自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

裁判員制度を考える

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裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
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冤罪の存在を否定

 別の記事にも書きましたが、私は「裁判員制度はいらない!大運動」に参加している知人たちに対して、政府の政策に反対するためだからといって、そのために市民の利己的心情を煽ったり、反動的思想を組織したりするのは間違っていると訴え続けてきました。
 大運動の事務局のN弁護士に対しては直接面前で、N弁護士が西野喜一元判事のような反動的人物の書いた書籍を推薦したことに抗議しました。
 西野喜一元判事はその著書「裁判員制度の正体」の70ページで次のように述べています。
「(財田川事件など死刑再審4事件は)いずれも,刑事訴訟法の規定に従い、被告人に無罪を言い渡すべき新たな証拠が出てきたので、これにもとづいて再審が開始され、そして無罪となったのでした。つまり、もとの裁判の段階ではそのような証拠はなく、当時の裁判長は当時の証拠にもとづいて有罪と判断したのです。……当時の証拠にもとづく当時の判断としては、やむをえないものであった」
 事実はそんなものではありません。警察・検察は証拠をねつ造し、拷問によってウソの自白をさせて、無実が明らかな人間を強引に犯人に仕立て上げ、裁判所はそれを知りながらあえて有罪判決を出したのです。
 現在の多くの冤罪事件の救援のために力を尽くしている、私の尊敬する多くの人達が残念ながら大運動に参加しています。そうした人たちは、恵庭のOさんや仙台のMさん、和歌山のHさん,東住吉の二人……、袴田さんや奥西さんは言うに及ばず、こうした冤罪被害者たちに「有罪判決は、プロの裁判官が証拠にもとづいて判断したからやむをえない」と言えるのでしょうか。裁判員制度をなくすためだから犠牲になれと言えるのでしょうか。

「無実を無罪に」の努力を嘲笑

 少し前の記事ですが、裁判員の偏見を避けるためとして「ネクタイ風のものや靴に見える履物」が貸与されるとの記事に対して、裁判員制度に反対するT弁護士は次のように述べています。
裁判員制度はいらない!集会のお知らせ
「究極の悲喜劇?裁判員裁判…そんな物まで使って裁判員の心証を良くしなければならないとは・・・」
 そして「こういう方には喜ばれるかもしれない」と、監禁容疑の被告が法廷で白の服装で統一したことを取り上げ、
「監禁王子は、コーディネイトを完成させるためにさぞかし白い靴をはきたかっただろうが、逃亡のおそれがあるために靴は許されなかったわけだ。この『監禁王子』のような方なら、あるいは『ネクタイ風のもの』や『靴に見える履き物』を喜ばれるかもしれない」
と揶揄します。
 自身もマスコミから殺人犯にでっち上げられ、多くの冤罪救援運動の先頭に立っていた故三浦和義さんは、服装などによって職業裁判官が持つ偏見の危険性を強調し、被告人が手錠・腰縄のまま裁判官の前に引き出されないよう闘い、その実現を一つの成果と喜んでいました。三浦さんなら、「ネクタイ風」「靴に見えるもの」に対して本物のネクタイ、革靴を着用させることを要求することはあっても、「そんなものまで使って」などとは絶対に言わないでしょう。
 まだ有罪判決も受けていない被告人を平然と「監禁王子」などと呼んで恥じない感性の持ち主だからこそ、「犯罪者は犯罪者らしい服装をしていればいい」と考えるのです。プロフィールを見ると、民事裁判が中心の方のようですが、刑事事件の経験はなくても少なくとも弁護士である以上「無罪推定の原則」ぐらいは理解してほしいと思います。

