自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

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書評「アメリカ人弁護士が見た裁判員制度」

コリンP.A.ジョーンズ著、平凡社新書


誰の裁判を受けるか選択する権利

 陪審制度の第二の本質的特徴は、一定の範囲で誰の裁判を受けるかを被告人が選ぶ権利が認められていることだ。つまり、何が公平な裁判かについて、被告人にも一定の判断権が認められている。
 具体的には、検察官と同様に被告人にも一定の人数まで陪審員候補者を拒否する権利が認められ、それを実現するために、どのような思想傾向を持っているか、経験を持っているか陪審員候補者に詳細に質問され、その結果が被告人側にも提供される。
 裁判員制度でも「理由を示さない忌避」という似た制度はあるが、まず職業裁判官に対する拒否権が認められていない。さらに、被告人の拒否権を実現するための詳細な質問は行われないし、被告人・弁護士がそのための質問を直接することも許されていない。その結果、被告人の十分な拒否権行使は不可能だ。「理由を示さない忌避」が被告人の公正な裁判を受ける権利の重要な一部であるという考え方自体が、裁判員制度の中には存在していない。
 結局、被告人は公権力が一方的に「公平」と考える裁判を強制される。これでは、被告人の権利とはいえない。これが裁判員制度を批判すべき第3の理由だ。
 なお、制度廃止を求める人びとがそうした質問を「思想調査」などと呼んで反対することは、「公平な裁判を受ける」という被告人の最も重要な権利を軽視することだ。

法律判断への批判の権利

 米国の陪審制でも、法律判断は職業裁判官が行い、事実認定は市民である陪審員が行う。そして量刑は法律判断として原則として陪審員は関与しない。しかしその場合でも、どのような犯罪にどれだけの刑が科せられるかは公式の基準があり、陪審員は刑罰があまりに過酷と考えれば犯罪を行ったことが明らかな者にもあえて無罪判決を出すことが可能だし、実際にそうしてきた。また、有罪・無罪の認定基準など法律についての説明は公開の法廷で「説示」として示されるため、市民による批判を可能とし、「間違った説明」や「予断を与える説明」は上訴や再審の理由となる。
 日本の刑事法規では、犯罪に対する量刑の範囲が非常に大きく、その適用は職業裁判官の恣意にまかされている。「量刑の相場」があるといわれるが公式の基準ではない。しかも裁判員制度にあたって最高裁が「量刑の相場」をまとめたことは、裁判官(員)の独立を否定し、最高裁が裁判員の評決を操作しようというもので市民による裁判批判・規制と対極にある考え方だ。
 また、裁判員制度では「説示」ではなく、評議室という密室の中で職業裁判官が裁判員に働きかけることが可能だ。しかも、裁判員の守秘義務によってどれほど不適切な法解釈が強制されようと、それを市民が知り、批判することは不可能になっている。
 こうした市民からの職業裁判官の法律判断批判を排除していることが、裁判員制度を批判すべき第4の理由である。
 裁判員制度の持つ本質であり欠陥は、以上のように職業裁判官に対する裁判員を含めた市民からの批判を封じ、職業裁判官による裁判を実質的に維持し続けることにある。そのことを考えれば、裁判員制度を廃止し職業裁判官による裁判へ戻せという主張が、裁判員制度批判にも、多くのえん罪を生み出し続けてきた戦後刑事手続きに対する批判にもなっていないことは明らかだろう。

