自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

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 報道によれば、今月(2016年1月)15日のBS番組の収録で、民主党の岡田代表が、「安倍晋三首相が改憲の重要テーマと位置づける緊急事態条項が新設されれば、国会で法律をつくらなくても首相が権力行使できるようになる」とナチスが独裁政権を確立した手法になぞらえて批判した、とのことです。(1月16日付「東京新聞」)
 以前から、安倍政権の改憲の目的が「緊急事態条項」の新設による独裁政権の樹立にあると警鐘を鳴らし、ナチス型改憲クーデターの阻止を訴えてきた〝自由ネコ〟としては、こうした認識の広がりは心強く感じます。

改憲クーデター阻止で団結しなければならない

 しかし、岡田代表の批判も、いまだ与党対野党の対決という枠内での批判にとどまっていて、改憲がナチス型の〝改憲クーデター〟であるという認識や危機感が薄いようにも感じます。
 そうした認識不足を示す典型的な対応として、共産党との選挙協力を否定した15日の神津連合会長の発言があるでしょう。かつて「反共」の立場に立ち、総評に敵対した「同盟」を母体とする連合らしいと言えばそれだけですが、こうした対応には、安倍政権によって民主主義と立憲主義が解体されようとしているという危機感はまったくうかがえません。
 ナチス「突撃隊」以上の勢力の準軍事組織「国旗団」を持っていたドイツ社会民主党は、1933年の「全権委任法(授権法)」によって独裁政権を握ろうとしていたヒトラー政権に対し、それをクーデターと認識できず「国旗団」の対ナチス決起を抑え込んでしまいました。ねつ造された国会放火事件を口実に弾圧にさらされていた、「赤色戦線戦士同盟」を擁するドイツ共産党と手を結んでクーデター阻止に立ち上がることもできないまま、ナチス独裁政権の樹立を許してしまいました。
 今、日本の歴史は1933年のドイツと同様の過程をたどっているようにみえます。野党が自分たちの政党的利益を第1の目的として分裂し、対立している間に、改憲クーデター勢力が着々と支配を広げ、改憲=独裁政権樹立へと突き進んでいます。最悪の場合、今夏の参院選は、改憲クーデタを阻止する最後の機会となるかもしれません。私たちは、ドイツ社民党、ドイツ共産党の失敗の歴史から真剣に学ぶ必要があります。

隠れ「クーデター勢力」の危険性

 1933年のドイツには、ナチス独裁樹立に協力した「ドイツ国家人民党」のような存在がありました。2016年の日本では「おおさか維新の会」などがそうした役割を果たそうとしています。
 与党対野党の構図にとらわれている限り、こうした「野党」の仮面をかぶったクーデタ勢力の妨害と分断攻撃に対抗することはできません。
 対決軸を与党対野党、自民党政権か民主党政権かに置くのではなく、民主主義か独裁かに置いて、自民党の中のリベラル派の獲得も視野に入れた〝民主主義と立憲主義を守る〟大きな運動を作り出すことです。

民主主義とは多数決ではない

 ナチス独裁に対抗する動きをとめた考え方に、〝選挙で多数を獲得したナチスに「国旗団」のような力で反対するのは民主主義に反する〟というものがありました。しかし、権力を握ったナチスは民主主義も憲法も一顧だにしませんでした。
 今の日本でも「多数決に従うのが民主主義」という歪んだ考え方が蔓延しています。しかし、それは民主主義ではありません。
 すべての人々に踏みにじられてはならない一線があります。たった一人でもその一線を奪われようとするなら、その一人はあらゆる手段を使ってそれを守る権利があるし、人々はそのために立ち上がるべきです。人権と呼ばれるその一線を守るための政治システムが民主主義です。
 多数決というのは、そうした民主主義がしばしば必然化する対立を流血沙汰にまでエスカレートさせないための便宜的手段の一つでしかありません。だから、日本の総人口の1%でしかない沖縄県民が辺野古新基地建設に反対するのは民主主義であり、選挙で多数を獲得した安倍政権が建設を強行するのは反民主主義と言えるのです。
 改憲クーデターが、当面は「選挙という民主主義的な手段」で進められているとしても、私たちは、自らの人権と民主主義を守るためにあらゆる手段を駆使する準備を整えていなければなりません。
 私はそう考えています。

