自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

裁判員制度を考える

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裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
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「犯人しか知りえない秘密」という虚構

 捜査官の追及に容疑者がついに口を開き、死体を埋めた場所を自白する。そして、警察官によって容疑者の述べた場所から被害者の死体が掘り出される。
 サスペンスドラマによくあるシーンですが、死体が自白した場所から発見されたという事実は容疑者が犯人である動かぬ証拠であるように思えます。
 では、前回述べたように原則的に自白を有罪の証拠としてはならないとしても、このような死体を埋めた場所などの自白は、どうなのでしょうか。
 職業裁判官や法律家のほとんどは有罪の証拠として良いと考えます。彼・彼女らはこうした自白を「犯人しか知りえない秘密の暴露」と呼び、犯人しか知ることができない→容疑者は知っていた→容疑者は犯人、という三段論法で有罪の決定的証拠と考えています。
 でも、これは正しいのでしょうか。

犯人も知っている事実

 被害者の死体の場所は、本当に犯人しか知ることができないのでしょうか。
 例えば私がペットの散歩をしていて偶然死体を発見する。ちなみに、我が家ではネコと散歩しますが…。その結果、私は死体の場所を知ることになります。また、殺人事件があったと考えた警察が、可能性のある場所を徹底的に捜索し、死体を発見することもあります。この場合は、捜査官が死体の場所を知ります。もちろん、偶然の発見者である私も捜査官も犯人ではありません。
 つまり、そもそも死体の場所は犯人でなければ知ることができないわけではありませんし、発見後はもはや「犯人しか知らない」事実ですらなく「犯人も知っている」事実にすぎません。
 こうしたことは、検察や職業裁判官がしばしば「知りえない秘密」と呼ぶ、凶器を捨てた場所とか事件現場の様子とか、すべてに言えることです。

知りえない事実は証拠にならない

 確かに「犯人しか知りえない秘密」もあります。
 例えば、火葬が終わった後、私が「故人は自然死ではなく私が首を絞めて殺した」と言い出したとします。それが事実であれば私は殺人犯ですが、灰になった遺体からそれを確かめる方法はありません。故人が本当に首を絞められたかどうかは、文字通り犯人である私しか「知りえない秘密」です。しかし、犯人以外に事実の真偽を知ることができないのではそれを私の有罪の証拠にはできません。
 知ることができるかどうかと知っているかどうかはまったく別なのです。

警察が知らなかったとの証明は不可能

 犯人しか知ることができないわけではないにしても、自白の時点でまだ死体は発見されておらず、その場所を犯人しか知らなかったならば、その自白は容疑者が犯人である証明とならないでしょうか。そんな反論が聞こえるようです。
 確かに、ある事実を犯人以外の者が誰一人知らない時点で、容疑者がその事実を自白したのなら、それは容疑者が犯人である証拠となるでしょう。
 しかし、それを主張するためには、自白の時点では犯人以外の者が知らなかったことを訴追者が証明しなければなりません。「自白」の場には容疑者以外に取調官もいますから、少なくとも取調官が知らなかったことを証明しなければなりませんが、それは可能でしょうか。
 一般にある事実が存在することの証明は可能ですが、存在しないことの証明はほぼ不可能です。このことは、UFOやネッシーの存在をめぐる議論などで私たちが痛感していることでしょう。とくに捜査経過が秘密にされ、その結果得られた捜査資料がすべて法廷に提出されるわけではない現行制度下では、取調官が何を知っており、何を知らなかったかを判断することは不可能です。
 実際の裁判では、取調べ警察官に「知らなかった」と証言させて証明できたことにしてしまうごまかしも行われています。しかし、被告人を有罪にしたい検察・警察側の者の「証言」が一方当事者の主張にすぎず、証拠とならないことは、被告人の「私はやっていない」という証言が無実の証拠とならないのと同様です。
 証人の証言には偽証罪による刑事罰があるから信用できるという主張もありますが、偽証罪の訴追を決めるのは検察です。ある検察幹部は、偽証罪とは検察側が把握している事実と異なることを証言することだとまで言い放っていますから、検察側の証人にそれが当てはまらないことは明らかです。
 結局、自白の内容を「犯人しか知らなかった秘密の暴露」と言い換えても、その自白を有罪の証拠とすることは、「無罪推定の原則」を無視し、証拠による事実認定の原則を否定することになってしまうのです。