法律を無視する力

 著者は陪審制度の持つ「本当の力」として「法律を無視するパワー」をあげている。この点は、陪審制の理解においても裁判員制度批判においても最も重要な視点だ。
 「陪審は評決にあたり理由を示す必要はなく、評議の内容について責任を取らされることはないという原則」の結果、「被告人が無罪評決を受けたのは、陪審が、検察側が提示した証拠が不十分だったと評価したためなのか、被告人には社会通念上、同情すべき特殊な事情があると評価したためなのか、違反があったとされる法律そのものを社会常識から極めて逸脱していると評価したためなのか」知ることもできず、知ったとしてもどうにもならない(p132)。その結果、「陪審制度は昔から厳しすぎる法律を緩め、社会の常識から逸脱している法律を骨抜きにする役割を極めて穏便に果たしてきた」(p.134-135)
 著者は具体例として、逃亡奴隷の回収を妨害する罪や禁酒法下の飲酒の罪、ベトナム戦争下の徴兵拒否の罪などをあげているが、陪審制下での有罪獲得の困難さがそうした悪制度、悪法の廃止を促進したことは間違いないだろう。だから、陪審制は「人類が思いついた唯一の、政府をその憲法の理念に拘束するための錨」(トマス・ジェファーソン、p.131)という評価も生まれる。陪審制の根底には、民主主義の絶対的基礎である市民の革命権がしっかりと存在しているのだ。
 そうした市民の革命権という思想が欠落しているのが裁判員制度であり、同時に裁判員制度不要論だ。裁判員制度では、職業裁判官には自らの判断に逆らう裁判員を解任することすら可能となっている。これが、裁判員制度を批判すべき第5の、そして最大の理由である。
 その背景には、民主主義の絶対的基礎である武装した市民の不在によって日本の戦後民主主義が形式的なものにとどまっていること、改悪治安維持法と戦時刑事特別法を出発点とし戦後の予審制廃止によって完成した現行刑訴法の戦時型刑事手続きがある。戦後の被疑者・被告人は、自分に有利な証拠の収集のために強制捜査権を利用する権利も、収集された証拠への全面的アクセス権も剥奪されてしまった。戦後憲法の数多くの人権条項もそれを強制する手段を欠落しているため実質的に機能していない。その結果が、著者の指摘する「悪い人のお仕置きをどうするか決めるための」現行刑事裁判であり、続発するえん罪だ。

裁判員制度不要という逆行

 こうした本質的かつ重大な問題点の存在にもかかわらず、私は裁判員制度を廃止して以前の職業裁判官による制度に戻すことは反対だ。
 裁判員となった市民の一人ひとりには、たとえ制度的に保障されていないとしても刑事裁判批判、法制度批判の機会があり、法律を無視するパワー行使のチャンスもある。陪審制も最初からそうした権利を保障されていたわけではない。
 たとえば最高裁の“量刑の相場”で死刑しかないとされても、裁判員が自らの信念にしたがって死刑に反対することも死刑を阻止するためあえて無罪に投票することも可能だ。それで数カ月、数年死刑判決が拒否され続けたら死刑制度の存続は不可能になるだろう。あるいは、辺野古の基地建設に反対して業務妨害などに問われた市民が沖縄の市民である裁判員によって次々に無罪を宣告されたら、しかも次々に入れ替えられても一貫して無罪とし続けたら、政府が基地建設を続けることは可能だろうか。「騒音被害は甚大だが、政府に飛行差し止めの権限がないから」などという官僚的責任逃れ判決は一掃されるだろう。
 著者も次のように述べる。
 「裁判員制度について非常にシニカルな理解の仕方をしている私だが、裁判員制度に反対しているわけではない。…裁判員制度における実質的な国民参加は非常に制限されているが」それがシンボリックなものに終わらない「可能性は十分にある」。「裁判員制度がどのように発展していくかは多分、法曹と裁判員次第であろう」(p.215-216)
 それを実現するためには、著者は「弁護士がもっと重要な存在になる」と述べる。
「いずれにしても、普通の市民に向かって刑事裁判の意義を説明できるのは弁護士しかいない」「これからは裁判員が、弁護士の援助を得ながら、無罪の推定など刑事裁判の本質的部分をその都度、素人の新鮮な目で見極めるようになれば、裁判員制度は本当に画期的な制度になるかもしれない」(p.219-220)
 まったく同感だ。ただそのためには、弁護士自身が“刑事裁判の出発点は復讐の禁止(公権力による復讐の代行)”とか“戦後の刑事司法が戦前の予審制・陪審制下より人権を守っている”、“人権は憲法によって市民に与えられた贈り物”など日本の法曹界を支配する歪んだ思想から自由にならなければならない。刑事裁判とくに裁判員裁判が被告席の市民を公権力から守る最後の砦であり、裁判員が法律(悪法と悪制度)を無視する力を持つことを、まず私たち市民自身が明確に自覚し、それを市民社会の中に広げていくことが重要だ。とくに、自分たち市民は愚かだから職業裁判官という優秀な官僚におとなしく支配されているべきだという奴隷の思想は完全に払拭しなければならない。
 残念ながら日本では、弁護士が市民に向かって刑事裁判の意義を説明するのではなく、市民が弁護士に向かってその意義を説明しなければならないのかもしれないのだから。

