自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

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書評「アメリカ人弁護士が見た裁判員制度」

コリンP.A.ジョーンズ著、平凡社新書


刑事裁判は誰のためにあるか

 著者のジョーンズ氏は本書を書いた動機を第一に、裁判員制度について語られるときにしばしば陪審制度が引き合いに出されるが、両者は根本から違うことを明らかにすることだとして、次のように述べる。
「陪審制度は個人を公権力から守る最後の砦であるのに対して、…裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度」(p.10)
イメージ 1 著者の指摘するこの違いは陪審制度と裁判員制度の違いにとどまらない。陪審制度の根底にある米国や多くの近代的国家で支配的な刑事裁判観と日本で支配的な刑事裁判観の違いでもある。
 フランス大革命にはじまる近代市民社会の成立は、刑事裁判の性格を180度変えた。それまで刑事裁判は専制君主による一方的恣意的な臣民断罪の場だった。しかし市民革命は、それを市民が国家の刑罰権発動(刑罰を科すこと)を規制する場へと変えた。だから、職業裁判官による裁判でも、裁判官は市民の代理として、国家・公権力の刑罰権行使を規制する役割をはたさなければならない。裁かれるのは被告人ではなく検察官(公権力)である。無罪推定の原則にいう「普通の市民の合理的疑いを超えた証明」とはどこまで証明すればいいかの問題ではなく、市民が誰でも認める根拠なしに刑罰を科すのは許さないという承認の問題なのだ。だからこそ、死刑のような重大な刑罰の場合には、陪審制度の原則を曲げて市民が死刑の可否にまで判断を及ぼすべきだという発想も出てくる。
 こうした刑事裁判観の違いを前提に、著者は「普通の人が参加する裁判」の意義を明らかにすることが第2の目的だとして、次のように述べる。
「私が見たかぎり…『普通の人はバカか幼稚だ』というのが、裁判員制度だけでなく、日本の司法制度全体の一種の前提となっているように思える」(p.12)「陪審制度を参照しながら、一般市民の知恵は信頼していいものだ、信頼すべきだという考えを述べることが、この本を書いたもう一つの目的である」(p.14)
 そしてその解明のためには、法や制度が誰のために作られたかの解明が重要だと指摘する。
「出発時点から普通の日本人を見下して作られたとすれば、……裁判員制度が、『誰のための制度なのか』ということを検証することも重要だ」(p.15)

公権力のための法制度

 著者は、日本人の「訴訟嫌い」は法律や裁判が市民のために存在していなかった結果ではないかと示唆する。
「日本の法律は“上が下に押し付けるもの”という性質が非常に強く」(p.32)「罰則を背景とした義務や禁止事項を課すことにより、市民や企業などの自由を制限」する一方で、役所については「広範な裁量権を認めている」(p.37-38)
 その結果、市民が公権力を訴えてもまず勝利することはできない。これは国賠を訴えた日本の市民誰もが実感する現実だろう。
 米国における法律の役割は、
「このルールに則って行動すれば公権力の介入を受けない」、仮に介入する場合でも「公権力はそのためのルール(適正な手続き等)に従わなければならない」(p.43)
と公権力を規制することにあるが、それと対照的に
「日本の法律はまずお役所のためにある…かなりキツイ言い方をすると、『市民を公権力に屈服させることは、日本における法律の最大の目的である』」(p.39-40)
 「法は公権力のためにある」というのが「誰のため」という設問に対する著者の答えだ。
 こうした公権力による市民支配の手段という性格は、本来公権力を直接に規制するはずの憲法や人権にすら貫かれている。
「(人権には)『民対官』の性質が根本にある。ところが日本ではどうも違うようだ」「日本では…『人権』そのものが、市民がお互いに…主張するものとなっている」(p.67-68)
 さらに重要な指摘は、日本国憲法の人権条項が「公共の福祉」による制限によって、公権力を規制できないという指摘である。
「憲法上の国民の権利をどこまで制限できるかを、お役所が『公共の福祉』の判断次第で決められるならば」、憲法も人権も公権力が自由に取り上げることができる「贈り物」にすぎない(p.70)。
 まさに、日本の法制度や多くの法学者に決定的に欠落しているのは、人権や憲法、法制度によって市民が公権力の行動を監視し、規制するという視点なのだ。
 公権力が無制限のフリーハンドを持つという性格は裁判員制度にも貫かれている。
「普通の人が『何でこれが刑事事件になっている?』『こんな法律はおかしい』と疑問に思うような事件が(裁判員)制度の対象外になっていることは重要である。つまり、法律のグレーゾーンにおける法律の執行判断に対して、裁判員制度は『疑う機能』を持たず、裁判員制度が導入されても、警察等のお役所が市民生活に簡単に介入することができる環境はあまり変わらない制度設計になっている。これだけでも裁判員制度はアメリカの陪審制度とかなり違うものになる」(p.52)
 ここに裁判員制度を批判すべき第一の理由がある。裁判員制度の根底的問題性は、公権力を規制する視点も権限も持たず、対象にもできないことであり、そのために公権力が一方的に被告席の市民を断罪し続けてきた日本の刑事裁判の現状を変えられないことである。

