自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

裁判員制度を考える

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裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
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 「ブログ時評」というブログの「裁判員制度は混乱必至でも開始すべきか[ブログ時評89]」という記事に、私のブログの「裁判員制度はひとまず実現されるしかない」という記事の一部が引用されています。
 この「裁判員制度は混乱必至でも開始すべきか」という記事には、それ以外にも裁判員制度について述べたいくつかの記事が引用・紹介されています。それを読むと、裁判員制度に対する市民の主要な危惧は裁判員が無実の市民を有罪にしてしまうのではないか、冤罪を多発させるのではないかというところにあるようです。
 「『裁判員制度』…とつぜん生活崩壊の予感」(dr.stoneflyの戯れ言)は、「だいたい多くの感情は犯人憎しってことだ。もちろんワタシだってそうさ。殺してやりたいほどの裁判に当たるかもしれない。でもね裁判ってのはそれを乗り越え理性でしなきゃなんないだろ」と述べています。まさにその通りです。

 では、現行の刑事裁判を行っている職業裁判官はどのように考えているでしょうか。
 職業裁判官は、「有罪判決の時とは異なり、無罪判決を書こうとする時は、『本当に無実なのか、間違って犯人を野放しにすることになるのではないか』と最低数日間は悩む」ということを、裁判官経験者から聞いたことがあります。
 元裁判官の西野喜一氏は、その著書『裁判員制度の正体』の中で、「(裁判員制度は)構造的に無罪が出やすい」から、「不当に被告人に有利になる」と裁判員制度反対の理由を述べています。
 ある弁護士は、自らが関係した交通事故をめぐる事件で、裁判官が「ちゃんとした証拠を出さないからこのままでは被告人に有利になる」と検察官を叱責した事実を紹介し、「証拠がなければ無罪にすれば良い」と自分の感想を述べています。
 こうした事実や多数の冤罪の存在は、職業裁判官の多くが、無実の市民を誤って有罪にしてしまうよりも、犯人を無罪にして野放しにしてしまうことを恐れていることを示しています。

 「一人の無実の人間を冤罪から救うためには10人の犯罪者を取り逃がしてもしょうがない」という趣旨の言葉があります。この言葉は日本の法曹界ではブラックジョークでしかありません。この言葉を前提に自らの論を立てる法学者はほぼいませんし、仮にそんなことをすれば法曹界でつまはじきになることは間違いありません。また、ほとんどの職業裁判官はこの言葉を嘲笑するだけですし、そうでなければ左遷され、任官拒否されてしまいます。
 しかし、この言葉を真剣に受け止め、自分にはそれができるだろうかと危惧しているのが多くの市民です。

 冤罪を恐れるあまり真犯人も無罪にしかねない市民と、犯人を野放しにすることを恐れるあまり無実の市民も有罪にしている職業裁判官とどちらが刑事裁判を行うのにふさわしいか、まさにこの考え方の違いが裁判員制度を選ぶのか、現行刑事裁判制度を選ぶのかの岐路です。
 自分や市民では冤罪を防げないのではないかと危惧するあまり、冤罪を生み出すことになんの危惧も持たず、実際に多くの冤罪を生み出し続けている職業裁判官に刑事裁判を委ね続けようというのは、はたして理性的な判断と言えるのでしょうか。
 あるいはそうした市民の危惧を利用し、職業裁判官による裁判の方が冤罪を防げるかのようなウソをまき散らして裁判員制度反対をあおることは誠実な態度と言えるのでしょうか。
 もしあなたが、「自分は政治的、社会的意見を持つべきではないし、持つつもりもない」、というのならこの文章を読む必要はありません。
 また、あなたが今の政府になんの問題もない、あるいは今の刑事手続は健全で裁判官は犯罪者撲滅のために活躍している、諸外国のような「無罪推定」などという考えこそ犯罪者を擁護する間違いだと考えているなら、この文章を読む必要はあまりないでしょう。
 でも、そうでなければ少しの時間を割いて考えてみて下さい。できれば電卓を用意して…。