裁判員制度反対運動が生み出すもの

 なぜ、裁判員制度反対運動の中でこうした人物が我が物顔で跳梁するのか、この様な反動的な言辞が横行するのか、そうした反動的、人権侵害的思想に彩られた運動が、仮に何らかの「成果」を実現し社会の多数意見となった場合、日本の冤罪救援運動が、刑事手続を批判してきた思想と運動がどれほどの打撃を受けるか、今一度真剣に考えるべきではないでしょうか。
 私も裁判員制度には問題が多いと考えています。しかし、それ以上に「市民は刑事裁判にかかわるべきではない」「市民に刑事裁判を云々するする資格はない」と主張する運動が社会の多数を獲得する可能性に恐怖しています。市民が自分自身を信頼できず、自分自身よりプロと称する官僚や“お上”を無条件に信頼するならあらゆる変革の道は閉ざされます。裁判員制度などはどれほど悪くても所詮ただの制度にすぎません。その制度を避けるためにみずからの思想と運動を売り渡していいのでしょうか。
 今、政権交代が時間の問題となりつつある中で、その危険は現実のものになろうとしています。
 昨年12月20日、「裁判員制度はいらない!大運動」という裁判員制度撤回を求める市民運動が記者会見を行いました。私は、報道された出席者の発言の身勝手さと社会的視野の欠落に驚くとともに危惧を抑えられませんでした。
 しかし、一部の発言の報道のみをもとに批判することは公正ではないので、今まで発言は控えていました。その後、大運動自身が出席者の発言をサイト上で公表しましたので、それをもとに私の考えを述べます。なお、出席者の発言は以下のアドレスで閲覧可能です。
裁判員制度はいらない!大運動

被告席の市民の人権を忘れてはならない

 市民がある日突然、犯罪を行ったと政府に言いがかりをつけられ、自由を奪われ、家族から切り離されて被告席に立たされてしまうのが刑事裁判です。
 どれほど無実を訴えてもそれを立証するための自由も手段も奪われ、証拠は検察官によって隠され破壊されてしまう。いつ終わるかもわからない取調べという拷問で、身に覚えのない罪もむりやり認めさせられる。そして職業裁判官の多くは、そうした現実を黙認するばかりか、有罪の証拠が乏しくても有罪判決を書くのがみずからの力量の証だと考えているようです。その結果が、99%を超える有罪率ですし、相次ぐ冤罪の表面化です。
 「自分は悪いことはしないから関係ない」と目をそらしても、すべての市民がいつそうした境遇に落とされるかもしれないのが刑事手続の現状なのです。
 そうした絶望的とも言われる日本の刑事手続の前近代的、人権破壊的現状を改革し、刑事裁判を被告席の市民の人権、生命と生活を不当な侵害から守るという本来の役割に戻すことが緊急の課題になっていますし、そのことを痛感して行動する市民も増えています。
 しかし、残念ながら、そうした問題意識と危機感は、記者会見の出席者にはまったく存在しないようです。
 出席者の一人Mさんは、「冤罪を有罪とした裁判員の苦悩や後悔はどうするのでしょう」と述べています。
 Mさん。
 まず無実なのに有罪とされた被告席の市民の苦痛と苦悩を考えてください。それを考えれば、冤罪を生み出した裁判員が「苦悩し後悔」するのは当然ですし、絶対必要です。それが、二度と冤罪を生み出さないために刑事手続をどう変えればいいか、そのために自分は何をすべきか考えるきっかけになるのですから。
 そして、冤罪を生み出しても多くの職業裁判官が苦悩も後悔もしないことが、刑事裁判の絶望的状況を生み出している大きな原因なのです。
 Mさん。
 冤罪を生み出したのが職業裁判官なら、「俺はやってない」とうそぶいて「苦悩や後悔」から無縁でいられるのですか。職業裁判官は、Mさんや私も含む市民の代理として行動しているのです。ですから彼らが行った結果は、私たち自身が引き受けていかなければなりません。私たち一人ひとりに、冤罪を生み出し続けている刑事裁判を放置している責任があるのです。職業裁判官が生み出した冤罪であっても、私たち自身の手も汚れているのです。そのことに「苦悩し後悔」しましょう。

