多くのえん罪事件を生み出し続けている日本の刑事手続きは、それを担う司法官僚たちがもはやこれまで通りやってはいけないと感じ、多くの市民が刑事裁判への信頼を失いこれまで通りを望まない危機的状況にあります。そうした中で登場した裁判員制度は、疑似「陪審制・参審制」という新形式の導入によって批判をかわし、職業裁判官と検察官一体での犯人ねつ造と一方的断罪という戦後刑事手続きの本質を維持し続けるところに目的があります。
だから、裁判員制度の徹底的批判が必要です。ただそれは、市民にとって刑事裁判はどうあるべきかという理念と正確な現状認識を前提に、裁判員制度が現状にどのような影響を与えるかという分析に基づいた批判でなければ意味はありません。私は、そうした批判の必要性を繰り返し訴えてきましたが、残念ながら「裁判員制度はいらない!大運動」の方々からは嫌悪感の表明やステレオタイプな罵倒しか聞こえてきません。
兵役義務の憲法規定は徴兵制施行の前提ではない
救援連絡センターの機関紙『救援』494号に、斎藤文男・九州大学名誉教授の「裁判員裁判にNOを!/『治安の砦』化する司法」と題する文章が載りました。
斎藤教授のような研究者と私のような非研究者の最も大きな違いは、主張の根拠となる事実に対する研究者の厳密な検証だと私は考え、それに近づこうと努力してきました。たとえ異論があっても、前提とされた事実を論争の共通の出発点とすることができるからです。ところが、裁判員制度がテーマとなると、斎藤教授のような方でもそうした厳密さは消えてしまうようです。
斎藤教授は次のように述べます。
「明治憲法には兵役の義務があった。だから、徴兵制が敷けた。しかし、現行憲法には兵役の義務はもちろん『裁判員となる義務』などありはしない。もし、いま徴兵制を敷けば、憲法違反は明らかだろう。同様に憲法にない…裁判員制度は憲法違反だ」
しかし、まず第1に、明治憲法の兵役の義務の規定が徴兵制施行の前提というのは間違いです。
日本の徴兵制は、1872年の「全国徴兵に関する詔」 および1873年の太政官布告「徴兵令」により始まります。一方、明治憲法発布は1889年ですから、1872年には存在していない明治憲法の規定によって「徴兵制が敷けた」はずはありません。
第2に、現行憲法に義務規定がないことが徴兵制違憲論の根拠なのでしょうか。
これまで、自国の戦争に反対する多くの市民は、戦争と軍隊を禁止している9条を徴兵制違憲論の根拠と主張してきたのではないでしょうか。規定がないからではなく、禁止規定があるから違憲なのです。ところが、裁判員制度を徴兵制になぞらえる方はなぜか9条に言及しません。憲法は戦争を禁止していますが刑事裁判を禁止してはいませんから、9条に言及すれば裁判員制度と徴兵制の性格の違いが明白になり、裁判員制度違憲論の論理的破綻が明白になってしまうからでしょうか。
第3に、明治憲法下で陪審制度が実施されていました。明治憲法に「陪審員となる義務」の規定はありません。しかも、現行憲法下でも陪審制度は停止されていただけで違憲とされてはいません。
市民自身の責任を否定してはならない
斎藤教授は、次のようにも述べます。
「戦争で、国家は兵士に敵を殺し、自分も殺されることを命じる。裁判では、国家は裁判官に死刑判決で被告人を殺すように命じる。裁判員制度は、私たちに裁判官並みの権限を持たせ、合法的な人殺しを強いている」
第1に、「合法的な人殺しを強いる」国家とは市民自身ではないでしょうか。
かつての日本の侵略戦争について、私は「あれは天皇制専制政府が行ったこと。日本の市民に責任はない」とは考えません。まして戦後民主主義の現在、自衛隊が行っている中東などでの戦争について私を含めた日本の市民が責任を回避できるとは思いません。だから、かりに日本版9.11があったとしても、「無差別テロ」などと一方的に被害者面をすることは私にはできません。