ボイコットの意味するもの

 今でもまれに選挙のボイコットを訴える人たちがいます。ボイコットにはどういう意味があるのでしょうか。具体的に考えてみましょう。
 仮にあなたが選挙区の少数派野党を支持しているとします。どうせ自分が投票してもあなたの支持する候補が当選するわけはないと考えて、ボイコットの呼びかけに応じるとどうなるでしょう。
 仮に選挙区の有権者が100人いて、与党と野党2人の候補がたっているとします。
 100人全員が投票するとすれば、当選するためには過半数の51人つまり51%の支持を得る必要があります。
 あなたが野党候補に投票すれば、与党候補が当選するためには残り99人中51人の支持をえなければなりませんから、必要な支持率は51.52%にあがります。野党候補へのあなたの投票は、与党候補の当選を阻止できなかったとしてもそれを困難にさせる効果はあるのです。
 ではあなたが棄権するとどうなるでしょう。
 与党候補の必要な支持率は、99人中50人つまり50.5%に下がります。つまり、選挙に棄権するということは、あなたが与党候補に投票するのと同じような効果を持つのです。
 これは与党支持であっても同じです。選挙ボイコットとは、自分が支持しない側の候補に投票するということなのです。

なぜボイコットを訴えるのか

 ではなぜ、ボイコットを訴える人が登場するのでしょうか。
 投票用紙ではなく武器を取って直接政府を倒さなければならないような例外的な緊急事態ではないとすれば、彼らはあなたの考えを否定し、抹殺したいと望んでいるからです。市民が政治的意見を持ち、選挙で表明すること自体に反対しているか、人をだましてでも与党を勝たせたいと考えているからです。
 野党を支持するあなたに与党への投票を強制することはできません。そこで自分自身も野党支持であるかのように偽って登場し、「投票することは与党政治を正当化することになる」とか「与党の支配に取り込まれる」、あるいは「選挙制度には問題がある」などという詭弁を振りまいて、あなたの野党への投票を防ぎ、実質的に与党に投票させようとします。
 あなたに選挙のボイコットを訴える人がいるなら、口先でどれほどあなたなの考えに同調していても、彼らはあなたの考えに反対し対立する存在なのです。これはあなたが与党支持であっても変わりません。

「裁判員は迷惑」論の意味

 いま、裁判員制度導入をめぐって「裁判員は迷惑」と声高に訴えている人びとがいます。彼らは、「迷惑」論によって裁判員制度導入に反対するだけでなく、導入されたとしても裁判員をボイコットするように訴えます。彼らの一人である西野喜一氏の著書では、ボイコットの方法すら紹介されています。
 「迷惑」論は裁判員制度批判ではありません。制度の中身には一歩も踏み込んでいません。では「迷惑」論とはどのような主張なのでしょうか。
 仮に、あなたが人を有罪にするためには、現在の職業裁判官より厳しい条件の立証が必要だと考えているとしましょう。
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 もし裁判員の多数があなたと同じ考えなら、職業裁判官がどれほど抵抗しようとそのより厳しい基準が有罪認定の基準となります。「理由を示さない忌避」という制度があっても、忌避される8人を含めて14人中の9人がより厳しい認定基準を持っていれば、9人の中の4人が検察官に忌避されたとしても被告人側が9人の中の人間を忌避するはずはないので、厳密立証必要派が5人残ります。この人数は裁判官と裁判員合計9人中の多数です。つまり市民14人中9人、65%弱がより厳しい認定基準を持っていればそれが新たな基準になるということです。

