自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

裁判員制度を考える

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裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
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書評「アメリカ人弁護士が見た裁判員制度」

コリンP.A.ジョーンズ著、平凡社新書


刑事裁判は誰のためにあるか

 著者のジョーンズ氏は本書を書いた動機を第一に、裁判員制度について語られるときにしばしば陪審制度が引き合いに出されるが、両者は根本から違うことを明らかにすることだとして、次のように述べる。
「陪審制度は個人を公権力から守る最後の砦であるのに対して、…裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度」(p.10)
イメージ 1 著者の指摘するこの違いは陪審制度と裁判員制度の違いにとどまらない。陪審制度の根底にある米国や多くの近代的国家で支配的な刑事裁判観と日本で支配的な刑事裁判観の違いでもある。
 フランス大革命にはじまる近代市民社会の成立は、刑事裁判の性格を180度変えた。それまで刑事裁判は専制君主による一方的恣意的な臣民断罪の場だった。しかし市民革命は、それを市民が国家の刑罰権発動(刑罰を科すこと)を規制する場へと変えた。だから、職業裁判官による裁判でも、裁判官は市民の代理として、国家・公権力の刑罰権行使を規制する役割をはたさなければならない。裁かれるのは被告人ではなく検察官(公権力)である。無罪推定の原則にいう「普通の市民の合理的疑いを超えた証明」とはどこまで証明すればいいかの問題ではなく、市民が誰でも認める根拠なしに刑罰を科すのは許さないという承認の問題なのだ。だからこそ、死刑のような重大な刑罰の場合には、陪審制度の原則を曲げて市民が死刑の可否にまで判断を及ぼすべきだという発想も出てくる。
 こうした刑事裁判観の違いを前提に、著者は「普通の人が参加する裁判」の意義を明らかにすることが第2の目的だとして、次のように述べる。
「私が見たかぎり…『普通の人はバカか幼稚だ』というのが、裁判員制度だけでなく、日本の司法制度全体の一種の前提となっているように思える」(p.12)「陪審制度を参照しながら、一般市民の知恵は信頼していいものだ、信頼すべきだという考えを述べることが、この本を書いたもう一つの目的である」(p.14)
 そしてその解明のためには、法や制度が誰のために作られたかの解明が重要だと指摘する。
「出発時点から普通の日本人を見下して作られたとすれば、……裁判員制度が、『誰のための制度なのか』ということを検証することも重要だ」(p.15)

公権力のための法制度

 著者は、日本人の「訴訟嫌い」は法律や裁判が市民のために存在していなかった結果ではないかと示唆する。
「日本の法律は“上が下に押し付けるもの”という性質が非常に強く」(p.32)「罰則を背景とした義務や禁止事項を課すことにより、市民や企業などの自由を制限」する一方で、役所については「広範な裁量権を認めている」(p.37-38)
 その結果、市民が公権力を訴えてもまず勝利することはできない。これは国賠を訴えた日本の市民誰もが実感する現実だろう。
 米国における法律の役割は、
「このルールに則って行動すれば公権力の介入を受けない」、仮に介入する場合でも「公権力はそのためのルール(適正な手続き等)に従わなければならない」(p.43)
と公権力を規制することにあるが、それと対照的に
「日本の法律はまずお役所のためにある…かなりキツイ言い方をすると、『市民を公権力に屈服させることは、日本における法律の最大の目的である』」(p.39-40)
 「法は公権力のためにある」というのが「誰のため」という設問に対する著者の答えだ。
 こうした公権力による市民支配の手段という性格は、本来公権力を直接に規制するはずの憲法や人権にすら貫かれている。
「(人権には)『民対官』の性質が根本にある。ところが日本ではどうも違うようだ」「日本では…『人権』そのものが、市民がお互いに…主張するものとなっている」(p.67-68)
 さらに重要な指摘は、日本国憲法の人権条項が「公共の福祉」による制限によって、公権力を規制できないという指摘である。
「憲法上の国民の権利をどこまで制限できるかを、お役所が『公共の福祉』の判断次第で決められるならば」、憲法も人権も公権力が自由に取り上げることができる「贈り物」にすぎない(p.70)。
 まさに、日本の法制度や多くの法学者に決定的に欠落しているのは、人権や憲法、法制度によって市民が公権力の行動を監視し、規制するという視点なのだ。
 公権力が無制限のフリーハンドを持つという性格は裁判員制度にも貫かれている。
「普通の人が『何でこれが刑事事件になっている?』『こんな法律はおかしい』と疑問に思うような事件が(裁判員)制度の対象外になっていることは重要である。つまり、法律のグレーゾーンにおける法律の執行判断に対して、裁判員制度は『疑う機能』を持たず、裁判員制度が導入されても、警察等のお役所が市民生活に簡単に介入することができる環境はあまり変わらない制度設計になっている。これだけでも裁判員制度はアメリカの陪審制度とかなり違うものになる」(p.52)
 ここに裁判員制度を批判すべき第一の理由がある。裁判員制度の根底的問題性は、公権力を規制する視点も権限も持たず、対象にもできないことであり、そのために公権力が一方的に被告席の市民を断罪し続けてきた日本の刑事裁判の現状を変えられないことである。

