冤罪の存在を否定別の記事にも書きましたが、私は「裁判員制度はいらない!大運動」に参加している知人たちに対して、政府の政策に反対するためだからといって、そのために市民の利己的心情を煽ったり、反動的思想を組織したりするのは間違っていると訴え続けてきました。大運動の事務局のN弁護士に対しては直接面前で、N弁護士が西野喜一元判事のような反動的人物の書いた書籍を推薦したことに抗議しました。 西野喜一元判事はその著書「裁判員制度の正体」の70ページで次のように述べています。 「(財田川事件など死刑再審4事件は)いずれも,刑事訴訟法の規定に従い、被告人に無罪を言い渡すべき新たな証拠が出てきたので、これにもとづいて再審が開始され、そして無罪となったのでした。つまり、もとの裁判の段階ではそのような証拠はなく、当時の裁判長は当時の証拠にもとづいて有罪と判断したのです。……当時の証拠にもとづく当時の判断としては、やむをえないものであった」
事実はそんなものではありません。警察・検察は証拠をねつ造し、拷問によってウソの自白をさせて、無実が明らかな人間を強引に犯人に仕立て上げ、裁判所はそれを知りながらあえて有罪判決を出したのです。現在の多くの冤罪事件の救援のために力を尽くしている、私の尊敬する多くの人達が残念ながら大運動に参加しています。そうした人たちは、恵庭のOさんや仙台のMさん、和歌山のHさん,東住吉の二人……、袴田さんや奥西さんは言うに及ばず、こうした冤罪被害者たちに「有罪判決は、プロの裁判官が証拠にもとづいて判断したからやむをえない」と言えるのでしょうか。裁判員制度をなくすためだから犠牲になれと言えるのでしょうか。 「無実を無罪に」の努力を嘲笑少し前の記事ですが、裁判員の偏見を避けるためとして「ネクタイ風のものや靴に見える履物」が貸与されるとの記事に対して、裁判員制度に反対するT弁護士は次のように述べています。裁判員制度はいらない!集会のお知らせ 「究極の悲喜劇?裁判員裁判…そんな物まで使って裁判員の心証を良くしなければならないとは・・・」
そして「こういう方には喜ばれるかもしれない」と、監禁容疑の被告が法廷で白の服装で統一したことを取り上げ、「監禁王子は、コーディネイトを完成させるためにさぞかし白い靴をはきたかっただろうが、逃亡のおそれがあるために靴は許されなかったわけだ。この『監禁王子』のような方なら、あるいは『ネクタイ風のもの』や『靴に見える履き物』を喜ばれるかもしれない」
と揶揄します。自身もマスコミから殺人犯にでっち上げられ、多くの冤罪救援運動の先頭に立っていた故三浦和義さんは、服装などによって職業裁判官が持つ偏見の危険性を強調し、被告人が手錠・腰縄のまま裁判官の前に引き出されないよう闘い、その実現を一つの成果と喜んでいました。三浦さんなら、「ネクタイ風」「靴に見えるもの」に対して本物のネクタイ、革靴を着用させることを要求することはあっても、「そんなものまで使って」などとは絶対に言わないでしょう。 まだ有罪判決も受けていない被告人を平然と「監禁王子」などと呼んで恥じない感性の持ち主だからこそ、「犯罪者は犯罪者らしい服装をしていればいい」と考えるのです。プロフィールを見ると、民事裁判が中心の方のようですが、刑事事件の経験はなくても少なくとも弁護士である以上「無罪推定の原則」ぐらいは理解してほしいと思います。 裁判員制度反対運動が生み出すものなぜ、裁判員制度反対運動の中でこうした人物が我が物顔で跳梁するのか、この様な反動的な言辞が横行するのか、そうした反動的、人権侵害的思想に彩られた運動が、仮に何らかの「成果」を実現し社会の多数意見となった場合、日本の冤罪救援運動が、刑事手続を批判してきた思想と運動がどれほどの打撃を受けるか、今一度真剣に考えるべきではないでしょうか。私も裁判員制度には問題が多いと考えています。しかし、それ以上に「市民は刑事裁判にかかわるべきではない」「市民に刑事裁判を云々するする資格はない」と主張する運動が社会の多数を獲得する可能性に恐怖しています。市民が自分自身を信頼できず、自分自身よりプロと称する官僚や“お上”を無条件に信頼するならあらゆる変革の道は閉ざされます。裁判員制度などはどれほど悪くても所詮ただの制度にすぎません。その制度を避けるためにみずからの思想と運動を売り渡していいのでしょうか。 今、政権交代が時間の問題となりつつある中で、その危険は現実のものになろうとしています。 |
