自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

予審制度・陪審員制度の再評価へ

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定例学習会報告(1)「予審制度を知る」

 私たちは現在、えん罪多発の現行刑事手続を改革するためには「予審制度」と「陪審制度」の復活とその改善が必要という問題意識から、沢登佳人・新潟大学名誉教授の講演録『刑事陪審と近代証拠法』をテキストに月1回の学習会を進めています。学習もテキストの半分を超え、具体的な改革条件を考えるところまで来ました。そこで、これまでの学習結果をまとめておきます。
 関心のある方は私たちといっしょに勉強してみませんか。
米 8月学習会
 8月24日午後2時から5時
  千駄ヶ谷区民会館会議室2号
米 9月学習会
 9月21日午後2時から5時
  神宮前区民会館和室1号

捜査と証拠評価方法の改革が必要

 沢登教授ははしがきで次のように述べています。
 「もしも証拠が…捜査機関によって不公平に集められたり歪曲または捏造されたりしたものであり、そのような証拠がそのまま公判の場に証拠として採用されて持ち込まれ、評議の基礎資料とされるのであれば、市民が加わった評議員がどんなに誠実・有能・公平であろうとも、その評議の結論は真実を歪めあるいは否定するものである」
 こうした指摘は、職業裁判官による裁判にも当てはまります。多くのえん罪の原因として、代用監獄での長期勾留と無制限の拷問的取調べ、その結果作られた「自白調書」などの事実上無制限の証拠採用などが指摘されています。
 裁判員制度の大きな問題点の一つに、こうした捜査と証拠採用のゆがみを放置していることがあります。そこで沢登教授は、そうした現実を改革するためには予審制度を含む「欧米先進諸国なみの近代的証拠法(証拠の採用・評価についての基準)の導入が不可欠」と訴えます。

フランス証拠法を歪め調書裁判進めた近代日本

 フランスから招かれたボワソナード・パリ大学助教授が作成した近代日本最初の刑訴法「治罪法」草案は、ナポレオン法典より改良され、予審制、陪審制も含む一層近代的な法典でした。
 ところが裁判権を市民に委ねることを危険視した天皇制専制政府が陪審制を外してしまった結果、フランス治罪法の柱であった捜査と公判の分離、つまり捜査した予審判事が作った予審調書は絶対に証拠にしてはならないという原則は、おなじ天皇の官吏という関係の中でなし崩し的に解体されてしまったのです。
 その後帝国憲法が制定されると、治罪法は、1890年により君主制国家にふさわしいと考えられたドイツ式の明治刑訴法に変更されました。ドイツ式刑事手続法の特徴は、当事者主義を否定し、「皇帝(天皇)の臣下である検察官と裁判官が協力して実体的真実を明らかにする」というものです。裁判官と検察官すら協力するのだから、まして同じ裁判官同士の協力は当然とされ、捜査と公判の分離の必要性は否定されます。
 こうしたドイツ式刑事手続の導入によって、明治刑訴法が予審調書を証拠とすることを制度として認め、1922年の大正刑訴法では一歩進んで予審調書を無条件で証拠とすることを認めた結果、戦前の刑事手続において、公判は予審の結論の再確認の場に化してしまいました。

予審廃止で当事者主義を完全否定した戦後日本

 戦後新憲法下での新刑訴法制定は、捜査と公判を分離し、当事者主義と直接主義を復活させることが課題でした。ところが新刑訴法は、予審調書に無条件に証拠能力を認めるという運用を改めるのではなく、当事者主義の柱の一つであり、被疑者の人権保障のために欠くことのできない予審制度を廃止することでこれまで以上に当事者主義を完全否定してしまったのです。その結果は、新たな人権侵害と無辜有罪誤判の続出です。
 「当事者に全捜査権を委ねれば強制捜査権は原告側の検察官・警察官が持つことになり、被疑者は事実上彼らの取調べの対象にすぎなくな(る)」「それを防ぐために捜査の主要部分、とくに強制捜査は裁判官だけにさせる」(テキストp13)
 これが当事者主義の柱である予審の本質なのです。
 なお、陪審制を否定するために形だけの市民参加制度としてドイツで考えられたのが、裁判所が「学識のある市民」を選び、研修したうえで一定期間、職業裁判官とともに裁判にあたらせる「参審制」です。陪審制=市民の裁判権行使否定のためという点では、現在の裁判員制度に通じるものです。
 なお、新刑訴法を作成した団藤重光教授も「予備審問(予審に相当する英米法の制度)は令状主義と一体の制度で…憲法もこの種の制度を予定」「予備審問を設けておくべきだった」と、予審廃止の誤りを認めています。

