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「ブログ時評」というブログの「裁判員制度は混乱必至でも開始すべきか[ブログ時評89]」という記事に、私のブログの「裁判員制度はひとまず実現されるしかない」という記事の一部が引用されています。 この「裁判員制度は混乱必至でも開始すべきか」という記事には、それ以外にも裁判員制度について述べたいくつかの記事が引用・紹介されています。それを読むと、裁判員制度に対する市民の主要な危惧は裁判員が無実の市民を有罪にしてしまうのではないか、冤罪を多発させるのではないかというところにあるようです。 「『裁判員制度』…とつぜん生活崩壊の予感」(dr.stoneflyの戯れ言)は、「だいたい多くの感情は犯人憎しってことだ。もちろんワタシだってそうさ。殺してやりたいほどの裁判に当たるかもしれない。でもね裁判ってのはそれを乗り越え理性でしなきゃなんないだろ」と述べています。まさにその通りです。 では、現行の刑事裁判を行っている職業裁判官はどのように考えているでしょうか。 職業裁判官は、「有罪判決の時とは異なり、無罪判決を書こうとする時は、『本当に無実なのか、間違って犯人を野放しにすることになるのではないか』と最低数日間は悩む」ということを、裁判官経験者から聞いたことがあります。 元裁判官の西野喜一氏は、その著書『裁判員制度の正体』の中で、「(裁判員制度は)構造的に無罪が出やすい」から、「不当に被告人に有利になる」と裁判員制度反対の理由を述べています。 ある弁護士は、自らが関係した交通事故をめぐる事件で、裁判官が「ちゃんとした証拠を出さないからこのままでは被告人に有利になる」と検察官を叱責した事実を紹介し、「証拠がなければ無罪にすれば良い」と自分の感想を述べています。 こうした事実や多数の冤罪の存在は、職業裁判官の多くが、無実の市民を誤って有罪にしてしまうよりも、犯人を無罪にして野放しにしてしまうことを恐れていることを示しています。 「一人の無実の人間を冤罪から救うためには10人の犯罪者を取り逃がしてもしょうがない」という趣旨の言葉があります。この言葉は日本の法曹界ではブラックジョークでしかありません。この言葉を前提に自らの論を立てる法学者はほぼいませんし、仮にそんなことをすれば法曹界でつまはじきになることは間違いありません。また、ほとんどの職業裁判官はこの言葉を嘲笑するだけですし、そうでなければ左遷され、任官拒否されてしまいます。 しかし、この言葉を真剣に受け止め、自分にはそれができるだろうかと危惧しているのが多くの市民です。 冤罪を恐れるあまり真犯人も無罪にしかねない市民と、犯人を野放しにすることを恐れるあまり無実の市民も有罪にしている職業裁判官とどちらが刑事裁判を行うのにふさわしいか、まさにこの考え方の違いが裁判員制度を選ぶのか、現行刑事裁判制度を選ぶのかの岐路です。
自分や市民では冤罪を防げないのではないかと危惧するあまり、冤罪を生み出すことになんの危惧も持たず、実際に多くの冤罪を生み出し続けている職業裁判官に刑事裁判を委ね続けようというのは、はたして理性的な判断と言えるのでしょうか。 あるいはそうした市民の危惧を利用し、職業裁判官による裁判の方が冤罪を防げるかのようなウソをまき散らして裁判員制度反対をあおることは誠実な態度と言えるのでしょうか。 |
裁判員制度を考える
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裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
官僚裁判官の反市民的正体− 西野喜一著『裁判員制度の正体』 −「いらない!大運動」の思想的柱西野喜一元判事の書いた『裁判員制度の正体』は、その一文一文が、怒りなしには読めない反動的著作です。 しかし、この本は、選民思想に凝り固まった夜郎自大的な右翼的人物が、反動的信条を書きなぐっただけの、無視して良い著作ではありません。“裁判員制度はいらない!大運動”という一つの市民運動が、この本を自らの主張に沿ったものとして推薦しているからです。 昨年、ある大学の裁判員制度反対集会で、“いらない!大運動”を代表して発言したN弁護士は、裁判員制度に反対すべき理由を示す書籍の一つとして本書を推薦しました。これまで人権を重視してきた彼がなぜ、このような反動的著作を推薦するのかという私の質問に,残念ながらN弁護士の明確な答えはありませんでした。 ともかく“いらない!大運動”は本書を推薦しています。「信号も守れない市民」などという主観的な言辞を集めた高山弁護士の著作とは異なり、本書は、“刑事裁判は国家・支配体制に奉仕すべき”という明確なイデオロギーに支えられがゆえに“いらない!大運動”の思想的柱となっている可能性もあるのです。 権力に屈服して市民を敵視する「ヒラメ」判事では、著者の西野元判事とはどのような人物でしょうか。