自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

裁判員制度を考える

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裁判員制度に対する批判はえん罪を多発させ続け、人権を踏みにじる現行刑事裁判の美化や擁護であってはなりません。人権の守られた刑事裁判を生み出すために裁判員制度をどう考え・批判していけば良いのか、考えていきたいと思います。
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 私のところにも、「見えた!裁判員制度の崩壊」と題する「裁判員制度はいらない!大運動」のビラが送られてきた。呼びかけ人には、破防法の団体適用反対運動以来、肩を並べて闘ってきた方々の名前もならんでいる。そうした方々の奮闘に水をかけるようなことは心苦しいのだが、裁判員制度が崩壊したとしてもその後に残るものを考えると口を閉ざしているわけにはいかない。
 最近、マスコミでも裁判員制度が取り上げられるケースが増えているが、その論調でも、“仕事や生活があるのに裁判員に選ばれるのは迷惑だ”というものが多い。
 これまで多くの良心的法学者たちが、現行の刑事手続が被告人の人権を侵害していること,近代刑事裁判の原則に反していることを弾劾してきた。市民の中にも刑事手続を批判したり、冤罪被害者の救援に奮闘してきた人も多い。
 ところが、裁判員制度をめぐっては「刑事手続なんて面倒だ、職業裁判官にまかせておけばいい」という意見が大きな声となりはじめているようだ。
 「欧米の裁判所は有罪か無罪か判断するところであるが、日本の裁判所は有罪を確認するところである」「被告人は職業裁判官による裁判を受けているといえるのだろうか」という批判すらあるのに、“刑事手続は職業裁判官にまかせておけ”という風潮に沈黙するなら、裁判員制度が崩壊しようとしまいと日本の刑事手続に対する批判はこれまで以上に困難になってしまうだろう。
 だからどれほど顰蹙をかおうと何度でも繰り返す。
 裁判員制度がどれほど「希代の悪法」であろうと、反対のために現行の刑事手続を美化したり、職業裁判官を神格化するのは間違いだ。
 市民は、同胞の市民が被告人席に立たされ、国家によって生活や生命すら奪われようとしている時には、その正当性を確認するためにあらゆる機会を利用し最大限の努力と犠牲を払うべきだ。「私には知ったことではない」などという姿勢を取るべきではない。

職業裁判官の美化と神格化

 裁判員制度の実施に反対している人たちの主張や意見を聞くと、ほぼ共通した構造があるようです。
 反対の根拠の一つにあげられるのは、政府・法務省や最高裁が、裁判員制度導入を口実に進めている刑事裁判制度の人権破壊方向での変更を取り上げ、それに反対であるから裁判員制度にも反対しなければならないというものです。
 例えば、新たな「公判前整理手続」の導入があります。密室性や検察官手持ち証拠の全面開示の否定、弁護側の争点・証拠提示義務など、現行の刑事手続をさらに人権破壊的に変更するものであることは、実施反対派が指摘するとおりです。
 しかし、公判前整理手続の導入は、職業裁判官と当事者のみが参加する事前手続で事実上その後の公判の流れを決定することで、市民による評議を無意味化させ,現行刑事手続の実質を維持しようとするものです。したがって、批判は、人権を日々破壊し続けている現行刑事手続に対する批判と一体のものとして行わなければなりません。
 公判前整理手続に対する批判を、口実とされた裁判員制度導入との関係で行う限り、内容に踏み込んだ批判とならないばかりか、現行制度の美化と職業裁判官の神格化・神聖化に行き着いてしまうだけです。こうした点はすでに、一度批判を公表していますので、ここでは繰り返しません。
 若干付け加えておけば、高山弁護士の著書に、「信号も守れない人に裁かれたくない」というさだまさし氏の言葉が掲載されています。「裁かれたくない」というのは個人の意志ですから論評する立場にありませんが、問題は、さだ氏が、「職業裁判官は信号を守っている」と思い込んでいる事実です。
 職業裁判官は、車で送り迎えされるため信号を無視する機会はほとんどないでしょうが、それを「守っている」と言えるのか、また司法試験に受かる前の彼らは「信号を守る」特別な人間だったのでしょうか。かつて、配給制度を守って餓死した判事がいました。逆に言えば、生き延びた判事は食料統制法を守らなかったことになります。“職業裁判官は些細な法もすべて守る存在”などという幻想と神格化の上に議論を行うことは誤りであり、危険です。
 批判は、まず現実から出発すべきだと私は思います。

より厳しい有罪立証を求める市民

 反対のもう一つの根拠としてあげられるのは、市民は(職業裁判官と異なり)感情的で、偏見に満ち、正しい判断はできないという、“感情的”主張です。
 高山弁護士の前記著書に対する書評で、佐伯洋一という方が次のように述べていますが、これが一つの典型でしょう。
 「司法に民主主義を入れるなど言語道断であり、違憲以前に一般常識からしても誤りである。そもそも、ラーメン屋のオヤジも主婦もカメラマンも無能なのである。無能な人に裁判ができるはずは無い。…報復色調の強いワイドショーに影響されないのは10年間現場で判事補として鍛え上げた練達の裁判官だけである」
書評全文
 人がマスコミ報道に影響されやすいのは事実です。しかし、なぜ職業裁判官のみがそうした影響を受けないと断言できるのでしょうか。

