裁判員制度を考える
[ リスト | 詳細 ]
裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
|
「裁判員制度はいらない」と訴える人々は、しばしば裁判員制度が思想・信条に基づく選任拒否を認めないのは憲法19条の保障する思想及び良心の自由を侵害し違憲だと主張します。 選任拒否を求める思想・信条というのはどのようなものでしょうか。おそらく、以前、裁判員制度はいらない!大運動が記者会見で表明した「人を裁きたくない」という信条のことでしょう。 私は、「裁きたくない」というのは信条というより、責任を回避したいという心情ではないかと感じます。「人は人を裁くべきでない」との信念で刑事裁判制度の廃止を求めたり、法による支配に反対するというなら、賛否は別としてそれは尊重すべき思想だと思いますが、どうもそうではないようです。 ただ、今回はそれへの批判がテーマではありません。斎藤文男・九州大学名誉教授が救援連絡センターの機関紙上で、思想・信条の自由のためとして裁判員制度でも「良心的拒否」制度を導入することを求めていますので、果たしてそのような制度はどのようなものか、本当に必要なのか、検討してみたいと思います。 斎藤教授は次のように述べています。 「徴兵制でさえ『良心的兵役拒否』が認められている。思想・信条により殺傷行為を拒む者に対しては、後方任務や工場・病院勤務などの代替役務を課し、兵役や前線配備を免除するのが通例だ。ならば裁判員にも『良心的拒否』が認められてしかるべきだろう」どうも斎藤教授は、「裁きたくない」という信条(心情)を持つ市民が強制的に裁判員にされると考え、それに反対しているようです。しかし、そんなことはありうるでしょうか。 裁判員の選任の前には、それぞれの市民を裁判員に任命していいかどうかを判断するための質問が行われます。その場で、ある市民が「私は裁きたくないという信条を持っている。裁くということは証拠によって被告人の有罪無罪を判断することだから、選任されても私は証拠によって判断せずあらかじめ無罪(あるいは有罪)と評決するつもりだ」と自らの信条を述べたとしましょう。その市民は「不公平な裁判をするおそれがある」として裁判員法18条により裁判員候補から外されるでしょう。もちろんそれに対していかなる制裁もありません。裁判員制度は、そして陪審制でも同様ですが、「裁きたくない」という信条を持ちそれを行動で示す者を強制的に裁判員にしようとしないだけでなく、そうした者が裁判員となることを認めません。 「裁判員制度はいらない」と訴える人々も別のところでは、“裁判員制度が、死刑制度に反対する市民を、死刑判決を拒否するという理由で、裁判員になることを認めないのは問題”と批判しています。死刑判決に反対する者が拒否されるなら、あらゆる判決に反対する者はさらに確実に拒否されるのではないでしょうか。 米国の陪審制でも候補者の不出頭には罰則がありますが、陪審員になりたくないという者が選任を避けることを防ぐ手段はありません。それでも多くの米国市民が陪審員になり、陪審制度を支えているのは、彼・彼女たちが“陪審制度は民主主義の最も重要な基礎”であり、“陪審制度は市民個人を公権力から守る最後の砦”という信念を持っているからです。 さて、仮に「私は殺人はしたくないから前線に送られても、絶対に銃は撃たない」と言う市民に対して、「そんな者を前線に送っても足手まといだから帰っていい、帰れ」と言う徴兵制があったとします。そんな徴兵制にわざわざ後方任務を課す「良心的徴兵拒否制度」が必要でしょうか。裁判員制度に「良心的拒否」制度を導入するとして、どんな「代替役務」を課そうというのでしょうか。「代替役務」を課す方が、そのまま帰すより思想・信条の自由の尊重になるのでしょうか。 斎藤教授がわざわざ「良心的拒否」という制度にこだわる背景に、“「裁きたくない」という信条を持っていても、市民などいざ裁判員候補として呼び出されたら裁判所に説得されていそいそと裁判員になりかねない”から、あらかじめ「良心的拒否」制度のような制度的歯止めをつくって心変わりを防がなければならない、という市民に対する根深い蔑視と不信があるように感じます。何しろ、司法に市民の意志が貫かれたら、裁判所が「『人権の砦』ではなくなる」と公言される方ですから。 ともかく、斎藤教授のような優れた研究者が、こと裁判員制度について述べ始めると、浅学の私ですら分かる事実すら無視あるいは誤解しているように見えるのはなぜか、首をひねらざるをえません。
|
|