独立なき裁判所

 人権や憲法、法律が公権力を規制する力を持たない日本で、では裁判所に公権力(行政府)の暴走を抑制する力があるだろうか。いわゆる『判検交流』や裁判官人事などにより三権分立や裁判官の独立が実質的に実現されておらず、一つの役所にすぎない日本の裁判所にそれは期待できないというのが著者の見解である。刑事裁判においても職業裁判官に公権力(警察・検察)による犯人ねつ造を規制することは期待できない。
「日本の裁判官は権限が小さく、縄張りが狭く、強制力のないお役所の中にいるため、刑事裁判をはじめとして、他の国家機関の行為に対して『疑う機能』を大きく発揮できず」(p.84)「“本当の真実”とは半分無関係に、被告人が有罪となった方が、お役所同士としては丸く収まる」(p.85)
 結局、犯人ねつ造を本質とする戦後の刑事手続きの“絶望的状況”は、裁判員制度を職業裁判官による裁判に戻すことでも解決できない。市民の批判を有効とするための対象犯罪の拡大と、公権力の一部である職業裁判官を評議から排除すること、言い換えれば裁判員制度の陪審制度への発展的解消のみによってそれは可能となる。

裁判を受ける権利

 著者は、第2章で米国の陪審制度の内容を紹介しつつその本質的意義について明らかにしているが、それ自身が裁判員制度に対する鋭い批判となっている。
 米国の陪審制度の第一の本質的特徴は、陪審制による裁判を受ける権利がすべての市民に対して保障されていることだ。この点は、裁判員裁判は被告人の権利ではないと明言している裁判員制度との重要かつ本質的な違いである。ただ、それを口実に制度廃止を求めることは、廃止が職業裁判官による裁判の強制しか意味しないのだから正当とは言えない。
 「陪審裁判を受ける権利」と似たような規定は、日本国憲法にも「第32条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」「第37条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」と存在している。しかし、公権力を規制する視点を持たない日本の法制度ではそれは単なる形式手続きの決まりにすぎず、「裁判を受けること」「公平」「迅速」「公開」は市民の権利(人権)と言える状況にはない。裁判員制度においてもその転換は実現されてはいない。この点に裁判員制度を批判すべき第2の理由がある。
 例えば裁判員裁判が検察官側控訴を禁止していないことは迅速性を無視するだけでなく、市民による評決(刑罰権行使の規制)を公権力が拒否し、市民の批判の上に職業裁判官による判断をおくことだ。だから、検察官控訴を禁止しなければならない。なお、被告人による控訴は、第一審では認められていない職業裁判官による裁判を受ける権利を実質的に実現するものとして維持すべきだ。

(つづく)


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