糾問手続への誤解による予審反対論

 「糾問手続の予審では人権無視の取調べが行われ、自白さえ得れば他に証拠がなくても有罪認定」だから、「もともと糾問手続の制度だった予審も悪い制度」
 こうした予審反対論は、糾問手続に対する誤解によるものです。
 糾問手続の証拠法則の多くが、自白の証明力制限を含めて仏米英刑訴法の近代証拠法にそっくり受け継がれています。
 一方同時に、近代証拠法の本質的部分である自由心証主義、書証排除、口頭弁論主義などは、糾問主義の証拠法を批判し、抜本的に改革したものです。

糾問手続とは−被害者の私訴が原則

 まずフランスの糾問手続について具体的にみていきます。
 糾問手続においては、裁判所のみが勝手に事件を取り上げたとしばしば説明されますが、それは誤りで、被害者の私訴が原則でした。検察官(当時は代官)が行う公訴や裁判所自身が自分で行う自己係属は、重大犯罪の場合に例外的に行われたのです。この私訴重視は現代のフランス刑訴法にも貫かれています。
 人民全体の利益・秩序を守る役割を持つ検察官は私訴がなくても公訴を提起できますが、私訴があった場合は人民の一員である被害者のために公訴を提起しなければなりません。

私訴の原則化は民主主義の実現

 この点について、沢登教授は「被害者の裁判を受ける権利」から説明します。
 「侵害された被害者の私益も…公益の一部」なのだから「犯人の発見と処罰を求めて裁判を受ける権利を認められるに最もふさわしい」(p18)
 しかし、この説明は刑罰権行使のための刑事手続全体とその国家刑罰権発動を人権擁護の視点から規制するための刑事裁判(公判)の違い、予審制度下と日本での公訴提起の意味の違いをあいまいにした不正確なもののように思います。
 日本では公訴提起はそのまま刑事裁判(公判)の開始を意味しますが、予審制度においては予審(強制捜査)の開始の申請にすぎず、予審判事が「嫌疑なし」と判断すれば公判は行われません。その意味で、日本での捜査機関に対する「告訴」に近いものです。違いはフランスでは「私訴」によって必ず予審が行われるのに、日本では捜査開始は義務ではないということです。
 予審制度では、被告人側にも予審判事に対して強制捜査権発動を求める予審統制権が認められています。国家の捜査活動に対する市民の統制という直接民主主義的権利行使が制度化されているのです。被害者の私訴による予審開始も、もう一方の側の市民による捜査活動に対する統制という直接民主主義的制度として説明すべきではないでしょうか。
 まさに、予審制度下での「私訴による公訴権発動」とは、市民が国家機関を統制する民主主義的制度なのです。

予審制度が原則とする中立・記録・全証拠開示

 事件が裁判所に係属すると、中立の立場の予審判事が証拠法則に従って物証や証言(宣誓供述)を収集し、被疑者を割り出して尋問します。
 なお、中立であることから、戦前の日本の予審制度では検察官側が捜査内容について要請する権利が認められたのと同様に被告人・弁護側にも要請権(予審統制権)が認められていました。弁護のため必要と考える家宅捜索や証拠品の押収の要請だけでなく、証人尋問や検証への立ち会いも認められていたのです。
 証人や被疑者の尋問は一問一答が書記によって逐一記録されます。現在のように、捜査官や検察官が宣誓抜きに証人から話を聞き、自白を強制して内容を勝手に作文するのとはまったく異なります。
 今日でも、阿部定事件などの取調べの内容を知ることができるのは、その記録(予審調書)が残っているためです。逆に、戦後は予審廃止によって取調べの密室化が進み、私たちが取調べの内容を知ることは不可能となってしまいました。
 予審の結果、予審判事が法廷証拠規則に照らして有罪認定に必要な証拠が自白を除いてすべて集められたと判断すると、収集した全証拠をすべて書面に作成し、被告人といっしょに判決裁判所(公判を行う裁判所)に送ります。
 そのため、戦前の日本では戦後とは異なり、弁護人は、全証拠を裁判所で見ることができたのです、

