
- >
- 政治
- >
- 政界と政治活動
- >
- その他政界と政治活動
裁判員制度を考える
[ リスト | 詳細 ]
裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
有罪の基準はなにか前回、私は、裁判員(本来は裁判官も)あらかじめ、被告人は無罪と思っていなければならない、無罪の予断を持たなければいけないと明らかにしました。(裁判員となる市民のあなたへ(1)/法廷で何をなすべきか)近代刑事裁判の最重要の原則である「無罪推定の原則」がそれを求めているからです。 説得の義務は検察官に刑事裁判とは、被告人は無罪と思い込んでいる裁判員(裁判官も)に対して、被告人は犯人と考える検察官が、様々な資料や関係者の発言(証拠・証言)を使って「被告人の有罪」を説得(立証)する手続ということができます。これに対して、被告人・弁護人が行う必要があるのは、検察官の説得のあらを探すことだけなのです。これを専門的には「検察官側に立証義務がある」と言います。 もし、裁判員があらかじめ「被告人は無実」と考えていなければ、被告人側も「私はやっていない」というほとんど不可能な説得(立証)を行わなければならなくなります。実は、被告人にそうした不可能な証明を要求していることが、現在の有罪率が限りなく100%に近くなっている理由なのです。 合理的疑いを超える証明では、検察官の説得がどこまで進んだ時に裁判員は判断を変えて「被告人は有罪」と考えても良くなるのでしょうか。これについても、近代刑事裁判では厳格な基準が定められています。専門的に言えば、「合理的疑いを超える証明」が行われた時とされています。 「合理的疑いを超える証明」についてまだ良心が残っていた時代の最高裁は次のように説明しています。 「通常人なら誰でも疑を差挾まない程度に真実らしいとの確信を得ること」(昭和23年8月5日、最高裁第一小法廷)
この判決は、証拠による事実認定だけでなく推測を認めているなど不十分なものですが、それでも現在の最高裁よりははるかに人権に配慮した判決です。しろうとが判断すべきこの判決にも書かれているように、有罪と考えを変えるためには第一に、特別の訓練も経験もない市民である「通常人」の判断が基準となります。だから、まさにあなたが納得するかどうかが大切なのです。専門性を振りかざす職業裁判官に判断を委ねては絶対にいけません。そこで、米国などではそうした市民の判断を求める陪審制が、被告人の権利として保障されています。それに対して陪審制を否定し、職業裁判官のような「専門的な訓練を受け」「職務上膨大な数の事件、犯罪を見て」経験を積んだ専門家のほうが「犯行の有無をより良く判断できる」(西野喜一『裁判員制度の正体』)と主張する日本の職業裁判官らは、「合理的疑いを超える証明」の根本を知らないか、意図的にねじ曲げようとしているのです。 有罪認定は全員一致で有罪と考えを変えるためには第二に、「誰でも」とあるように説得を受けた市民が全員納得しなければなりません。複数の人間の判断には当然幅があります。近代裁判制度は、説得された者がそのうちの過半数でも有罪にしてはいけないとしています。有罪判決は一人の市民から人生や生命すら奪う重大な行為ですからこのような非常に厳しい基準が必要なのです。米国の陪審制の評決が全員一致なのはこの原則のためです。 ですから、あなた以外の全員が説得され有罪に傾いたとしても、あなたが納得しなければあくまで無罪を主張しなければいけないのです。 残念ながら、有罪判決を求める自らの職務が困難になることを恐れた検察・行政や、人権を守るより犯罪取り締まりを自らの職務と曲解する職業裁判官・最高裁によって、裁判員制度ではこの原則はねじ曲げられ、評決は多数決とされてしまいました。しかし、誤った制度に抵抗することはできますし、しなければいけません。 一点の疑問もなくなるまで第三に、「疑いを差挟まない」とあるように、有罪と考えを変えるためには、あなたが説得に対して抱くすべての疑問に検察官が答えなければなりません。あなたに求められているのは、「真実の解明」でも実際に被告人が犯罪を行ったか否かを判断することでもありません。検察官の証拠にもとづく説得によって、検察官の有罪主張に一点の疑問もなくなった時に初めて、あなたは有罪へと考えを変えることが許されるのです。 