裁判員制度を考える
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昨年12月20日、「裁判員制度はいらない!大運動」という裁判員制度撤回を求める市民運動が記者会見を行いました。私は、報道された出席者の発言の身勝手さと社会的視野の欠落に驚くとともに危惧を抑えられませんでした。
しかし、一部の発言の報道のみをもとに批判することは公正ではないので、今まで発言は控えていました。その後、大運動自身が出席者の発言をサイト上で公表しましたので、それをもとに私の考えを述べます。なお、出席者の発言は以下のアドレスで閲覧可能です。 裁判員制度はいらない!大運動 被告席の市民の人権を忘れてはならない市民がある日突然、犯罪を行ったと政府に言いがかりをつけられ、自由を奪われ、家族から切り離されて被告席に立たされてしまうのが刑事裁判です。どれほど無実を訴えてもそれを立証するための自由も手段も奪われ、証拠は検察官によって隠され破壊されてしまう。いつ終わるかもわからない取調べという拷問で、身に覚えのない罪もむりやり認めさせられる。そして職業裁判官の多くは、そうした現実を黙認するばかりか、有罪の証拠が乏しくても有罪判決を書くのがみずからの力量の証だと考えているようです。その結果が、99%を超える有罪率ですし、相次ぐ冤罪の表面化です。 「自分は悪いことはしないから関係ない」と目をそらしても、すべての市民がいつそうした境遇に落とされるかもしれないのが刑事手続の現状なのです。 そうした絶望的とも言われる日本の刑事手続の前近代的、人権破壊的現状を改革し、刑事裁判を被告席の市民の人権、生命と生活を不当な侵害から守るという本来の役割に戻すことが緊急の課題になっていますし、そのことを痛感して行動する市民も増えています。 しかし、残念ながら、そうした問題意識と危機感は、記者会見の出席者にはまったく存在しないようです。 出席者の一人Mさんは、「冤罪を有罪とした裁判員の苦悩や後悔はどうするのでしょう」と述べています。 Mさん。 まず無実なのに有罪とされた被告席の市民の苦痛と苦悩を考えてください。それを考えれば、冤罪を生み出した裁判員が「苦悩し後悔」するのは当然ですし、絶対必要です。それが、二度と冤罪を生み出さないために刑事手続をどう変えればいいか、そのために自分は何をすべきか考えるきっかけになるのですから。 そして、冤罪を生み出しても多くの職業裁判官が苦悩も後悔もしないことが、刑事裁判の絶望的状況を生み出している大きな原因なのです。 Mさん。 冤罪を生み出したのが職業裁判官なら、「俺はやってない」とうそぶいて「苦悩や後悔」から無縁でいられるのですか。職業裁判官は、Mさんや私も含む市民の代理として行動しているのです。ですから彼らが行った結果は、私たち自身が引き受けていかなければなりません。私たち一人ひとりに、冤罪を生み出し続けている刑事裁判を放置している責任があるのです。職業裁判官が生み出した冤罪であっても、私たち自身の手も汚れているのです。そのことに「苦悩し後悔」しましょう。 「人を裁かない信条」という責任逃れ別の出席者Aさんは、「人を裁かないという信条」を持つと述べています。では、Aさんは人が人を裁く刑事手続そのものに反対しているのでしょうか。どうもそうではないようです。Aさんは「裁判は、冷静に、法律に基づき客観的、論理的に行われねばなりません」と述べていますし、「刑の判定や、量刑」の必要性も認めています。Aさんの「人を裁かない信条」とは、「人が人を裁くことは認めるが、自分はその責任を取らない」という責任逃れでしかありません。 人間が生存のために形成するあらゆる共同体は、必ずその内部に共同体を維持するための掟(おきて)を持ちます。そして掟の存在は、必然的に共同体メンバーが掟に反したか否かの裁きを必要とします。そしてこの同じ共同体のメンバーを裁く権利と義務を担う能力があると認められた存在が「成人」なのです。 