書評「アメリカ人弁護士が見た裁判員制度」

コリンP.A.ジョーンズ著、平凡社新書


刑事裁判は誰のためにあるか

 著者のジョーンズ氏は本書を書いた動機を第一に、裁判員制度について語られるときにしばしば陪審制度が引き合いに出されるが、両者は根本から違うことを明らかにすることだとして、次のように述べる。
「陪審制度は個人を公権力から守る最後の砦であるのに対して、…裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度」(p.10)
イメージ 1 著者の指摘するこの違いは陪審制度と裁判員制度の違いにとどまらない。陪審制度の根底にある米国や多くの近代的国家で支配的な刑事裁判観と日本で支配的な刑事裁判観の違いでもある。
 フランス大革命にはじまる近代市民社会の成立は、刑事裁判の性格を180度変えた。それまで刑事裁判は専制君主による一方的恣意的な臣民断罪の場だった。しかし市民革命は、それを市民が国家の刑罰権発動(刑罰を科すこと)を規制する場へと変えた。だから、職業裁判官による裁判でも、裁判官は市民の代理として、国家・公権力の刑罰権行使を規制する役割をはたさなければならない。裁かれるのは被告人ではなく検察官(公権力)である。無罪推定の原則にいう「普通の市民の合理的疑いを超えた証明」とはどこまで証明すればいいかの問題ではなく、市民が誰でも認める根拠なしに刑罰を科すのは許さないという承認の問題なのだ。だからこそ、死刑のような重大な刑罰の場合には、陪審制度の原則を曲げて市民が死刑の可否にまで判断を及ぼすべきだという発想も出てくる。
 こうした刑事裁判観の違いを前提に、著者は「普通の人が参加する裁判」の意義を明らかにすることが第2の目的だとして、次のように述べる。
「私が見たかぎり…『普通の人はバカか幼稚だ』というのが、裁判員制度だけでなく、日本の司法制度全体の一種の前提となっているように思える」(p.12)「陪審制度を参照しながら、一般市民の知恵は信頼していいものだ、信頼すべきだという考えを述べることが、この本を書いたもう一つの目的である」(p.14)
 そしてその解明のためには、法や制度が誰のために作られたかの解明が重要だと指摘する。
「出発時点から普通の日本人を見下して作られたとすれば、……裁判員制度が、『誰のための制度なのか』ということを検証することも重要だ」(p.15)