警察による「知りえない秘密」のねつ造

 再審無罪判決で冤罪が明らかとなった多くの事件で、当初は冤罪被害者の自白に「犯人でなければ知りえない秘密」の暴露があったとされています。
 財田川事件では、容疑者が「被害者を二度突き刺した」と自白したので、捜査官があらためて解剖結果を調べ、そのとおりであると知ったとされています。
 島田事件では、容疑者の自白によって、凶器とされるコブシ大の石が事件現場から発見されたとされています。
 松山事件でも、容疑者の犯行現場の説明は正確だったとされています。
 ではなぜ、犯人ではない者がそうした事件に関することを自白できたのでしょうか。自白の場にいる捜査官がすでに知っていたことを容疑者の自白にねつ造したと考えるしかありません。
 自白の評価にあたって、捜査機関が知らなかったことの証明を検察側が行っていないことを理由に自白を証拠から排除するのではなく、知らなかったことの証明の困難さを口実にその証明抜きに自白を証拠として認めてしまったことが、これらの冤罪を生み出した主要な原因の一つなのです。
 したがって、「犯人しか知りえない秘密の暴露」なるものがあったと検察側が主張した場合には、単にそれが事実と合致しているかだけではなく、犯人以外に知っている者がいないことを検察が証拠により証明しているか、厳密に検討することが必要であり、それがなければ自白を証拠にしてはならないのです。

「知りえない」という詭弁

 単に「犯人は知っている」ないしは「犯人も知っている」にすぎない秘密を「犯人しか知りえない」と法律家が言い換える意味についても考えましょう。
 好意的に考えれば、犯人ではない市民は、自分自身の力のみでは事件の詳細について知る手段を持たず、知ることはできないから、知っていれば犯人という考え方なのかもしれません。
 でも、そうした発想には、事件の詳細を知ることができ、知っている捜査機関の存在が完全に欠落しています。
 その根底には、有罪判決を得るためには、有罪の証拠をねつ造したり、無実の証拠を隠匿・破壊しかねない警察・検察に対する警戒心の欠如と根拠のない信頼、そうしたねつ造と隠蔽が行われている現実に対する無関心が存在しているのです。それは、近代市民社会、民主主義社会の法律家としては絶対にあってはならない姿勢です。
 国家機関を無条件に信じてはならないからこそ、憲法や裁判官の独立があり、民主主義の諸手続と近代刑事裁判の諸原則があり、私たちは貴重な時間を割いて裁判員となるのです。
 率直に「犯人のみが知っている秘密」と述べた場合、当然本当に知っているのは犯人のみかという疑問が生じ、捜査機関に対する検証の必要性が誰にも感じられるでしょう。しかし、「犯人しか知りえない」と言い換えることで犯人以外の者の知る可能性を否定し、そうした検証の必要性を隠蔽してしまうのです。
 法律家が意識してか、無自覚に使っているのかはわかりませんが、こうした言葉のすり替えは詐欺師の手口と非難されてもしかたのないことでしょう。

「自白」をどう考えるか

 「キリストを殺したのは私です」
 私がこう言っても当然誰も信じません。人は事実と同様に容易に虚構も語れますから、人があること述べたとしてもそれが事実という根拠にはなりません。
 では、私が犯人という疑いを受けている時に、「私がやりました」と述べたからといって、それがなぜ私が犯人である証拠とされるのでしょうか。
 今回は、日本の刑事裁判で多くの冤罪を生み出してきた「自白(調書)」の取り扱いについて考えます。
 刑事裁判の目的は、無実の人間を罰しないこと、無実ではない者でも不当に過酷な処罰を与えないことです。犯罪者を罰するのは行政(検察・法務省)であり、司法の役割はその行政の暴走から市民を守ることだからです。
 そこで、裁判員は(職業裁判官も)「自分は犯罪者を断罪して社会を守る」などと決して考えるべきではありません。
 残念ながら日本の法曹界の多くが見失っている刑事裁判のこの原点を、まず思い出してください。