確かに、社会の階級への分裂と国家の発生は、人が人を裁くという行為を一部の支配階級の専権とし、その目的も共同体の維持から支配階級の利益の擁護にねじ曲げてしまいました。だから、市民革命は国王や貴族から市民が裁判権を取り戻すことを大きな課題としたのです。陪審制度の導入はそのための手段でした。 冤罪の多発という刑事手続の末期症状が表面化し支配の破綻が明らかになりつつある中で、今私たちに必要なのは、「人を裁かない信条」などという奴隷の思想をあおり立てて命脈のつきた支配体制の継続を願うのではなく、私たち市民が「裁く権利と義務」を奪い返し、自分自身で担うことなのです。 そしてそれは、国王でも貴族でもなく同僚である市民に裁かれるという被告席の市民の当然の権利を実現するための、他の市民の絶対的な義務なのです。一人の市民の命と生活がかかっているのに、自分の時間や報酬の不満のみ強調するのは利己主義ではないでしょうか。 「どうせ」という敗北主義の強調別の出席者のIさんは、「現在の日本の刑事裁判の現状を見るとほぼ100%は有罪になります。被告人の命を奪う、一生を監獄に送る判決を下さざるを得ないわけで、心にいろんな傷が残ることは当然」「なんとかなるというような理由で参加していいとは思いません」と述べています。「素人の意見が反映される余地はない」「司法情報公開とか透明化とかは全く無理」とも繰り返しています。裁判員になってもどうせなにもできないのだからなるべきではない、Iさんは露骨に市民の無力さを強調し、敗北主義をあおり立てます。 確かに、市民がそれほど無力であればみずから改革など求めず、国王など支配者が賢明で慈悲深くなることを神にでも祈っている方がましでしょう。しかし多くの革命の歴史は、市民が無力ではないことを示しています。 市民が裁判員になるのは、そのことで自動的に「ほぼ100%の有罪」という現実が変わるからでも、「素人の意見が反映」するからでもありません。職業裁判官とその背後にいる支配階級に改革を強制するための手段に裁判員制度を転化するために、裁判所に乗り込むのです。 「なんとかなる」ではなく「なんとかする」ためなのです。もし、日本の市民がそれを試みることもできないほど奴隷根性にまみれているなら、奴隷として徹底的に踏みにじられてもしかたありません。しかし、日本の市民は決してそうではないと私は確信しています。 政府反対を口実に「反動」を煽り組織化してはならない「裁判員制度はいらない!大運動」に対して、裁判員制度という政府の政策に反対するためでも、「迷惑だ」などの市民の反動的心情や市民蔑視をあおり、組織化すべきではないと、私は訴えてきました。残念ながら、記者会見は大運動がそうした私の危惧した方向に進んでいることをあらためて示しているようです。20世紀初頭、ロシアのレーニンは、徴兵制に関して“押し付けられた銃を投げ捨てるのは奴隷の思想であり、必要なのは銃口をツァー(皇帝)に向け、その銃を使って圧政を倒すこと”と訴えました。そしてロシアの人民は、まさにその訴えに応えてロシア革命を実現したのです。私たち日本の市民は、押し付けられた裁判員という銃を投げ捨て刑事手続の人権破壊的現状に屈する奴隷のままでいるのでしょうか、それを刑事手続の中で市民自身の人権を実現する手段と転化できるのでしょうか。 少なくとも裁判員制度は、多くの市民の中に刑事手続の現状に対する関心と危惧を引き出しています。無関心と奴隷の思想をあおり立てることで、そうした関心と危惧を抑え込み、圧殺してはなりません。 |
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裁判員は迷惑という歪んだ利己的心情を煽るのは論外として、裁判員制度反対論の根拠はほぼ「公判前整理手続」批判に集中している。先日私が出席した集会のレジメにも裁判員制度の最大の問題としてこの手続があげられていた。 |
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6月28日深夜、朝日テレビ系の朝まで生テレビで「裁判員制度」がテーマになりました。 |