この作業はちょうどスペースシャトルの打ち上げ前の点検作業のようなものかもしれません。膨大なチェックリストを第1ページから点検していき、最後まですべての項目にチェックがついた時、初めて打ち上げが許可されます。もし、打ち上げを優先してこの項目は安全に影響するとかしないとか判断し始めたらどうなるでしょう。チャレンジャーは打ち上げ時の気温が規定より 低かったのに責任者が安全には影響しないと判断した結果、空中爆発してしまいました。 裁判が結審した時、あなたの中の検事の有罪説得への疑問というチェックリストにすべて、検察官の立証で解消されたというチェックが入っていれば有罪と考えても許されますが、一つでもチェックのない項目があったら無罪判決を出さなければいけないのです。 |
|
「けんめい」さんという方から、「国民の参政権の典型は投票権ですが、投票したくなければやめる、つまり棄権が許されています。それに比べて国民の司法参加である裁判員制度は、裁判員になりたくない人に対しても半ば強制に近く、ハードルが高すぎではありませんか」という質問がありました。
{{http://blogs.yahoo.co.jp/felis_silvestris_catus/53250002.html#53441422}}一つの大切な論点ですので、ここで考えてみたいと思います。 なんで裁判員は強制にしなければならないのでしょう、やりたくなければ辞退を認めても良いのでは…やりたい人だけがやればいい…という考えをする方は多いようです。それなりに説得力があるからでしょう。
でも、裁判員になることだけに辞退を認めるというのは片手落ちではないでしょうか。刑事手続には、市民が強制されている主要なものがまだ2つあります。 一つは証人です。なんの得にもならないのに、検察や被告人が求めただけで法廷に引きずり出され、揚げ足取りのような質問に答えなければなりません。嘘をついたり、知っていることを隠したりすれば刑務所行きですから、言いたくないことも言わなければなりません。辞退はもとより認められません。しかも、被告人側に有利な証言などしようものなら、偽証罪という口実で逮捕される例も少なくありません。裁判員どころではなく、迷惑このうえないですね。 もっとひどいのが、被告人です。警察や検察が勝手に決めつけただけで突然強制的に自由を奪われ、法廷に引きづり出され、自分の無実を証明するために時間や金を使わされ、検察官と裁判官によってたかって犯人に仕立て上げられます。運良く無罪になっても失った時間も金も生活も戻ってきません。自由を奪われて働けなかった給料分の補償はあっても、被告人にさせられた苦痛などについての補償はなにもありません。 ですから、いっそ証人や被告人にも辞退を認めるというなら裁判員に辞退を認めてもバランスはとれるでしょう。でもそうしたら刑事手続や刑事裁判制度は崩壊してしまいますね。 被告人という過酷な犠牲を強制する市民の最低限の人権維持のために刑事手続というのは、社会の秩序を維持するという市民全体の利益のために一部の市民に被告人という非常に大きな不利益を強制する手続です。ですから、不利益を強制することで利益を得る市民の側も,被告人の権利を守るため最低限の犠牲を払うべきという考え方が生まれました。日本国憲法に「強制的手續により証人を求める權利」が明記されているのはそのためです。アメリカ合衆国憲法などに国家の官吏ではなく市民自身による裁判(陪審裁判)を受ける権利が明記されているのも同じことです。とくに死刑判決のような決定的な不利益を与える時には、量刑についても市民自身の判断つまり陪審員の評決によるべき、という考え方も米国では広がっているようです。 裁判員制度の根底には、そうした考えにたった陪審員制度があるため裁判員も強制となっているわけです。 そう考えると裁判員制度の最大の問題の一つが浮かび上がってきます。裁判員制度では、被告人に裁判員の裁判を辞退する権利が認められていません。日本の刑事手続と刑事裁判が、被告人=犯罪者という前提に立ち、「犯罪者には人権などない」という考えで行われている現実が、こうしたところにも現れているのです。 ですから、裁判員制度はできる限り早急に陪審制度に変えなければなりません。 |