独立なき裁判所

 人権や憲法、法律が公権力を規制する力を持たない日本で、では裁判所に公権力(行政府)の暴走を抑制する力があるだろうか。いわゆる『判検交流』や裁判官人事などにより三権分立や裁判官の独立が実質的に実現されておらず、一つの役所にすぎない日本の裁判所にそれは期待できないというのが著者の見解である。刑事裁判においても職業裁判官に公権力(警察・検察)による犯人ねつ造を規制することは期待できない。
「日本の裁判官は権限が小さく、縄張りが狭く、強制力のないお役所の中にいるため、刑事裁判をはじめとして、他の国家機関の行為に対して『疑う機能』を大きく発揮できず」(p.84)「“本当の真実”とは半分無関係に、被告人が有罪となった方が、お役所同士としては丸く収まる」(p.85)
 結局、犯人ねつ造を本質とする戦後の刑事手続きの“絶望的状況”は、裁判員制度を職業裁判官による裁判に戻すことでも解決できない。市民の批判を有効とするための対象犯罪の拡大と、公権力の一部である職業裁判官を評議から排除すること、言い換えれば裁判員制度の陪審制度への発展的解消のみによってそれは可能となる。

裁判を受ける権利

 著者は、第2章で米国の陪審制度の内容を紹介しつつその本質的意義について明らかにしているが、それ自身が裁判員制度に対する鋭い批判となっている。
 米国の陪審制度の第一の本質的特徴は、陪審制による裁判を受ける権利がすべての市民に対して保障されていることだ。この点は、裁判員裁判は被告人の権利ではないと明言している裁判員制度との重要かつ本質的な違いである。ただ、それを口実に制度廃止を求めることは、廃止が職業裁判官による裁判の強制しか意味しないのだから正当とは言えない。
 「陪審裁判を受ける権利」と似たような規定は、日本国憲法にも「第32条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」「第37条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」と存在している。しかし、公権力を規制する視点を持たない日本の法制度ではそれは単なる形式手続きの決まりにすぎず、「裁判を受けること」「公平」「迅速」「公開」は市民の権利(人権)と言える状況にはない。裁判員制度においてもその転換は実現されてはいない。この点に裁判員制度を批判すべき第2の理由がある。
 例えば裁判員裁判が検察官側控訴を禁止していないことは迅速性を無視するだけでなく、市民による評決(刑罰権行使の規制)を公権力が拒否し、市民の批判の上に職業裁判官による判断をおくことだ。だから、検察官控訴を禁止しなければならない。なお、被告人による控訴は、第一審では認められていない職業裁判官による裁判を受ける権利を実質的に実現するものとして維持すべきだ。

(つづく)

 多くのえん罪事件を生み出し続けている日本の刑事手続きは、それを担う司法官僚たちがもはやこれまで通りやってはいけないと感じ、多くの市民が刑事裁判への信頼を失いこれまで通りを望まない危機的状況にあります。そうした中で登場した裁判員制度は、疑似「陪審制・参審制」という新形式の導入によって批判をかわし、職業裁判官と検察官一体での犯人ねつ造と一方的断罪という戦後刑事手続きの本質を維持し続けるところに目的があります。
 だから、裁判員制度の徹底的批判が必要です。ただそれは、市民にとって刑事裁判はどうあるべきかという理念と正確な現状認識を前提に、裁判員制度が現状にどのような影響を与えるかという分析に基づいた批判でなければ意味はありません。私は、そうした批判の必要性を繰り返し訴えてきましたが、残念ながら「裁判員制度はいらない!大運動」の方々からは嫌悪感の表明やステレオタイプな罵倒しか聞こえてきません。

兵役義務の憲法規定は徴兵制施行の前提ではない

 救援連絡センターの機関紙『救援』494号に、斎藤文男・九州大学名誉教授の「裁判員裁判にNOを!/『治安の砦』化する司法」と題する文章が載りました。
 斎藤教授のような研究者と私のような非研究者の最も大きな違いは、主張の根拠となる事実に対する研究者の厳密な検証だと私は考え、それに近づこうと努力してきました。たとえ異論があっても、前提とされた事実を論争の共通の出発点とすることができるからです。ところが、裁判員制度がテーマとなると、斎藤教授のような方でもそうした厳密さは消えてしまうようです。
 斎藤教授は次のように述べます。
「明治憲法には兵役の義務があった。だから、徴兵制が敷けた。しかし、現行憲法には兵役の義務はもちろん『裁判員となる義務』などありはしない。もし、いま徴兵制を敷けば、憲法違反は明らかだろう。同様に憲法にない…裁判員制度は憲法違反だ」
 しかし、まず第1に、明治憲法の兵役の義務の規定が徴兵制施行の前提というのは間違いです。
 日本の徴兵制は、1872年の「全国徴兵に関する詔」 および1873年の太政官布告「徴兵令」により始まります。一方、明治憲法発布は1889年ですから、1872年には存在していない明治憲法の規定によって「徴兵制が敷けた」はずはありません。
 第2に、現行憲法に義務規定がないことが徴兵制違憲論の根拠なのでしょうか。
 これまで、自国の戦争に反対する多くの市民は、戦争と軍隊を禁止している9条を徴兵制違憲論の根拠と主張してきたのではないでしょうか。規定がないからではなく、禁止規定があるから違憲なのです。ところが、裁判員制度を徴兵制になぞらえる方はなぜか9条に言及しません。憲法は戦争を禁止していますが刑事裁判を禁止してはいませんから、9条に言及すれば裁判員制度と徴兵制の性格の違いが明白になり、裁判員制度違憲論の論理的破綻が明白になってしまうからでしょうか。
 第3に、明治憲法下で陪審制度が実施されていました。明治憲法に「陪審員となる義務」の規定はありません。しかも、現行憲法下でも陪審制度は停止されていただけで違憲とされてはいません。