同じく、職業裁判官が行おうと「合法的殺人」の責任を取るべきは市民自身以外にはありません。だから私は自国の戦争だけでなく死刑制度にも反対します。米国の多くの州で、死刑判決に限っては陪審員の承認が必要という動きが広がっているのも、死刑のような重大刑罰の場合には市民自身が直接責任を持つべきだという考えだからでしょう。
しかし、斎藤教授は、裁判員制度がなければ市民が「合法的殺人」に対して「あれは職業裁判官のしたこと」と責任逃れできると考えているようです。だから「後方勤務」「代替役務」に従事していたから自国の侵略戦争に責任はないとばかりに「良心的兵役拒否」を持ち上げ、「裁判員にも『良心的拒否』が認められてしかるべき」などと述べることができるのです。自らの責任回避の願望を「思想・良心の自由」という言葉で正当化しようというのは恥ずべきことと私は思います。
「自分が判決したわけじゃない」という市民の無関心と無責任こそが、日本の死刑制度を維持している最大の要因でしょう。 徴兵制も裁判員制度も、市民自身を当事者とすることでこうした無関心と無責任を困難にします。大運動の方々は、“市民に死刑判決が出せるのか”などと言います。死刑判決が出せなければそんな非人道的刑罰は廃止すればいいのです。
刑事裁判を犯罪者断罪の手段としてはならない
第2に、「国家は裁判官に死刑判決で被告人を殺すように命じる」という斎藤教授の言葉の中には、検察官と裁判官が協力して犯罪者を断罪するという、日本の法曹界の主流である反近代的刑事裁判観が示されています。
国家(行政権)の不当な刑罰権行使から被告人の人権を守ることに近代的刑事裁判の目的があります。だから、裁判官・裁判員の役割は、“被告人は罰する(殺す)しかない”と主張する検察官・行政権力と対決し、チェックし、少しでも疑問があればそれを禁止することです。それが「無罪推定」原則の本来の意味であり、「たとえ真犯人を取り逃がしても、たった1人でも無辜(無実の者)を罰してはならない」という金言が訴えていることなのです。
犯罪者の言い逃れを見破り断罪するためなら専門的訓練を受けた職業裁判官に比べて市民は能力不足でしょう。しかし、検察官の主張の正当性の判断基準を、“何の専門的訓練もない市民を誰でも納得させるところまで立証できたか”におく近代刑事裁判では、検察官の立証の不備を訓練でカバーしてしまう職業裁判官に有罪・無罪を判断させてはいけません。犯罪者断罪という反近代的刑事裁判観の実現・有罪判決のために専門知識を駆使する職業裁判官が判決を書き続けてきたところに、えん罪続発の原因があります。裁判員制度の最大の欠陥も職業裁判官を評議から排除できていないことです。
市民には公権力行使できないという詭弁
斎藤教授は次のように続けます。
「裁判員は、公務員ではない。民間人、私人だ。一私人が、どうして…公権力が行使できるのか。こんなことは旧憲法下でもなかった」
では、旧憲法下で天皇は公務員だったのでしょうか。公務員でないとすれば、天皇には公権力が行使できなかったのでしょうか。戦前の主権者である天皇に権力が行使できたのなら、戦後の主権者である市民に権力行使ができるのは当然ではないでしょうか。
斎藤教授の主張は、公務員でなければ民間人だ、民間人なら私人だという、たがいに意味も性格も範囲も異なる言葉・概念をその対象の重複を利用してすり替え、あたかも市民個人の恣意的な「殺人」を「合法」と認めるのが裁判員制度であるかのように描き上げる詭弁とイメージ操作です。
人権を口実とした専制の正当化
斎藤教授が、裁判員制度反対の背景にある最も根底的思想を述べているのが次のような部分です。
「司法は、政治部門から独立して憲法を頂点とした法秩序を守る」「国民多数の意志や世論に抗しても、個人の人権を守る。つまり、民主主義の暴走に歯止めをかけ、『人権の砦』となることこそ、司法の役割だ。その意味では元来、裁判所は自由主義のための機関であって、『民主化』されてはならない」
最高裁が、「有形力」などの詭弁を使い、現行憲法の人権条項を歪曲し否定する「人権破壊の砦」として戦後一貫して存在してきたという歴史的事実は、ひとまず指摘しておくだけにします。