 有罪・無罪の認定を、職業裁判官ではなく市民が行うと何が起こるのでしょうか。
 多くの国で陪審員制度について、具体的研究が進められてきました。その結果判明したのは、陪審員は検察官に対してより厳しい有罪立証を求めるということです。
 「(フランスでは)裁判官の公正さへの信頼が欠如していたため、それ(陪審裁判で裁判長が行う説示は)は訴追側に加担する偏った最後の言葉とみなされ…説示は廃止された。説示の欠如のためあまりにも無罪が多かったので、評議室へは裁判官と陪審員とをいっしょに送り出すという冒険的手段が取られた。もはや公開では許されない影響力の行使を非公開で行うためであった」(グランヴィル・ウィリアムズ『イギリス刑事裁判の研究』)
 最近、陪審制から参審制へ移行する国も見られますが、その理由としてあげられているのが、あまりに多くの無罪判決が出されることなのです。
 日本の市民は権力に従順だから、欧米の市民とは違うという意見もあります。本当でしょうか。
 戦前の日本で行われた陪審員裁判では、職業裁判官が不適当とみなした評決に対して別の陪審員に再評議を求められるなど問題のある制度にもかかわらず、否認事件の無罪率は16.7%であったことを、石松竹雄元判事が明らかにしています。
 現在の否認事件の無罪率が2%程度であることと比べれば、日本でも市民は検察官により厳密な立証を求めていたことが示されています。
 また、自白調書を無批判に信用する現在の職業裁判官とは異なり、陪審員がより厳しい態度を取ったことも紹介しています。
(伊佐千尋『裁判員制度は刑事裁判を変えるか』)

被告人の人権を後景化させる反対運動

 裁判員制度は非常に問題のある悪法・悪制度です。しかし、その批判されるべき点は、刑事手続に市民を動員・参加させるというところにはありません。市民自身が、主体的に有罪・無罪を認定できないようにがんじがらめに制限し、人権を侵害し続けている職業裁判官による現行刑事手続を事実上維持しようしていることです。
 裁判員制度実施反対運動は、まさにその批判すべきところを批判せず、批判すべきでないところを批判していることによって、刑事手続を批判すべき時にまず念頭に置くべき、刑事被告人の人権をどう守るか、無辜の処罰をどう防ぐかという視点を後景化させてしまっているのです。
 その結果は、現行刑事手続に対する批判の視点の欠落と美化、「裁判員に選ばれるのは迷惑」という迷惑論の全面化・前面化です。そして、その迷惑論は「裁判員の負担軽減」を口実にした刑事手続の迅速化攻撃に途を開いているのです。
 刑事手続は、一人の市民の自由と人生を破壊しかねない、時には命すら奪う重大な権力行為です。それを考えれば、同僚の市民が半年や1年,いや数年になろうとそのために時間を割くのがなぜ迷惑なのでしょうか。なぜ、過大な負担なのでしょうか。
 人の自由や命はそれほどまでに軽いのでしょうか。

 裁判員制度が現状をより悪くするものか、現状よりましか、評価はいろいろあるでしょう。しかし、間違いなく誤りだと思うのは、人がたまたま裁判員あるいはその候補に選ばれた時、裁判員制度が不正義であることを口実に裁判員になることを拒否し、逃れようとすることです。
 なぜなら,被告人は刑事手続がどれほど不正義だろうと、被告人の地位から逃れることはできないからです。
 確かに、自分一人でできることはほとんどないかもしれません。場合によっては、孤立し、袋だたきにあうだけかもしれません。しかし、自分が正義だと思うことのために努力はできるはずです。
 現在の日本の刑事手続が不正義そのものであることを知っていながら、自らの無力さを口実にそれへの関わりから逃げるのは、実際はその不正義を黙認することであり、それに加担することだと,私は思います。
 いじめで死に追いやられた多くの子どもがいます。そのまわりには、いじめを見て見ぬ振りをしていた多くのクラスメート達がいます。「いじめを止めようとしてもそんな力はなかった。逆に今度は自分がいじめられるだけだ」。彼らはそう言います。直接いじめた者とまわりで見ていた者とどちらの罪がより重いか。それは、私にはわかりません。しかし、私がよりなりたくないのは、自らの手が汚れないことをいいことに、見て見ぬ振りをする無責任なまわりの存在です。
 かつてレーニンという男がいました。彼は、ロシアの民衆に向かって、「不正義の侵略戦争に動員され、むりやり銃を持たされたら、戦争を拒否して銃を捨てるのではなく、ロシア国内の本当の敵=ツァーに向けて銃を使え」と呼びかけました。1丁の銃に専制を倒す力はありません。反逆者として処刑されるだけでしょう。しかし、ツァーを倒した革命はその一丁の銃から始まったのです。
 彼はこうも言っています。「みずからの解放のために銃を持って立ち上がろうとしない人間は、奴隷として踏みにじられるのがふさわしい」と。
 私は、裁判員候補として呼び出されたら、裁判員となるために最大限の努力をするつもりです。

「裁判員制度はいらない」と訴える高山俊吉弁護士は裁判員制度を徴兵制になぞらえた。その点ではそのとおりだと思う。
 徴兵制は不正義の戦争を止める大きな力となる。市民は、自らの手で人を傷つけ、傷つけられることを国家に強制される時、その命令の正義性を真剣に検討せざるをえない。戦争は革命の母なのだ。
 米国は現在、イラクで侵略戦争を行っている。が、米国内ではベトナム戦当時のような反戦運動は広がっていない。その原因に徴兵制廃止を挙げる人も多い。日本人にいたっては、自衛隊が現に戦争を行っている事実への自覚すらない。
 裁判員制度は、市民に、裁判官と検察官が結託して人を犯人に仕立て上げる不正義への参加を強制する。市民は有罪と確信できない人の自由と生命を奪うことを強いられる。その時、市民は、それが正義か真剣に検討することを迫られる。
 政府と最高裁は、力で市民の良心を沈黙させられると高をくくっている。しかし、沈黙させても、良心を破壊することまではできない。裁判員制度は、刑事裁判と職業裁判官に対する怨嗟の声を、正義と改革を求める声を、市民社会に蔓延させるだろう。

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