自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

裁判員制度を考える

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裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
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 8月3日、第1回の裁判員裁判が東京地裁で始まりました。現在の刑事司法の崩壊状況、つまり相次ぐえん罪の表面化と「精密司法」と呼ばれてきた犯人ねつ造システムのいきづまりから有罪認定に証拠はいらないと居直る粗雑司法への転換が進行する中でのスタートです。
 一方では、形だけの「市民参加」にとどめることでこれまでの前近代的“お白州裁判”の本質を維持しようという政府、法務省、最高裁の「推進」論と、刑事司法の崩壊状況を否定しそうした表面的「市民参加」すら必要ないと主張する「反対」論の狭間で、裁判員制度の持つ矛盾と問題性を放置したままのスタートとなりました。
 しかし、それでも裁判員制度の開始が、私たちが日本の刑事司法の近代化と人権原則の導入に向けた改革を実現するための第一歩であることに間違いありません。市民に沈黙と思考停止を強制し、刑事司法を過去に引き戻そうとする翼賛運動に反対して、裁判員制度を改革の第一歩に変えていくために何が必要か、正面から考え、議論していきましょう。
 そのために、裁判員制度スタートが何を生み出しているか、まず検討したいと思います。

刑事裁判の現状への市民の関心のたかまり

 裁判員制度がスタートして一番の効果は、刑事裁判にたいする市民の関心が高まったことでしょう。
 いままでは、刑事裁判に関心をもつのは法律関係者か、とつぜん被告席に立たされることになった市民やその友人、支援者くらいでした。ちなみに私は後者になります。
 そうした無関心のなかで、無罪推定など被疑者・被告人の権利とか人権などと法律家が表向きは言っていても、実際は密室の中で江戸時代と変わらない“お白州裁判”が続いていました。市民は被告となった段階で有罪と決めつけられ、裁判は“相場”にしたがってどれくらいの刑を科すか、官僚裁判官・役人が決めるだけという裁判です。99%を超える有罪率とえん罪の多発はその当然の結果でした。
 市民が、裁判員の経験を通してそうした刑事裁判の現実を知ることが、刑事裁判制度改革の前提です。問題があることに気がつかなければ、人は解決策を考えたりしませんから。

犯人ねつ造に良心の痛みを感じる市民

 逆に、政府や裁判所、法律家はマスコミも利用しながら、自分たちがいままでやってきたインチキを市民から批判されないよう必死でごまかしながら、「被告人を断罪する」というこれまでの“お白州裁判”という性格を維持しようと努めたというのが今回の裁判員裁判だったと思います。
 ネクタイなど被告人の服装や座る位置などは、裁判官など法律家が「被告人も当事者」と少しでも考えていればずっと以前に実現しているはずのことですが、いまとなってはゴマカシとしか評価できません。
 また、裁判員制度ではこれまでの刑事裁判の内容の大半を事前手続きに移し、被告人を除外した法律家だけの密室の中で決めるという本質は維持されています。そしてその結果のみを裁判員となった市民に押し付けようとしています。
 だから、裁判員制度でこれまでの99%を超える有罪率とえん罪の多発という現実が大きく変わるとは期待できないでしょう。でも、職業裁判官は無実の人間を有罪にしたからといって良心の痛みも感じないし反省もしませんが、多くの市民はそうはいきません。今回裁判員になった市民の感想を聞いても、そうしたまじめさや真剣さを感じられました。
 これが裁判員制度の第2の効果だと思います。
 いま、すでに死刑が執行されてしまった飯塚事件についてのDNA再鑑定が進んでいて、死刑とされた久間さんが無実だったことが明らかになろうとしています。久間さんに死刑判決を下した裁判官は「当時は有罪の証拠があったから有罪にしただけ」とうそぶくだけでしょうし、死刑執行を命令した法務大臣も「職務上の義務を果たしただけ」と居直るだけでしょう。でも、多くの市民はそうは考えません。役人は自分たちが久間さんの立場になるとは決して思いませんが、市民にとっては「明日は我が身」なのですから。

