報道によれば、6月3日大阪府議会は、「大阪維新の会」が提案した、府内の公立小中高校などで君が代を斉唱する際に教職員に「起立により斉唱を行う」ことや、府の施設で日の丸の掲揚を義務づけた条例を可決した。条例名は「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」。
橋本知事はすでに、起立しない教職員の処分を決める条例案を9月府議会に提出することを決めている。
この条例の成立により、起立や掲揚させるためだけでも処分をちらつかせて強制しなければならないほど「日の丸」「君が代」にたいする自発的敬意が、市民の間に存在しないことが浮き彫りになった。「日の丸」「君が代」が「敬意」」の対象ではなく、抑圧と強制のシンボルであることがいっそうはっきりした。
これほど日本の市民から敬意をもたれていない「日の丸」「君が代」は国旗・国歌としてふさわしいとはいえないだろう。しかも、今回の府条例のように地方政府・中央政府が、「日の丸」「君が代」に対する市民の自発的敬意を獲得する努力を放棄し、強制によって表面だけ取り繕うとする方向に走っている限り、「日の丸」「君が代」が国旗・国歌らしい市民の自発的敬意を獲得することは不可能だ。
国旗や国歌が存在するのは、旗や歌には人びとを鼓舞し、その自発性と献身性を引き出す力があるからだ。しかし押し付けられた瞬間、旗や歌がそうした力を失うことは、日本で歌われる「インターナショナル」とスターリン主義支配下でのそれを比べてみれば明らかだろう。
日本に国旗や国歌が必要だとすれば、橋本知事らによって踏みにじられ、抑圧と圧政への屈服の踏み絵と使われている「日の丸」「君が代」以外のものを選択するしかない。私が「日の丸」「君が代」に反対する理由は、それらが過去に果たした役割だけでなく、現在の日本の市民に対する抑圧と圧政の手段として使われているその役割故である。
愚かな裸の王様・橋本知事
どこの企業や学校でも、社長や教師の前では社員や生徒は敬語を使うだろう。しかし、社長や教師が本当に尊敬されているかどうかは、社長や教師が立ち去ったあとに明らかになる。社員や生徒が敬意を持っていれば敬語で語られ続けるだろうし、そうでなければ罵倒が始まる。
尊敬されるための自らの努力を放棄し、敬語の強制によって代える者は、目の前でどれほど丁寧な敬語を使われてもそれを信じることはできなくなる。疑心暗鬼と強制手段が破綻した時への恐怖に駆られ、ただ監視と強制をエスカレートしていくしかない。それがあらゆる暴君のたどった途であり、橋本知事のたどっている途だ。
この条例によって、橋本知事は“日の丸・君が代反対派”を抑えつけることができると考えているようだ。しかし、現実には自発的起立の途を閉ざすことによって、そこにいるすべての者を強制されて渋々起立する“日の丸・君が代反対派”の側に追いやってしまう。
橋本知事は、強制の持つそうした危険性には無自覚のようだ。目の前で服をほめられて満足している裸の王様にすぎない。裏に回れば誰もが裸をあざけっている現実を突きつけてくれる一人の子どもも持たないことが、裸の王様・橋本知事の大きな不幸だろう。
「日の丸」「君が代」強制は最良の教育材料
強制はそれ自体では力を持たないが、私たちがそれへの抵抗をあきらめ屈服すれば、日の丸・君が代は戦前と同様の猛威を振るうことになる。強制を屈服するしかない運命とするか、抵抗しはね返すべき挑戦とするかが、私たちの選択すべき途だ。
ただ起立を拒否して処分されるだけなら、橋本知事に見せしめの材料を与えるだけだろう。
日の丸・君が代問題は、次世代をどのような人びととするかをめぐる教育問題だ。だから、強制に対してどういう態度を取るべきかを示す実地教育として闘わなければならない。そしてそのすべてを、生徒の目の前で公然と行うことで、不当な強制に対する抵抗と反撃の教育としていかなければならない。
そのためには、まず戦後教育の抑圧性、反民主主義性を自覚することから出発しなければならない。「民主主義は工場の前で立ち止まる」という言葉があるが、民主主義は校門の前でも立ち止まってきたのではないだろうか。残念ながら、戦後教育は生徒を学ぶ主体として位置づけてこなかったし、闘う主体としても考えてこなかったように思う。天皇制専制であろうと、戦後民主主義であろうと、教師が正しいと考える思想を一方的に生徒に強制してきた点では、敗戦の前後で変わりは見いだせない。
私の行った中学校では坊主頭が強制された。高校では学習院もどきの制服で、教師の矮小なエリート意識の材料とされた。思想も表現も行動の自由もなかった。全共闘運動はそうした専制と抑圧に対する抗議の反乱だった。しかし、教師や教授達は、機動隊=警察軍の導入といういっそうの抑圧強化によってそれに答えた。その延長上に現在の「日の丸」「君が代」攻撃がある。
日の丸・君が代をめぐる課題は、生徒自身が自らの意志と判断によって起立するか、掲揚するか判断するようになることだ。教職員が起立を拒否しても、生徒全員が疑問を持つこともなく起立するなら無意味な抵抗でしかないが、教職員全員が強制的に起立させられても、生徒が自主的に判断し強制に抵抗すべきと考えるきっかけとなるなら、それは大きな成果だろう。