市民自身の責任を否定してはならない

 斎藤教授は、次のようにも述べます。
「戦争で、国家は兵士に敵を殺し、自分も殺されることを命じる。裁判では、国家は裁判官に死刑判決で被告人を殺すように命じる。裁判員制度は、私たちに裁判官並みの権限を持たせ、合法的な人殺しを強いている」
 第1に、「合法的な人殺しを強いる」国家とは市民自身ではないでしょうか。
 かつての日本の侵略戦争について、私は「あれは天皇制専制政府が行ったこと。日本の市民に責任はない」とは考えません。まして戦後民主主義の現在、自衛隊が行っている中東などでの戦争について私を含めた日本の市民が責任を回避できるとは思いません。だから、かりに日本版9.11があったとしても、「無差別テロ」などと一方的に被害者面をすることは私にはできません。
 同じく、職業裁判官が行おうと「合法的殺人」の責任を取るべきは市民自身以外にはありません。だから私は自国の戦争だけでなく死刑制度にも反対します。米国の多くの州で、死刑判決に限っては陪審員の承認が必要という動きが広がっているのも、死刑のような重大刑罰の場合には市民自身が直接責任を持つべきだという考えだからでしょう。
 しかし、斎藤教授は、裁判員制度がなければ市民が「合法的殺人」に対して「あれは職業裁判官のしたこと」と責任逃れできると考えているようです。だから「後方勤務」「代替役務」に従事していたから自国の侵略戦争に責任はないとばかりに「良心的兵役拒否」を持ち上げ、「裁判員にも『良心的拒否』が認められてしかるべき」などと述べることができるのです。自らの責任回避の願望を「思想・良心の自由」という言葉で正当化しようというのは恥ずべきことと私は思います。
 「自分が判決したわけじゃない」という市民の無関心と無責任こそが、日本の死刑制度を維持している最大の要因でしょう。 徴兵制も裁判員制度も、市民自身を当事者とすることでこうした無関心と無責任を困難にします。大運動の方々は、“市民に死刑判決が出せるのか”などと言います。死刑判決が出せなければそんな非人道的刑罰は廃止すればいいのです。

刑事裁判を犯罪者断罪の手段としてはならない

 第2に、「国家は裁判官に死刑判決で被告人を殺すように命じる」という斎藤教授の言葉の中には、検察官と裁判官が協力して犯罪者を断罪するという、日本の法曹界の主流である反近代的刑事裁判観が示されています。
 国家(行政権)の不当な刑罰権行使から被告人の人権を守ることに近代的刑事裁判の目的があります。だから、裁判官・裁判員の役割は、“被告人は罰する(殺す)しかない”と主張する検察官・行政権力と対決し、チェックし、少しでも疑問があればそれを禁止することです。それが「無罪推定」原則の本来の意味であり、「たとえ真犯人を取り逃がしても、たった1人でも無辜(無実の者)を罰してはならない」という金言が訴えていることなのです。
 犯罪者の言い逃れを見破り断罪するためなら専門的訓練を受けた職業裁判官に比べて市民は能力不足でしょう。しかし、検察官の主張の正当性の判断基準を、“何の専門的訓練もない市民を誰でも納得させるところまで立証できたか”におく近代刑事裁判では、検察官の立証の不備を訓練でカバーしてしまう職業裁判官に有罪・無罪を判断させてはいけません。犯罪者断罪という反近代的刑事裁判観の実現・有罪判決のために専門知識を駆使する職業裁判官が判決を書き続けてきたところに、えん罪続発の原因があります。裁判員制度の最大の欠陥も職業裁判官を評議から排除できていないことです。

市民には公権力行使できないという詭弁

 斎藤教授は次のように続けます。
「裁判員は、公務員ではない。民間人、私人だ。一私人が、どうして…公権力が行使できるのか。こんなことは旧憲法下でもなかった」
 では、旧憲法下で天皇は公務員だったのでしょうか。公務員でないとすれば、天皇には公権力が行使できなかったのでしょうか。戦前の主権者である天皇に権力が行使できたのなら、戦後の主権者である市民に権力行使ができるのは当然ではないでしょうか。
 斎藤教授の主張は、公務員でなければ民間人だ、民間人なら私人だという、たがいに意味も性格も範囲も異なる言葉・概念をその対象の重複を利用してすり替え、あたかも市民個人の恣意的な「殺人」を「合法」と認めるのが裁判員制度であるかのように描き上げる詭弁とイメージ操作です。