自白を証拠にしてはならない

 人権という思想のなかった中世フランスの刑事裁判では、自白はどのように扱われてきたのでしょうか。
 沢登佳人新潟大名誉教授によれば、フランス大革命前の刑事裁判においても、犯罪が行われたかどうかは証拠という客観的存在で証明しなければなりませんでした。被告が「殺した」と言っているだけでは、殺人があったとも、有罪にもできませんでした。証拠もなしに自白を求めることすらできませんでした。
 当時の刑事裁判では、市民を有罪にするために必要な証拠(物証や証言)の種類や数が法律で決められていました。そしてそれが完全にそろっていれば自白なしに有罪にできました。もし証拠が規定にわずかに足りなければ、その時初めて自白を求めることができ、自白が得られれば有罪を言い渡すことができました。
 当時でも、あくまで自白は証拠を補強する補助的な意味しかなかったのです。人びとが人の言葉の不確実性を知っていたからでしょう。日本の現行刑訴法301条に「自白は他の証拠を調べた後でなければ調べてはならない」とあるのは、自白は補助的にしか使ってはならないというそうした考えを受けついだものです。

犯人を作り上げて秩序維持ねらう日本

 しかし、江戸時代の日本には自白に対するそうした抑制はありませんでした。事実の解明より“お上”の権威維持を優先した当時の支配層は、市民をむりやり自白させ犯人に仕立て上げることで犯罪が解決したかのように装ったのです。
 犯人逮捕こそ犯罪抑制の最良の手段と考える捜査機関や裁判所によって、事実解明より、犯人をデッチあげても権威と秩序の維持を優先するそうしたやり方は、残念ながら現在も続いています。
 そしてそのためには自白ほど便利な手段はありません。密室の中で長時間よってたかって責め立てれば、誰にでもどのようなことも自白させられるからです。
 確かに、日本国憲法は自白だけで有罪にしてはならないと規定しています。
 ところが裁判所は、「だったら自白を補強する証拠があれば良い」と、自白を主、証拠を従とする逆転した論理で自白による犯人ねつ造を続けているのです。
 憲法は強制された自白を証拠にしてはならないとも規定しています。
 自由を奪われ、連日長時間の拷問的な取調べで自白を迫られることが強制でなくてなんでしょうか。
 ところが職業裁判官は、それは説得だなどと称して証拠にしています。
 こんな屁理屈で平然と人権を踏みにじっているのが現行の刑事裁判ですから、どうしても市民が直接乗り込んで刑事裁判を変えなければならないのです。

また聞きは証拠にならない

 現在の日本の刑事手続には、前節に述べた自白の証拠化という以上に大きな問題があります。
 それは、警察官や検察官が自白を聞いて記録したと称する報告書(「警察官・検察官面前調書」と言います)が、自白か、あるいはそれ以上に有力な証拠であるかのように扱われていることです。
 Aが「○○した」と言うのと、Bが「Aが『○○した』と言ったのを聞いた」と言うのではまったく異なります。ただでさえ不確実な言葉が、話した時の状況や態度などが不明な“また聞き”ではますます不確実になってしまいますし、Bによる誤解や意図的な歪曲も入り込みかねません。そこで、現行制度でも“また聞き”は原則として証拠にしてはならないと決められています。
 警察や検察が被告人を有罪にしたいと考えていることは当然ですから、警察や検察による“また聞き”には、被告人を有罪とするための意図的、無意識的な歪曲の危険が高いことは容易に予想されます。ですから、警察や検察が作成した自白調書は他の者の“また聞き”以上に証拠としてはならないはずです。