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 さて、もしあなたが裁判員になることを拒否したとしましょう。そうすると、あなたを含めた15人中10人が厳密立証必要派の場合にのみ、あなたが抜けた後の14人の内訳が前節と同じになり、必要な割合は66.7%になります。
 つまり、あなたが裁判員制度をボイコットするということは、あなたが必要と考える“より厳しい認定基準”の実現をより困難にするということです。
 簡単に言えば、あなたが裁判員になることが原因で無実の人間が有罪になることは原理的にありえませんが、あなたが冤罪を防ぐのに必要な最後の一人になることはおおいにありえます。したがって、あなたが裁判員を拒否することが原因で無実の市民が有罪となってしまう可能性もおおいにあるのです。
 「迷惑」論とは、市民が刑事裁判について何らかの意見を持ち、刑事裁判がその意見に少しでも左右されることに反対するために、詭弁で市民を刑事裁判から排除しようとする主張なのです。これは裁判員制度に賛成、反対にかかわりません。

救援運動、再審運動停止を求める「迷惑」論

 現行刑事手続は多くの冤罪を生み出しています。志布志事件や富山の事件のように、裁判所が冤罪と認めた事件だけが冤罪ではありません。袴田さんの事件、名張毒ぶどう酒事件、ゴビンダさんの事件、恵庭冤罪事件、東住吉事件、守大助さんの事件、和歌山カレー事件など膨大なケースで、市民が被告人や元被告人を無実だと考え、再審を求めて行動しています。
 市民が職業裁判官の判決を無批判に受け入れるのではなく、自ら判断し判決を批判し、その撤回のために行動する、こうした救援運動、再審運動に反対し、その運動が刑事裁判の結果を左右することに反対するのが「迷惑」論です。
 もし、袴田さんの再審を求めている市民に対して裁判員のボイコットを訴える人がいるなら、その人物が口先でなんと言おうとその人は袴田さんの再審に反対する存在です。確かに袴田さんの再審自体は左右できないかもしれません、しかし、袴田再審運動を行っている市民が裁判員になることによって第2の袴田冤罪事件の発生する可能性を低くすることは可能です。そして、再審求めている市民が裁判員をボイコットすれば、これまで見てきたように第2の袴田冤罪事件発生の可能性を高めます。
 冤罪に批判的なあなたが裁判員になるのを拒否することは、冤罪で有罪になっても私は関係ないと被告人を見捨て、自らの思想を裏切ることです。そして、「迷惑」論はあなたにそれを要求する主張です。
 「迷惑」論とは、刑事手続について、職業裁判官による冤罪を容認し、権力・職業裁判官に無条件・無批判で従う奴隷となることを、市民に求める主張なのです。

官僚裁判官の反市民的正体

− 西野喜一著『裁判員制度の正体』 −

「いらない!大運動」の思想的柱

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 西野喜一元判事の書いた『裁判員制度の正体』は、その一文一文が、怒りなしには読めない反動的著作です。
 しかし、この本は、選民思想に凝り固まった夜郎自大的な右翼的人物が、反動的信条を書きなぐっただけの、無視して良い著作ではありません。“裁判員制度はいらない!大運動”という一つの市民運動が、この本を自らの主張に沿ったものとして推薦しているからです。
 昨年、ある大学の裁判員制度反対集会で、“いらない!大運動”を代表して発言したN弁護士は、裁判員制度に反対すべき理由を示す書籍の一つとして本書を推薦しました。これまで人権を重視してきた彼がなぜ、このような反動的著作を推薦するのかという私の質問に,残念ながらN弁護士の明確な答えはありませんでした。
 ともかく“いらない!大運動”は本書を推薦しています。「信号も守れない市民」などという主観的な言辞を集めた高山弁護士の著作とは異なり、本書は、“刑事裁判は国家・支配体制に奉仕すべき”という明確なイデオロギーに支えられがゆえに“いらない!大運動”の思想的柱となっている可能性もあるのです。