第1に、斎藤教授にとって、人権とは政府に対する市民の権利、専制に対する人民の権利ではなく、一部の国民を他の国民から守るためのもののようです。
司法を含む国家機関は、しばしば人権を侵害する危険な存在として市民が憲法を通して監視しなければならない存在ではなく、国民や「秩序」を守る擁護者として描かれます。刑事裁判も、犯罪者という市民の一部から犯罪被害者など他の市民を守るための制度で、国家の刑罰権行使から被告席の市民を守るためのものではないようです。そこには、「犯罪被害者の人権」を叫ぶ宙の会と同じ「人権の名で人権を踏みにじる」論理が貫かれています。「犯罪者は『社会の敵』だ」から「社会から抹殺し、隔離」することで「法秩序を守る」のが司法の役割という「権力者、治安当局の視点」は、すでに斎藤教授の中に貫かれています。
第2に、斎藤教授が警戒しているのは、権力の暴走ではなく「民主主義の暴走」であり、市民自身です。
そこには市民に対する蔑視と恐怖が色濃く表れています。こうした民主主義を愚民政治と罵倒する思想は、原始共産制と母系制社会の解体で、階級支配と家父長制社会が登場したブラトンの時代から、支配と抑圧の正当化の思想として連綿と続いてきました。愚かな人民大衆をその愚行から守るために「哲人による政治」「慈悲深い専制」が必要という思想は、現在も「前衛による労働者大衆の指導」というスターリン主義的専制など根深く存在しています。新左翼や全共闘運動も克服できなかったこうした選民思想が、裁判員制度という疑似変革をきっかけに一挙に表面化し、拡大し始めています。
こうした市民への蔑視と恐怖を持つ人々が、自らを市民運動と押し出さざるをえないというところに、大運動のジレンマがあります。その克服のためには、参加する市民を“愚かな市民”とは別の存在と聖別するしかありません。目覚めた自分たちと無知の闇の中でさまよう市民という対立関係の中で、もはや「裁判員制度はいらない」は改革をめぐる政策主張ではなく一つの信仰告白となっています。だから、インカ文明を破壊したフランシスコ・ピサロがそれでもキリスト教徒でありえたように、西野喜一元判事のような反動的人物でも「裁判員制度反対」という信仰告白を行えば同信の仲間でありうるのです。
市民に市民をけしかける体制翼賛
斎藤教授は次のように述べます。
「本気で司法を『民主化』したいのなら、どうして全国3500人の裁判官を選挙制にしないのか。まず手始めに、最高裁判事15人を民間人から選挙で選べば良かろう」
まさにそれこそ、私を含めてえん罪など司法によって踏みにじられた多くの市民の要求です。
しかし、斎藤教授は
「だが、そんなことをしたら…その時々の国民世論に左右され、司法は『人権の砦」ではなくなる」
と真っ向から反対します。
これまでの司法が「人権の砦」であったかのような刑事手続きの現状への恐るべき無知と、人権侵害の責任を世論(市民)にすり替える詭弁が、国家・司法を人権の保護者として賛美し、市民に市民をけしかける分割支配推進の翼賛運動を生み出しています。
自由ネコさん こんにちは
今、映画「BOX 袴田事件 命とは」上映されていますね。
昭和41年6月30日未明、静岡県清水市で味噌製造会社専務の自宅が放火され、一家4人が殺害された。警察 は、従業員で元ボクサーの袴田巌を容疑者として逮捕、連日、過酷な取り調べを行った。そして、拘留期限の3日前、自白にこぎつけるが裁判では犯行を全面的に否認。裁判官の熊本は警察の捜査に疑問を抱き始める。乏しい物証の中での、強制の疑いのある自白…。しかし熊本は、無罪を確信しながらも他2名の裁判官の合議に負けてしまう。--- goo映画紹介より
[ 2010年5月29日公開 ]
「裁判官の良心」(Judge's conscience) 袴田事件に関わった熊本典道氏の良心 http://kumamoto.yoka-yoka.jp/c3199.html
>裁判員制度の徹底的批判が必要です。