警察・検察の恣意的作文を自白にすり替え

 しかも、調書は被告人(被疑者)が語ったことを逐語的に記録したものでもありません。警察官や検察官が聞いたと称することを、被告人のモノローグのように恣意的、主観的に再構成したものです。
 したがって、自白調書(警察官・検察官面前調書)とは何らかの事実を示す証拠とは到底なりえないもので、「被告人がこう言っていた」という検察側の主張にしかすぎません。別の証拠によって証明しなければならない一方当事者の主張なのです。
 ところが、現行刑事訴訟法は、被告人が法廷で語ったことよりも、この警察官や検察官の主張にすぎない文書を証拠としてもかまわないと“また聞き”禁止の例外的にしているのです。
 戦後の刑事裁判が次から次へと冤罪を生み出し続けている原因は、まさに現行刑訴法のこうしたデタラメな規定にあります。
 裁判員は法律に従う義務があるとされていますが、良心に反する法律に従う必要がないこと、従ってはならないことは、法律を超越する普遍的原則として確立しています。しかも、刑訴法もさすがに証拠にしても良いとはしても証拠としなければならないとまでは言っていません。
 冒頭に述べた刑事裁判の目的に従うなら、職業裁判官や法律家がどのような屁理屈をこねようと警察や検察の主張にすぎない「自白調書」を絶対に証拠としてはいけないのです。

かつて「自白調書」は証拠でなかった

 では、こんなデタラメはいつから行われていたのでしょうか。少し意外に感じるかもしれませんが、警察や検察が作った“調書”が証拠として認められるようになったのは、新憲法によって人権保障が進んだとされる戦後からなのです。
 戦前には、警察や検察が作成した調書などは一切証拠として認められませんでした。そもそも、現行犯など例外的ケース以外では、警察や検察は逮捕も強制的な取調べもできず、一切の強制捜査も許されていませんでした。
 裁判である主張をしている者が、対立する相手の自由を奪って自分の主張を認めるよう、法廷外で責め立てることが許されるなら、裁判の公平さや立証責任など無意味になってしまうからです。
 金融業者が、借りてないという市民を事務所に閉じ込め、借用書に判をつくよう責め立てることが許され、その借用書が借金の証拠とされたらどんな社会になるか、想像してみてください。
 そこで戦前は、取調べなど強制捜査は中立とされる裁判所が行い、そこで得られた証拠は検察側にも被告人側にも同じように提供されました。被告人に対する尋問も特別の裁判官が行い、その結果は一問一答式の法律上の記録として残されました。予審制度といいます。
 ところが15年戦争の敗勢によって国内の混乱が激化し、刑事裁判でも事実解明より秩序維持が最優先課題となる中で、有罪判決を容易にするために、戦時特別法で警察・検察が恣意的に作った「自白調書」を証拠として認めることにしてしまったのです。
 ですから敗戦後には、戦時体制を解消して再び自白調書の証拠化を禁止すべきでした。ところが、戦後刑訴法は戦時体制をそのまま継続させたばかりか、予審制度を廃止し、一方の当事者にすぎない検察に強制捜査権を与えることで裁判の公正さすら放棄してしまったのです。

裁判の公正化、証拠による事実解明の復権のために

 裁判員制度開始を前に、警察は「自白調書」の全ページに被疑者の署名・捺印をとるとか、取調べの一部を録音・録画するとか言い出しています。
 職業裁判官と警察・検察のなれ合い裁判では、市民には当たり前のこの程度のことすら求められていなかったのです。現行刑事裁判が、いかに証拠による事実認定を軽視・無視してきたかを示している事実です。
 こうした現実から、裁判員となるあなたが行わなければならないことは、証拠による事実認定という原則や裁判の公正さを回復するために、警察・検察の一方的な主張であり、恣意的な文書にすぎない「自白調書」を証拠として絶対に認めないことです。
 認めて良い「自白」とは、公判廷にいるあなたの目の前で直接被告人が行った「自白」のみであり、しかもそれは物証を補強する補助的な証拠としてのみなのです。
 せめて中世フランスや戦前の日本程度の裁判の公正さを、現代日本の裁判でも実現するためにそれが最低限必要なことです。
 市民参加を、捜査機関の主張の追認の儀式にすぎず、冤罪を多発させている刑事裁判の現実を隠す“イチジクの葉”としないためには、裁判員となった市民は、被告席の市民の人権を守ることを第一に、これまでの警察・検察と職業裁判官のなれ合いによる誤ったやり方を改革していかなければなりません。

