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昨日(5月2日)、NHKの「裁判員制度」に関する討論番組を見ていたら、江川紹子さんが次のような発言をしていました。 |
裁判員制度を考える
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裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
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9月25日の毎日新聞の「記者の目」欄に「足利事件 菅家さんの再審/冤罪、検証・議論の場に 司法体質、変えよう」と題する宇都宮支局、吉村周平記者署名の記事が載った。
吉村記者は、足利事件の再審初公判が10月21日に決まったことに関して、「過去の再審は迅速な無罪判決の言い渡しに主眼が置かれ、冤罪(えんざい)や誤判防止などに関する議論はほとんどなかった」と指摘し、「再審を、現行法制度の不備や問題点をあぶり出し、必要な法整備を進める議論の礎にすべきだ」と訴えている。 まさに同感だ。私のようなえん罪被害者は、たとえ自分自身の雪冤がかなったとしても、いつ再び自分や家族、友人がえん罪の被害に遭うかという恐怖の中で暮らすことを余儀なくされる。だから、菅家さんが訴えるようなえん罪の原因究明と再発防止策の策定は、すべてのえん罪被害者にとって非常に切実な要求なのだ。 反省しない警察、検察、裁判所
しかし、吉村記者は同時に、職業裁判官や検察の原因追及や再発防止に対する消極的姿勢を具体的に報告している。
足利再審裁判の佐藤正信裁判長は「誤判原因の解明は裁判所の権能を逸脱する」と述べた。富山(氷見)再審裁判の藤田敏裁判長は「再審は有罪無罪を決める場に過ぎない」と述べ、密室の取調べの実態解明のための証人申請を却下した。宇都宮地検の高崎秀雄次席検事も「(検証を求める菅家さんの)思いは分かるが、有罪判決の効力を失わせることが、再審制度に沿った被告人の利益の擁護」と居直っている。4大死刑えん罪事件といわれる財田川事件などから20〜30年が経過した現在も、毎年のようにえん罪事件が表面化し続けている。これは、裁判所や検察にえん罪防止の意志も能力もないことを示していると考えるべきだろう。 「裁判官の独立」に逃げ込む職業裁判官警察庁や検察庁は、形だけかもしれないが検証チームを組み、内容の当否はともかくとして再発防止策をまとめたが、裁判所はそれすらもしない。4大死刑えん罪事件について、元裁判官の西野喜一氏は「新たな証拠が出てきたので…再審が開始され、そして無罪となった」「もとの裁判の段階ではそのような証拠はなく、当時の裁判官は当時の証拠にもとづいて有罪と判断した」(『裁判員制度の正体』p.70)と述べている。有罪の証拠があったから有罪にしただけで、裁判官に責任はないと言うのが大部分の職業裁判官にも共通する考えなのだろう。 多くのえん罪の原因といわれる「初動捜査の誤り、代用監獄制度、自白偏重の取調べ」などは「裁判所以外の事情」で裁判所には関係ない(同p.71)というのも、西野氏の主張だ。しかし、代用監獄への勾留を認めたのは裁判官ではないのか。被告人が無実を訴え、直接の証拠が乏しいというケースでも、“証拠不十分で無罪”としないで、「さまざまな状況証拠を積み重ねてそこから犯行の有無を推理する」(同p.41)としてひたすら有罪判決を追求し、その材料として強制されねつ造された自白調書に飛びついたのは、裁判官自身ではないのだろうか。 そもそも無実の人間になぜ有罪の証拠なるものがあるのか、なぜそれを裁判官が認めたのかが問題だ。“無実の証拠がなかったから有罪にしただけ”という、西野元判事に典型的に示される無罪推定原則の無視と否定こそが、多くのえん罪を生み出している最大の原因なのではないのだろうか。 しかし、こうしたえん罪被害者や市民からの批判に対して、職業裁判官は「裁判官の独立」を口実に回答しようともしない。