人権を口実とした専制の正当化

 斎藤教授が、裁判員制度反対の背景にある最も根底的思想を述べているのが次のような部分です。
「司法は、政治部門から独立して憲法を頂点とした法秩序を守る」「国民多数の意志や世論に抗しても、個人の人権を守る。つまり、民主主義の暴走に歯止めをかけ、『人権の砦』となることこそ、司法の役割だ。その意味では元来、裁判所は自由主義のための機関であって、『民主化』されてはならない」
 最高裁が、「有形力」などの詭弁を使い、現行憲法の人権条項を歪曲し否定する「人権破壊の砦」として戦後一貫して存在してきたという歴史的事実は、ひとまず指摘しておくだけにします。
 第1に、斎藤教授にとって、人権とは政府に対する市民の権利、専制に対する人民の権利ではなく、一部の国民を他の国民から守るためのもののようです。
 司法を含む国家機関は、しばしば人権を侵害する危険な存在として市民が憲法を通して監視しなければならない存在ではなく、国民や「秩序」を守る擁護者として描かれます。刑事裁判も、犯罪者という市民の一部から犯罪被害者など他の市民を守るための制度で、国家の刑罰権行使から被告席の市民を守るためのものではないようです。そこには、「犯罪被害者の人権」を叫ぶ宙の会と同じ「人権の名で人権を踏みにじる」論理が貫かれています。「犯罪者は『社会の敵』だ」から「社会から抹殺し、隔離」することで「法秩序を守る」のが司法の役割という「権力者、治安当局の視点」は、すでに斎藤教授の中に貫かれています。
 第2に、斎藤教授が警戒しているのは、権力の暴走ではなく「民主主義の暴走」であり、市民自身です。
 そこには市民に対する蔑視と恐怖が色濃く表れています。こうした民主主義を愚民政治と罵倒する思想は、原始共産制と母系制社会の解体で、階級支配と家父長制社会が登場したブラトンの時代から、支配と抑圧の正当化の思想として連綿と続いてきました。愚かな人民大衆をその愚行から守るために「哲人による政治」「慈悲深い専制」が必要という思想は、現在も「前衛による労働者大衆の指導」というスターリン主義的専制など根深く存在しています。新左翼や全共闘運動も克服できなかったこうした選民思想が、裁判員制度という疑似変革をきっかけに一挙に表面化し、拡大し始めています。
 こうした市民への蔑視と恐怖を持つ人々が、自らを市民運動と押し出さざるをえないというところに、大運動のジレンマがあります。その克服のためには、参加する市民を“愚かな市民”とは別の存在と聖別するしかありません。目覚めた自分たちと無知の闇の中でさまよう市民という対立関係の中で、もはや「裁判員制度はいらない」は改革をめぐる政策主張ではなく一つの信仰告白となっています。だから、インカ文明を破壊したフランシスコ・ピサロがそれでもキリスト教徒でありえたように、西野喜一元判事のような反動的人物でも「裁判員制度反対」という信仰告白を行えば同信の仲間でありうるのです。

市民に市民をけしかける体制翼賛

 斎藤教授は次のように述べます。
「本気で司法を『民主化』したいのなら、どうして全国3500人の裁判官を選挙制にしないのか。まず手始めに、最高裁判事15人を民間人から選挙で選べば良かろう」
 まさにそれこそ、私を含めてえん罪など司法によって踏みにじられた多くの市民の要求です。
 しかし、斎藤教授は
「だが、そんなことをしたら…その時々の国民世論に左右され、司法は『人権の砦」ではなくなる」
と真っ向から反対します。
 これまでの司法が「人権の砦」であったかのような刑事手続きの現状への恐るべき無知と、人権侵害の責任を世論(市民)にすり替える詭弁が、国家・司法を人権の保護者として賛美し、市民に市民をけしかける分割支配推進の翼賛運動を生み出しています。

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 「裁判員制度はいらない」と訴える人々は、しばしば裁判員制度が思想・信条に基づく選任拒否を認めないのは憲法19条の保障する思想及び良心の自由を侵害し違憲だと主張します。
 選任拒否を求める思想・信条というのはどのようなものでしょうか。おそらく、以前、裁判員制度はいらない!大運動が記者会見で表明した「人を裁きたくない」という信条のことでしょう。
 私は、「裁きたくない」というのは信条というより、責任を回避したいという心情ではないかと感じます。「人は人を裁くべきでない」との信念で刑事裁判制度の廃止を求めたり、法による支配に反対するというなら、賛否は別としてそれは尊重すべき思想だと思いますが、どうもそうではないようです。