有罪の基準はなにか

 前回、私は、裁判員(本来は裁判官も)あらかじめ、被告人は無罪と思っていなければならない、無罪の予断を持たなければいけないと明らかにしました。(裁判員となる市民のあなたへ(1)/法廷で何をなすべきか)
 近代刑事裁判の最重要の原則である「無罪推定の原則」がそれを求めているからです。

説得の義務は検察官に

 刑事裁判とは、被告人は無罪と思い込んでいる裁判員(裁判官も)に対して、被告人は犯人と考える検察官が、様々な資料や関係者の発言(証拠・証言)を使って「被告人の有罪」を説得(立証)する手続ということができます。
 これに対して、被告人・弁護人が行う必要があるのは、検察官の説得のあらを探すことだけなのです。これを専門的には「検察官側に立証義務がある」と言います。
 もし、裁判員があらかじめ「被告人は無実」と考えていなければ、被告人側も「私はやっていない」というほとんど不可能な説得(立証)を行わなければならなくなります。実は、被告人にそうした不可能な証明を要求していることが、現在の有罪率が限りなく100%に近くなっている理由なのです。

合理的疑いを超える証明

 では、検察官の説得がどこまで進んだ時に裁判員は判断を変えて「被告人は有罪」と考えても良くなるのでしょうか。
 これについても、近代刑事裁判では厳格な基準が定められています。専門的に言えば、「合理的疑いを超える証明」が行われた時とされています。
 「合理的疑いを超える証明」についてまだ良心が残っていた時代の最高裁は次のように説明しています。
 「通常人なら誰でも疑を差挾まない程度に真実らしいとの確信を得ること」(昭和23年8月5日、最高裁第一小法廷)
 この判決は、証拠による事実認定だけでなく推測を認めているなど不十分なものですが、それでも現在の最高裁よりははるかに人権に配慮した判決です。

しろうとが判断すべき

 この判決にも書かれているように、有罪と考えを変えるためには第一に、特別の訓練も経験もない市民である「通常人」の判断が基準となります。だから、まさにあなたが納得するかどうかが大切なのです。専門性を振りかざす職業裁判官に判断を委ねては絶対にいけません。
 そこで、米国などではそうした市民の判断を求める陪審制が、被告人の権利として保障されています。それに対して陪審制を否定し、職業裁判官のような「専門的な訓練を受け」「職務上膨大な数の事件、犯罪を見て」経験を積んだ専門家のほうが「犯行の有無をより良く判断できる」(西野喜一『裁判員制度の正体』)と主張する日本の職業裁判官らは、「合理的疑いを超える証明」の根本を知らないか、意図的にねじ曲げようとしているのです。

有罪認定は全員一致で

 有罪と考えを変えるためには第二に、「誰でも」とあるように説得を受けた市民が全員納得しなければなりません。
 複数の人間の判断には当然幅があります。近代裁判制度は、説得された者がそのうちの過半数でも有罪にしてはいけないとしています。有罪判決は一人の市民から人生や生命すら奪う重大な行為ですからこのような非常に厳しい基準が必要なのです。米国の陪審制の評決が全員一致なのはこの原則のためです。
 ですから、あなた以外の全員が説得され有罪に傾いたとしても、あなたが納得しなければあくまで無罪を主張しなければいけないのです。
 残念ながら、有罪判決を求める自らの職務が困難になることを恐れた検察・行政や、人権を守るより犯罪取り締まりを自らの職務と曲解する職業裁判官・最高裁によって、裁判員制度ではこの原則はねじ曲げられ、評決は多数決とされてしまいました。しかし、誤った制度に抵抗することはできますし、しなければいけません。