権力に屈服して市民を敵視する「ヒラメ」判事

 では、著者の西野元判事とはどのような人物でしょうか。
 西野氏は次のように言います。
 「ある判決が上級審で破棄されれば、その判決を見て、自分の判決の不備を確認する」(同書p.7)
 西野氏は、上級審での破棄を見解の相違と考えず、自己の「判決の不備」として反省し、次は上級審の意向に沿う判決を書こうするのです。
 そこには裁判官の独立の気概も法と良心のみに従うという信念もなく、上級審・最高裁の顔色を汲々とうかがう「ヒラメ判事」の姿しかありません。
 その一方で、「裁判官全員が有罪を確信しても」裁判員の反対で「無罪判決を言い渡さなければならない」のは、裁判官の独立に反すると主張します。(p.86)
 市民から独立した国家とは専制にほかなりません。西野氏は、裁判官の独立を、専制から民主主義を守る手段ではなく、専制を正当化する手段に逆転させているのです。

刑事裁判は支配体制に奉仕すべき

 西野氏は、徴兵制に絡めて「裁判員制度を実行しようという発想の根拠には、国民はもっと国のために奉仕すべきだという思想がある」(p.186)と述べます。
 西野氏にとって、裁判官や裁判員は「国家・支配体制に奉仕する」存在であって、市民の人権を守るために国家・支配体制(の刑罰権発動)を規制するための存在ではありません。
 彼には、刑事裁判とは、「悪いやつに処罰を与える」(p.140)場、裁判官が検察官と一体となって、被害者の無念を晴らすため犯人を罰する場なのです。
 裁判員制度は「被告人に不利益」にも「被告人が不当に有利」(p.84-85)にもなると、被告人に有利になることをより警戒するのが西野氏なのです。

「健全な社会常識」基準を主張

 被告人に対する「無罪推定」の原則など一顧もされません。その結果、有罪認定基準も大幅に緩和されます。
 西野氏は、「いままでの刑事裁判は『健全な社会常識』に反するものであったのか」(p.17)、「裁判員法は、普通の国民には『健全な社会常識』があるが、裁判官にはないと言っている」(p.21)と述べています。
 すでに、私は、「合理的疑いを超える証明」についての「通常人なら誰でも…」から「健全な社会常識」への転換が、有罪認定基準の大幅緩和であると指摘してきました。西野氏は最高裁の判例変更に先立って、「健全な社会常識」を認定基準とすることを主張していたのです。
有罪認定基準を大幅緩和・削除した最高裁新判例

誤判・えん罪を否定

 西野氏は、財田川事件など死刑再審4事件を取り上げ、「当時の裁判官は当時の証拠にもとづいて有罪と判断し」、「後に新たな証拠が出てきて無罪になった」(p.70)だけと誤判を否定します。
 しかも、冤罪の原因は「代用監獄制度…自白偏重の取調べなど、裁判所外の事情による」(p.71)と捜査機関に責任を転嫁します。しかし、代用監獄での勾留を認め、自白(調書)を偏重して調書裁判を進めてきたのは、まさに西野氏を含む職業裁判官ではなかったのでしょうか。

「裁判員制度は無実を増やす」

 刑事裁判とは効率的に有罪判決を出すことで国家に奉仕し、支配秩序を維持することと考える西野氏にとって、裁判員制度はそうした職業裁判官の職務を妨害するがゆえに許しがたいのです。
 具体的には、第1に裁判員制度では99%を超える有罪率の維持が困難になるという危惧です。
 「(裁判員制度は)構造的に無罪が出やすい」から、これまでは「自白していたような被告人でも…無罪を主張するようになる」(p.155)。せっかく拷問的取調べで「自白」に追い込んだ被告人が、裁判員裁判での雪冤に期待して無実を訴えられたのでは、効率的に刑務所に放り込めないと悲鳴をあげているのです。

「被害者参加に逆行」

 「被害者としての立場を訴えることができるという意見陳述の制度」ができたのに、「被害者が法廷で思いのほどを訴えるというこの貴重な時間が制約されてしまう」(p.139)とも述べています。
 せっかく被害者を動員して被告人のつるし上げができると期待したのに、裁判員制度がそれを制限するのは許せないというのです。これが西野氏が反対する第2の理由です。