「人を裁かない信条」という責任逃れ

 別の出席者Aさんは、「人を裁かないという信条」を持つと述べています。
 では、Aさんは人が人を裁く刑事手続そのものに反対しているのでしょうか。どうもそうではないようです。Aさんは「裁判は、冷静に、法律に基づき客観的、論理的に行われねばなりません」と述べていますし、「刑の判定や、量刑」の必要性も認めています。Aさんの「人を裁かない信条」とは、「人が人を裁くことは認めるが、自分はその責任を取らない」という責任逃れでしかありません。
 人間が生存のために形成するあらゆる共同体は、必ずその内部に共同体を維持するための掟(おきて)を持ちます。そして掟の存在は、必然的に共同体メンバーが掟に反したか否かの裁きを必要とします。そしてこの同じ共同体のメンバーを裁く権利と義務を担う能力があると認められた存在が「成人」なのです。
 確かに、社会の階級への分裂と国家の発生は、人が人を裁くという行為を一部の支配階級の専権とし、その目的も共同体の維持から支配階級の利益の擁護にねじ曲げてしまいました。だから、市民革命は国王や貴族から市民が裁判権を取り戻すことを大きな課題としたのです。陪審制度の導入はそのための手段でした。
 冤罪の多発という刑事手続の末期症状が表面化し支配の破綻が明らかになりつつある中で、今私たちに必要なのは、「人を裁かない信条」などという奴隷の思想をあおり立てて命脈のつきた支配体制の継続を願うのではなく、私たち市民が「裁く権利と義務」を奪い返し、自分自身で担うことなのです。
 そしてそれは、国王でも貴族でもなく同僚である市民に裁かれるという被告席の市民の当然の権利を実現するための、他の市民の絶対的な義務なのです。一人の市民の命と生活がかかっているのに、自分の時間や報酬の不満のみ強調するのは利己主義ではないでしょうか。

「どうせ」という敗北主義の強調

 別の出席者のIさんは、「現在の日本の刑事裁判の現状を見るとほぼ100%は有罪になります。被告人の命を奪う、一生を監獄に送る判決を下さざるを得ないわけで、心にいろんな傷が残ることは当然」「なんとかなるというような理由で参加していいとは思いません」と述べています。「素人の意見が反映される余地はない」「司法情報公開とか透明化とかは全く無理」とも繰り返しています。
 裁判員になってもどうせなにもできないのだからなるべきではない、Iさんは露骨に市民の無力さを強調し、敗北主義をあおり立てます。
 確かに、市民がそれほど無力であればみずから改革など求めず、国王など支配者が賢明で慈悲深くなることを神にでも祈っている方がましでしょう。しかし多くの革命の歴史は、市民が無力ではないことを示しています。
 市民が裁判員になるのは、そのことで自動的に「ほぼ100%の有罪」という現実が変わるからでも、「素人の意見が反映」するからでもありません。職業裁判官とその背後にいる支配階級に改革を強制するための手段に裁判員制度を転化するために、裁判所に乗り込むのです。
 「なんとかなる」ではなく「なんとかする」ためなのです。もし、日本の市民がそれを試みることもできないほど奴隷根性にまみれているなら、奴隷として徹底的に踏みにじられてもしかたありません。しかし、日本の市民は決してそうではないと私は確信しています。

政府反対を口実に「反動」を煽り組織化してはならない

 「裁判員制度はいらない!大運動」に対して、裁判員制度という政府の政策に反対するためでも、「迷惑だ」などの市民の反動的心情や市民蔑視をあおり、組織化すべきではないと、私は訴えてきました。残念ながら、記者会見は大運動がそうした私の危惧した方向に進んでいることをあらためて示しているようです。
 20世紀初頭、ロシアのレーニンは、徴兵制に関して“押し付けられた銃を投げ捨てるのは奴隷の思想であり、必要なのは銃口をツァー(皇帝)に向け、その銃を使って圧政を倒すこと”と訴えました。そしてロシアの人民は、まさにその訴えに応えてロシア革命を実現したのです。私たち日本の市民は、押し付けられた裁判員という銃を投げ捨て刑事手続の人権破壊的現状に屈する奴隷のままでいるのでしょうか、それを刑事手続の中で市民自身の人権を実現する手段と転化できるのでしょうか。
 少なくとも裁判員制度は、多くの市民の中に刑事手続の現状に対する関心と危惧を引き出しています。無関心と奴隷の思想をあおり立てることで、そうした関心と危惧を抑え込み、圧殺してはなりません。

 裁判員は迷惑という歪んだ利己的心情を煽るのは論外として、裁判員制度反対論の根拠はほぼ「公判前整理手続」批判に集中している。先日私が出席した集会のレジメにも裁判員制度の最大の問題としてこの手続があげられていた。
 不思議だ。公判前整理手続は裁判員制度・法の一部ではないし、手続が実施されるのも裁判員裁判だけではない。すでに実施されている手続だ。
 推進派と反対派双方で迷惑論が蔓延し、裁判員裁判を数日間で終了させることが当然とされているため、口実に裁判員制度が使われているが、手続導入の根拠と背景にあるのはそれだけではない。
 2003年施行の裁判迅速化法4条が、政府にそのための法制上の措置を義務づけ、その結果2005年に刑訴法変更によって導入されたのだ。最高裁の裁判迅速化検討会報告書は、この導入を「効率的かつ効果的な公判審理の実現を図るための手続的見直し」と位置づけている。
 裁判員制度と公判前整理手続は一体ではないし連動しているわけでもない。整理手続廃止のためには手続そのものへの反対運動が必要ではないだろうか。
 裁判員制度への批判抜きの反対運動と、公判前整理手続への反対運動抜きの批判は、腐敗した現状プラス整理手続という最悪の事態を生みかねない。

