自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

裁判員制度を考える

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裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
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 昨日(5月2日)、NHKの「裁判員制度」に関する討論番組を見ていたら、江川紹子さんが次のような発言をしていました。
 “抽選でたまたま選ばれた市民が裁判員として死刑判決を下すと、その市民にとって一生消えないストレスとなるから、裁判員制度対象事件から死刑事件を外すべきだ”
 ここに、裁判員制度不要運動がはらむ歪んだ思想が示されています。
 「死刑制度」などと言葉をかえても、死刑が被告席に立たされた市民の生命を奪う殺人行為であることに違いはありません。何のストレスも感じずに同種の生命を奪うことができるような生命体が、進化の過程で生き延びることはできません。これは人間であっても同じです。
 だから、死刑制度が市民に殺人によるストレスを強制するというなら、そうした死刑=殺人の制度が本当に必要なのか、死刑制度廃止の問題として改めて考えることこそ必要なのです。そして、もしどうしても死刑制度が必要だという結論に達したら、それはすべての市民が自分の責任として引き受けるべきでしょう。「職業として選んだのだから」という言い訳でそのストレスを他人に押し付け、その成果だけ享受しようというのは恥ずべき態度です。
 ここには労働者や農民を侵略戦争に駆り立てて植民地の人々を殺させ、殺されることを強制しながら、自分自身は本国の快適な屋敷で植民支配からの富を享受してきた帝国主義貴族と同様の腐敗した思想があります。米国の貧困層や少数民族を兵士として中東に送り込み殺し合いを強制してその成果を享受していながら、それを「人ごと」として関心を持とうともしない帝国主義国の多くの市民の腐敗、戦場がニューヨークまで拡大して二つのビルが破壊されても「テロ」という言葉で一方的な被害者としてしか自分自身を位置づけられない腐敗と同じ恥ずべき思想です。
 こうした歪んだ思想の背景にはまた、刑事裁判を被告席に立たされた市民の人権を守る制度と考える近代刑事裁判の根本原理とは全く異なり、対立する刑事裁判観があります。被告人は無条件に憎むべき犯人であってその利益や権利などいささかも考慮する必要はない、より早く完全に社会から排除し、抹殺することこそが刑事裁判の目的であり、自分自身も含む市民の利益になる。だからそんな犯罪者のために市民がさらに迷惑を受けること、時間を取られることは許せない、迷惑だ。こうした前近代的で反人権的刑事裁判観が、江川さんの発言や裁判員制度不要論の背景にあるものなのです。
 そうした人々がえん罪を批判したとしても、それはたまたまえん罪の被害者となった市民が無実なのに間違って犯人とされたからであって、無罪推定の原則など被告人の人権を守るための近代刑事裁判の諸原則を踏みにじる裁判によって有罪判決を受けたからではありません。だから雪冤のためには被害者が無実であることを証明しなければなりません。再審実現のためには無実の証明が必要という壁は、えん罪救援運動自体が生み出しているのではないでしょうか。
 何度えん罪が明らかになっても、それはえん罪被害者がたまたま無実であったのに裁判官など関係者の無能で間違っただけとして、日本の刑事裁判制度の歪んだ原則に対する批判に結びついていない現実を生み出している理由も、このような歪んだ刑事裁判観にあると私は考えています。

 9月25日の毎日新聞の「記者の目」欄に「足利事件 菅家さんの再審/冤罪、検証・議論の場に 司法体質、変えよう」と題する宇都宮支局、吉村周平記者署名の記事が載った。
 吉村記者は、足利事件の再審初公判が10月21日に決まったことに関して、「過去の再審は迅速な無罪判決の言い渡しに主眼が置かれ、冤罪(えんざい)や誤判防止などに関する議論はほとんどなかった」と指摘し、「再審を、現行法制度の不備や問題点をあぶり出し、必要な法整備を進める議論の礎にすべきだ」と訴えている。
 まさに同感だ。私のようなえん罪被害者は、たとえ自分自身の雪冤がかなったとしても、いつ再び自分や家族、友人がえん罪の被害に遭うかという恐怖の中で暮らすことを余儀なくされる。だから、菅家さんが訴えるようなえん罪の原因究明と再発防止策の策定は、すべてのえん罪被害者にとって非常に切実な要求なのだ。