「調書裁判の後退」

 「『精密司法』と呼ばれる現行の丁寧で時間をかけた審理」(p.84)。「たとえばA4用紙1枚を渡せば即座に、しかも正確に伝わることを…当事者による交互尋問形式の証人尋問でやるとすれば…伝えられた情報の正確性もきわめて疑問…時間的にも1時間あっても足りるかどうか疑問」「検察側の立証は比較的短時間で済むものがあったのは、捜査段階で収集した証拠、資料を調書、文書の形にして、それを提出していたから」「裁判官は…その書類をくりかえし熟読して心証を形成する」(p.158)と、西野氏は多くの冤罪を生み出した元凶である調書裁判を賛美し,実践してきました。
 そこで、「書面審理を排して証人尋問中心の公判主義、直接主義にすると、参加する国民に大きな負担、制約を負わせる」(p.89)と調書裁判が維持できないという理由で裁判員制度に反対します。
 他にも本書には批判すべき点が膨大にありますが、紙数の関係で今回はここで止めなければなりません。

裁判員制度阻止のためなら…

 最後に、「本書出版にさまざまに尽力して下さった弁護士の高山俊吉先生」(p.232)と、西野氏は本書出版の経緯を明らかにしています。
 高山弁護士は“いらない!大運動”の代表です。“いらない!大運動”は、単に推薦しているだけでなく、本書の出版に積極的にかかわっているのでしょうか。そうだとすれば、裁判員制度に反対するためなら、冤罪を否定して「現行刑事裁判は健全」と賛美し、無罪推定の原則の放棄も、調書裁判も、被害者参加もすべて認める、というのが“いらない!大運動”の姿勢ということになります。
 かつてドイツ共産党は社民党政権に反対するためにナチスと手を組みました。“いらない!大運動”は、それと同じ愚行を行っているようです。目先の運動的利益のために自らの思想的基盤を放棄する、これは絶対にやってはならないことです。まして、反動をあおり、市民を脅して屈服させようというのは論外です。
 人や運動が他人や他の運動を批判・評価する内容は、その人や運動がどのような思想と立場に立っているかを判断するための良い材料となります。

 私が12月18日の「裁判員制度はひとまず実施させるしかない」の記事で紹介した石松竹雄・土屋公献・伊佐千尋編著『えん罪を生む裁判員制度』について、“裁判員制度はいらない! 大運動”はそのサイトの書籍と論文の紹介ページで、「『裁判員制度廃止はあり得ない』などと言われると、アレッと思ってしまう。時代の危うさに対する視点も今ひとつだなァ。『官僚裁判批判』が出発点になるとこうなっちゃうのかしら」と揶揄まがいの紹介を行っています。
http://no-saiban-in.org/hon_syokai05.html

 すでに『えん罪を生む…』を読んだ方ならば、この本が、人権を守るべき刑事裁判とはどのようなものでなければならないかという根本から説き起こし、現行刑事裁判がえん罪を次々に表面化させている原因を制度そのものの問題として解析している労作であることを容易に理解できるでしょう。そして著者らは、そうした絶望的とすら言える刑事裁判制度の腐敗と矛盾の蓄積に対する怒りと、なんとしても刑事裁判制度の改革を成し遂げなければいけないという危機感から、裁判員制度を批判的に検討し、次のようにその廃止を訴えているのです。
「このえん罪をつくる裁判員制度は、被告人、裁判員等、弁護士界、一部の裁判官、マスコミ関係者及びこれらをとりまく国民の広範な反対の前に、抜本的に改革され、または廃止されることになるであろう」
    (同書194p)
 ところが、いらない運動の紹介ページ作成者は、この本が「裁判員制度廃止はありえない」と主張していると歪曲・曲解した上で、「官僚裁判批判」などしているからだと理不尽な非難を投げつけているのです。
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 ではなぜ、紹介ページ作成者はこのような曲解に陥ってしまったのでしょうか。それは、彼・彼女らが、現行刑事裁判を擁護し、そのあらゆる改革に反対する立場から裁判員制度に反対しているからではないでしょうか。彼・彼女らにとって裁判員制度批判=現行刑事裁判擁護、現行刑事裁判批判=裁判員制度容認であって、それ以外の立場があるとは想像もできないのでしょう。
そして、『えん罪を生む…』が、
「だからといって、現在の職業裁判官による裁判のままでよいのでないことはいうまでもない」
    (同書060p)
として陪審制度導入を訴えているところから、「陪審制度=裁判員制度擁護派だ!」と短絡的結論に飛びついてしまったのではないでしょうか。

