「裁判員制度はいらない」と訴える人たちが、主観的には政府に反対しているつもり−例えば、裁判員制度反対で多くのブログを作成している高野善通さんは「私のブログのような制度批判の言論にまで網がかかる危険性」とか「高山俊吉弁護士著『裁判員制度はいらない』、西野喜一先生著『裁判員制度の正体』といった種の裁判員制度批判著書が発売禁止になる危険性」を危惧しています−にもかかわらず、実際には政府や最高裁以上に現行制度を擁護しているのはなぜでしょうか。
その理由の一つに、刑事裁判からその最も重要な原則である「無罪推定の原則」や「合理的疑いを超える証明」の原則を追放している点で、「いらない」派が日本の政府や最高裁と共通の土俵に立っている事実があるのではないかと、私は考えています。
刑事裁判は検察官を裁く場
市民革命以後の近代刑事裁判では、検察官の「この人物が罪を犯したから処罰したい」という訴えを、まずは根拠のない言いがかりと考えます。これがごく単純に述べた「無罪推定」ということです。
そこで、検察官は法廷で自分の訴えが根拠のない言いがかりではないことを、証拠をもとに必死に裁判官(や裁判員あるいは陪審員)に訴えます。そして訴えを受けた裁判官などが全員、「どう考えても被告人が無実というのでは筋が通らない」と納得すれば、そこで検察官に「これだけの範囲でなら処罰して良い」と許可・有罪判決を出します。逆に、少しでも納得できないところがあれば「やっぱり言いがかりじゃないか」と検察官を追い返します。これが「合理的疑いを超える証明」ということなのです。
つまり、刑事裁判では、裁かれるのは被告人ではなく検察官です。国家の不当な処罰から被告人を守る制度だから、裁判を受けるのは被告人の義務ではなく権利なのです。
なお、念のために述べておけば、以上のような見解は刑事裁判を「人権を守るための手続」、裁判所は「有罪か無罪か判断するところ」と考えている米国など日本以外の多くの国での考えです。「裁判所は有罪であることを確認するところ」、刑事裁判は「捜査における検察官の主張(結論)の追認と相場にしたがった量刑作業」と考え、実行している日本の最高裁や政府・法務省はまったく異なる見解に立っています。(なお、上記「裁判所は…」は平野龍一教授、谷口正孝元最高裁判事の批判の言葉です。)
判断基準は普通の市民
ところで、検察官が納得させなければならない相手というのは、どのような人間なのでしょうか。
まだ、人権や憲法に対する敬意を残していた時代の日本の最高裁は次のように述べています。
「通常人なら誰でも疑を差挾まない程度に真実らしいとの確信を得ることで証明ができたとする」
(1948年8月5日、最高裁第一小法廷)
つまり、職業裁判官のような特別な訓練を受けた特定の集団ではなく、「通常人」言い換えれば普通の市民ということなのです。しかも「誰でも」とありますから、普通の市民の中でも一番レベルが低いあるいは検察官が納得させにくい人物も含めて、ということなのです。
「納得しないのは判断者の責任」という暴論
裁判を有罪判決を書くための材料探しの場と考え、検察官に「これでは有罪判決が書けない」とクレームを付ける職業裁判官は問題外ですが、普通の市民を「義務教育終了という以上の格別に資格条件はない」「抽選で集められただけの素人」と蔑視し、だから判断者としてふさわしくない、裁判官は「専門的な訓練をうけ」「膨大な数の事件、犯罪を見て…経験を重ねている」(西野喜一『裁判員制度の正体』)から判断者にふさわしいと主張している「いらない運動」も、「無罪推定の原則」や「合理的疑いを超えた証明」を否定するものと言わざるをえません。
市民が職業裁判官に比べて判断力が低いなどという証拠や研究結果などありませんが、仮に低い市民が中に混じっていたとしても、これまで述べてきたように、その市民も含めて納得させる責任が検察官にはあるのです。「納得しないのはレベルが低い市民の責任」というのは、検察官の立証責任を切り下げ、「疑わしきは被告人の利益に」という原則を否定する主張です。
ただ、裁判に参加する市民に、「少しでも納得のいかないところがあったら、検察官の主張に筋の通らないところがあると感じたら、無罪評決を出さなければならない」ということを徹底しておくことは、絶対に必要です。そのために、説示という制度が活用されなければなりません。
無罪判決を増やす市民裁判
西野喜一氏は、どのような根拠かは不明ですが、陪審は「誤判、冤罪の温床になりやすい」と主張します。
「誤判、冤罪」が、実際には犯罪を行っていない市民を有罪にしてしまうことであれば、これまでも職業裁判官の下で膨大な誤判・冤罪が続出しています。ところが、その事実を前にした西野氏は、誤判ではなく新証拠による新判断だという事実の歪曲とか、「自白偏重の取調べなど裁判所外の事情」と捜査機関への責任転嫁、陪審なら判断を誤らなかったという根拠はないという論理のすり替えなど、しどろもどろです。
陪審裁判については、市民が判断すると検察官により高度の立証を求めるため無罪判決が増えるという研究があります。陪審制では冤罪が減るだろうということはその無罪率上昇の統計数字が示していますし、「無罪推定の原則」などの徹底でさらに減らすことも可能でしょう。
“間違って無罪”は容認すべきこと
また、実際に犯罪を行った市民を検察官の立証が不十分なために無罪にしてしまう、という誤判は、近代刑事裁判が容認することです。「10人の真犯人を逃しても、一人の無辜(無実の市民)を処罰してはならない」とい考えは、日本の職業裁判のほとんどが考えているような“祭り上げて無視して良いタテマエ”ではないのです。近代刑事裁判は、冤罪の危険を冒してでもすべての犯人を捕まえろなどと求めてはいません。
ところで、西野氏は「被告人に不利益になる可能性」も「被告人が不当に(!)有利になる可能性もある」と述べて、無実の市民を罪に落とすことよりも真犯人を逃がすことの方が問題だと考えている心情を、無意識に吐露しています。
現状擁護ではなく原則的批判が必要
「裁判員制度はいらない」運動には、高名な法学者や弁護士もいらっしゃいますから、私が述べたようなことはすでに検討済みなのかもしれません。その上で、刑事裁判は被告人を追及して断罪する場であるべきだと考えているなら、効率的に被告人を処罰する訓練と経験を積んだ職業裁判官の方がいいということになるでしょう。
でも、私は刑事裁判は何より嫌疑を受けた市民の人権を守る場であるべきであり、、江戸時代のお白州裁判であってはならないと考えています。そのためには陪審制(と捜査過程での人権を守るための予審制)の導入が必要です。
裁判員制は、到底、それを実現できない欠陥制度ですが、徴兵制がベトナム戦争の不正義さを米国の市民が自覚する契機となったように、裁判員制は刑事手続の不正義を日本の市民が自覚する契機となりうるでしょう。そのためには、現行制度の擁護ではなく、裁判員制度の原則的批判が必要なのです。