糾問手続とは−書面審理による判決手続

 予審判事からの送付を受けて判決手続が始まります。
 なお、フランス大革命前の予審手続では当該事件の予審判事も判決裁判所の一員として加わりましたが、近代法では予審判事は判決審の裁判官にはなれず、予審調書も判決審では一切証拠にできないなど、予審と公判は明確に分離されています。
 大革命前の判決裁判所は、予審裁判所から送られた書面のみにより、法廷証拠規則に照らして有罪認定に必要な証拠が自白を除いてすべてそろっているか検討しました。書面審理主義と言われます。
 検討の結果、自白がなくても有罪と認定するのに必要な証拠(完全証拠)がそろっていると判断すれば、被告人にアリバイや正当防衛など放免事実の証拠の提出を求め、あれば無罪、なければ有罪を言い渡します。
 自白以外の証拠だけでは自白を聞くために必要な法定証拠(熱烈な証拠)がそろっていると言えない時は、被告人は釈放されます。
 熱烈な証拠がそろっている時、初めて判決裁判所は被告人の自白を聞くことができました。この場合にも、予審での自白は証拠とならず、あらためて自白を得る必要がありました。
 自白を得られなければ、1回(1日)に限り拷問が許されました。その結果自白が得られれば有罪、得られなければ無罪です。
 密室の中で、事実上期間も時間の制限もなく取調べと称する拷問が許され、その結果得られた自白、それも捜査官が勝手に脚色した自白調書が判決審でそのまま証拠とされ、法廷での被告人の証言より重視される現在の日本の刑事手続は、この大革命前の糾問手続より非人道的で人権を侵害する手続なのです。

7月14日、東京高裁は1967年に茨城県利根町布川で発生した殺人事件で強盗殺人罪で有罪とされ無期懲役が確定した二人の男性に対して、再審開始を支持する決定を出しました。

 この事件は予審制があった戦前では発生しなかった可能性の高いえん罪です。
 報道によれば、高裁の再審開始支持決定の理由の一つに、被告人を見たとする中学生(当時)の目撃証言に対する捜査員の誘導、「被告人ではない」とする女性の目撃証言の存在があります。
 松川事件の「諏訪メモ」の隠蔽が有名ですが女性の証言も長期間隠蔽されてきました。中学生の「薄暗くてはっきりわかりわからなかった」という証言も隠蔽され、捜査員の誘導によってえん罪被害者を見たという証言にねじ曲げられてしまったのです。また男性たちの無実を示す物証、鑑定の多くも隠蔽されました。
 再審を認めさせる闘いの大きな部分がそうした隠蔽された証拠を開示させることでした。
全証拠開示が当然だった戦前の予審制度のもとでは、このような隠蔽は考えられないことなのです。

 さらに戦後刑訴法は、密室での取調べという拷問を公認し、その結果捜査機関が捏造する自白調書という作文を証拠と認めました。
 最高裁は「取調にあたった警察官らは、証人として尋問を受け、被告人に対する強制、誘導や誤導、偽計、長時間にわたる取調をおこなったことを否定」していると、ないと言っているからなかったとして自白は任意と決めつけたのです。
 予審調書が証拠とに認められていた戦前でも、捜査官が被疑者を脅し、誘導してねつ造したこのような作文が証拠として認められることは絶対にありませんでしたし、証拠と認められていた予審判事の尋問内容も一問一答形式で記録され、開示されましたから、強制や誘導の存在の検証も可能でした。