反省しない警察、検察、裁判所

しかし、吉村記者は同時に、職業裁判官や検察の原因追及や再発防止に対する消極的姿勢を具体的に報告している。
 足利再審裁判の佐藤正信裁判長は「誤判原因の解明は裁判所の権能を逸脱する」と述べた。富山(氷見)再審裁判の藤田敏裁判長は「再審は有罪無罪を決める場に過ぎない」と述べ、密室の取調べの実態解明のための証人申請を却下した。宇都宮地検の高崎秀雄次席検事も「(検証を求める菅家さんの)思いは分かるが、有罪判決の効力を失わせることが、再審制度に沿った被告人の利益の擁護」と居直っている。
 4大死刑えん罪事件といわれる財田川事件などから20〜30年が経過した現在も、毎年のようにえん罪事件が表面化し続けている。これは、裁判所や検察にえん罪防止の意志も能力もないことを示していると考えるべきだろう。

「裁判官の独立」に逃げ込む職業裁判官

 警察庁や検察庁は、形だけかもしれないが検証チームを組み、内容の当否はともかくとして再発防止策をまとめたが、裁判所はそれすらもしない。
 4大死刑えん罪事件について、元裁判官の西野喜一氏は「新たな証拠が出てきたので…再審が開始され、そして無罪となった」「もとの裁判の段階ではそのような証拠はなく、当時の裁判官は当時の証拠にもとづいて有罪と判断した」(『裁判員制度の正体』p.70)と述べている。有罪の証拠があったから有罪にしただけで、裁判官に責任はないと言うのが大部分の職業裁判官にも共通する考えなのだろう。
 多くのえん罪の原因といわれる「初動捜査の誤り、代用監獄制度、自白偏重の取調べ」などは「裁判所以外の事情」で裁判所には関係ない(同p.71)というのも、西野氏の主張だ。しかし、代用監獄への勾留を認めたのは裁判官ではないのか。被告人が無実を訴え、直接の証拠が乏しいというケースでも、“証拠不十分で無罪”としないで、「さまざまな状況証拠を積み重ねてそこから犯行の有無を推理する」(同p.41)としてひたすら有罪判決を追求し、その材料として強制されねつ造された自白調書に飛びついたのは、裁判官自身ではないのだろうか。
 そもそも無実の人間になぜ有罪の証拠なるものがあるのか、なぜそれを裁判官が認めたのかが問題だ。“無実の証拠がなかったから有罪にしただけ”という、西野元判事に典型的に示される無罪推定原則の無視と否定こそが、多くのえん罪を生み出している最大の原因なのではないのだろうか。
 しかし、こうしたえん罪被害者や市民からの批判に対して、職業裁判官は「裁判官の独立」を口実に回答しようともしない。国賠裁判で責任を追及されても、たとえ違法でも責任を問われないのが裁判官の独立と称する「違法限定」説なるものを振りかざして逃げるのが裁判官だ。裁判官も官僚である。市民からの独立と称して責任を取ろうとしない官僚など、民主主義を否定する抑圧者であり、市民の力で打倒するしかない存在だ。

えん罪防止は市民自身にしかできない

 吉村記者は、「裁判員になることを義務づけられた市民は、過ちを正す体質が欠落したままの司法や捜査機関を信頼できるだろうか」と問いかける。
 裁判員制度導入の背景には、腐敗しきった刑事裁判制度と職業裁判官に対する市民の不信と怨嗟の声がある。そうした声を無視することができなくなった政府や最高裁が、それを懐柔しすりかえるために作り上げたゴマカシの制度が裁判員制度だ。だから裁判員制度が導入されたからといって自動的にえん罪が減るわけではない。しかし、えん罪をなくすことを警察、検察、裁判所に期待できない以上、裁判員制度を使って市民自身が行うしかない。

