裁判員制度を考える
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東京新聞は5月31日、「週のはじめに考える 裁判員と民主主義社会」と題する社説を掲載しました。 裁判員制度を民主主義の第一歩に変えるために社説はその冒頭で「陪審制を民主政治のための無償の学校と評価したのはフランスの政治思想家トクヴィルでした。裁判員制度も真の民主主義へ大きな可能性を秘めます」
と述べています。裁判員制度に対するこの位置づけは間違っていません。裁判員制度を民主主義との関係で論じた問題の立て方も大いに評価できます。社説は、陪審制を民主主義の「無償でいつでも開いている学校」と評価しています。刑事裁判は“お上”の官僚=職業裁判官に任せていれば良いという主張が根強い日本で、マスコミの一角を占める東京新聞がこのような主張を掲げたことは非常に意味深いことでしょう。秘められた可能性を秘められたままにしてしまうのか、歪んだ日本の「戦後民主主義」を本当に人民=市民が権力を握り、行使する民主主義社会へと変えていくことができるのか、裁判員制度の現実を注視し、批判し、改革していく闘いはこれから本格的に広げていかなければならないでしょう。 そのためにも、陪審制や裁判員制を「統治に参加しているとの実感」と市民参加論にしてしまう社説の限界も指摘しておかなければなりません。そうした限界の背景には、刑事手続きを「犯罪者を裁く人間こそが真に社会の主人」としてしまうトクヴィルの理解があります。 市民は国家に協力して「犯罪者を裁く」ために陪審員や裁判員になるのではありません。刑罰権の行使という最も本質的な国家の権力行使を市民が規制し、市民の意志に従わせるために法廷に登場するのです。陪審員や裁判員が裁くべきは、刑罰権を行使しようとする国家・その代表として法廷に登場する検察官なのです。 日本の職業裁判官がこれまでまったく行ってこれなかった国家刑罰権行使の規制、つまり法廷で検察官を裁くことが市民にできるのか。私たちは裁判員制度によってそれを現実の課題とすることができるようになりました。次はこの課題の実現のために闘うことです。 裁判員制度を刑事手続き改革の第一歩に変えるために社説が述べる「検事調書の任意性や信用性の争いがもっぱらだった法廷は、裁判員の前での証言や供述の真実性の争いが中心となり活性化がはかられるでしょう。そうなれば、捜査も自白から、より物的証拠重視とならざるを得ず、何より難解な法律用語は市民に分かる言葉に変わらなければならないでしょう」
という現実は、裁判員制度によって自動的に実現される訳ではなく、現行刑事手続きや裁判員制度批判の市民の闘いがあってはじめて実現します。「適正妥当な判決を出すため」「訴訟記録と格闘」(西野喜一「裁判員制度の正体」)することが裁判官の職務と考えている大部分の職業裁判官の考え方に市民が屈するなら調書裁判はなくならないし、自白獲得中心の捜査も変わらないでしょう。ただ、社説が危惧する「迅速と効率優先の裁判からは法廷での真相解明の努力が失われ」るだけです。同時に、裁判員制度が放置している現行刑事手続きの諸問題の改革を次のステップとして位置づけることも必要です。 捜査・訴追機関の一方的な主張にすぎない調書類を証拠として初めて広範に認め、予審制度廃止によって一当事者にすぎない捜査・訴追機関に強制捜査権と証拠の独占・隠蔽を認めた戦後刑訴法と刑事手続き自体の改革なしには、裁判員制度が民主主義の学校として機能することは不可能です。 |
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今日、日本の刑事手続きの絶望的状況を浮き彫りにするニュースが二つ報道されました。 |





