誰の裁判を受けるか選択する権利
陪審制度の第二の本質的特徴は、一定の範囲で誰の裁判を受けるかを被告人が選ぶ権利が認められていることだ。つまり、何が公平な裁判かについて、被告人にも一定の判断権が認められている。
具体的には、検察官と同様に被告人にも一定の人数まで陪審員候補者を拒否する権利が認められ、それを実現するために、どのような思想傾向を持っているか、経験を持っているか陪審員候補者に詳細に質問され、その結果が被告人側にも提供される。
裁判員制度でも「理由を示さない忌避」という似た制度はあるが、まず職業裁判官に対する拒否権が認められていない。さらに、被告人の拒否権を実現するための詳細な質問は行われないし、被告人・弁護士がそのための質問を直接することも許されていない。その結果、被告人の十分な拒否権行使は不可能だ。「理由を示さない忌避」が被告人の公正な裁判を受ける権利の重要な一部であるという考え方自体が、裁判員制度の中には存在していない。
結局、被告人は公権力が一方的に「公平」と考える裁判を強制される。これでは、被告人の権利とはいえない。これが裁判員制度を批判すべき第3の理由だ。
なお、制度廃止を求める人びとがそうした質問を「思想調査」などと呼んで反対することは、「公平な裁判を受ける」という被告人の最も重要な権利を軽視することだ。
法律判断への批判の権利
米国の陪審制でも、法律判断は職業裁判官が行い、事実認定は市民である陪審員が行う。そして量刑は法律判断として原則として陪審員は関与しない。しかしその場合でも、どのような犯罪にどれだけの刑が科せられるかは公式の基準があり、陪審員は刑罰があまりに過酷と考えれば犯罪を行ったことが明らかな者にもあえて無罪判決を出すことが可能だし、実際にそうしてきた。また、有罪・無罪の認定基準など法律についての説明は公開の法廷で「説示」として示されるため、市民による批判を可能とし、「間違った説明」や「予断を与える説明」は上訴や再審の理由となる。
日本の刑事法規では、犯罪に対する量刑の範囲が非常に大きく、その適用は職業裁判官の恣意にまかされている。「量刑の相場」があるといわれるが公式の基準ではない。しかも裁判員制度にあたって最高裁が「量刑の相場」をまとめたことは、裁判官(員)の独立を否定し、最高裁が裁判員の評決を操作しようというもので市民による裁判批判・規制と対極にある考え方だ。
また、裁判員制度では「説示」ではなく、評議室という密室の中で職業裁判官が裁判員に働きかけることが可能だ。しかも、裁判員の守秘義務によってどれほど不適切な法解釈が強制されようと、それを市民が知り、批判することは不可能になっている。
こうした市民からの職業裁判官の法律判断批判を排除していることが、裁判員制度を批判すべき第4の理由である。
裁判員制度の持つ本質であり欠陥は、以上のように職業裁判官に対する裁判員を含めた市民からの批判を封じ、職業裁判官による裁判を実質的に維持し続けることにある。そのことを考えれば、裁判員制度を廃止し職業裁判官による裁判へ戻せという主張が、裁判員制度批判にも、多くのえん罪を生み出し続けてきた戦後刑事手続きに対する批判にもなっていないことは明らかだろう。
法律を無視する力
著者は陪審制度の持つ「本当の力」として「法律を無視するパワー」をあげている。この点は、陪審制の理解においても裁判員制度批判においても最も重要な視点だ。
「陪審は評決にあたり理由を示す必要はなく、評議の内容について責任を取らされることはないという原則」の結果、「被告人が無罪評決を受けたのは、陪審が、検察側が提示した証拠が不十分だったと評価したためなのか、被告人には社会通念上、同情すべき特殊な事情があると評価したためなのか、違反があったとされる法律そのものを社会常識から極めて逸脱していると評価したためなのか」知ることもできず、知ったとしてもどうにもならない(p132)。その結果、「陪審制度は昔から厳しすぎる法律を緩め、社会の常識から逸脱している法律を骨抜きにする役割を極めて穏便に果たしてきた」(p.134-135)
著者は具体例として、逃亡奴隷の回収を妨害する罪や禁酒法下の飲酒の罪、ベトナム戦争下の徴兵拒否の罪などをあげているが、陪審制下での有罪獲得の困難さがそうした悪制度、悪法の廃止を促進したことは間違いないだろう。だから、陪審制は「人類が思いついた唯一の、政府をその憲法の理念に拘束するための錨」(トマス・ジェファーソン、p.131)という評価も生まれる。陪審制の根底には、民主主義の絶対的基礎である市民の革命権がしっかりと存在しているのだ。
そうした市民の革命権という思想が欠落しているのが裁判員制度であり、同時に裁判員制度不要論だ。裁判員制度では、職業裁判官には自らの判断に逆らう裁判員を解任することすら可能となっている。これが、裁判員制度を批判すべき第5の、そして最大の理由である。