 結局、この短い紹介文が示しているのは、彼・彼女が現行刑事手続による人権破壊の状況になんの怒りも危機感も抱いていないこと、この間連続して表面化しているえん罪の被害者に対するなんの同情も共感も抱いていないだろうことです。それゆえにそうした現行刑事裁判の腐敗と矛盾の表面化に対する良心的な学者や市民の真摯な批判を単なる「官僚裁判批判」なるものに切り縮め、批判のためですらまともに理解しようともせず、ただ感情的反発を投げつけているということなのです。

 もちろん、市民運動は多様な市民で構成されるものですから、“裁判員制度はいらない! 大運動”に参加するすべての市民が同様な立場と考えかどうかはわかりません。
 しかし、みずからのサイトで運動を代表して公表している文章は、その運動の主要な考えを示していると見ても良いでしょう。言いかえれば、“裁判員制度はいらない! 大運動”は、その主要な部分が「現行刑事裁判は健全でえん罪など存在しないから、裁判員制度はいらない」という現行刑事裁判擁護派と評価されてもしかたがない人々によって担われているのです。
 私は、“裁判員制度はいらない! 大運動”の高山弁護士の著書に対する書評の中で、

「変化への批判は腐敗した現状の擁護であってはならない」

と訴えました。
 残念ながら、同運動は私の危惧した方向へひた走っているようです。

刑事裁判批判の圧殺を許さないため

裁判員制度はひとまず実施させるしかない

− 書評『えん罪を生む裁判員制度』 −

裁判員制度批判の3つの潮流

 裁判員制度の批判は、おそらく次の3つの潮流に整理できるでしょう。
 第1の潮流は、現行の刑事裁判は健全であり、えん罪は存在しないとして制度改革の必要性を否定して裁判員制度に反対するものです。
 高山俊吉弁護士や西野喜一元判事に代表される「裁判員制度はいらない!大運動」がこれにあたります。
 第2の潮流は、現行の刑事裁判がえん罪を多発させ、被告人の人権を否定していると弾劾して改革の必要性を強調しますが、裁判員制度はそのためには不十分か役に立たないと批判する潮流です。
 この潮流には、裁判員制度を刑事裁判制度改革のきっかけにすべきとして裁判員制度の改善を求める立場と裁判員制度は改革の動きをそらすものとしてその実施に反対する立場があります。
 前者の立場に立つ者としては、沢登佳人教授や五十嵐二葉弁護士がいます。
 第3は、第2の潮流と同じく現行の刑事裁判の人権破壊的状況を認めますが、裁判員制度は制度をより悪くするものとして、現行制度への批判よりも裁判員制度批判を優先する潮流です。

現行制度弾劾を軸として展開

 では、石松竹雄・土屋公献・伊佐千尋編著『えん罪を生む裁判員制度』は、どの潮流なのでしょうか。
 第1と第3の潮流は、裁判員制度より現行制度の方がよりましというものですから、批判は現行制度ではなく、もっぱら裁判員制度自体に向けられます。
 しかし、市民参加という新形式をとりつつ現行制度の内実を維持することを目的とする裁判員制度の特徴はその内容的空虚さです。それゆえ、裁判員制度に対する批判は、実際には制度ではなく新たな要素としての「市民」に向かわざるをえません。第1の潮流の高山弁護士らが、市民運動を標榜しながら「義務教育を終了しただけ」などと市民への不信をあおる一方、負担を強調することで市民へ取り入ろうとする矛盾、裁判員制度も口実に導入された公判前整理手続に批判をそらす根拠はここにあります。
 ところで、本書『えん罪を生む…』では、まず現行刑事手続に対する批判から始められ、全5部中の1部を割いて現行手続への批判を行っています。その論理展開は、第2の潮流に属するものの特徴を示しているのです。