 布川えん罪事件は、戦後の刑訴法が予審制度を廃止して強制捜査権を訴追者に与えた結果、捜査活動が「事実や真実の解明」ですらなく、検察が有罪判決を得るため、裁判所が有罪判決を書くための材料探しにねじ曲げられている当然の帰結なのです。
 えん罪と闘う多くの弁護士・市民ですら、「人権重視の戦後憲法下の刑訴法だから戦前よりはよくなっているはずだ」との思い込みから、戦後刑訴法を擁護し、予審制度に感情的な敵意すら示します。
 もちろん、改善された点も少なくないでしょう。しかし、えん罪の発生を減らし、なくすことを望むなら、まず戦後刑訴法が、多くのえん罪を生み出す直接の原因となっている現実を見据えることから出発すべきではないでしょうか。

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 高野善通という方が、裁判員制度に反対する根拠として次の10点にまとめて下さっています。高山弁護士の「裁判員制度はいらない」という著書の主張もほぼ同様だと思います。
裁判員制度はこんなにヒドい法律です
・共産社民を含め国会全会一致、司法権力も協力、日弁連翼賛、メディアは一切批判しない、まさしく国家権力総与党化、憲政史上の大暴挙です
・オウムや和歌山カレー事件の類の裁判に当たったら長期拘束を受け生活にも重大な影響が出ます。この制度のために人生狂わされかねません
・死刑制度反対の思想を持っていようが指名されれば拒否することは至難の業。国家権力によって思想信条までが統制される危険性があります
・捜査当局の情報を無批判的にリークするようなメディアの報道姿勢が市民の判断に重大な影響を及ぼします。松本サリン事件の悲劇が再来します
・出産育児でも平気でリストラが起こる社会では、「裁判員任務によるリストラは起こらない」という制度推進者の説明は全く信用できません
・重罪事件を扱うため評議中にセクハラ・暴言などの不法行為が起こりやすい上、被害を受けても守秘義務により立証不可能のため泣き寝入りです
・2chなどで少年事件被告人の実名流出が平気で起こる社会では、個人情報は隠匿されるので安心という制度推進者の説明も全く信用できません
・凶悪犯の被告人に顔を見せることを強制され、氏名も知らされるため、個人情報が保護される保障がない以上逆上被害を受ける危険性があります
・外国人と日本人の共同犯罪の場合、極端な思想を持った市民裁判員が外国人だけに極端に重い刑罰を言い渡す危険性があります
・市民にとって制度への有効な反対手法がなく手をこまねいている間にも、皆様の血税がこんな大悪法のために次々に注ぎ込まれていきます 
 刑事裁判とは誰のためにあるのでしょうか。まず何より、犯罪の容疑を受けた被告人が不当な刑罰を受けないよう防禦権を行使する場としてあるのではないでしょうか。ところが前記10点を見て気がつくことは、刑事被告人の人権をどう守るかという視点からの批判が極端に少ないことです。メディアの影響を述べた4番目と外国人への偏見を述べた9番目のわずか2項目だけです。高山弁護士の著書を読んだ時にも感じたのですが、「裁判員制度はいらない」と訴えている運動には、刑事裁判で被告人の人権をどう守るか,冤罪をどうなくすかという視点がとても希薄なように思います。
 職業裁判官はメディアの影響は受けないのか、外国人に対する排外主義や差別主義を持った者はいないのか。そんなことはありません。裁判員制度の場合は少なくとも明らかに極端な偏見を持つ者を排除する機会が与えられています。職業裁判官を選ぶことはできません。例えば、恵庭冤罪事件というのがあります。犯行現場も犯行時刻も犯行手段も不明でも有罪判決が出されました。判決を書いた遠藤和正という人物は裁判所内でも「検事もどき」と言われる、なんでも有罪とする判事だそうです。冤罪で責任を取った裁判官がいたでしょうか。無実と思っても出世のため有罪判決に署名し、退職してから「実は…」と告白した裁判官もいます。

 裁判員に選ばれた市民の負担の重さが強調されていますが、被告人はたとえ無実でも有罪となれば人生は破壊され、時には命すら奪われてしまうのです。そうした重大な犠牲を人に強いるのに半年や1年拘束されたからといってなんだというのでしょう。職業裁判官にまかせて、俺は知らないよと知らん顔をしていれば良いのでしょうか。「人を裁く自信がない」という反対論がありますが、だったら「無罪」にすれば良いのです。「人をいかに有罪にするか」に腐心している職業裁判官の現状を前提にしているから、「有罪の証拠がないと有罪判決は書けない。どうしよう」と心配になるのです。
 和歌山カレー事件を語るなら、長期裁判で大変と言うより、証拠もなくあやしいというだけで命を奪われようとしている林さんのことを考えてほしいと思います。