危機感の欠如した裁判員反対運動

 裁判員制度には賛否両論がある。特徴的なことは、「裁判員制度はいらない 大運動」に示される裁判員制度反対運動が、そうした刑事裁判の現状に危機感を持たず、危機感を持つ多くの人びとは裁判員制度がどれほど不十分でもそれを使って少しでも刑事裁判を変えようと訴えていることだ。
 「裁判員制度は、さまざまな欠陥がありつつも、現在の日本にとってベターな刑事司法システムであり、今後、一層の進化と充実を図る余地がある制度だ」と述べる、最近開設されたブログ「丸山徹の裁判員制度徹底解明」では、「刑事司法制度のどこがおかしいのか」として「人質司法」や「密室の尋問」について厳しい批判の目を向けている。これは自由法曹団の裁判員制度についての意見書にも共通する論理だ。
 一方、「裁判員制度はいらない 大運動」の何が問題?のページに並ぶのは、辞退すれば処罰も/人生観は無視する/損害は補償しない/プライバシーを剥ぐ/内容は生涯の秘密など、制度そのものの批判ではなく裁判員は迷惑というものがほとんどだ。わずかに被告人について触れた、死刑も多数決で決定/被告人は拒めない/弁護活動を制限するなどの項目も実質的な内容はまったくないと言わざるをえない。
 なぜ、裁判員制度反対を主張する人びとは、刑事裁判の現状に目を向けようとしないのか、目を向けることを恐れるのか、裁判員制度を批判しないのか。
 刑事裁判の腐敗した現状をなんとかしなければならないというのは、改革を積極的に求めるえん罪被害者などと改革を形式だけにとどめようとする政府や最高裁の違いはあれ、誰一人否定できない現実だからだろう。裁判員制度を批判すれば、では現状はどうなのかと考えざるをえない。だから現状から目をそらし、「いたずらに不安をあおるような無責任な批判」(丸山徹さんのブログより)に逃げ込むしかないのだ。
 しかし、刑事裁判の腐敗はそうした怠惰や逡巡をもはや容認できないところまできている。いま必要なのは、裁判員制度を徹底的に批判することを通じてその改善を実現し、刑事裁判の腐敗解消のて手段に変えていくことだ。
 8月30日の総選挙は政権交代の可能性を高めています。しかし、民主党政権の誕生を私は単純に喜べません。主観的には自民党政権の悪政に反対していると思っている人びとによって、実際にはえん罪の温床である職業裁判官による刑事裁判制度の維持・復活を求める裁判員制度の停止・廃止運動が存在しているからです。彼・彼女たちが忘れているのは、多くのえん罪被害者の存在です。
 富山えん罪事件や足利事件などは、職業裁判官による裁判が現在も多くの無実の市民を犯人に仕立て上げている現実を示しました。しかし、それらは無実が認められただけまだ幸運でしょう。いまだ獄中からえん罪を訴えている多くの人びとがいます。袴田さんをはじめ恵庭えん罪事件のOさん、北陵クリニックえん罪事件のMさん、東住吉えん罪事件のAさん夫妻…名前だけすらここで書ききれないほどの多くの人びとです。

被告人のために時間を使うのがそれほど迷惑ですか

 裁判員制度の停止・廃止を求める人びとは言います。裁判員で呼び出されるのは迷惑だ。そんなのにかかわっていたらクビになる、会社がつぶれる…
 えん罪被害者が、「自分がやってもいないことで裁判にかけられ、刑務所に入れられるのは迷惑だ」と言えたら、奪われた家族との生活や仕事を取り戻せたらどんなに良いでしょう。しかし、彼らには許されていません。裁判員制度では再審にかかわれないとしても、新たなえん罪を生み出さないために市民が多少の時間を費やすことがそれほど迷惑なのでしょうか。次にえん罪被害者とされるのは市民自身かもしれないのです。

「職業裁判官は専門家だから正しい」のでしょうか

 裁判員制度の停止・廃止を求める人びとは言います。「信号も守れない」「義務教育を終えただけの」市民に正しい判決が出せるのか、専門の訓練を受けた職業裁判官に任せるべきだ…
 恵庭えん罪事件では、事件を知るすべての市民がOさんの無実を確信し、無罪判決を疑いませんでした。しかし、判決直前に送り込まれた職業裁判官の遠藤和正判事は、Oさんと事件を結びつける証拠が何もなく殺人がいつどこでどのように行われたかも明らかではないのに、推測と「可能性がある」という言葉だけで有罪判決を出しました。高裁や最高裁の裁判官もそれを追認しました。
 現在も恵庭冤罪事件被害者支援会のTさんをはじめ多くの市民がOさんのえん罪を晴らすために生活や仕事も犠牲にして闘っています。私も大学すら卒業していない一般市民です。しかし、市民というだけで「信号も守れない」という非難に甘んじ、えん罪裁判批判をやめなければいけないのでしょうか。遠藤判事が専門家・職業裁判官というだけでその判決を「正しい」と認めなければいけないのでしょうか。
 多くのえん罪救援運動は、なんの専門訓練もない市民が職業裁判官の有罪判決を批判して無実を訴えている運動です。それは無知な市民の専門家に対する傲慢で誤った口出しなのでしょうか。