国賠裁判で責任を追及されても、たとえ違法でも責任を問われないのが裁判官の独立と称する「違法限定」説なるものを振りかざして逃げるのが裁判官だ。裁判官も官僚である。市民からの独立と称して責任を取ろうとしない官僚など、民主主義を否定する抑圧者であり、市民の力で打倒するしかない存在だ。 えん罪防止は市民自身にしかできない吉村記者は、「裁判員になることを義務づけられた市民は、過ちを正す体質が欠落したままの司法や捜査機関を信頼できるだろうか」と問いかける。裁判員制度導入の背景には、腐敗しきった刑事裁判制度と職業裁判官に対する市民の不信と怨嗟の声がある。そうした声を無視することができなくなった政府や最高裁が、それを懐柔しすりかえるために作り上げたゴマカシの制度が裁判員制度だ。だから裁判員制度が導入されたからといって自動的にえん罪が減るわけではない。しかし、えん罪をなくすことを警察、検察、裁判所に期待できない以上、裁判員制度を使って市民自身が行うしかない。 危機感の欠如した裁判員反対運動裁判員制度には賛否両論がある。特徴的なことは、「裁判員制度はいらない 大運動」に示される裁判員制度反対運動が、そうした刑事裁判の現状に危機感を持たず、危機感を持つ多くの人びとは裁判員制度がどれほど不十分でもそれを使って少しでも刑事裁判を変えようと訴えていることだ。「裁判員制度は、さまざまな欠陥がありつつも、現在の日本にとってベターな刑事司法システムであり、今後、一層の進化と充実を図る余地がある制度だ」と述べる、最近開設されたブログ「丸山徹の裁判員制度徹底解明」では、「刑事司法制度のどこがおかしいのか」として「人質司法」や「密室の尋問」について厳しい批判の目を向けている。これは自由法曹団の裁判員制度についての意見書にも共通する論理だ。 一方、「裁判員制度はいらない 大運動」の何が問題?のページに並ぶのは、辞退すれば処罰も/人生観は無視する/損害は補償しない/プライバシーを剥ぐ/内容は生涯の秘密など、制度そのものの批判ではなく裁判員は迷惑というものがほとんどだ。わずかに被告人について触れた、死刑も多数決で決定/被告人は拒めない/弁護活動を制限するなどの項目も実質的な内容はまったくないと言わざるをえない。 なぜ、裁判員制度反対を主張する人びとは、刑事裁判の現状に目を向けようとしないのか、目を向けることを恐れるのか、裁判員制度を批判しないのか。 刑事裁判の腐敗した現状をなんとかしなければならないというのは、改革を積極的に求めるえん罪被害者などと改革を形式だけにとどめようとする政府や最高裁の違いはあれ、誰一人否定できない現実だからだろう。裁判員制度を批判すれば、では現状はどうなのかと考えざるをえない。だから現状から目をそらし、「いたずらに不安をあおるような無責任な批判」(丸山徹さんのブログより)に逃げ込むしかないのだ。 しかし、刑事裁判の腐敗はそうした怠惰や逡巡をもはや容認できないところまできている。いま必要なのは、裁判員制度を徹底的に批判することを通じてその改善を実現し、刑事裁判の腐敗解消のて手段に変えていくことだ。 |
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裁判員制度のスタートにあたって、私たちがなすべきことは、裁判員制度によって自動的に現在の犯人ねつ造裁判の現状が改革されるというような幻想を振りまくことでも、腐敗した現状に目を閉ざしこれまでの職業裁判官による裁判を賛美することでもありません。 裁判員制度開始という刑事手続きの転換を現実の変革にかえていくために、裁判員制度を正面から見据え、徹底的に批判することなのです。そのことを通してのみ、日本の刑事手続きに人権と無罪推定など近代刑事手続きの諸原則の導入を実現することができます。 日本の刑事司法はどうしても変革しなければなりません。そのためには、裁判員制度では絶対的に不十分であることを指摘し、変革に逆行する側面を厳しく批判していかなければなりません。 「いよいよ始まる裁判員裁判について、今考えるために」というプログ記事があります。裁判員制度を正面から批判した数少ない論考です。
裁判員制度を考える前提としてまず読んでほしい。 私も基本的に同意見です。 |