 6月28日深夜、朝日テレビ系の朝まで生テレビで「裁判員制度」がテーマになりました。
 当初は、現行の刑事手続が多くのえん罪を生み出していること、99.9%の有罪率などによって刑事裁判に対する市民の信頼が崩壊に直面している事実を参加者のほとんどが指摘していました。こうした議論を聞いて、裁判員制度に反対する論者たちは、裁判員制度の不十分性や現行の刑事裁判を改革する力がないことなどから裁判員制に反対し、陪審制の導入など徹底的な改革を求めているのではないかと期待を抱きました。
 しかし、残念ながら、議論が進むにつれて裁判員制度反対派の主張は、市民に対する不信と蔑視、前記のような現実をも無視して「職業裁判官を信頼すべきだ」という大合唱になっていきました。
 ある論者は、「死刑などがかかわる重大事件に市民をかかわらせるべきではない、プロの慎重な判断が必要だ。痴漢事件など日常的な事件から始めるべきだ」と主張しました。米国では、死刑が言い渡される場合には陪審員が量刑にもかかわるべきだという方向にすすんでいます。米国では、慎重な判断が必要だから市民がかかわるべきだと主張されているのです。日本の反対論者は、「慎重な判断が必要だから市民にやらせるな」というわけです。
 別の論者は「どしろうと」などと口汚く罵倒し、別の論者は「むりやり選ばれ、嫌々やってきたしろうとに死刑判決などまかせるな」…、こうして反対論者の主張は、「市民の迷惑だ」とか「市民の裁判は公平な裁判ではない」など「いらない」運動の主張を繰り返すものになっていきます。
 部分判決問題についても、「書面しか見ていない別の裁判員が判決を書くのは問題だ」と。では、現行はどうなのか。恵庭えん罪事件では、判決直前に交代した裁判官によってとんでもない判決が出されたのではないでしょうか。反対論者は言います。「裁判官はプロだから調書をしっかり読み込んで判決を書くから大丈夫だ。しろうとにそれができるのか」。彼・彼女らは調書裁判賛成、調書裁判こそが正しい裁判だという立場であることを自認したのです。
 結局、裁判員制度に反対する人びとは、職業裁判官というお上を信じる人びとなのです。当初自分たちも認めていた現行制度の問題性、職業裁判官の問題性はどこに消えたのでしょう。ある論者は言います。「確かにいろいろ問題もあるが、これまでの裁判が守ってきたものもある」
 残念ながら、裁判員制度不必要論には今後も反対し続けなければいけないようです。
 以上の記事は3:30までの議論のよって書いています。
 (なお、前記引用は私が聞き取ったもので、正確性を保証するものではありません。念のため明記しておきます)

「間接証拠」という犯人ねつ造手段

容疑者は双子のどちらか…の場合

 例えば…。
 殺人現場から逃げた犯人がある部屋に逃げ込みました。追いかけていた捜査官が踏み込んだところ、そこにはまったく同じ顔と服装をした男が二人。なんと容疑者は双子だったのです。事件の様子から二人が共犯とは考えられません。そうすると二人のうち一人は確実に殺人犯であり、もう一人はまったくの無実です。でも、どちらが犯人か直接に示す証拠はありません。
 こうした場合、中世の専制君主は二人とも処刑してしまうかもしれません。守るべきは君主とその支配秩序であり、そのためなら無実の臣民の命を奪ってもしょうがないと考えていたからです。
 近代以降の市民社会では無実の人間を処罰することは許されません。では、どちらか一人を処罰することは許されるでしょうか。近代刑事裁判のもっとも大切な原則である無罪推定の原則は、どちらも有罪として処罰することを許しません。ある市民を有罪とするためには、検察官が証拠に基づいてその容疑者が犯人であると立証したと、普通の市民が誰でも納得する必要がありますが、この場合、ある人々は双子のうちのAを犯人と考えるかもしれませんし、他の人々はBを犯人と考えるかもしれず、「誰でも」という条件が満たされないからです。その結果、二人とも無罪、つまり法律上は犯人ではないとみなされます。
 このように、無実の市民を不当に処罰しないためには確実に犯人を取り逃がすことになってもしかたないというのが、近代刑事裁判を貫く思想です。