参院選=クーデターをめぐる最大の攻防

 2016年7月の参議院選挙は、自民党改憲案に基づく専制政府樹立を目指す改憲クーデター勢力と、戦争法の廃止を目指す人々との攻防の大きな焦点になっています。
 すでにクーデター勢力は、国家安全保障会議(日本版NSC)によって政府の決定権限を少数のクーデター派閣僚に集中させ、自民党内部のリベラル派を屈伏させ安倍総裁の挙党一致の無投票再選を実現しました。また、戦争法の審議の過程では、政府の恣意的な憲法解釈による立法を国会に認めさせるという既成事実を作り上げました。
 NHKのトップに仲間を送り込む一方、「報道の中立」を口実にしたマスコミへの脅しによって、多くのマスコミが政府批判をためらう状況も生み出されています。多くの地方自治体(地方政府)が護憲集会への賛同を拒否して、公務員の「憲法尊重・擁護義務」を否定する中央政府への忠誠を表明しています。
 クーデタ勢力は今、場合によっては衆参同時選挙に踏み切ることによって議席を積み上げ、一挙に国会の改憲発議から国民投票に持ち込もうとしています。改憲が実現すれば直ちに「緊急事態」の宣言による国会の空洞化と独裁、基本的人権の停止が現実になるでしょう。
 もはや、クーデター勢力の前に立ちふさがるのは、「戦争法反対」を訴えて立ち上がり、参議院選挙における与党の敗北をめざす人民の存在のみとなっています。

アベノミクスの破綻が始まった

 一見順風満帆に見えるクーデター勢力ですが、現実には追い詰められ危機的な状況です。
 安倍政権への支持の多くは、かつてのヒトラー政権がそうだったように、アベノミクスと称する経済政策によって日本経済が回復するという虚構によるものでしょう。
 しかし、アベノミクスの内実は、「異次元の量的・質的金融緩和」と称する紙幣大増刷政策、インフレ誘導=低賃金化と大衆増税による大衆のいっそうの貧困化、公共投資拡大による一時的景気拡大でしかありません。確かにアベノミクスの結果、巨大資本の利益は大幅に拡大しました。しかし、その資金は新たな生産投資や賃金引き上げではなくマネーゲームに向かい、株価は上がりましたが日本経済全体の回復とはなりませんでした。
 12月に黒田日銀総裁が行った量的・質的金融緩和の強化策は、日本の株価上昇にもドル高・円安にも結びつきませんでした。金融緩和=紙幣増刷による経済拡大というアベノミクスの主軸の破綻が現実のものとなったのです。
 現在の資本主義の危機は、マルクスが『資本論』で明らかにした、作っても売れないという過剰生産力、過剰資本の危機です。アベノミクスは、貧困と経済格差の拡大によって大衆の消費能力を切り下げ、過剰資本の危機をいっそう拡大しています。レーニンが『帝国主義論』で明らかにした過剰資本の危機が世界戦争を生む出すという過程が現実のものになろうとしています。

戦争挑発による国民統合

 2016年前半、アベノミクスの破綻が誰の目にも明らかになり、貧困と経済格差拡大がこれまで以上に進めば、幻想の上に築かれた安倍政権への支持率は急落するでしょう。7月選挙による議席拡大から改憲発議というクーデター勢力の目論見も困難になります。
 歴史の中で、支持低下に悩んだ多くの政府が対外緊張の拡大によって愛国心をあおり立て支持回復を目論んできました。クーデター勢力もまた同様の手法に走る危険は大きいと私は考えています。「戦争法」はその手段を与えていますし、安倍政権の中で元自衛隊制服組の存在感と発言権が拡大していることや自衛隊に対する文民統制を解体したことも、そうした可能性を示していると思います。
 例えば、釣魚台諸島(日本名・尖閣諸島)の領有をめぐって意図的に中国との間の戦争的緊張をあおり立てることです。かつて米国政府がした「トンキン湾事件」のような軍事的衝突をねつ造して、日本の市民の間に愛国心と中国に対する蔑視・差別意識をあおり立て、安倍政権に対する支持を生み出そうとする可能性は決して低いとは言えないでしょう。テロ事件を利用して社会防衛主義をあおり立てることもありうるでしょう。
 一時的にせよ、日本全体を席巻するだろう愛国心や排外主義の嵐に対抗するためには、事前に今からそうした攻撃の可能性を認識し、警戒していくことが必要です。
 「テロ」というのは非常に便利な言葉です。相手を「テロリスト」と決めつけ、その行動を「テロ」と非難した瞬間、相手は無条件の絶対悪となり、自分たちは絶対の善となります。相手はただただ抹殺の対象であり、その絶滅のために自分たちがどのような手段をとることも正当化されます。
 かつての戦争で、政府と支配階級は対立する戦争相手国とその市民に対する憎悪をあおるために様々なシンボルを使ってきました。「鬼畜米英」「匪賊」、「黄禍」「日禍」、「アカ」などなど。そして様々な差別と蔑視の言葉が、敵対する相手に投げつけられてきました。そうした言葉は、戦争の反動的目的や自国軍の残虐行為から自国民の目をそらすことに役に立つだけでなく、市民にとってもそうした現実から目をそらし、考えるのをやめ、良心のとがめをなくす効果がありました。
 現在、これまで以上に効果的な魔法の言葉として「テロ」とか「テロリスト」という言葉が多用されています。「テロ」という呪文さえ唱えれば、相手がどのような存在でなぜそうした行動を行うか、一切考える必要はなくなります。それがエスカレートすれば、同じ人間とすら考える必要がなく、まるで病原体を駆除するように、ただその絶滅に全力を挙げればいいとなってしまいます。
 そうしたやり方からは解決は絶対にえられません。イスラム国の抹殺に成功したとしても、新たにより強硬で硬直した運動が生まれてくるだけです。だから、解決を求めるなら「テロ」という呪文を唱えて思考を停止し、現実から目をそらすことをやめなければなりません。