 ただ、今回はそれへの批判がテーマではありません。斎藤文男・九州大学名誉教授が救援連絡センターの機関紙上で、思想・信条の自由のためとして裁判員制度でも「良心的拒否」制度を導入することを求めていますので、果たしてそのような制度はどのようなものか、本当に必要なのか、検討してみたいと思います。
 斎藤教授は次のように述べています。
「徴兵制でさえ『良心的兵役拒否』が認められている。思想・信条により殺傷行為を拒む者に対しては、後方任務や工場・病院勤務などの代替役務を課し、兵役や前線配備を免除するのが通例だ。ならば裁判員にも『良心的拒否』が認められてしかるべきだろう」
 どうも斎藤教授は、「裁きたくない」という信条(心情)を持つ市民が強制的に裁判員にされると考え、それに反対しているようです。しかし、そんなことはありうるでしょうか。
 裁判員の選任の前には、それぞれの市民を裁判員に任命していいかどうかを判断するための質問が行われます。その場で、ある市民が「私は裁きたくないという信条を持っている。裁くということは証拠によって被告人の有罪無罪を判断することだから、選任されても私は証拠によって判断せずあらかじめ無罪(あるいは有罪)と評決するつもりだ」と自らの信条を述べたとしましょう。その市民は「不公平な裁判をするおそれがある」として裁判員法18条により裁判員候補から外されるでしょう。もちろんそれに対していかなる制裁もありません。裁判員制度は、そして陪審制でも同様ですが、「裁きたくない」という信条を持ちそれを行動で示す者を強制的に裁判員にしようとしないだけでなく、そうした者が裁判員となることを認めません。
 「裁判員制度はいらない」と訴える人々も別のところでは、“裁判員制度が、死刑制度に反対する市民を、死刑判決を拒否するという理由で、裁判員になることを認めないのは問題”と批判しています。死刑判決に反対する者が拒否されるなら、あらゆる判決に反対する者はさらに確実に拒否されるのではないでしょうか。
 米国の陪審制でも候補者の不出頭には罰則がありますが、陪審員になりたくないという者が選任を避けることを防ぐ手段はありません。それでも多くの米国市民が陪審員になり、陪審制度を支えているのは、彼・彼女たちが“陪審制度は民主主義の最も重要な基礎”であり、“陪審制度は市民個人を公権力から守る最後の砦”という信念を持っているからです。

 さて、仮に「私は殺人はしたくないから前線に送られても、絶対に銃は撃たない」と言う市民に対して、「そんな者を前線に送っても足手まといだから帰っていい、帰れ」と言う徴兵制があったとします。そんな徴兵制にわざわざ後方任務を課す「良心的徴兵拒否制度」が必要でしょうか。裁判員制度に「良心的拒否」制度を導入するとして、どんな「代替役務」を課そうというのでしょうか。「代替役務」を課す方が、そのまま帰すより思想・信条の自由の尊重になるのでしょうか。
 斎藤教授がわざわざ「良心的拒否」という制度にこだわる背景に、“「裁きたくない」という信条を持っていても、市民などいざ裁判員候補として呼び出されたら裁判所に説得されていそいそと裁判員になりかねない”から、あらかじめ「良心的拒否」制度のような制度的歯止めをつくって心変わりを防がなければならない、という市民に対する根深い蔑視と不信があるように感じます。何しろ、司法に市民の意志が貫かれたら、裁判所が「『人権の砦』ではなくなる」と公言される方ですから。

 ともかく、斎藤教授のような優れた研究者が、こと裁判員制度について述べ始めると、浅学の私ですら分かる事実すら無視あるいは誤解しているように見えるのはなぜか、首をひねらざるをえません。
 今日、組織犯罪対策法や共謀罪新設に反対して闘ってきた人々が、3度目の共謀罪廃案を祝して講演会を開きました。破防法の団体適用阻止闘争以来一緒に闘ってきた友人たちですので、私も出席して旧交を温めました。
 ところで、その講演会の中で、『裁判員制度はいらない!大運動』の事務局の肩書きで発言した川村理弁護士が、被告人が手錠姿のまま法廷に引きずり出されることを放置した弁護人に対して、周囲から批判の声が挙ったことを逆に非難しました。

 事実経過は次のようなものです。
 報道によると、2月18日に東京地裁で行われた裁判員裁判で、裁判員の在廷中に被告人の手錠と腰縄のつけ外しがあり、判決後の記者会見で、裁判員となった市民から「手錠は犯罪者のシンボル。かけ外しを強調するのは見せしめ」「ショック。両脇に職員も座っていたし、なくていいのではと思った」などの発言がありました。これに対して同裁判の弁護人は「裁判の原則的な流れに従い、特に要望しなかった。(裁判員の)反応は意外」とコメントしました。
 川村弁護士は、裁判員制度導入によって弁護士の活動が様々な制約を受けているという論旨の中で、この弁護人のコメントが批判されたことを取り上げ、手錠をどこで外させるかは弁護人それぞれの考え方で良い、法廷外での取り外しなどは「裁判員に対する過剰配慮」だと、その弁護人を擁護し、弁護人批判を非難したのです。