 私は裁判員制度には反対です。少なくとも次の3点が実現されない限り、賛成できません。
1) 評決に対して職業裁判官の関与をなくすこと,評決に拘束力を与えること
2) 有罪評決を行うためには、裁判員(陪審員)の全員一致を必要とすること
3) 無罪評決に対しては検事控訴を禁止すること
(実際には公判前手続きの全面改革が必要ですが、ここでは論旨がずれるので省略します)
 人を有罪とするためには、通常人であれば誰でも有罪を確信するだけの証明がなされなければなりません。通常人とは普通の市民を指します。「合理的疑いを超える証明」とはそういうことです。無作為に選ばれた市民が一人でも「もしかしたら犯人ではないかも」と思ったらその時点でかつ最終的に被告人は無罪にしなければなりません。それが近代刑事裁判の原則です。
 ところが日本では、そうした主張をストレートに述べる人は法曹関係者も含めてあまりいません。「そんなことをしたら犯人が野放しになる」。それが日本の多数意見のようです。でも犯人が野放しになってもしかたがないと言い切るのが近代刑事裁判です。
 残念ながら「裁判員制度はいらない」という運動には、被告人の人権をどう守るかというこの最も重要な点が希薄化しているように思います。

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「犯罪を疑われたら逃げるしかない」
 弁護士ですらそう言わざるをえないほど,日本の刑事手続きの腐敗は極まり、それに対する市民の信頼は地に落ちています。そうした中で、政府も「裁判員制度」と称する“手直し”に踏み切らざるをえなくなっていますが、裁判員制度は職業裁判官の拒否権の存在一つとっても、刑事手続きの腐敗の解決策にならないことは明らかです。

 ところで、同じ裁判員制度反対と言っても、どのような立場と方向性から反対するかで大きな違いがあるように思います。
 「裁判員制度はいらない」という運動があります。彼らは、「市民ごときに裁判はできない」と市民への不審と蔑視をあおる一方で、「職業裁判官(お上)を信頼しよう」と訴えています。この「いらない」運動の主張の柱の一つに、「市民の裁判を受ける権利とは職業裁判官(司法官僚)の裁判を受ける権利である」というものがあります。こうした主張は、国王の官僚裁判官から市民自身のもとへ裁判権を奪い取ってきた市民革命以来の近代裁判制度の流れを無視し、逆行させるものです。

 実はこの「職業裁判官の裁判を受ける権利」という主張は、戦前にも陪審員制度に反対する主張として展開されてきたものなのです。例えば、京都帝大法学部の宮本英脩教授は陪審制に対する違憲論を紹介し、その根拠として(大日本帝国)憲法24条「日本臣民は法律に定めたる裁判官の裁判を受ける権利を奪われることなし」などをあげ、「文義的に言えば」この主張のほうが有力であるとしています。ただ、宮本教授自身は、違憲論は「陪審法の施行自体により解決せらるたる」と合憲論を支持し,その根拠として裁判所が陪審の答申を不当と認める時には答申を採択しないで事件をさらに他の陪審の評議に付することができる事実をあげて、裁判所が陪審に拘束されておらず、「陪審は裁判所に対する法律上の補弼(ほひつ)機関」にすぎないからだとしています。(『再訂刑事訴訟法講義』1934年、弘文堂書房)

 このように,「職業裁判官の裁判を受ける権利」という主張は、戦前においては陪審制を非常に歪んだものにし、市民による裁判ではなく、天皇制官僚による裁判を維持する有力な手段となっていました。現代においても、この主張は陪審員制ではなく職業裁判官の拒否権を組み込んだ「裁判員制度」導入の根拠ともなりうるものです。
 「いらない」運動の主張する市民に対する裁判員の負担の重さが、裁判員裁判は短期間で結論を出すべきという政府の主張の根拠ともされているように、裁判員制度を導入しようとする政府と「いらない」運動の主張には奇妙な一致が見られます。ともに、市民自身の裁判権行使に反対するという共通点があるからでしょうか。