一点の疑問もなくなるまで

 第三に、「疑いを差挟まない」とあるように、有罪と考えを変えるためには、あなたが説得に対して抱くすべての疑問に検察官が答えなければなりません。
 あなたに求められているのは、「真実の解明」でも実際に被告人が犯罪を行ったか否かを判断することでもありません。検察官の証拠にもとづく説得によって、検察官の有罪主張に一点の疑問もなくなった時に初めて、あなたは有罪へと考えを変えることが許されるのです。
 この作業はちょうどスペースシャトルの打ち上げ前の点検作業のようなものかもしれません。膨大なチェックリストを第1ページから点検していき、最後まですべての項目にチェックがついた時、初めて打ち上げが許可されます。もし、打ち上げを優先してこの項目は安全に影響するとかしないとか判断し始めたらどうなるでしょう。チャレンジャーは打ち上げ時の気温が規定より 低かったのに責任者が安全には影響しないと判断した結果、空中爆発してしまいました。
 裁判が結審した時、あなたの中の検事の有罪説得への疑問というチェックリストにすべて、検察官の立証で解消されたというチェックが入っていれば有罪と考えても許されますが、一つでもチェックのない項目があったら無罪判決を出さなければいけないのです。

法廷で何をなすべきか

 裁判員法についての解説書や批判・反対の書籍は数多くあります。しかし、そうした書籍のほとんどが、真っ向から検討することを避けている問題があります。それは、裁判員となった市民は、法廷で何をするよう期待されているのかという問題です。
 健全な社会常識の導入を主張する推進派もその常識で何をすべきかを語りませんし、反対派も裁判員はなにをすべき存在かについては避けて通っています。
 裁判員だけでなく職業裁判官にも当てはまるこの問題を正面から語ることは、推進派も反対派も無視する日本の現行刑事手続の根本的腐敗と法曹界の堕落を表面化してしまうからかもしれません。

被告人の解放のために

 裁判員は、人(被告人である市民)を裁くために法廷に行くのではありませんし、行ってはなりません。裁判員は、政府・訴追機関によっていわれのない犯罪者の言いがかりをつけられ、被告人の地位に縛り付けられている市民を、その地位から解放するために法廷に行くのです。
 近代刑事裁判制度の最も重要な原則である「無罪推定の原則」がそれを求めていますし、刑事手続における刑事裁判の位置と役割、刑事裁判における裁判官・裁判員の役割がそれを求めているからです。
 本来は職業裁判官も同様の役割を果たすことを求められているのですが、「犯罪被害者の悔しさを代弁する」という裁判官までいる始末で、残念ながら職業裁判官にそれを期待することはできません。またほとんどの法学者も、「予断排除」と称して裁判官があらかじめ被告人を有罪と考えないことが必要とするだけで、無罪という“予断”を持つべきとは言いません。そこでいま、市民が直接に法廷に乗り込み、その役割を果たすことがどうしても必要となっているのです。

無実の証明は不可能

 近代市民社会ではなぜ「無罪推定」が刑事裁判の原則とされるのでしょうか。それは、市民が自分の無実を証明することがほぼ不可能でだからです。
 例えば手近の新聞やニュースサイトを開いて、そこに掲載されているすべての事件で、自分が犯人ではないと証明できるか検討してみて下さい。
 そんな犯罪をする動機がないといっても、和歌山毒カレー冤罪事件では動機の解明は必要ないという有罪判決がでています。運良く事件発生時刻のアリバイを証言してくれる友人がいても、友人は自分が犯罪者とされてもその証言を維持してくれるでしょうか。甲山冤罪事件では被告人のアリバイを証言した職場の上司や同僚は偽証罪を口実に逮捕・起訴されています。
 たまたま、アリバイを証明するものがあっても、警察に押収されれば松川事件の諏訪メモのように隠されるか、「誤って」は破棄され、紛失してしまいます。それが今の日本の刑事手続の現実です。
 「無罪推定」の原則がなければ、すべての市民はいつ自分が犯人に仕立て上げられるか、おびえて生きなければなりません。