裁判員制度では不十分という実感

 そうした実際の体験を積み重ねる中で、裁判員制度導入だけでは刑事裁判は変わらないということが、多くの市民の実感となるでしょう。これが裁判員制度スタートの効果の3番目です。
 なぜなら、現在の制度では、捜査段階で被疑者とされた市民は一方的に追及され、長期の監禁と拷問的取調べによって犯人に仕立て上げられてしまいます。そしてその結果のみが法廷に持ち出されるのですから、どれほど慎重で良心的な裁判員ですら有罪と思わされてしまいます。
 人は、可能なその場しのぎの手直しをすべて試してみるまでは、根本的な改革を受け入れようとはしないものです。裁判員制度を試してみて初めて、裁判の改革だけではなく捜査段階の改革の必要も実感して、次の課題にできるのだと思います。

次は公判前手続きの改革へ

 私は、裁判員制度導入で現在の刑事裁判制度が良くなるとは期待していません。
 でも、「裁判員制度で良くなる」という主張も「良くならないから裁判員制度に反対」という主張も間違っています。大切なことは、現在の刑事裁判制度の改革の必要性を認めること、そのために一歩踏み出すことです。一歩でダメなら二歩目、三歩目を考えることが大切でしょう。
 次のステップは、陪審員制度の全面導入と、捜査と訴追を切り離し捜査そのものを可視化するための予審制度の導入だと私は考えています。もちろんそれで終わりではありませんが…

判断基準は「とりあえず無罪」

 裁判員裁判に対して、「一般市民に専門的な判断ができるのか、理解できるのか」とか「有罪無罪を正しく決められるか」などという声が、とくに裁判員制度不要論の人びとの間から繰り返されています。その結果、市民の中に、「裁判員になって間違った判断をしてしまったら…」「難しくて理解できないのでは…」という不安が広がっているようです。
 しかし、裁判員には専門的な知識や高度な理解力は必要ありませんし、被告人が実際に犯罪を行ったかどうか解明することすら求められてはいません。
 このことは前近代的お白州裁判が続く日本の刑事裁判の近代化のために最も重要な視点ですので、何度でも強調したいと思います。

市民が、誰でも、確信を持つかどうか

 最高裁は、有罪・無罪の判定基準として「通常人であれば誰でも疑いをさしはさまない程度に真実らしいとの確信を得させるもの」と述べています。ここには自らと異なる判断をする者を通常人ではないと決めつけかねない日本の裁判所特有のゴマカシもありますが、それでも「通常人」が「誰でも」「確信をえる」ことが判断基準になると認めています。
 ですから西野喜一元判事が述べているような、「専門的な訓練を受け」「職務上膨大な数の事件」を経験している「専門家(裁判官)」が「訴訟記録と格闘」(西野喜一著『裁判員制度の正体』)して“被告人は有罪”という確信をえたとしても、それを有罪認定の基準としてはいけないのです。

真犯人かどうかわからないから無罪

 私のもとにも時々、証券会社から「儲かるから投資しないか」という勧誘が来ます。説明を聞いて確かに儲かるという確信がえられたら投資するかもしれません。しかし、説明があいまいで理解できず、儲かるかどうかわからなければ投資を断ります。他の人も同じでしょう。断るのに“絶対儲からない”という確信や“○○の理由で儲からないと思う”という具体的根拠は必要ありません。
 無罪推定の原則とはこうした私たちの日常的な判断の基準を刑事裁判に適用したものにすぎません。裁判員は、ただ検察官の立証に真摯に耳を傾け、その結果被告人が間違いなく犯罪行為を行ったと確信が得られたら、投資を決める時と同じように有罪と判定すればいいのです。それ以外の場合はすべて無罪としなければなりません。その中には、検察官の立証や鑑定などが専門的すぎたり、複雑すぎて理解できない場合も当然含まれます。
 説明がよくわからないまま、「投資のプロの証券会社が儲かると言うのだから…」と投資を決めれば大切な財産を失うことになりかねません。同様に、検察官の立証や鑑定人の説明がよくわからないまま、「プロの捜査官や法律家、鑑定人が言うのだから…」と有罪と決めてしまえば、えん罪を生んでしまいます。
 「よくわからない。だからとりあえず無罪!」
 これが、裁判員が(職業裁判官も)近代刑事裁判の最も重要な原則である“無罪推定”に忠実であるための唯一の判断基準であり、えん罪を減らす道です。
 残念ながら司法試験に合格したエリート裁判官にとって「わからない」と認めることはとても難しいようです。だから必死に立証に納得したふりをしてしまいます。その結果が、続発する証拠なき有罪判決やえん罪なのです。

