現在公開中の映画 『怒り』を見ました。とても考えさせる映画です。
以下、一部ネタバレがありますので未鑑賞の方はお気をつけください。
虐げられた者同士に向かう怒り
映画は一つの殺人事件から始まります。一家惨殺事件、現場の壁には「怒」の血文字、いかにもサイコスリラー風のスタートです。しかし、映画は別の展開を見せます。
映画は二つの怒りとその結果としての二つの殺人事件を描きます。最初の事件と逃亡殺人犯を思わせる人物に対する殺人事件。しかし、二つの怒りはその真の原因になった人物にも怒りを生み出す社会的歪みにも向かいません。原因となった人物は自らの行動が殺人事件を起こすほどの激しい怒りを引き起こしたことを知りません。
虐げられた者の怒りががんじがらめの社会的な規制・檻の中で空回りし、身近の者に向けられてしまう現実は、いじめによる自殺や低賃金や失業の恐怖にさらされている労働者による移民排斥やレイシズムの横行、ネットで燃え上がる貧困者たたき、生活保護たたきを思い出させます。
見えない抑圧に踏みにじられる愛情
映画はまた二つの不信を描きます。ともに性的、肉体的・精神的な社会的少数者に属する者の愛情が、相手が逃亡殺人犯かもしれないという不信によってもろくも崩されてしまいます。表面化することの少なくなった差別と抑圧ですが、逆に日常化した抑圧の中で「たとえ殺人犯であっても、私の愛する者だ」と言えない心の壁と人間関係の圧力を社会的少数者の中に作り上げている現実が、静かなタッチで描かれていきます。
この不信を生み出したのがマスコミの犯罪報道です。客観的報道というより、警察の広報と化したマスコミは逃亡犯の写真を大々的に映し出し、視聴者に通報を呼びかけます。こうした報道は現実社会でも、批判精神を失ったマスコミによって近年増えていますが、それが人びとの間に疑心暗鬼と不安をまき散らし、人間関係・愛情を破壊していることをマスコミは気づこうともしないし、気づくことができません。
あまりにかすかな希望
この映画では、宮崎あおいが演じる社会的少数者の女性が一度は離れた恋人を迎えに行く場面でかすかな希望を抱かせて終わります。絶望的な状況を絶望だけで終わらせないために、このエンディングが必要だったのだと思います。でも、希望はあまりにかすかです。今の日本の現実、その中で李監督が体験してきただろう経験が、これ以上の希望を描かせなかったのかもしれません。
怒りは横や下ではなく、上に向けられなければならない。真の原因となった存在とそれを許している社会に向けられなければならない。怒りやその結果の暴力が犯罪として頭から否定されるのではなく、その向けられた方向が、対象が問題とされなければならない。私はそう感じます。
李監督のもう一歩踏み込んだ次回作が作られることを期待します。
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