無罪推定とは無罪という予断を持つこと

 では、「無罪推定」とはどういうことでしょうか。
 法律の世界では、「推定する」というのは、単に仮定するということではありません。『法律類語難語辞典』(有斐閣1998年)には、
「一定の事項につき他の事項をこれと同一視して、その一定の事項に関して生じる法律効果を他の事項に関しても生じさせる」
と書かれています。
 つまり、「無罪推定の原則」とは、法律手続において、被告人は無実の人間として考え、扱われなければならないということなのです。
 無実の人間が自由を奪われ、刑罰の危険にさらされているのは不当ですから、裁判官・裁判員の役割は、無実の市民を一刻も早く被告人の地位から解放することなのです。
 ただ、「推定する」では、反証は許されるとされています。つまり、検察官の立証によって「どう考えても言いがかりではないようだ」と裁判官・裁判員が考えを変え、有罪判決を出すことは許されます。しかし、そうした新たな確信が生まれるまでは、裁判官・裁判員はあくまで「被告人は無実」と考えていなければいけないのです。

刑罰権を規制するための裁判

 次に、刑事裁判はなぜ、犯罪者を断罪するのではなく、国家が犯罪者を断罪する刑罰権発動を規制する役割を果たさなければならないのでしょうか。
 そのことを明らかにするためには、まず裁判とは何か、簡単に考えておきましょう。
 ヒトは、生きるために群れを作る動物です。そして人間の群れ・共同体の形成は、自ずから共同体全体の利害とメンバーの利害の矛盾、メンバーの間の利害の対立を生じさせ、それを調整するための掟(おきて)とそれを強制するシステムを生み出します。これが法律と法システムの出発点です。
 利害調整が目的で、決して一方的な処罰が目的ではありませんし、その担い手も特別な存在ではなく共同体の一般メンバーでした。こうしたシステムは、最近まで残っていました。農村・都市共同体における寄り合いなどです。
 ところが、共同体が支配する者と支配される者に分裂し国家が発生すると、共同体とメンバーの矛盾は支配する者と支配される者の間の解決不能の対立に変化してしまいます。その結果、共同体とメンバー間の利害調整システムである刑事手続も、話し合いと和解から支配を維持するための威嚇と抑圧のシステムに変化します。そうしたシステムでは「疑わしきは罰する」が基準となり、無実を証明することが疑われた市民の義務となります。万一ひとりの反逆者でも取り逃がしたら支配が転覆されかねないからです。
 1789年、パリの市民は圧政の象徴であるバスティーユ監獄への襲撃によってそうした圧政を打倒するフランス革命を開始しました。近代裁判制度の諸原則は、このバスティーユ襲撃者とその後継者によって形成され、その最も重要な目的は圧政の基盤である支配者による恣意的な処罰を防ぐことなのです。

支配体制からの裁判官の独立

 こうした目的を実現するために、近代の裁判システムは制度的にもいくつかの特徴を持っています。
 その最も重要な一つは、刑事手続における訴追と裁判の分離、検察官と裁判官の分離です。別の言い方をすれば、犯罪者の断罪によって共同体秩序・支配秩序を維持する目的を持つ刑事手続の中で、刑事裁判は刑事手続それ自体とは別の目的、つまり刑事手続の暴走や恣意的運用を規制する歯止めとしての役割を期待されているのです。
 そしてそれを支えるためのもうひとつの特徴が、刑事裁判の主体である裁判官(裁判員)が、秩序維持を追求する政府や司法制度からの独立を保障されていることなのです。
 しかし、政府・検察官と一体になって、犯罪者の断罪と支配秩序の維持こそが刑事裁判の目的と考える日本の職業裁判官のほとんどは、裁判官の独立の意味を考えることもその必要性を実感することもありません。せいぜい自らの無責任さを正当化する口実にするだけです。それが、一方で最高裁などの干渉には唯々諾々と従う一方、市民からの批判には裁判官独立を口実に居直るヒラメ裁判官を生み出している原因なのです。
 だからこそ、裁判員となる市民は、人事や司法統制などを通じては政府や最高裁の干渉を受けることがないという有利さを基礎に、裁判員制度の大きな欠陥である職業裁判官の評決拒否権や法律解釈という口実の統制権に屈することなく、政府の刑罰権の規制という刑事裁判の本来の役割を実現するために裁判所に乗り込んでいかなければなりません。