えん罪救援は特別の市民にしかできないのでしょうか

 裁判員制度の停止・廃止を求める人びとは私に言います。あなたのようなえん罪救援運動をしている人びとは特別・例外で、判断能力のない一般市民と同列に論じられない。
 Oさんの無実が特別の市民にしかわからないなら、より多くの市民にOさんの無実を訴えている被害者支援会の活動は徒労でしかないでしょう。事実として間違っているだけでなく、多くの救援運動を嘲笑する言葉です。

「拙速裁判は必然」なのでしょうか

 裁判員制度の停止・廃止を求める人びとは言います。市民が裁判員として参加すれば裁判を短期間に終わらせなければならないから拙速裁判になる。
 無実を争えば長期裁判になっていつまでも出て来れないと、不本意ながら罪を認めさせられる人質司法の現実があります。私の友人は、一審終了まで10年以上も勾留された後、無罪判決を受けました。「拙速裁判」より有罪判決を受ける前に事実上刑期が終わっている現実のほうが望ましいのでしょうか。
 しかも、市民参加は裁判の短期間化の理由とはなりません。O・J・シンプソン事件では10か月近く、市民が陪審員を務めています。短期間でなければなどと思うのは「迷惑だ、迷惑だ」と考えて、政府の効率的処理路線に屈しているからではないでしょうか。

刑事裁判を「真実究明の場」にしてはならない

 裁判員制度の停止・廃止を求める人びとは言います。裁判員制度では市民にわかりやすくするために、真実究明という目的が犠牲にされる。
 刑事裁判は真実究明の場ではないし、場としてはなりません。被告人が本当に訴追されている犯罪を行ったかどうか、わからなければわからないでいい、わからないなら無罪にするだけです。
 刑事裁判に真実究明など求めるから、密室で長時間の拷問的取調べをしても結果として自白がえられれば良い、令状なしに市民の家に踏み込んでも荷物を検査しても結果として犯罪の証拠がえられれば良い、結果として真実究明に役立てば良いとなるのです。
 どんな悪条件下でも白黒つけなければならないと考えるから、証拠が不十分でも証拠がなくても被告人が犯行を行ったことを解明するのがプロとしての腕の見せ所…となります。そうした考えが遠藤和正のような人物を生み出してしまうのです。
 「真実究明が犠牲になる」と非難する日本の弁護士と「やってないとは言ってない。やってるとするには合理的疑いが残っただけ」と語るシンプソン事件の陪審員、「無罪推定の原則」を本当に理解しているのはどちらなのでしょうか。

えん罪救援運動を解体する裁判員制度停止・廃止

 裁判員制度とともに市民の刑事裁判に対する関心がかつてなく高まっています。裁判員制度は、その内容がどれほど不十分でも、えん罪を多発させ人権を踏みにじる現行制度は変えられるし、変えるしかないということを示しました。
 いま裁判員制度を停止・廃止することは、刑事裁判への市民の関心を消滅させ、かかわるべきではないという無責任とやはり変えられないのだという無力感を一挙に蔓延させるでしょう。
 えん罪を訴える市民がいくら無実を訴えても、返ってくるのは「職業裁判官が専門的知識を駆使して出した有罪判決を素人が批判できるのか、批判すべきではない」という言葉だけになるでしょう。
 「あなた方も職業裁判官を信頼すべきだと言っていたではないか」と反論された時、どうこたえればいいのでしょうか。
 えん罪被害者を切り捨て、救援運動を解体する裁判員制度停止・廃止を実現させてはなりません。
 裁判員制度のスタートにあたって、私たちがなすべきことは、裁判員制度によって自動的に現在の犯人ねつ造裁判の現状が改革されるというような幻想を振りまくことでも、腐敗した現状に目を閉ざしこれまでの職業裁判官による裁判を賛美することでもありません。
 裁判員制度開始という刑事手続きの転換を現実の変革にかえていくために、裁判員制度を正面から見据え、徹底的に批判することなのです。そのことを通してのみ、日本の刑事手続きに人権と無罪推定など近代刑事手続きの諸原則の導入を実現することができます。
 日本の刑事司法はどうしても変革しなければなりません。そのためには、裁判員制度では絶対的に不十分であることを指摘し、変革に逆行する側面を厳しく批判していかなければなりません。