「憎しみを贈らない」からあふれる憎悪と嘲笑

 報道によれば、イスラム国(IS)の攻撃で妻を亡くしたラジオ・ジャーナリストのアントワンヌ・レリスさんがフェイスブックに投稿した「君たちに憎しみという贈り物を贈らない」と書く文章が「世界中で共感を呼んでいる」(東京新聞11月20日夕刊)とのことです。同紙に全訳が掲載されています。
 レリスさんの文章を読んで驚くのはイスラム国に対する憎悪の激しさです。「死んだ魂」「神の名で無分別に殺戮」「無知」といった罵倒が並んでいます。
 「憎しみを贈らない」といっても憎しみがないわけではありません。ただ、憎しみをストレートに表明することはイスラム国の狙いにはまるとの考えから「怒りで応えることは、同じ無知に屈する」と称して憎悪の存在を否定してみせるのです。確かに一市民である筆者が改めて憎しみを叫ぶ必要はありません。何も語らなくても自国・フランス政府がイスラム国の抹殺のために攻撃を拡大してくれているのですから。筆者は「銃ではなく、紙やペン、そして音楽という武器」と言いながら、この文章ではフランス政府の攻撃拡大を批判も反対もしていません。
 妻を殺された人が殺した相手を憎むのは理解できますし、共感することもできます。
 しかし、この文章からあふれるのは憎悪だけではありません。筆者は「君たちが誰かも知らないし、知りたくもない」と言い放ちます。その目的を批判したり、手段の残虐さを弾劾するという同じ人間の行動として考えることすら拒否します。家族を赤痢など病気で亡くしたとき、人は赤痢菌を憎悪したり、その目的や手段を考えるでしょうか。筆者にとってイスラム国はまるで赤痢菌のような人間に害をなす人間以下の存在なのかもしれません。
 そして、おまえたちが何をしようと「私はまだ、私のままだ」「安全のために自由を犠牲にしない」、何も変わらないと嘲笑します。「先進国」に生まれた自分の子どもは「毎日、おやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ」と。
 踏みにじられ、殺され続ける中東・シリアの人々の現状は変わらないし、中東の子どもたちが常に、突然頭の上から落とされる爆弾、撃ち込まれるミサイルに怯えて暮らさなければならなくても私の知ったことではない、ざまあみろ。これがこの文章の結論ではないでしょうか。