「合理的疑い」というゴマカシ

 法律家の中には、「合理的疑いを超える立証」だから裁判員が検察官の立証を批判し、否定するためには合理的根拠が必要だと主張する人がいます。
 この主張は、 “合理的疑い”という事実上の無罪立証を要求するという点で、また裁判員に対して確信なしに有罪認定を強制する点でも、無罪推定から有罪推定に原則を逆転する暴論になりかねません。有罪の確信が存在しないことを意味する無罪の認定には、いかなる根拠も必要としません。存在しない根拠をあげることはできないからです。
 「合理的……」というのは素人のめちゃくちゃな反対で自分の判断が否定されてはたまらないという専門家的心情からの主張でしょうが、素人は黙って専門家に従っていれば良いという傲慢さがすけて見えます。しかし、証券会社が専門家の自分に従って黙って金を出せと強制してはならないのと同じように、法律家も自らの判断を市民に強制してはならないのです。それが「通常人」とあえて規定する意味なのですから。
 東京新聞は5月31日、「週のはじめに考える 裁判員と民主主義社会」と題する社説を掲載しました。

裁判員制度を民主主義の第一歩に変えるために

 社説はその冒頭で
「陪審制を民主政治のための無償の学校と評価したのはフランスの政治思想家トクヴィルでした。裁判員制度も真の民主主義へ大きな可能性を秘めます」
と述べています。裁判員制度に対するこの位置づけは間違っていません。裁判員制度を民主主義との関係で論じた問題の立て方も大いに評価できます。社説は、陪審制を民主主義の「無償でいつでも開いている学校」と評価しています。刑事裁判は“お上”の官僚=職業裁判官に任せていれば良いという主張が根強い日本で、マスコミの一角を占める東京新聞がこのような主張を掲げたことは非常に意味深いことでしょう。
 秘められた可能性を秘められたままにしてしまうのか、歪んだ日本の「戦後民主主義」を本当に人民=市民が権力を握り、行使する民主主義社会へと変えていくことができるのか、裁判員制度の現実を注視し、批判し、改革していく闘いはこれから本格的に広げていかなければならないでしょう。
 そのためにも、陪審制や裁判員制を「統治に参加しているとの実感」と市民参加論にしてしまう社説の限界も指摘しておかなければなりません。そうした限界の背景には、刑事手続きを「犯罪者を裁く人間こそが真に社会の主人」としてしまうトクヴィルの理解があります。
 市民は国家に協力して「犯罪者を裁く」ために陪審員や裁判員になるのではありません。刑罰権の行使という最も本質的な国家の権力行使を市民が規制し、市民の意志に従わせるために法廷に登場するのです。陪審員や裁判員が裁くべきは、刑罰権を行使しようとする国家・その代表として法廷に登場する検察官なのです。
 日本の職業裁判官がこれまでまったく行ってこれなかった国家刑罰権行使の規制、つまり法廷で検察官を裁くことが市民にできるのか。私たちは裁判員制度によってそれを現実の課題とすることができるようになりました。次はこの課題の実現のために闘うことです。