公権力のための法制度

 著者は、日本人の「訴訟嫌い」は法律や裁判が市民のために存在していなかった結果ではないかと示唆する。
「日本の法律は“上が下に押し付けるもの”という性質が非常に強く」(p.32)「罰則を背景とした義務や禁止事項を課すことにより、市民や企業などの自由を制限」する一方で、役所については「広範な裁量権を認めている」(p.37-38)
 その結果、市民が公権力を訴えてもまず勝利することはできない。これは国賠を訴えた日本の市民誰もが実感する現実だろう。
 米国における法律の役割は、
「このルールに則って行動すれば公権力の介入を受けない」、仮に介入する場合でも「公権力はそのためのルール(適正な手続き等)に従わなければならない」(p.43)
と公権力を規制することにあるが、それと対照的に
「日本の法律はまずお役所のためにある…かなりキツイ言い方をすると、『市民を公権力に屈服させることは、日本における法律の最大の目的である』」(p.39-40)
 「法は公権力のためにある」というのが「誰のため」という設問に対する著者の答えだ。
 こうした公権力による市民支配の手段という性格は、本来公権力を直接に規制するはずの憲法や人権にすら貫かれている。
「(人権には)『民対官』の性質が根本にある。ところが日本ではどうも違うようだ」「日本では…『人権』そのものが、市民がお互いに…主張するものとなっている」(p.67-68)
 さらに重要な指摘は、日本国憲法の人権条項が「公共の福祉」による制限によって、公権力を規制できないという指摘である。
「憲法上の国民の権利をどこまで制限できるかを、お役所が『公共の福祉』の判断次第で決められるならば」、憲法も人権も公権力が自由に取り上げることができる「贈り物」にすぎない(p.70)。
 まさに、日本の法制度や多くの法学者に決定的に欠落しているのは、人権や憲法、法制度によって市民が公権力の行動を監視し、規制するという視点なのだ。
 公権力が無制限のフリーハンドを持つという性格は裁判員制度にも貫かれている。
「普通の人が『何でこれが刑事事件になっている?』『こんな法律はおかしい』と疑問に思うような事件が(裁判員)制度の対象外になっていることは重要である。つまり、法律のグレーゾーンにおける法律の執行判断に対して、裁判員制度は『疑う機能』を持たず、裁判員制度が導入されても、警察等のお役所が市民生活に簡単に介入することができる環境はあまり変わらない制度設計になっている。これだけでも裁判員制度はアメリカの陪審制度とかなり違うものになる」(p.52)
 ここに裁判員制度を批判すべき第一の理由がある。裁判員制度の根底的問題性は、公権力を規制する視点も権限も持たず、対象にもできないことであり、そのために公権力が一方的に被告席の市民を断罪し続けてきた日本の刑事裁判の現状を変えられないことである。

独立なき裁判所

 人権や憲法、法律が公権力を規制する力を持たない日本で、では裁判所に公権力(行政府)の暴走を抑制する力があるだろうか。いわゆる『判検交流』や裁判官人事などにより三権分立や裁判官の独立が実質的に実現されておらず、一つの役所にすぎない日本の裁判所にそれは期待できないというのが著者の見解である。刑事裁判においても職業裁判官に公権力(警察・検察)による犯人ねつ造を規制することは期待できない。
「日本の裁判官は権限が小さく、縄張りが狭く、強制力のないお役所の中にいるため、刑事裁判をはじめとして、他の国家機関の行為に対して『疑う機能』を大きく発揮できず」(p.84)「“本当の真実”とは半分無関係に、被告人が有罪となった方が、お役所同士としては丸く収まる」(p.85)
 結局、犯人ねつ造を本質とする戦後の刑事手続きの“絶望的状況”は、裁判員制度を職業裁判官による裁判に戻すことでも解決できない。市民の批判を有効とするための対象犯罪の拡大と、公権力の一部である職業裁判官を評議から排除すること、言い換えれば裁判員制度の陪審制度への発展的解消のみによってそれは可能となる。

裁判を受ける権利

 著者は、第2章で米国の陪審制度の内容を紹介しつつその本質的意義について明らかにしているが、それ自身が裁判員制度に対する鋭い批判となっている。
 米国の陪審制度の第一の本質的特徴は、陪審制による裁判を受ける権利がすべての市民に対して保障されていることだ。この点は、裁判員裁判は被告人の権利ではないと明言している裁判員制度との重要かつ本質的な違いである。ただ、それを口実に制度廃止を求めることは、廃止が職業裁判官による裁判の強制しか意味しないのだから正当とは言えない。
 「陪審裁判を受ける権利」と似たような規定は、日本国憲法にも「第32条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」「第37条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」と存在している。しかし、公権力を規制する視点を持たない日本の法制度ではそれは単なる形式手続きの決まりにすぎず、「裁判を受けること」「公平」「迅速」「公開」は市民の権利(人権)と言える状況にはない。裁判員制度においてもその転換は実現されてはいない。この点に裁判員制度を批判すべき第2の理由がある。
 例えば裁判員裁判が検察官側控訴を禁止していないことは迅速性を無視するだけでなく、市民による評決(刑罰権行使の規制)を公権力が拒否し、市民の批判の上に職業裁判官による判断をおくことだ。だから、検察官控訴を禁止しなければならない。なお、被告人による控訴は、第一審では認められていない職業裁判官による裁判を受ける権利を実質的に実現するものとして維持すべきだ。

(つづく)

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