刑事裁判の目的はえん罪防止

 本書では、まず「刑事裁判は、なんのためにあるか」と問題設定されています(第1部第1章)。これは非常に重要な設定であり、裁判員制度をきちんと論じるために可能な唯一の出発点です。
 なぜなら、制度の目的を離れてその正当性は論じられないだけでなく、日本では刑事裁判の目的についての共通の認識が法曹界でもいまだ実現しておらず、最高裁などによってこの目的は意図的にあいまい化され、詭弁とウソで歪められているからです。
 そして、本書は結論として「刑事裁判において、第一に重要なことは、有罪・無罪の決定において、えん罪者を一人も出さない」ことと述べています。
 この結論に本書の非常に優れた価値とその限界が示されています。
 まず、刑事裁判の目的を「えん罪者を生まないこと」とすることで、国家刑罰権発動を規制するためという刑事裁判の本質が端的に述べられています。
 さらにその目的を実現するために刑事裁判はどのように構成されないかという視点から、「予断排除の原則」「黙秘権」「無罪推定」「疑わしきは罰せず」などの原則の重要性が強調され、2部以降の現行刑事裁判がそうした原則を踏みにじり、規制の目的をいささかも実現していないという弾劾へと展開されていきます。
 まさにこの点に、現行刑事裁判批判を進めるあらゆる市民に読まれるべき本書の価値が存在しているのです。
 しかし同時に、この刑罰権発動への規制という性格は、著者らには十分に意識化されていません。そこに本書の限界も存在します。

刑事手続全体と裁判との混同

 そうした限界を生み出している根拠の一つは、本書が、捜査から刑罰執行にいたる刑事手続全体と裁判所が行う刑事裁判とを厳密に区別していないことにあります。その結果、「刑事裁判の目的は、治安の維持=社会の安全か、無罪の発見か」と最初の問いが発せられ、「どちらも正しい」が「両立しない」問題を「どう解決」するかという政策判断の問題にされてしまいます。
 しかし、治安の維持は刑事手続全体の目的であっても刑事裁判の直接の目的ではありません。主体を見ても治安維持は行政権としての検察官によって担われるのであり、裁判所はまさにその検察官を規制する存在なのです。
 そこに、司法権は行政権から独立し、個々の裁判所(職業裁判官や陪審員など)が司法権全体から独立していなければならない理由があります。それをあいまいにすることが、現行制度のような職業裁判官と検察官の癒着による有罪前提裁判を生み出しているのです。

歴史的認識の希薄さ

 第2の根拠は、現在の刑事裁判が、市民革命によって専制を倒した近代市民社会の下での裁判であるという歴史認識の弱さです。
 市民革命の成果の一つは、裁判権を国王とその下僕から市民の手に取り戻したことでした。陪審制度はその結果ですし、裁判官と検察官の分離など職業裁判官の性格も大きく変化したのです。
 本書では「刑事裁判の起源が復讐にある」というそれ自体誤った俗論から刑事裁判を論じることで、刑事裁判を個人対個人の対立に歪め、裁判の歴史的、共同体的性格を欠落させてしまいました。その結果、市民を代理して国家を規制するという司法と刑事裁判の最も重要な性格も見失われてしまったのです。
 ちなみに、刑事裁判の起源は共同体内部において共同体の秩序から逸脱したメンバーを共同体の中に再び包含するため共同体が行う教育的行為と、私は考えています。