 被告人を手錠・腰縄姿で裁判官の前に引きずり出させてはならない、必ず、出廷前に外させなければならないと強く訴えていたのは故三浦和義さんです。“職業裁判官はプロだから手錠・腰縄姿でもよけいな予断を抱く心配はない”などという虚構にだまされてはならないと警告し続けていました。
 まだ有罪判決も受けていない市民に手錠・腰縄をつけたり、服装を規制したりすること自体が、無罪推定の原則を踏みにじり被告人を犯罪者扱いするものですし、訴追者/検察と同じ法務省に属する機関がそれを強制するのですから、当事者主義(検察/被告人という当事者は互いに対等であるという考え方)も踏みにじられ続けています。被告人の両側に座る刑務官の存在によって、弁護人との秘密交通権すら認められないのが日本の反近代主義的刑事裁判の現実です。だから、一度でも被告席に座ったことのある人間にとっては、これらのことは些細な問題でありませんし、三浦さん初め多くに人々が一歩の前進を実現するために必死に闘ってきました。「意外」などという低水準な意識は徹底的に批判して払拭させなければなりません。

 裁判員裁判では、“裁判員は素人だから”などとして手錠・腰縄を法廷外でつけ外したり、ネクタイや革靴に見せかけた服装させるなどということが始まっています。もとよりこれらはごまかしにすぎません。
 だからといって、裁判員制度批判にかこつけて、被告人を手錠・腰縄姿で裁判員(裁判官)の前に引きずり出してもたいした問題ではないなどという主張が公然と出され、これまでこの問題を闘ってきた人々の努力が嘲笑されるのを黙認している訳にはいきません。時間も継続性も保証されない講演会のような場で議論や論争をするのは不適切ですし、その意志もありませんが、この発言に対しては川村弁護士を遮って弾劾し、発言の撤回を求めました。
 残念ながらというか予想通りというか、川村弁護士から明確な答えはありませんでした。かつて、同運動が“(免田事件など死刑えん罪事件は)有罪の証拠があったから有罪判決を出しただけ”などと反動的主張を書き並べた西野元判事の著書を裁判員制度反対だからと推薦した時に、私が同事務局のN弁護士に直接抗議した時と同じです。そして今回は、会場の多数を占める大運動を支持する参加者からのブーイングも受けてしまいました。
 ここに批判なき反対運動である大運動の危険性が示されています。裁判員制度反対の理由になるならどのような反動的主張でも諸手を挙げて歓迎し、それを批判することを許さない。ブーイングの先頭にはえん罪の被害者として長期間被告席にたたされて、手錠・腰縄問題を闘ってきた人もいました。しかし、大運動の事務局の発言が弾劾された、許せないという意識のみで、ブーイングが自分のこれまでの闘いを否定することになっても気にしないし、気がつきもしない。そうした歪んだ姿勢が、反対運動をいつの間にか翼賛運動に変えてしまうのです。

 ちなみに、川村弁護士は弁護活動からみた裁判員制度の問題点として、裁判員に対する過剰な配慮からプレゼンテーション合戦になっているが、検察が国家を背景に潤沢な資金と人員でそれを行えるのに、弁護側には金も人もなくA4の紙1枚出せるだけだったりすると批判しました。
 確かに“金で無罪を買う”という状況は米国の陪審員裁判などで問題とされ、『いかれる7人の男』でも背景に描かれている現実です。しかし、金持ちも貧乏人もかかわりなく裁判前から既に有罪が決まっている日本の職業裁判官裁判と、金はかかっても弁護人の活動次第で無罪獲得も可能な米国の裁判とどちらが被告人にとってよい制度なのでしょうか。
 裁判員制度によって弁護活動が判決の内容を左右できる可能性が出たということを背景とした(もちろん現実はそれほど楽観できませんが)この主張は、裁判員制度を否定するつもりでこれまでの職業裁判官による裁判の異常さを浮き彫りにしています。皮肉を言えば、どうせ有罪は動かないのだから、弁護士がA4の紙一枚ですましても何の問題もされない捜査追認の職業裁判官裁判、確かに後者の方が弁護士にとっては楽かもしれません。
 もちろん、川村弁護士は、被告人のためにできる限りの活動を行っている尊敬すべき弁護士です。しかし、いったん「裁判員制度反対」が問題になると、こうした反動的主張を平然と行い、しかもそのことに本人も気がつかない、ここに大運動の異常さがあります。

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 今井亮一さんから、私も会員である国賠ネットのメーリングリストに〈裁判員制度を大河ドラマ風に見ると〉という投稿があった。投稿内容をここで紹介はできないが、それになぞらえて〈裁判員制度不要論を大河ドラマ風に見ると〉次のようになるのではないか。