戦争のことや自分の宗教観にも時間をかけ、仕事と家事に明け暮れる毎日を反省し、あなたの言われることについて考えていきたいと思います。
2010/6/27(日) 午後 2:19 [ nanachan.umekichi ]
自由ネコさん、こんばんは。
紹介された斎藤文男さんの主張のうち、いちばんおかしいのは、「裁判員制度が市民に合法的な殺人を強いる」という部分だと思います。法律は、市民に裁判員になることを強制しても、死刑判決に賛成することを強制はしません。死刑に賛成なら、それを言い渡す責任を裁判官だけに押しつけるべきではありません。死刑に反対なら、裁判員になって、死刑の適用に反対するべきです。その選択の自由は保障されています。評決で負けて結果が死刑判決になったとしても、死刑に荷担したことにはなりません。死刑にするかどうか、その選択の責任を負いたくないという気持ちは分かります。しかし、その責任を引き受ける覚悟のない者が、思想、良心の自由を主張できるとは思えません。
2010/6/28(月) 午後 11:21 [ Boccherini ]
nanachan.umekichiさん、Boccheriniさん、コメントありがとうございます。
Boccheriniさんのおっしゃっていることは、まさに私が言いたかったことです。職業裁判官の出した判決でも、死刑制度の存続を認めている市民自身の責任は否定できません。もしそれに目を閉ざせば、かつて自国の侵略戦争に目を閉ざした日本の市民が原爆や焼夷弾の雨という形でその無責任のつけをはらわされたように、えん罪被害などの形でそのつけを払うしかなくなります。殺人犯にでっちあげられ、30歳代と40歳代前半を潜行生活で、その後10年をえん罪を晴らすために費やさざるをえなかった私の実感です。
逆に、死刑反対の市民が積極的に裁判員になれば、制度がなくなる前に死刑判決を不可能にもできるのです。
2010/6/29(火) 午前 0:22
nanachan.umekichiさん、熊本判事は「なぜ44本の供述調書を認めなかったのに1本だけ採用したのか」と裁判長を問いつめたそうです。その答えは、「すべての供述調書を認めないと有罪判決が書けなくなる」というものでした。“裁判員制度はいらない!大運動”の方は、「赤信号も守れない市民に(自分は)裁かれたくない」と述べていますが、正確には「(犯罪者を野放しにしかねないから)裁かせたくない」でしょう。私は「場合によっては赤信号を守る必要はないだけでなく、赤信号を守ることができない場合もあることを認めない職業裁判官に(私は)裁かれたくありません」。
2010/6/29(火) 午前 0:23
自由ネコさん おはようございます
長く冤罪に苦しまれたのですね。Fightさんが家族として冤罪に苦しまれたことは今も続いています。人生を理不尽に壊していく警察権力だけでなく、仕事としてのマスコミのあくどさ、一般国民の無知、無関心がそれを支えてきているのだと思います。
罪があったとしてもその家族として苦しまれた人もブログで知り合いました。いろいろな立場で状況に呑み込まれていくのを他人ごとに思わずしっかりと考えていけるようブログで伝えていきたいと思います。
2010/6/29(火) 午前 7:56 [ nanachan.umekichi ]
自由ネコさん こんばんは
裁判員制度について本を読んでいるのですが、導入のいきさつはやはり国が進んで考え出したものではなかったというものでした。経済界がグローバル化のために規制緩和すると民事訴訟が増加すると予想され弁護士を増やしたいために、日弁連の推奨していた司法制度改革(今回の裁判員制度)をギブアンドテイクで後押ししたそうですね。結局弁護士を増やしても訴訟はそんなになくて、弁護士の仕事を奪い合うことになり、年間3000人の弁護士を増やす必要はなくなったそうですね。
それでは司法制度改革を経済界が支える必要ななく、今後裁判員制度がどうなっても、何の協力も得られないでしょうね。
2010/7/8(木) 午後 7:42 [ nanachan.umekichi ]