えん罪を生む現行刑事裁判

 本書は第1部2章以下で現行刑事裁判に対する全面批判を展開しています。
 まず2章では、無罪率の異常な低さを取り上げ、第2部では宇和島事件など個別の事件を取り上げて、現行刑事裁判がいかに日常的にえん罪を生み出し続けているか具体的かつ詳細に論じています。まさに現実の状況から出発して論じていることに、他の法律書などにはない本書の優れた特徴が示されています。
 そしてそうした具体的ケースの検討に踏まえて、第2部第2章でえん罪の原因が12点にわたり、第3章ではそれを支える独立を放棄し腐敗した裁判官の姿が4点に整理されて、説得力豊かに展開されています。
 以下の小見出しを眺めるだけで、現行刑事裁判の絶望的人権破壊状況を感じることができるでしょう。この部分を読むためだけでも、本書はひもとく価値のある著作です。
第2章えん罪を生む捜査と裁判のしくみ
1)自白獲得中心の取調べ
2)人質司法
3)密室の取調べ
4)日本では黙秘権はないに等しい
5)証拠開示の不徹底
6)客観的捜査構造になっていない
7)捜査分担による相互チェックの必要性
8)裁判官の有罪指向
9)自白の任意性審理のセレモニー化
10)検面調書の特信性のセレモニー化
11)犯罪報道に影響される裁判
12)被疑者国選弁護制度の危うさ
第3章「ヒラメ裁判官の誕生」
1)統制される裁判官
2)日本では「裁判官の独立」はないに等しい
3)自ら統制される裁判官
4)転勤による自立的統制

官僚裁判を強化する裁判員裁判

 本書は第4部で裁判員法を全面的に批判する出発点として、「裁判員裁判の本当の狙い」は「官僚裁判を強化する」ことにあると言い切っています。
 精密司法の崩壊と相次ぐえん罪の表面化に示される現行刑事手続の危機と行き詰まりの下で、裁判員制度は市民の動員という新たな形式をとることで現行刑事裁判の実質と本質を維持し続けようとする反動的現状維持政策です。そのことを、刑事裁判はどうあるべきか、それに比して現行刑事裁判はどうなっているかという原則的検討を踏まえているからこそ、本書は解明することができたのです。
 そして、本書は刑事裁判改革のために陪審制度の導入を提言します。本書を真剣に読んできた人はこの提言の正当性を否定することはできないでしょう。

陪審制・予審制の復活を

 とくに、巻末の佐伯千仭教授の「陪審裁判の復活のために」は、現在のえん罪多発裁判の主要な原因が戦後改悪された現行刑訴法そのものにあることを明らかにし、根底的改革の必要性を訴えている点で、刑事裁判を考えるすべての人にぜひ読んでほしい論考です。
 私自身が戦前の刑訴法の解説書などを研究する中でようやくたどり着いた結論を、佐伯教授ははるか以前にいっそう深く明らかにしていました。ただ残念なのは、そこから当然にでてくる陪審制度だけでなく予審制度の復活の要求を佐伯教授は明言していません。現行の反動刑訴法の改革には陪審制度とともに,捜査を当事者主義化する予審制度の復活が不可避なのです。

いったん実施させるしかない

 以上の批判と弾劾の上で、本書は次のような見通しを述べて裁判員制度反対を訴えています。
 「裁判員裁判を実施するうちに、その欠陥が明らかになり…陪審員制度復活への道が開けるであろう」「そして、えん罪の防止という刑事裁判の本来の目的を追究する立場に立つ市民や弁護士を中心とする法曹の間からも、陪審制度復活への要求が高まるであろう」
私もこの見通しにまったく同感であるだけでなく、なんとしてもそうしなければならないと考えています。
 とりわけ、「刑事裁判は健全」「市民は刑事裁判に口を出すな」と主張する現行刑事裁判制度への翼賛運動の台頭は、裁判員制度の実施前の停止が、「やはり市民は刑事裁判への関与を望んでいないし、その能力もない」として、現行制度への信認とされかねない危機的状況を生み出しています。
 そうした状況では、刑事裁判に対する市民の批判運動や救援運動の圧殺を許さないためにも、裁判員制度は一度実施させた上で、新たに根本的改革を目指すしかありません。

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