裁判員制度を刑事手続き改革の第一歩に変えるために

社説が述べる
「検事調書の任意性や信用性の争いがもっぱらだった法廷は、裁判員の前での証言や供述の真実性の争いが中心となり活性化がはかられるでしょう。そうなれば、捜査も自白から、より物的証拠重視とならざるを得ず、何より難解な法律用語は市民に分かる言葉に変わらなければならないでしょう」
という現実は、裁判員制度によって自動的に実現される訳ではなく、現行刑事手続きや裁判員制度批判の市民の闘いがあってはじめて実現します。「適正妥当な判決を出すため」「訴訟記録と格闘」(西野喜一「裁判員制度の正体」)することが裁判官の職務と考えている大部分の職業裁判官の考え方に市民が屈するなら調書裁判はなくならないし、自白獲得中心の捜査も変わらないでしょう。ただ、社説が危惧する「迅速と効率優先の裁判からは法廷での真相解明の努力が失われ」るだけです。
 同時に、裁判員制度が放置している現行刑事手続きの諸問題の改革を次のステップとして位置づけることも必要です。
 捜査・訴追機関の一方的な主張にすぎない調書類を証拠として初めて広範に認め、予審制度廃止によって一当事者にすぎない捜査・訴追機関に強制捜査権と証拠の独占・隠蔽を認めた戦後刑訴法と刑事手続き自体の改革なしには、裁判員制度が民主主義の学校として機能することは不可能です。

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 今日、日本の刑事手続きの絶望的状況を浮き彫りにするニュースが二つ報道されました。
 一つは、マスコミや捜査機関によって和歌山カレー事件の犯人に仕立て上げられたHさんの死刑判決が確定したことです。
 Hさんが毒を入れたという証拠は何一つありません。ただ、だれかを犯人に仕立て上げ騒ぎ立てることで新聞を売ろうとし、視聴率を上げようとしたマスコミと、それにのっかって事件の早期幕引きを狙った捜査当局・裁判所によって、社会との軋轢が最も少なくてすむとみなされたHさんが人柱とされたのです。
 ただ、これはマスコミと捜査機関、裁判所だけの責任ではありません。自分自身や知人が犯人に仕立て上げられる恐怖から逃れるために、あるいは犯人が逮捕されたという幻想によって偽りの安心感をえるために、多くの市民がHさんを犠牲にすることに協力、黙認しているという状況があるのです。
 もう一つは、裁判員制度開始にあたって、裁判員制度はいらない!大運動が、裁判員制度は「人を処罰することへの強制動員」と声明を出したことです。
 裁判員制度は多くの欠陥と矛盾からえん罪続出の現在の刑事手続きを根本から改革することはほとんど期待できないでしょう。だから、裁判員制度を正面から詳細に批判し、その改革を求めていくことは絶対に必要です。
 しかし、裁判員制度を「市民の強制動員」と評価することは、現在の刑事手続きに対する私たち市民の責任から目をそらし、改革の道を自ら閉ざすだけです。
 Hさんが、証拠なくして命を奪われようとしていることに私たち市民はなんの責任もないのでしょうか。職業裁判官がやったことだからと市民は知らん顔をしていていいのでしょうか。職業裁判官という官僚に丸投げして自分たちにはなんの責任もないとうそぶく市民自身の腐敗こそが、そうした現状を生み出しているではないでしょうか。
 裁判員制度が市民を強制動員するのではありません。裁判員制度は市民に、とっくに動員されている自分自身の姿を直視することを強制するのです。裁判員制度以前に、刑事手続き、刑事裁判の現状にこれほど多くに市民が関心を寄せたことがあるでしょうか。マスコミが取り上げたことがあるでしょうか。もはや、私たち市民は多くのえん罪に対して、職業裁判官という官僚のやったことと責任逃れをすることはできません。
 裁判員制度の結果、刑事手続きが現状より悪くなろうと良くなろうとそれは市民自身の責任であり、自分自身が被告席に立たされた時にその結果を引き受けなければならないのです。
 私たち市民のてはすでに多くのえん罪被害者の血で真っ赤に汚れていることを自覚すべきでしょう。私たちは裁判員となって何をすべきか、真剣に考えてみる必要があるのです。