犯人を野放しにできない…という思想

 ただ、こうした思想にすべての法律家が同意しているわけではありません。日本の職業裁判官のほとんどと法学者の多くは、次のように述べてこうした思想に反対し、無罪推定の原則をねじ曲げても「犯人を処罰すべきだ」と考えています。
 「殺人犯を野放しにしたら、他の市民が再び犠牲になるかもしれない、その社会的危険を考えたら、無実の人間を処罰する多少の危険は無視しても処罰の実現を目指すべきだ」
 もちろん、中世とは違い二人とも処罰するわけにはいきませんから、どちらか一人を選ばなければなりません。その時に使われるのが、彼らが「間接証拠」と称する証拠ならざる証拠による「間接証拠の積み重ねによる立証」です。
 Aは前科持ちだが、Bは品行方正だ。あるいは、Aは以前に被害者と喧嘩しているところを見られているが、Bはそうではない。Aは凶器と同じナイフを持っていたが、Bは持っているところを見られていない、などなど。
 「こうした事実を見るなら普通の市民なら誰でもAが犯人だと思うだろう。だから、Aを犯人としてもかまわない」
 これが彼らの論理です。しかし、こうした事実はAが殺人を犯したかどうかについては何も示していません。あるいは、まだ明らかではない理由でBが殺したのかもしれないのです。
 しかも、Bが真犯人であった場合、Aの断罪によって、Bは将来新たな証拠が出て自分が断罪されるのではないかという危惧からも完全に解放されます。これがより徹底した「犯人の野放し」でなくてなんでしょうか。財田川事件など死刑えん罪事件では、実際に犯罪を実行した者は「野放し」になっったままです。
 結局、彼らが求めているのは「犯人の処罰」などではなく、Aを犯人に仕立て上げることによって「犯人は処罰した」という虚構を作り上げ、揺らいだ支配秩序(社会秩序)は回復したという安全幻想を作り上げることなのです。

誰でも犯人と思う…というすり替え

 すべてのドアと窓に内側からカギをかけられた密室の中でCの死体が見つかり、室内には他にDしかいなかったら誰でもDが殺したと思うでしょう。
 では、Dがなぜ、どのように殺したかなど一切明らかにされなくても、「誰でも犯人と思う」ことでDを犯人と断定してしまっていいのでしょうか。
 Cは他殺に見せかけた自殺かもしれません。出入り手段が絶対になかったのか、発見された時に密室であったとしてもCが死んだ時に密室であったのか、犯人が出て行った後に施錠されたのではないか、そうした可能性を完全に否定することは困難でしょう。そうしたことが滅多ないことだとしても、今回のケースがその“滅多にないこと”ではないと証明されてはいません。
 無罪推定の原則の具体的適用である「合理的疑いを超えた立証」とは、誰もがDを犯人と思えば良いということではありません。検察が提出する証拠がDを犯人であると証明しているという点について、誰も合理的理由をあげて否定できないということなのです。
 前者を「D以外の者が犯人とは考えられない」という意味で消極的証明と名づけましょう。後者は「Dこそが犯人だ」という意味で積極的証明と名づけます。そして、「合理的疑いを超えた立証」とは、消極的証明だけでは足らず積極的証明を求めているのです。
 そもそも、消極的証明は、そのケースのすべての要素・可能性をチェックできるという非常に例外的な場合でのみ証明としての意味を持ち、それ以外では詭弁にすぎません。例えば、UFO(空飛ぶ円盤)実在論者は、ある写真を取り上げて「これは鳥ではなく、飛行機でもない…、だから他の星から来た宇宙船だ」と主張します。しかし、そうではないものをいくら並べようと、それが宇宙船だという証明にはなりません。
 同様に、犯人はEではない、Fではない…といくら並べようとDが犯人ということにはなりません。日本にいる一億数千万人、世界の数十億人すべてについてチェックすることはできないからです。