西野氏は次のように言います。 「ある判決が上級審で破棄されれば、その判決を見て、自分の判決の不備を確認する」(同書p.7) 西野氏は、上級審での破棄を見解の相違と考えず、自己の「判決の不備」として反省し、次は上級審の意向に沿う判決を書こうするのです。 そこには裁判官の独立の気概も法と良心のみに従うという信念もなく、上級審・最高裁の顔色を汲々とうかがう「ヒラメ判事」の姿しかありません。 その一方で、「裁判官全員が有罪を確信しても」裁判員の反対で「無罪判決を言い渡さなければならない」のは、裁判官の独立に反すると主張します。(p.86) 市民から独立した国家とは専制にほかなりません。西野氏は、裁判官の独立を、専制から民主主義を守る手段ではなく、専制を正当化する手段に逆転させているのです。 刑事裁判は支配体制に奉仕すべき西野氏は、徴兵制に絡めて「裁判員制度を実行しようという発想の根拠には、国民はもっと国のために奉仕すべきだという思想がある」(p.186)と述べます。西野氏にとって、裁判官や裁判員は「国家・支配体制に奉仕する」存在であって、市民の人権を守るために国家・支配体制(の刑罰権発動)を規制するための存在ではありません。 彼には、刑事裁判とは、「悪いやつに処罰を与える」(p.140)場、裁判官が検察官と一体となって、被害者の無念を晴らすため犯人を罰する場なのです。 裁判員制度は「被告人に不利益」にも「被告人が不当に有利」(p.84-85)にもなると、被告人に有利になることをより警戒するのが西野氏なのです。 「健全な社会常識」基準を主張被告人に対する「無罪推定」の原則など一顧もされません。その結果、有罪認定基準も大幅に緩和されます。西野氏は、「いままでの刑事裁判は『健全な社会常識』に反するものであったのか」(p.17)、「裁判員法は、普通の国民には『健全な社会常識』があるが、裁判官にはないと言っている」(p.21)と述べています。 すでに、私は、「合理的疑いを超える証明」についての「通常人なら誰でも…」から「健全な社会常識」への転換が、有罪認定基準の大幅緩和であると指摘してきました。西野氏は最高裁の判例変更に先立って、「健全な社会常識」を認定基準とすることを主張していたのです。 有罪認定基準を大幅緩和・削除した最高裁新判例 誤判・えん罪を否定西野氏は、財田川事件など死刑再審4事件を取り上げ、「当時の裁判官は当時の証拠にもとづいて有罪と判断し」、「後に新たな証拠が出てきて無罪になった」(p.70)だけと誤判を否定します。しかも、冤罪の原因は「代用監獄制度…自白偏重の取調べなど、裁判所外の事情による」(p.71)と捜査機関に責任を転嫁します。しかし、代用監獄での勾留を認め、自白(調書)を偏重して調書裁判を進めてきたのは、まさに西野氏を含む職業裁判官ではなかったのでしょうか。 「裁判員制度は無実を増やす」刑事裁判とは効率的に有罪判決を出すことで国家に奉仕し、支配秩序を維持することと考える西野氏にとって、裁判員制度はそうした職業裁判官の職務を妨害するがゆえに許しがたいのです。具体的には、第1に裁判員制度では99%を超える有罪率の維持が困難になるという危惧です。 「(裁判員制度は)構造的に無罪が出やすい」から、これまでは「自白していたような被告人でも…無罪を主張するようになる」(p.155)。せっかく拷問的取調べで「自白」に追い込んだ被告人が、裁判員裁判での雪冤に期待して無実を訴えられたのでは、効率的に刑務所に放り込めないと悲鳴をあげているのです。 「被害者参加に逆行」「被害者としての立場を訴えることができるという意見陳述の制度」ができたのに、「被害者が法廷で思いのほどを訴えるというこの貴重な時間が制約されてしまう」(p.139)とも述べています。せっかく被害者を動員して被告人のつるし上げができると期待したのに、裁判員制度がそれを制限するのは許せないというのです。これが西野氏が反対する第2の理由です。 「調書裁判の後退」「『精密司法』と呼ばれる現行の丁寧で時間をかけた審理」(p.84)。「たとえばA4用紙1枚を渡せば即座に、しかも正確に伝わることを…当事者による交互尋問形式の証人尋問でやるとすれば…伝えられた情報の正確性もきわめて疑問…時間的にも1時間あっても足りるかどうか疑問」「検察側の立証は比較的短時間で済むものがあったのは、捜査段階で収集した証拠、資料を調書、文書の形にして、それを提出していたから」「裁判官は…その書類をくりかえし熟読して心証を形成する」(p.158)と、西野氏は多くの冤罪を生み出した元凶である調書裁判を賛美し,実践してきました。そこで、「書面審理を排して証人尋問中心の公判主義、直接主義にすると、参加する国民に大きな負担、制約を負わせる」(p.89)と調書裁判が維持できないという理由で裁判員制度に反対します。 他にも本書には批判すべき点が膨大にありますが、紙数の関係で今回はここで止めなければなりません。 