「迅速化」「迷惑論」の暴走に危機感

 報道によれば、最高裁は1月19日、それまで行ってきた裁判員制度をめぐる模擬裁判の結果を分析した報告書を作成したとのことです。
 報告書は裁判員裁判の基本原則として、
(1)裁判員が審理内容を理解し意見を述べられる
(2)合理的期間内に審理を終え国民の負担を少なくする
(3)刑事裁判の目的の真相解明、被告の権利保護
をあげたが、「裁判員裁判でも真相の解明は審理期間の短縮以上に重要だ」として(1)(2)の過度の重視は(3)の軽視につながると指摘しました。公判前整理手続きでも「証拠の点数を減らすことのみに力を注ぐのではなく、真相解明に必要不可欠な証拠は何かという観点が重要」とも述べています。
 こうした報告書発表の背景には第一に、一審の審理が尽くされていないとして差し戻した2008年12月の広島高裁楢崎康英裁判長の控訴審判決に示されるように、裁判迅速化法以来の最高裁の「短期間での有罪判決」路線に過度に反応した下級審の裁判官や検察官が、「精密司法」として作り上げてきた犯人ねつ造・断罪システムを逸脱して被告人を十分に断罪しない、できないまま判決しはじめた現実への危機感があります。
 第二に、「裁判員迷惑論」の暴走によって、裁判員制度での審理の拙速化が不可避とされ、もはや「真相究明などというポーズすら維持できなくなりつつあることへの危機感があります。
 市民が刑事裁判にかかわることは、決して裁判を短期間で終わらせなければならない理由とはなりません。すでに拙稿で示したように、米国のO・J・シンプソン事件では、陪審員となった市民は「9ヶ月もホテルに閉じ込められ、まるで囚人と同じような生活」(大野和基氏によるインタビューから)を強制されています。同じ市民の人生や生命を奪おうとする刑事裁判で、他の市民がこの程度の負担を払うのは当然でしょう。
 しかし、裁判員制度を否定し官僚司法の現状を維持しようとする点では「裁判員制度不要」論と共通する立場の最高裁は、そうした被告人のために市民(裁判員/陪審員)が当然払うべき負担を否定してきました。そして、「裁判員迷惑論」を利用して「裁判員裁判だから3日以内に終わらせなければならない」などと主張し、公判前整理手続きによる被告人側の防御権制限など「短期間での有罪判決」路線を推進してきたのです。
 ところが、最高裁の思惑を超えて「迷惑論」がエスカレートし、裁判は捜査機関の判断の追認儀式にすぎないという現実を白日の下にさらしてしまうほどになってしまったのです。
 報告書は最高裁の「短期間での有罪判決」路線を撤回するものではありません。官僚システム特有の下部官僚が上司の意向に添おうと励むあまりに意向を逸脱して暴走するのを再び統制下に抑えようとするものにすぎません。

「理由を示さない忌避」を事実上禁止

 より重大なことは、最高裁が官僚司法維持のため裁判員制度空洞化の攻撃に踏み出していることです。報告書は、「無用な呼び出しを避けるため、できる限り早期に辞退を認めるような運用をするべきだ」と裁判員の負担を口実にし、選任手続きもあくまで辞退事由などを判断するためのものと主張しました。そして、選任手続きでは裁判員候補者が検察側や被告・弁護側に有利かどうかを見極めるために質問したり、人柄や能力を探るためだけの質問も許されないと、「理由を示さない忌避(正確には不選任の請求)」を事実上禁止しようとしてるのです。
 これまで官僚裁判官による裁判制度の下で、被告人は誰に裁かれるか一切の発言権を許されていません。その結果、恵庭えん罪事件で「どこでいつどのように実行したか不明でも有罪」とした遠藤和正裁判長のような悪質な判事が跋扈する原因となっています。たとえ裁判員だけといえども「理由を示さない忌避」によって、被告人が判決する者の公正さを問うことができるというのは、裁判員制度の数少ない積極的意義です。しかし、だからこそ最高裁は被告人の「理由を示さない忌避」を認めることが官僚裁判官の不公正さの指摘へと発展することを恐れています。そこで最高裁は、この報告書で「理由な忌避」を辞退問題にすり替えることで、被告の「理由を示さない忌避」を事実上禁止しようとしているのです。
 結局、この報告書は、裁判員制度を官僚司法の枠内に閉じ込め、最高裁の統制下におくことを狙った反動的なものでしかありません。
 裁判員制度を否定するか、認めるかは、最高裁の支配する官僚司法の現状を容認するか、それを変える必要を認めるかの対立であることが、ますます明らかになってきました。裁判員制度にどれほど欠陥があろうと、必要なのはその欠陥の改革を追求することであって、欠陥を口実に官僚司法の現状維持を求めることであってはなりません。

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