 裁判員となったあなたが、法廷ですべきことは、被告人の断罪ではなく、被告席の市民に犯罪者と「言いがかり」をつけている検察官(政府)を裁くことなのです。
「けんめい」さんという方から、「国民の参政権の典型は投票権ですが、投票したくなければやめる、つまり棄権が許されています。それに比べて国民の司法参加である裁判員制度は、裁判員になりたくない人に対しても半ば強制に近く、ハードルが高すぎではありませんか」という質問がありました。
 一つの大切な論点ですので、ここで考えてみたいと思います。
{{http://blogs.yahoo.co.jp/felis_silvestris_catus/53250002.html#53441422}}

 なんで裁判員は強制にしなければならないのでしょう、やりたくなければ辞退を認めても良いのでは…やりたい人だけがやればいい…という考えをする方は多いようです。それなりに説得力があるからでしょう。
 でも、裁判員になることだけに辞退を認めるというのは片手落ちではないでしょうか。刑事手続には、市民が強制されている主要なものがまだ2つあります。
 一つは証人です。なんの得にもならないのに、検察や被告人が求めただけで法廷に引きずり出され、揚げ足取りのような質問に答えなければなりません。嘘をついたり、知っていることを隠したりすれば刑務所行きですから、言いたくないことも言わなければなりません。辞退はもとより認められません。しかも、被告人側に有利な証言などしようものなら、偽証罪という口実で逮捕される例も少なくありません。裁判員どころではなく、迷惑このうえないですね。
 もっとひどいのが、被告人です。警察や検察が勝手に決めつけただけで突然強制的に自由を奪われ、法廷に引きづり出され、自分の無実を証明するために時間や金を使わされ、検察官と裁判官によってたかって犯人に仕立て上げられます。運良く無罪になっても失った時間も金も生活も戻ってきません。自由を奪われて働けなかった給料分の補償はあっても、被告人にさせられた苦痛などについての補償はなにもありません。
 ですから、いっそ証人や被告人にも辞退を認めるというなら裁判員に辞退を認めてもバランスはとれるでしょう。でもそうしたら刑事手続や刑事裁判制度は崩壊してしまいますね。

被告人という過酷な犠牲を強制する市民の最低限の人権維持のために

 刑事手続というのは、社会の秩序を維持するという市民全体の利益のために一部の市民に被告人という非常に大きな不利益を強制する手続です。ですから、不利益を強制することで利益を得る市民の側も,被告人の権利を守るため最低限の犠牲を払うべきという考え方が生まれました。
 日本国憲法に「強制的手續により証人を求める權利」が明記されているのはそのためです。アメリカ合衆国憲法などに国家の官吏ではなく市民自身による裁判(陪審裁判)を受ける権利が明記されているのも同じことです。とくに死刑判決のような決定的な不利益を与える時には、量刑についても市民自身の判断つまり陪審員の評決によるべき、という考え方も米国では広がっているようです。
 裁判員制度の根底には、そうした考えにたった陪審員制度があるため裁判員も強制となっているわけです。
 そう考えると裁判員制度の最大の問題の一つが浮かび上がってきます。裁判員制度では、被告人に裁判員の裁判を辞退する権利が認められていません。日本の刑事手続と刑事裁判が、被告人=犯罪者という前提に立ち、「犯罪者には人権などない」という考えで行われている現実が、こうしたところにも現れているのです。
 ですから、裁判員制度はできる限り早急に陪審制度に変えなければなりません。

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