第1章 プロローグ

 刑事裁判は絶望的な状況というのが、刑事裁判にかかわってきた多くの弁護士や法律家の共通認識だった。最近では多くのえん罪の表面化で刑事裁判に対する不信は市民の間にも広がり始めた。
 その背景には、職業裁判官による安易な有罪判決乱発が、警察の捜査能力、実は証拠ねつ造能力を低下させ、戦後刑事手続きの基本的犯人ねつ造手段だった「精密司法」が維持できなくなったことがある。それに代わったのが、「間接証拠の積み重ね」と称する、容疑者の中で一番怪しいものを犯人とし、有罪認定に直接証拠はいらないという「ラフ(粗雑)司法」だった。その典型的ケースが和歌山カレーえん罪事件であり、恵庭、北陵クリニックのえん罪事件だ。しかし、腐敗したマスコミを動員した犯人視キャンペーンも、その粗雑さを隠蔽して市民を納得させることができないでいる。
 そして、もはや職業裁判官たちにいかなる改革も期待できないという認識も広がっている。それが「絶望」の意味だ。
 そうした日本の刑事手続きの歪みと人権侵害状況は、規約人権委員会の勧告などで国際的にも共通認識となっている。

第2章 司法改革の開始

 こうした市民の不信の高まりと国際的批判に追いつめられて、突然自民党政府などが言い出したのが「司法改革」における刑事手続きの「改革」だった。
 その目的は、第一に、形式的な「改革」を打ち出すことで市民の不信の高まりと国際的批判をかわすこと、第二に「改革」を表面的、形式的なものにとどめることで、犯人ねつ造を基本とする治安維持法型戦後刑事手続きの実質を維持し続けることにある。

第3章 裁判員制度の登場

 陪審制の目的は、同僚である市民の承認なしに、ある市民に対する国家の刑罰権行使を許さないことにある。それは市民による直接的な裁判権の掌握であって、決して一般的な市民参加でも裁判監視でもない。ただ陪審制のみが、専制時代のような国家の恣意的な刑罰権行使から市民の人権と自由を守る唯一の途である。陪審員となることは、被告席に立たされた市民の人権を守るという、同僚である市民の絶対的義務なのだ。
 だからこそ、陪審制をとった多くの国で行政権力は様々な詭弁で陪審制を後退させようとしてきた。日本では戦時体制を口実に陪審制が停止され、戦後も政府はその復活を拒否してきた。それを可能としてきた理由が、市民よりも司法官僚を信頼し、陪審制を嫌悪してきた日本の多くの法律家の腐敗であり、自分自身を信頼できず官僚に引きずり回されてヨシとしてきた多くの市民の無関心だ。民主主義の絶対的基礎である武装した市民の存在を欠く日本の戦後民主主義の歪みがここに示されている。
 そして、陪審制の復活を阻止するために最終的に政府が打ち出したのが裁判員制度である。したがって、その目的は職業裁判官の裁判権(有罪・無罪の認定権)行使を維持し続けるところにある。
 そのために裁判員制度は第一に、職業裁判官に評議への参加を認め、評決への事実上の拒否権を与えた。
 第二に、陪審制を市民による裁判権行使とするために不可欠な、刑事裁判の基本原則の公的表明=説示を排除した。その結果、有罪推定などと言われる日本の反近代的、人権侵害的刑事原則も表面化せず維持され続けている。
 第三に、法令解釈を職業裁判官の専権とし、裁判員がそれに従う義務を導入した。法令解釈と事実認定の基準を明確に分けることは困難なことから、密室の中で職業裁判官による評議の誘導、市民への結論の強制が可能となった。
 第四に、誰に裁かれるかを選ぶ被告人の権利を否定し、裁判員裁判を強制としただけでなく、被告人の「理由なき忌避」の行使を実質的に困難とした。

第4章 制度不要論の誕生

 職業裁判官による反近代的刑事裁判を実質的に維持するためのこのような多くの問題点の存在を背景として、「改革」に込めた政府の意図の貫徹を市民が阻止できるはずがないという絶望と市民自身への不信から、裁判員制度を正面から批判するのではなく「前の方がましだった」とただ感情的反発をあおり立てる運動が生まれた。「裁判員制度はいらない」と称する裁判員制度不要論である。
 特徴の第一は、「裁判員になったらクビになる」などという市民への脅しと、「信号も守れない」「義務教育を終えただけ」の市民に裁判は任せられないという市民蔑視である。その背景には、刑事裁判とは犯罪者を断罪する場という日本の司法界を支配する転倒した裁判観がある。シロウトに狡猾な犯罪者のウソを見抜けるはずがないというわけだ。
 第二は、“いらない運動”の問答無用の「絶対反対」に示される、裁判員制度を分析し、批判することを「改良主義」への屈服として拒否する反知性主義だ。
 第三に、こうした批判なき反対論・不要論は、どのような根拠でなされたものでも“反対”論は諸手を上げて歓迎するが、少しでも反対論・不要論の問題性を指摘する意見は罵倒する硬直姿勢を生み出す。不要論者にとって“裁判員制度反対”は敵味方を分ける踏み絵だ。“反対”ならば、免田事件など死刑えん罪事件は「有罪の証拠があったから有罪判決を出しただけだ」とうそぶく西野喜一元判事のような反動的人物も歓迎され、“反対”を言わなければ刑事手続きの現状を真剣に憂慮し説示の必要性を訴える五十嵐双葉弁護士などは罵倒される。
 第四に、こうした批判なき反対論・不要論の行き着く先は、市民は職業裁判官を信頼してまかせておけば良い、裁判員制度導入前に戻るべきだという、職業裁判官・司法官僚賛美、日本の刑事手続き賛美の翼賛運動だ。
 私は、裁判員制度批判の必要性、つまり近代刑事裁判制度がどうあるべきか、それに比較して日本の刑事裁判制度がどうなっているか、裁判員制度は現状に対してどのような影響を持つか、まず真剣に検討し、具体的に批判していく必要があることを繰り返し訴えてきた。西野元判事の反動的著作を“いらない運動”が推薦した際には事務局のN弁護士に直接抗議した。しかし、そうした訴えを「いらない運動」の人々は一顧もしない。
 不要論者は主観的には政府の悪法・制度改悪に反対して闘っているつもりだろう。しかし、彼・彼女たちが、現在の刑事裁判をどう変えるべきか議論することを改革論議に巻き込まれるとか政府に取り込まれるとして拒否している限り、すでに命運のつきた戦後刑事裁判制度の復活を夢想する翼賛運動となるしかない。これが、私が破防法団体適用反対闘争などでこれまで肩を並べて闘ってきた、不要論を主張する人びとと袂を分かつしかなかった理由である。