その背景には、民主主義の絶対的基礎である武装した市民の不在によって日本の戦後民主主義が形式的なものにとどまっていること、改悪治安維持法と戦時刑事特別法を出発点とし戦後の予審制廃止によって完成した現行刑訴法の戦時型刑事手続きがある。戦後の被疑者・被告人は、自分に有利な証拠の収集のために強制捜査権を利用する権利も、収集された証拠への全面的アクセス権も剥奪されてしまった。戦後憲法の数多くの人権条項もそれを強制する手段を欠落しているため実質的に機能していない。その結果が、著者の指摘する「悪い人のお仕置きをどうするか決めるための」現行刑事裁判であり、続発するえん罪だ。
裁判員制度不要という逆行
こうした本質的かつ重大な問題点の存在にもかかわらず、私は裁判員制度を廃止して以前の職業裁判官による制度に戻すことは反対だ。
裁判員となった市民の一人ひとりには、たとえ制度的に保障されていないとしても刑事裁判批判、法制度批判の機会があり、法律を無視するパワー行使のチャンスもある。陪審制も最初からそうした権利を保障されていたわけではない。
たとえば最高裁の“量刑の相場”で死刑しかないとされても、裁判員が自らの信念にしたがって死刑に反対することも死刑を阻止するためあえて無罪に投票することも可能だ。それで数カ月、数年死刑判決が拒否され続けたら死刑制度の存続は不可能になるだろう。あるいは、辺野古の基地建設に反対して業務妨害などに問われた市民が沖縄の市民である裁判員によって次々に無罪を宣告されたら、しかも次々に入れ替えられても一貫して無罪とし続けたら、政府が基地建設を続けることは可能だろうか。「騒音被害は甚大だが、政府に飛行差し止めの権限がないから」などという官僚的責任逃れ判決は一掃されるだろう。
著者も次のように述べる。
「裁判員制度について非常にシニカルな理解の仕方をしている私だが、裁判員制度に反対しているわけではない。…裁判員制度における実質的な国民参加は非常に制限されているが」それがシンボリックなものに終わらない「可能性は十分にある」。「裁判員制度がどのように発展していくかは多分、法曹と裁判員次第であろう」(p.215-216)
それを実現するためには、著者は「弁護士がもっと重要な存在になる」と述べる。
「いずれにしても、普通の市民に向かって刑事裁判の意義を説明できるのは弁護士しかいない」「これからは裁判員が、弁護士の援助を得ながら、無罪の推定など刑事裁判の本質的部分をその都度、素人の新鮮な目で見極めるようになれば、裁判員制度は本当に画期的な制度になるかもしれない」(p.219-220)
まったく同感だ。ただそのためには、弁護士自身が“刑事裁判の出発点は復讐の禁止(公権力による復讐の代行)”とか“戦後の刑事司法が戦前の予審制・陪審制下より人権を守っている”、“人権は憲法によって市民に与えられた贈り物”など日本の法曹界を支配する歪んだ思想から自由にならなければならない。刑事裁判とくに裁判員裁判が被告席の市民を公権力から守る最後の砦であり、裁判員が法律(悪法と悪制度)を無視する力を持つことを、まず私たち市民自身が明確に自覚し、それを市民社会の中に広げていくことが重要だ。とくに、自分たち市民は愚かだから職業裁判官という優秀な官僚におとなしく支配されているべきだという奴隷の思想は完全に払拭しなければならない。
残念ながら日本では、弁護士が市民に向かって刑事裁判の意義を説明するのではなく、市民が弁護士に向かってその意義を説明しなければならないのかもしれないのだから。
自由ネコさん いつも詳しく書いていただき勉強になります。
ありがとうございます。
2010/8/12(木) 午後 10:26 [ nanachan.umekichi ]
自由ネコさん
あなたが陪審員制度を要求する気持ちが、この本を読んで良く分かりました。公権力に対し日本人がいかに封じ込められているかが良く分かります。
今原発の反対活動に対し、誹謗中傷や、ありもしない反日勢力という敵を作り上げようとする動きに対し、良心に訴えながら小さな抵抗をブログ上でしています。
裁判所が推進側を勝たせ、抵抗には罰則を科すと脅すのは、裁判所が国家の手先であるとしか言いようがありません。
国家に向き合うとこの国の司法が公権力のためにあると実感しますね。
2010/8/28(土) 午前 0:18 [ nanachan.umekichi ]
nanachan.umekichiさん、こんばんは
「陪審制は民主主義の学校」という言葉があります。こうした本を読んだり、陪審員を務めた米国市民の発言を聞くと、つくづく本当だなと実感できます。
裁判員制度は陪審制と比べて欠陥の大きな制度ですが、裁判員制も「民主主義の学校」にすることができますし、しなければいけないと考えています。このブログがそのためにささやかでも貢献できればいいのですが。
2010/8/30(月) 午後 9:58