裁判員制度阻止のためなら…最後に、「本書出版にさまざまに尽力して下さった弁護士の高山俊吉先生」(p.232)と、西野氏は本書出版の経緯を明らかにしています。高山弁護士は“いらない!大運動”の代表です。“いらない!大運動”は、単に推薦しているだけでなく、本書の出版に積極的にかかわっているのでしょうか。そうだとすれば、裁判員制度に反対するためなら、冤罪を否定して「現行刑事裁判は健全」と賛美し、無罪推定の原則の放棄も、調書裁判も、被害者参加もすべて認める、というのが“いらない!大運動”の姿勢ということになります。 かつてドイツ共産党は社民党政権に反対するためにナチスと手を組みました。“いらない!大運動”は、それと同じ愚行を行っているようです。目先の運動的利益のために自らの思想的基盤を放棄する、これは絶対にやってはならないことです。まして、反動をあおり、市民を脅して屈服させようというのは論外です。 |
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人や運動が他人や他の運動を批判・評価する内容は、その人や運動がどのような思想と立場に立っているかを判断するための良い材料となります。 私が12月18日の「裁判員制度はひとまず実施させるしかない」の記事で紹介した石松竹雄・土屋公献・伊佐千尋編著『えん罪を生む裁判員制度』について、“裁判員制度はいらない! 大運動”はそのサイトの書籍と論文の紹介ページで、「『裁判員制度廃止はあり得ない』などと言われると、アレッと思ってしまう。時代の危うさに対する視点も今ひとつだなァ。『官僚裁判批判』が出発点になるとこうなっちゃうのかしら」と揶揄まがいの紹介を行っています。 http://no-saiban-in.org/hon_syokai05.html すでに『えん罪を生む…』を読んだ方ならば、この本が、人権を守るべき刑事裁判とはどのようなものでなければならないかという根本から説き起こし、現行刑事裁判がえん罪を次々に表面化させている原因を制度そのものの問題として解析している労作であることを容易に理解できるでしょう。そして著者らは、そうした絶望的とすら言える刑事裁判制度の腐敗と矛盾の蓄積に対する怒りと、なんとしても刑事裁判制度の改革を成し遂げなければいけないという危機感から、裁判員制度を批判的に検討し、次のようにその廃止を訴えているのです。 「このえん罪をつくる裁判員制度は、被告人、裁判員等、弁護士界、一部の裁判官、マスコミ関係者及びこれらをとりまく国民の広範な反対の前に、抜本的に改革され、または廃止されることになるであろう」
ところが、いらない運動の紹介ページ作成者は、この本が「裁判員制度廃止はありえない」と主張していると歪曲・曲解した上で、「官僚裁判批判」などしているからだと理不尽な非難を投げつけているのです。(同書194p) ではなぜ、紹介ページ作成者はこのような曲解に陥ってしまったのでしょうか。それは、彼・彼女らが、現行刑事裁判を擁護し、そのあらゆる改革に反対する立場から裁判員制度に反対しているからではないでしょうか。彼・彼女らにとって裁判員制度批判=現行刑事裁判擁護、現行刑事裁判批判=裁判員制度容認であって、それ以外の立場があるとは想像もできないのでしょう。 そして、『えん罪を生む…』が、 「だからといって、現在の職業裁判官による裁判のままでよいのでないことはいうまでもない」
として陪審制度導入を訴えているところから、「陪審制度=裁判員制度擁護派だ!」と短絡的結論に飛びついてしまったのではないでしょうか。(同書060p) 結局、この短い紹介文が示しているのは、彼・彼女が現行刑事手続による人権破壊の状況になんの怒りも危機感も抱いていないこと、この間連続して表面化しているえん罪の被害者に対するなんの同情も共感も抱いていないだろうことです。それゆえにそうした現行刑事裁判の腐敗と矛盾の表面化に対する良心的な学者や市民の真摯な批判を単なる「官僚裁判批判」なるものに切り縮め、批判のためですらまともに理解しようともせず、ただ感情的反発を投げつけているということなのです。 もちろん、市民運動は多様な市民で構成されるものですから、“裁判員制度はいらない! 大運動”に参加するすべての市民が同様な立場と考えかどうかはわかりません。
しかし、みずからのサイトで運動を代表して公表している文章は、その運動の主要な考えを示していると見ても良いでしょう。言いかえれば、“裁判員制度はいらない! 大運動”は、その主要な部分が「現行刑事裁判は健全でえん罪など存在しないから、裁判員制度はいらない」という現行刑事裁判擁護派と評価されてもしかたがない人々によって担われているのです。 私は、“裁判員制度はいらない! 大運動”の高山弁護士の著書に対する書評の中で、 「変化への批判は腐敗した現状の擁護であってはならない」と訴えました。残念ながら、同運動は私の危惧した方向へひた走っているようです。 |

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