろうとしない批判が相手にされるはずもない。行政権力が不要論を奇禍として裁判員制度の廃止に踏み切ったならば、もはや市民の刑事裁判批判はまともに相手にされないだろう。市民はプロの裁判官の判断を信頼すべきで、シロウトが口を出すべきではないという主張が社会を支配し、市民の刑事裁判批判やえん罪救援運動などはもはや存続すらできなくなる。
 20世紀初頭、レーニンは、戦場に引き立てられていく労働者たちに向かって「敵国の労働者農民を殺すために押し付けられた銃を投げ捨てるのではなく、専制を倒すために銃を利用すべきだ」と訴えた。いま私たちも、押し付けられた裁判員制度を、戦後の治安維持法型刑事裁判を倒すために利用すべきなのだ。
一例をあげよう。理由を示さず忌避される8人を含めた裁判員候補14人のうち9人が死刑制度に反対ならば、検察官がうち4人を忌避しても5人の死刑反対裁判員が残る。そうすれば職業裁判官全員が死刑判決を出そうとしても不可能になる。14分の9つまり65%弱の市民が少なくとも自分は死刑判決を出だせないと考えれば、それだけで死刑制度は事実上廃止される。死刑廃止運動は具体的数値目標を手に入れたのだ。

第6章 エピローグ:次は…

 「いらない運動」の人々も、現在の刑事裁判制度の最大の問題が「公判前整理手続き」にあることを認めている。「公判前整理手続き」とは、これまで市民を排除した公判廷で行われていた証拠、証人の採用の可否などを、裁判員が登場する公判の前に移したものだ。だから、それは職業裁判官による刑事裁判統制の維持に本質があり、裁判員制度によって新たに登場した“悪”ではない。
 公判開始前に犯人ねつ造が終わり、その根拠となる「証拠」のみが公判廷に出されるのだから、裁判員がどれほど真摯に検討してもねつ造を明らかにすることはできないだろう。違いは職業裁判官は公判廷で意図的にそれに加担してきたが、市民は知らないということだ。
 戦後刑事手続きが被告人の人権を侵害し、えん罪を生み出し続けている原因は、捜査から起訴に至る公判準備手続きにあり、公判制度をどれほど変えても解決できないことが明らかになりつつある。
 訴追者つまり有罪獲得を目的とする検察とその指揮下の警察に一方的に、被疑者・被告人を強制的に取り調べ、自白を強制し、また強制的に証拠を集め管理し隠匿することを認めた反近代的捜査・起訴システムだ。治安維持法と戦時体制が導入し、戦後刑訴法が全面化したこのシステム、日本の近代法制形成においてボアソナードがあまりに不当として排除したこのシステムを改革することなしに、日本の刑事手続きの近代化と人権保護制度への転換はできない。
 裁判員制度の完全な陪審制度への移行とともに、予審制度の復活が次の課題となる。強制捜査権を裁判所に移行する予審制度によって初めて、訴追側と被疑者・被告人双方が等しくその成果を利用できる真の当事者対等が捜査段階から実現するのだ。
 そのためにも、治安維持法などの刑罰強化のみに焦点を当て、刑事手続きの反近代的変更を無視・黙認してきた戦後の法律家たちの怠慢を、市民自身が厳しく弾劾していく必要がある。(了)

閉じる コメント(3)

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自由ネコさん こんにちは

説示や公判前整理手続きの内容を改善するのは可能でしょうが、予審制度の復活は制度改革に働きかけないと実現しないでしょうね。裁判員に選ばれた人は、捜査段階に疑問を持つ目を持たなければならないですね。

2010/5/9(日) 午後 1:12 [ nanachan.umekichi ]

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nanachan.umekichiさん、こんばんは
刑事手続きの根本的転換は、社会全体の変革と一緒じゃないと難しいでしょう。でも、現行の捜査・起訴制度の人権侵害的現実をきちんと共通の認識としていかないと、その時でも転換のチャンスを逃すことになります。
私は、警察が恣意的にある市民を犯人と考えただけで、その市民を閉じ込め、取り調べに名を借りた心理的肉体的拷問を加えることが許されている日本社会は異常としか思えませんし、そんな社会で安心して生きることもできません。多くの人たちは、自分がそうした立場になりうるという想像力がないのか、それともそうなったらあきらめるしかないと絶望しているのか、どちらなのでしょう。

2010/5/10(月) 午前 0:16 自由ネコ

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自由ネコさん おはようございます

私は裁判員制度を知るためにすこし勉強したこととあなたの記事から、今の刑事手続きが市民をどんなに追い込むことか、異常であると理解できます。

無罪判決の菅家さんが、事件当時自分は人前で自分の気持ちを伝えることが出来ない人間だったと話されていました。そんな彼が閉じ込められ、脅され、泣いたテープを今になって聴いたときフラッシュバックしたでしょうね。それを思うと2度胸が痛みます。裁判員制度の導入は市民が裁判に目を向けるきっかけを作りました。この機を逃さず訴えていきましょう。私も勉強します。

2010/5/10(月) 午前 10:05 [ nanachan.umekichi ]


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