 ところで、この戦前の陪審員制違憲論の根拠条文は「裁判官の裁判を受ける権利」です。ところが、日本国憲法第32条は「何人も、裁判所において裁判を受ける權利を奪はれない」となっています。つまり、現行憲法はあえて「裁判官の裁判」ではなく「裁判所において裁判を受ける権利」を保障しているのです。この点から見て、現行憲法が「職業裁判官の裁判を受ける権利」を保障しているという「いらない」運動の誤謬は明らかでしょう。

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歪曲的解釈では現行刑訴法の欠陥を解消できない

弾劾的捜査観を支持する立場から強制権限の検察委譲を否定する見解もある。
平野龍一教授は、現行刑訴法の規定上「予審判事の権限は検察官に委譲されてはいない。しかし、運用では、かなり移譲されている」(平野龍一「現行刑事訴訟の診断」)と述べているそうだ。
つまり、「弾劾的捜査観では、捜査は捜査機関が単独で行う準備活動」にすぎず、「強制は」将来の裁判のために「裁判所が行うだけである。当事者は、その強制処分の結果を利用するにすぎない」(同『刑事訴訟法』)という弾劾的捜査観支持の立場から、憲法の令状主義の前提には「裁判官だけが強制処分ができるとしたもの」があり、「令状は当然に命令状である」と主張する。
強制処分の主体は裁判所で警察・検察はその手足にすぎないと言うなら、警察・検察に令状請求権を認めるは論理矛盾だろう。請求権を認めないか、被疑者側にも認めるべきである。
さらに、強制捜査は裁判官の責任と管理下で行い、その結果である証拠などの管理も裁判所であるべきで、検察は被疑者・弁護人と平等にその結果を利用できるだけであるはずだ。
しかし、現行刑訴法では、警察・検察のみに令状請求を認め、請求があって初めて令状は発付される。さらに、その実施過程や結果についても警察・検察の、しかもそれのみの管理下にある。現行刑訴法が「裁判官だけが強制処分ができる」という原則を否定し、強制処分の主要な主体を警察・検察においていることは自明だろう。
確かに、市民を不当な訴追から守り、冤罪を減らすためには、平野教授の主張するとおり捜査は弾劾的捜査観に基づいて行われなければならないし、憲法の令状主義などの人権保障規定の背景には弾劾的捜査観の要請が存在していることは間違いないだろう。
しかし、だからといって現行刑訴法が弾劾的捜査観に基づいているなどと現実をねじ曲げ、規定を歪曲した解釈するのは誤りだ。現実を美化しても本質的欠陥と腐敗を解消することはできない。必要なのは、人権を否定する現行刑訴法の腐敗と欠陥を見据え、憲法の人権規定との齟齬を認め、そこから出発することだ。

弾劾的捜査観実現する手段としての予審制度

平野教授は、弾劾的捜査観の要請として強制処分は裁判所のみが行うべきと言う。得られた証拠物なども裁判所が管理すべきであり、その結果に対しては検察も被疑者も平等に利用できるべきと言う。では、強制捜査権を警察・検察から取り上げ、裁判所に戻すべきだろう。
ただその場合、公判判事の予断を排除するためには、強制捜査の主体は公判判事と切り離されなければならない。また、検察や被疑者に強制処分権発動の要請権を認める必要も出てくるだろう。
梅田教授も示唆しているが、結局、これはまさに予審制度や予審統制権などではないか。
被疑者・被告人の人権を守るために弾劾的捜査観を貫くならば必然的に予審制度の復活が課題になる。まず、そのことを率直に認めなければならない。

最後に

予審制度復活は現行の刑事手続きの人権侵害状況の改善を目指す手段であるが、すべての欠陥を解消する万能薬ではない。裁判所が捜査により深く関与するならば、予断排除のためにも事実認定を職業裁判官ではなく市民自身が行う陪審員制度も不可欠だ。何より裁判を市民自身が国家機関から取り戻し主体的に担っていく決意と行動が必要だろう。

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