「テロ」という呪文が隠す傲慢さ

 筆者は主観的には、憎悪による報復が新たな憎悪を生む現実を変えようという意図なのかもしれません。「世界中で共感を呼んでいる」というのもそのためなのでしょう。でも、どちらがどちらを憎悪の連鎖の中にたたき込んだのでしょうか。石油支配のために反動王政を維持し独裁政権を生みだし、都合が悪くなればそれを倒すために戦争を繰り返してきた米国やフランスなど「先進国」なのか、安全も自由も奪われた中で、自分の命すら投げ出してそれに抵抗してきた中東の人々なのか。
 筆者はこの文章の中で「テロ」という言葉を使っていません。しかし、「誰か知りたくもない」と言い放つことで「テロ」の呪文に縛られていることを示してしまいます。呪文に縛られている限り、絶対悪であるイスラム国と絶対善の有志連合・フランスの関係の中で、イスラム国の一方的な攻撃の停止、屈伏と解体を要求するものとなってしまいます。中東諸国の市民が置かれた現実への無知と無関心という「先進国」市民である自分自身の傲慢さに気づくことができないばかりか、ついにはそうした人々を無視し、抹殺してしまうところまでいってしまいます。
 「彼らの主張にはまったく耳を貸さずに国際社会から孤立させることが、本当に平和へと続く道なのか」と書いた乙武洋匡さんの発言と「知りたくもない」というレリスさんの発言を読み比べてみてください。どちらが憎悪から解放されているか、解決の道なのか。
 イスラム国(IS)の攻撃によってパリで多くの市民が死亡した事件をきっかけとして、攻撃を「テロ=無条件の絶対悪」と決めつけ差別と排外主義をあおり立てるキャンペーンが広がっています。マスコミは「全世界がフランスとともにある」などと称して様々な国での行動を報道しています。しかし、マスコミの報道する「全世界」からは中東とくにシリアの市民の存在がすっぽり抜け落ちています。
 あえて言えば、起きた事態はフランスがイスラム国を爆撃して両者が戦争状態にある中で、その戦場が中東だけに限定されずフランス国内にまで拡大したというだけでしょう。かつて日本が中国を侵略し戦争を行っていた時、戦場が中国大陸に限定されている間、日本の市民は南京で自国軍隊による虐殺が行われているまさにその時に提灯行列を行って浮かれていました。しかし、そうした態度の行き着く先は、沖縄であり、ヒロシマ、ナガサキ、そして国内の多くの都市への大空襲でした。自ら戦争を行っていて、その戦禍が自らには降りかからないなどと信じるのは、「先進国」の市民の傲慢さによる幻想でしかありません。

人を殴れば殴り返される

 たとえ、自分がどれほど大きな力を持ち相手が弱くても、殴り続ければいつかは必死の反撃にあうことを覚悟しなければなりません。それがいやなら、まず殴るのをやめることです。
 私たちが、パリで亡くなった人たちに思いを馳せるとき、同時にシリアで、中東で米国の無人攻撃機による無差別攻撃などで殺された人々にも思いを馳せるべきでしょう。病院や学校が破壊され、結婚式に集まった人々など戦闘員(「テロリスト」)ではない多くの人々が殺され続けています。私たちが行うべきは、自国政府のそうした無差別殺戮に反対し、それをやめさせることではないのでしょうか。日本政府はこれまでも資金と兵站部門を担って殺戮をささえてきました。そして、安倍政権は戦争法案の制定を強行して自衛隊を戦場に送り込もうとしています。日本の市民がまず行うべきことはまさにこの政府に反対し、戦争から手を引かせることでしょう。

反テロキャンペーンは新たなテロを生むだけ

 私は無神論者ですから、イスラム国のようなイスラム原理主義やキリスト教原理主義のような硬直した宗教運動には反対ですが、「テロ」という呪文を唱えることで起きている事態から目を背け思考停止してしまう態度には絶対に反対です。そこからは決して解決がえられないことを強調しておくことはいわゆる「先進国」の市民としての義務だと考えています。
 仮に米国などが巨大な軍事力を振りかざしてイスラム国の解体に成功しても、新たなより激しい運動を作り出してしまうだろうことは、これまでのタリバン…アルカイダ…イスラム国と続いた歴史を見ても明らかでしょう。
 必要なのは彼らがなぜ闘うのか、それも自らの命を投げ出してまで闘うのか、それを理解し、怒りを生み出している差別と抑圧、貧困と収奪、絶望を解消するために私たち自身が闘うことでしょう。