第5章 不要論が生むもの

 これまで、市民は法廷の外や傍聴席で裁判を批判してきた。いわば、土俵の下から力士の取り組みを批判する観客だった。その批判の正当性を無視できなくなったからこそ「だったら土俵に上がって自分でやってみろ」という声が出てきたのだ。ところがそうした声をかけられた瞬間、「いや力士を信頼している」と後ずさりしてしまったのが不要論だ。
 「だったら黙ってろ」となるのが当然だし、自分で責任を取ろうとしない批判が相手にされるはずもない。行政権力が不要論を奇禍として裁判員制度の廃止に踏み切ったならば、もはや市民の刑事裁判批判はまともに相手にされないだろう。市民はプロの裁判官の判断を信頼すべきで、シロウトが口を出すべきではないという主張が社会を支配し、市民の刑事裁判批判やえん罪救援運動などはもはや存続すらできなくなる。
 20世紀初頭、レーニンは、戦場に引き立てられていく労働者たちに向かって「敵国の労働者農民を殺すために押し付けられた銃を投げ捨てるのではなく、専制を倒すために銃を利用すべきだ」と訴えた。いま私たちも、押し付けられた裁判員制度を、戦後の治安維持法型刑事裁判を倒すために利用すべきなのだ。
一例をあげよう。理由を示さず忌避される8人を含めた裁判員候補14人のうち9人が死刑制度に反対ならば、検察官がうち4人を忌避しても5人の死刑反対裁判員が残る。そうすれば職業裁判官全員が死刑判決を出そうとしても不可能になる。14分の9つまり65%弱の市民が少なくとも自分は死刑判決を出だせないと考えれば、それだけで死刑制度は事実上廃止される。死刑廃止運動は具体的数値目標を手に入れたのだ。

第6章 エピローグ:次は…

 「いらない運動」の人々も、現在の刑事裁判制度の最大の問題が「公判前整理手続き」にあることを認めている。「公判前整理手続き」とは、これまで市民を排除した公判廷で行われていた証拠、証人の採用の可否などを、裁判員が登場する公判の前に移したものだ。だから、それは職業裁判官による刑事裁判統制の維持に本質があり、裁判員制度によって新たに登場した“悪”ではない。
 公判開始前に犯人ねつ造が終わり、その根拠となる「証拠」のみが公判廷に出されるのだから、裁判員がどれほど真摯に検討してもねつ造を明らかにすることはできないだろう。違いは職業裁判官は公判廷で意図的にそれに加担してきたが、市民は知らないということだ。
 戦後刑事手続きが被告人の人権を侵害し、えん罪を生み出し続けている原因は、捜査から起訴に至る公判準備手続きにあり、公判制度をどれほど変えても解決できないことが明らかになりつつある。
 訴追者つまり有罪獲得を目的とする検察とその指揮下の警察に一方的に、被疑者・被告人を強制的に取り調べ、自白を強制し、また強制的に証拠を集め管理し隠匿することを認めた反近代的捜査・起訴システムだ。治安維持法と戦時体制が導入し、戦後刑訴法が全面化したこのシステム、日本の近代法制形成においてボアソナードがあまりに不当として排除したこのシステムを改革することなしに、日本の刑事手続きの近代化と人権保護制度への転換はできない。
 裁判員制度の完全な陪審制度への移行とともに、予審制度の復活が次の課題となる。強制捜査権を裁判所に移行する予審制度によって初めて、訴追側と被疑者・被告人双方が等しくその成果を利用できる真の当事者対等が捜査段階から実現するのだ。
 そのためにも、治安維持法などの刑罰強化のみに焦点を当て、刑事手続きの反近代的変更を無視・黙認してきた戦後の法律家たちの怠慢を、市民自身が厳しく弾劾していく必要がある。(了)

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