今日、組織犯罪対策法や共謀罪新設に反対して闘ってきた人々が、3度目の共謀罪廃案を祝して講演会を開きました。破防法の団体適用阻止闘争以来一緒に闘ってきた友人たちですので、私も出席して旧交を温めました。 ところで、その講演会の中で、『裁判員制度はいらない!大運動』の事務局の肩書きで発言した川村理弁護士が、被告人が手錠姿のまま法廷に引きずり出されることを放置した弁護人に対して、周囲から批判の声が挙ったことを逆に非難しました。 事実経過は次のようなものです。 報道によると、2月18日に東京地裁で行われた裁判員裁判で、裁判員の在廷中に被告人の手錠と腰縄のつけ外しがあり、判決後の記者会見で、裁判員となった市民から「手錠は犯罪者のシンボル。かけ外しを強調するのは見せしめ」「ショック。両脇に職員も座っていたし、なくていいのではと思った」などの発言がありました。これに対して同裁判の弁護人は「裁判の原則的な流れに従い、特に要望しなかった。(裁判員の)反応は意外」とコメントしました。川村弁護士は、裁判員制度導入によって弁護士の活動が様々な制約を受けているという論旨の中で、この弁護人のコメントが批判されたことを取り上げ、手錠をどこで外させるかは弁護人それぞれの考え方で良い、法廷外での取り外しなどは「裁判員に対する過剰配慮」だと、その弁護人を擁護し、弁護人批判を非難したのです。 被告人を手錠・腰縄姿で裁判官の前に引きずり出させてはならない、必ず、出廷前に外させなければならないと強く訴えていたのは故三浦和義さんです。“職業裁判官はプロだから手錠・腰縄姿でもよけいな予断を抱く心配はない”などという虚構にだまされてはならないと警告し続けていました。 まだ有罪判決も受けていない市民に手錠・腰縄をつけたり、服装を規制したりすること自体が、無罪推定の原則を踏みにじり被告人を犯罪者扱いするものですし、訴追者/検察と同じ法務省に属する機関がそれを強制するのですから、当事者主義(検察/被告人という当事者は互いに対等であるという考え方)も踏みにじられ続けています。被告人の両側に座る刑務官の存在によって、弁護人との秘密交通権すら認められないのが日本の反近代主義的刑事裁判の現実です。だから、一度でも被告席に座ったことのある人間にとっては、これらのことは些細な問題でありませんし、三浦さん初め多くに人々が一歩の前進を実現するために必死に闘ってきました。「意外」などという低水準な意識は徹底的に批判して払拭させなければなりません。 裁判員裁判では、“裁判員は素人だから”などとして手錠・腰縄を法廷外でつけ外したり、ネクタイや革靴に見せかけた服装させるなどということが始まっています。もとよりこれらはごまかしにすぎません。 だからといって、裁判員制度批判にかこつけて、被告人を手錠・腰縄姿で裁判員(裁判官)の前に引きずり出してもたいした問題ではないなどという主張が公然と出され、これまでこの問題を闘ってきた人々の努力が嘲笑されるのを黙認している訳にはいきません。時間も継続性も保証されない講演会のような場で議論や論争をするのは不適切ですし、その意志もありませんが、この発言に対しては川村弁護士を遮って弾劾し、発言の撤回を求めました。 残念ながらというか予想通りというか、川村弁護士から明確な答えはありませんでした。かつて、同運動が“(免田事件など死刑えん罪事件は)有罪の証拠があったから有罪判決を出しただけ”などと反動的主張を書き並べた西野元判事の著書を裁判員制度反対だからと推薦した時に、私が同事務局のN弁護士に直接抗議した時と同じです。そして今回は、会場の多数を占める大運動を支持する参加者からのブーイングも受けてしまいました。 ここに批判なき反対運動である大運動の危険性が示されています。裁判員制度反対の理由になるならどのような反動的主張でも諸手を挙げて歓迎し、それを批判することを許さない。ブーイングの先頭にはえん罪の被害者として長期間被告席にたたされて、手錠・腰縄問題を闘ってきた人もいました。しかし、大運動の事務局の発言が弾劾された、許せないという意識のみで、ブーイングが自分のこれまでの闘いを否定することになっても気にしないし、気がつきもしない。そうした歪んだ姿勢が、反対運動をいつの間にか翼賛運動に変えてしまうのです。 ちなみに、川村弁護士は弁護活動からみた裁判員制度の問題点として、裁判員に対する過剰な配慮からプレゼンテーション合戦になっているが、検察が国家を背景に潤沢な資金と人員でそれを行えるのに、弁護側には金も人もなくA4の紙1枚出せるだけだったりすると批判しました。
確かに“金で無罪を買う”という状況は米国の陪審員裁判などで問題とされ、『いかれる7人の男』でも背景に描かれている現実です。しかし、金持ちも貧乏人もかかわりなく裁判前から既に有罪が決まっている日本の職業裁判官裁判と、金はかかっても弁護人の活動次第で無罪獲得も可能な米国の裁判とどちらが被告人にとってよい制度なのでしょうか。 裁判員制度によって弁護活動が判決の内容を左右できる可能性が出たということを背景とした(もちろん現実はそれほど楽観できませんが)この主張は、裁判員制度を否定するつもりでこれまでの職業裁判官による裁判の異常さを浮き彫りにしています。皮肉を言えば、どうせ有罪は動かないのだから、弁護士がA4の紙一枚ですましても何の問題もされない捜査追認の職業裁判官裁判、確かに後者の方が弁護士にとっては楽かもしれません。 もちろん、川村弁護士は、被告人のためにできる限りの活動を行っている尊敬すべき弁護士です。しかし、いったん「裁判員制度反対」が問題になると、こうした反動的主張を平然と行い、しかもそのことに本人も気がつかない、ここに大運動の異常さがあります。 |