理性の言葉を袋だたきにする反テロ主義

 報道によれば、乙武洋匡さんがツイッターで次のように投稿したとのことです。
「彼らの主張にはまったく耳を貸さずに国際社会から孤立させることが、本当に平和へと続く道なのか」
「『国際社会は一致団結して、このテロに立ち向かうべきだ』と言うが、このテロを起こした犯行グループも含めて"国際社会"なのではないだろうか。『シリアで空爆を続けるフランスは許せない』という彼らの主張にはまったく耳を貸さずに国際社会から孤立させることが、本当に平和へと続く道なのだろうか」(J-CASTニュース 11月16日)
 少し反テロキャンペーンに疑問を投げただけでよってたかって袋だたきにする、先の15年戦争中の「非国民」攻撃と同様の攻撃が横行している日本社会で、あえてこうした理性的な訴えを行った乙武さんの勇気にまず敬意を表します。実際「テロの容認」などと言いがかりをつけて撤回・沈黙させようという攻撃が強まっています。
 同様の考えを持つ者は決して乙武さん一人ではありません。しかし、ネット右翼や排外主義者だけでなく、戦争に反対している人々ですら多くが「テロ」という呪文の間に思考停止し、反テロキャンペーンに屈してしまっていることも残念ながら日本の現状です。
 こうした現状を変えていくためにも、まず乙武さんを孤立させないこと、乙武さんに続いて声を上げることが、いま痛切に必要とされています。
 2015年9月19日未明、安倍政権はいわゆる戦争法案を参議院本会議で強行採決し、成立させました。
 戦争法案の成立は、直接的には「自衛権」を名目に日本国憲法第9条を無視して再軍備を進めてきた自民党政権が、ついに「自衛権」という名目すら公然と否定するに至ったということです。その意味に限定すれば、戦争法案の強行採決は、自民党やその類似政権の政策路線や手法の延長線上に存在するものでした。それゆえ、安倍政権はこれまでそうした路線を担ってきた勢力の多くを取り込むことができました。
 しかし、戦争法案の成立強行が生み出した最大の問題点はそれではありません。

「戦争法案」採決強行=専制への第一歩

 安倍政権は「戦争法案」強行の前提として、政府(行政権)に憲法の解釈権があることを主張し、それを国会(立法権)に認めさせ、既成事実化しました。すでに最高裁は、憲法第21条2項を踏みにじり、有害図書規制という検閲を合憲(平成元年9月19日最高裁判所第三小法廷判決)としています。そうした司法権が、政府(行政権)の暴走の歯止めになると期待することはできません。
 次は憲法第18条「苦役からの自由」の解釈変更による徴兵制の導入ではないかと危惧されています。第12条「公共の福祉」の解釈を変えれば「公共の福祉に反する」という名目でいかなる基本的人権も剥奪することが可能となるでしょう。政府に憲法の恣意的解釈を許すということは、政府を憲法の規制から解き放つということです。
 すでにこのブログで何度か指摘してきましたが、現在進行しているのは、最終的には改憲によって憲法から政府規制の権能を剥奪して独裁政権を樹立することを目指す「改憲クーデター」というべき事態です。自民党改憲案では、緊急事態を口実に政府(行政権)が立法権も握り恣意的に法律(法律と同等な政令)を乱発することが可能となります。選挙も停止され市民が政権交代を要求する手段も奪われます。
 戦争法制定過程では、法律制定にはまだ国会を通さなければならないという制限は残るものの、政府(行政権)が憲法解釈権を握ることによって、改憲クーデター勢力は独裁政権の樹立の重要な一歩を実現したと考えなければなりません。今私たちが直面しているのは、民主主義を守るのか、専制・独裁に屈するのかという岐路なのです。