「いよいよ始まる裁判員裁判について、今考えるために」というプログ記事があります。裁判員制度を正面から批判した数少ない論考です。
 裁判員制度を考える前提としてまず読んでほしい。
 私も基本的に同意見です。
 「信号も守れない」と市民に対する不信をあおり、官僚裁判官というお上を信頼して市民は口出しすべきではないと主張し続けている裁判員制度不要運動は、3日に450人で裁判員制度廃止を求めるデモをしたとのことです(自由で独立した裁判官を求める市民の会ニュースより)
 もちろん裁判員制度を廃止しより根本的な改革策を目指すというのであれば、それも一つの改革実現の道です。しかし、残念ながら同運動の報告を読む限り、そうした改革の意志はまったく感じられません。
 まず同ニュースの冒頭取り上げられるのは、呼び出しに応じた候補者の人数の少なさや候補の「外れてほっとした」という感想です。彼・彼女らはそれを、市民が被告席の同僚である市民のことなど知ったことではない、指一本動かしたくないという「裁判員迷惑論」の論理から理解し、それを賞賛して不要論の根拠にします。しかし、市民は彼らの考えるほど利己的でも反動的存在でもありません。それは職業裁判官にはない、刑事裁判に関わる責任の重さへのおののきなのです。
 ついで、裁判員に「冷静、公平な判断者ではなく」「『糾問官』の役割を担わせる」と非難します。それだけ聞くともっともに聞こえます。しかし彼・彼女らは「だから公平な判断者にしろ」とは要求しません。「糾問官」はすでに職業裁判官が3人いるから市民は必要ないと言うだけなのです。「〈9人の裁判官〉から追及され」るから問題と書かれています。3人の職業裁判官が「糾問官」なのは前提として肯定され、ただ9人は必要ない3人で十分というだけなのです。

「真実究明」を刑事裁判の目的にしてはならない

 何より問題なのは、裁判員制度不要論の根底に「真実の究明が犠牲にされる」、「『被告人の防御権を十分に保障しつつ、真実を究明する』という刑事裁判の原則」が「省みられなくなる」などという、日本の“お白州裁判”を支えてきた前近代手で反動的な刑事裁判観を臆面もなく主張し、賞賛していることです。
 近代刑事裁判制度は、その目的から「真実究明」を排除することによってはじめて、無罪推定など被疑者・被告人の人権を守り国家の刑罰権発動を制限することに成功したのです。被告人が実際に断罪されている犯罪を行ったかどうかに近代刑事裁判制度は関心を持ちませんし、それを究明しようとも考えません。それが関心を持つのは、刑罰権を発動しようとしている国家・検察官がすべての市民が納得するところまで、被告人が犯罪を行ったと、ルールに従って説得・証明できたかどうかなのです。
 「真実究明」を目的にすれば、そのためには多少の行き過ぎもしかたないとなります。職務質問を口実に2時間市民を拘束しても市民の所持品から覚せい剤が見つかれば問題にされない。どれほど長時間の拷問的取調べでも被疑者から自白をとれれば問題ない。まさに多くのえん罪と人権侵害が、この言葉によって正当化されてきたのが日本の刑事手続きの現状ではないでしょうか。
 例えばこういうことです。
 警察官が自らの権限を逸脱してむりやり市民のポケットに手を突っ込んで調べたところ、覚せい剤が見つかった。
 「真実究明」が目的というなら警察官の行為は違法でも、市民が覚せい剤を持っていたことは事実なのですから市民は覚せい剤所持で有罪となるべきです。そしてこれが日本の“お白州裁判”の現実です。
 近代刑事裁判制度では、検察官がルールに従って立証できたかだけに関心を持ちますから、警察官の違法行為段階で市民の犯罪行為をルールに従って立証することは不可能になりますから、市民はたとえ現実に覚せい剤を持っていても無罪となります。
 結局、裁判員制度不要論の背後にあるのは、一部の善良な市民を守るために“お白州裁判”を維持して潜在的犯罪者はすべて断罪すべきという反動的主張か、“お白州裁判”は絶対に変えられないから市民は刑事裁判の改革など求めるべきではないという敗北主義の主張なのです。どちらにしても現状に屈し、いっさいの改革に反対する点では同根です。

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