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2011年2月10日に発行された救援連絡センターの機関紙『救援』502号で菊池という方が、里見繁著『冤罪をつくる検察、それを支える裁判所』という新刊を紹介している。
菊池さんは「この本のタイトルは、ずばり真実をついている。……冤罪が明らかにされるたびに『無実を晴らせて本当に良かった……でもこれは本当に氷山の一角にすぎない。まだまだ晴らせていない冤罪事件は無数にあるのだから』と思う」「この国の司法が腐っていることを身をもって痛感しているからだ」と述べている。まったくの同感だ。日本の刑事司法の腐敗は、もはや一刻も放置できないところまで来ていると思う。 ただ一点、首をかしげた部分がある。裁判員制度を批判して 「裁判員裁判で冤罪事件が生まれても『国民参加の裁判』なのだからと、冤罪の責任は国民の責任に転化(正しくは転嫁)されてしまう」という部分だ。 「冤罪の責任は国民の責任」だと、市民が冤罪をなくすために闘うことは不可能になるのだろうか。人は、過失や不適切な制度・手法によって人に被害を与えた責任が自分にもあると自覚した時の方が、真剣にその改革・改善に努力するのではないか。 確かに裁判員制度それ自体が自動的に現行の腐敗した刑事司法の改革・改善となるわけではない。改革の可能性を得たにすぎない。結果を左右するのは、裁判員制度という与えられた武器を、市民自身がどう考え、どう使うかだ。 菊池さんは「答えはただ一つ、『疑わしきは罰せず』の原点にたつことだ」と結論する。まさにその通りだ。 司法の反動化は、職業裁判官に対する勤務評定導入で一挙に進んだことが研究者によって指摘されている。最高裁の人事権で支配される職業裁判官がこの原点に立つことはほとんど不可能だし、この原点に立ち無罪判決を出そうとする数少ない裁判官も左遷され、排除されている。 唯一可能なのは、市民自身がこの原点に立ち、それにしたがった判決を書くことではないだろうか。そのためには、冤罪被害者やその支援を行ってきた私や菊池さんなどが、多数の市民が『疑わしきは罰せず』の原点に立つよう訴え、説得し、人々を変えていくために闘うことだ。 2010年12月に鹿児島地裁の裁判員裁判で出された死刑求刑事件での無罪判決は、それが不可能ではないことを示している。『疑わしきは罰せず』を市民の常識とするために、民主主義の学校と言われる陪審制度に裁判員制度を近づけていくために、力を尽くしていこう。 |
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2011年02月21日
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