民主主義、最も暴力的な制度

 民主主義体制を守るためには、民主主義とは何か改めて考える必要があると思います。
 逆説的に聞こえますが、市民革命の銃火とバリケード、ギロチンの中から生まれた現代の民主主義体制は、人間の歴史の中で最も暴力的な制度と言えるでしょう。最高権力者を周期的にその地位から引きづり落とすような制度は民主主義体制以前には存在しませんでした。以前には、国王の首をすげ替えるためにはしばしば流血の争いが必要でした。
 では、民主主義体制下で、軍と警察という国家の二大暴力装置を独占支配する最高権力者が、選挙の敗北というだけの理由でおとなしく座を退くのはなぜでしょう。それを権力者に強制している力はどこにあるのでしょうか。
 権力者が民主主義を否定して居座るとき、あるいは人権を踏みにじるとき、市民は武器を取って抵抗し、権力者を打ち倒します。「抵抗権」「革命権」と呼ばれるこの市民の暴力が民主主義体制の背後に存在するからこそ、最高権力者は選挙結果という市民の意志に従います。
 他人を傷つけることが暴力の本質ではありません。かつて本多延嘉という革命家が、暴力とは「共同性の対立的表現」と述べました。共同体の内部の共同性を維持し外部の侵害から守ること、それが暴力です。そして「自らの意志を掟として相手に強制すること」という役割を持つ暴力は、それが圧倒的に存在するときには直接的な暴力行使を不要とします。「パックスロマーナ(ローマの平和)」という言葉があります。それになぞらえれば「民主主義の平和」という市民の圧倒的暴力の存在が、民主主義体制においてはかつての王権をめぐるような流血沙汰を不要としているのです。
 確かに、流血の中で民主主義を生み出した市民革命に続いたのは、新たに権力を握った一部の市民による他の市民の武装解除、暴力の剥奪という反動の時代でした。その結果、資本主義社会での民主主義は広範な市民的基盤を失い、支配階級内部の党派闘争という形態をとります。新たな支配と被支配の関係の中で、市民の暴力が民主主義を支えるという思想は失われ、支配される側の人々の間では暴力とは常に国家(支配階級)から自らに向けられる忌まわしい存在、否定すべきものという思想が広がります。人民の権利=人権や憲法は、市民の暴力を基礎として国家(支配階級)に突きつけられた刃ではなく、暴力を独占した支配階級から与えられる恩恵であるかのような思想が蔓延します。それらは、しばしば民主主義の解体と専制の樹立への支配される側の無抵抗を生み出します。
 しかし、私たちがヒーローたちにあこがれ、英雄譚や抵抗の物語に心を躍らせるとき、そこには人間性の本質から生まれる暴力と共同性を取り戻したいという要求が存在しているのです。戦いを嫌悪する奴隷の思想は決して人間の本質ではありません。

日本の戦後民主主義の脆弱性

 内田樹という方が、「日本はいま民主制から独裁制に移行しつつある」(『憲法の「空語」を充たすために』)と危機感をもって指摘し、その背景に存在する「日本の民主制と憲法の本質的脆弱性」(同)について考えることを訴えています。
 では、その脆弱性はどこにあるのでしょうか。
 刀狩り以来の数百年におよぶ支配される人々からの武器・暴力の剥奪と戦後のさらに徹底した剥奪の中で、日本の被支配階級の暴力への嫌悪感は極限まできています。
 また、日本の戦後民主主義は、自由民権運動の暴力性を実現した市民革命ではなく、日本の侵略を打ち破ったアジア諸国と米国などによって日本の支配階級に強制され、日本の市民に与えられたものでした。それ故、戦後民主主義は、絶対的な基礎となる市民の暴力・武装した市民の存在もその必要性の認識も欠いたまま、対外的対内的力関係の中でかろうじて維持されてきました。資本主義社会の民主主義の本質的脆弱性だけでなく、市民の暴力・武装した市民の存在を徹底的に欠く日本の戦後民主主義の特殊性にこそ、日本の民主制と憲法の脆弱性があるのです。

「抵抗権」「革命権」の復権が必要となっている

 資本主義経済の周期は再び戦争(侵略戦争と諸列強間の戦争)を必要とする時代を迎えています。その中で、日本の戦後民主主義はその脆弱性を表面化させようとしています。日本の支配階級は戦争に対応するため、戦後民主主義を捨て去り、改憲クーデターによる独裁制の樹立に未来を見いだそうとしています。
 しかし、戦争法案制定に反対して広範な市民が立ち上がったことは、改憲クーデターが決して何の抵抗もなく進行できないことを示しました。確かに、戦争法案の成立そのものを阻止することはできませんでした。しかし、全力で闘ったからこそ、何が不足していたのか、次に何が必要かが明らかになっています。
 まず必要なことは、現在進行しているのがあれこれの政策をめぐる対立ではなく、国家のあり方つまり民主主義か独裁かの対立であることを私たちが明確に自覚すること、改憲クーデタ勢力の全面的で広範な攻撃に対してそのあらゆる場で有機的に結びついた反対の闘いを生み出すこと、そのために広範で統一した闘いの組織と運動を準備することだと考えています。独裁を打ち破れるのは市民の「抵抗権」「革命権」の行使以外にないのですから、そのための準備を開始することです。
 その第一歩は、民主主義とは何か、それを守るためにはどうすべきか、「抵抗権」「革命権」とは何か、その行使には何が必要か、一人一人が考え、歴史と現実から学び、互いに議論を交わすことです。様々に異なる意見・主張の市民の間で広範で真摯な議論を展開することが、クーデターに対抗する市民の団結を生み出す出発点なのです。

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