間接証拠で証明…正当化の手口

 以上から、「間接証拠」なるものをいくら積み重ねようと有罪立証にならないことは明らかだと思います。
 しかし、近年とくに和歌山毒カレーえん罪事件判決以降、検察が直接の証拠が何もないことを公言し「間接証拠の積み重ねで立証する」と宣言し、裁判所がそれを認めて有罪判決を出すケースが目立っています。
 こうした背景には、裁判所が安易に有罪判決を乱発してきたことから、捜査機関が証拠を収集する能力も意欲も低下させ、証拠のつじつま合わせやねつ造の能力も失った結果、そうした証拠によって組み立てられる「精密司法」が崩壊しているという現実があります。けれど、職業裁判官はそうした現実を生み出している、自らの無罪推定原則の放棄や有罪前提裁判を反省するどころか、証拠がなければ証拠なしに有罪判決を書く詭弁として「間接証拠の積み重ね」を積極的に認めてしまっているのです。
 和歌山毒カレーえん罪事件では、検察官が、「被告人は過去にヒ素を使った保険金殺人を試みたからカレーにもヒ素を入れたのに違いない」と主張したのに対し、小川育央裁判長は保険金殺人という計画的犯行とカレー事件の感情的犯行とがまったく異なるとしながら、「動機が不明なのは被告人の黙秘のため」と証拠がないことを被告人に責任転嫁し,被告人以外に犯人の可能性はないと述べて有罪判決を出しました。
 恵庭えん罪事件でも、遠藤和正判事は、犯行の時間も場所も手段も不明だが被告人以外に犯人の可能性はないという論理で有罪判決を出しています。
 まさに無罪推定の原則を建て前としても否定し、「飛行機でも鳥…でもないから宇宙船」と同様の詭弁で有罪判決を連発しているのが、「粗雑(ラフ)司法」ともいうべき職業裁判官による現在の刑事裁判です。
 そして、こうした「間接証拠」による有罪認定正当化の論理が、あらかじめ犯人の可能性のある人間集団を特定の小集団に限定し、その小集団のメンバーすべてをチェックしたが被告人以外に犯人の可能性はないというウソなのです。
 和歌山では、外から人が入ってくれば気がついたはずとして犯人は町民と決めつけました。恵庭では被害者の携帯が職場で見つかったことから犯人は職場の同僚と決めつけました。しかし、町は壁で囲まれているわけでも、職場にカギがかけられていたわけでもありません。本当に第三者の侵入が不可能なら空き巣被害などありえないでしょう。まさに、前提でウソをつくという詐欺師の手口が使われているのです。

誰を犯人と思うか…ではない

 詭弁に惑わされて「間接証拠」など証拠でもないものによる「立証」を認めてはなりません。
 もし検察が、「犯人はこの集団内にいる」と主張するなら集団外に犯人がいない厳密な証明を求めるべきです。そのようなことが可能だとは思いませんが…。
 また、被告人以外のその集団のメンバーすべてが犯人である可能性はないと検察が主張するならその厳密な証明も求める必要もあります。
 ある人びとが犯人ではないと立証するという困難でほとんど不可能な証明が、被告人が犯人であると立証するより容易であるという逆転した現実を生み出しているのは、職業裁判官の腐敗としかいえません。裁判員となったあなたがそうした腐敗に屈する必要はありませんし、屈してはならないのです。
 裁判員であるあなたに求められているのは、DEF…の誰を犯人と思うかではありません。Dが犯人であると積極的に立証されたかどうかの判断なのです。EF…は犯人ではないと思っても、だからDが犯人と考えては絶対にいけません。
 もし犯人探しを始め,誰か一人に決めようとすれば、証拠がなければ「間接証拠」にも頼りたくなります。ちょうど宝くじやギャンブルで、根拠のないジンクスなどに頼りたくなるように。でもそれは間違いです。あなたの役割は犯人探しではなく、検察官の立証のチェックであり、不当な断罪から被告人を守ることなのですから。
 残念ながら、職業裁判官のほとんどはそうは考えていません。検察官と同様に犯人を摘発し、断罪することが自分の職務だと思っています。だから評議の席ではおそらく、「だったら誰が犯人なのか」などと議論になるでしょう。しかし、あなたが職業裁判官のその犯人ねつ造の論理に屈してしまうなら、あなたが貴重な時間を割いて法廷にいる意味はありません。
 直接の証拠はないから誰が犯人かわからない、だから無罪、これがあなたの取るべき態度なのです。

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