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二重の危険の禁止という刑事手続をめぐるもっとも重要な人権原則を踏みにじって三浦和義さんが不当に逮捕され、死に追いやられた後でも、日本の法律家の中から「二重の危険」や「一事不再理」は国内原則だと逮捕を正当化する意見が出てきています。まさにそうした誤った主張こそが、三浦氏の不当逮捕を弾劾する声が日本で巻き起こるのを押しとどめ、三浦さんを孤立させ、追いつめていった一つの力となったと私は考えています。 メーリングリストのAMLで、私の尊敬する法律家のひとりである前田朗先生が、三浦氏の逮捕直後の法律家団体や弁護士の間での議論を紹介されています。その中で、「3月6日の『二重の危険の禁止は国内原則です』です。これで議論は決着しました。反論を試みた弁護士はこれまで一人もいません」と述べられています。 確かに、これほど明白な誤りに反論できなかったとすれば、まさに日本の法曹界のその限界が三浦さんを追いつめた一つの要因ということができるでしょう。前田先生の2008年3月6日の「二重の危険の禁止は国内原則です」という投稿についてはすでにその直後にこのブログで反論しています。 法律で人権を制限する一事不再理の国内原則論 人権は国境に阻まれない/三浦氏再逮捕という人権侵害 一事不再理違反で公訴棄却/三浦氏事件でも棄却の可能性 前田先生ほどの方であれば、しばらく検討すれば「国内原則」論の誤りに気がつかれるだろうと、上記の記事では直接の言及は避けていました。しかし、高名な法律家の発言ですからこうした「国内原則」論を放置することは、三浦さんへの不当逮捕という権力犯罪をあいまいにし、免罪することになります。そこで内容的には繰り返しになりますが、あらためて反論させていただきます。
「二重の危険」と「二重の危険からの自由」、「二重の危険の禁止」との混同前田先生は、3月6日の投稿において、「0)用語」として次のように規定しています。「二重の危険」−以下では、double jeopardy, ni bis in idemをさします。一事不再理と特に区別せずに使用します。
この用語規定の中にすでに前田先生の「国内原則」論の結論、したがって誤謬のすべてがあります。つまり、前田先生の3月6日の主張は、まさに「国内原則であることを前提にすれば国内原則である」というトートロジーでしかないのです。そこで、批判はまさにこの用語規定に集中することになります。「国内原則」−同じ国家の中での二重の危険を禁止した一般法原則。 「外国判決条項」−外国判決にも二重の危険の禁止を及ぼす見解や条項。 まずすぐに気がつくことは、1行目が「二重の危険」となっているのに、2行目、3行目では「二重の危険を禁止」「二重の危険の禁止」となっていることです。なぜ、1行目は「二重の危険の禁止」ではないのでしょうか。この奇妙さは、「一事不再理」と区別しないという文章によってますます大きくなります。「二重の危険」とはまさに一つの行為で複数回訴追されることですから「一事再理」ということです。全く逆の意味の言葉を「区別しないで使う」と述べて疑問に思わない、ここに優れた法律家であればあるほど陥りやすい陥穽、法律の物神化があるのです。 「二重の危険」は市民の受ける「危険」ですから、それが人権原則ではないことは明らかでしょう。 では「二重の危険の禁止」が人権原則なのでしょうか。ある行為の禁止が権利であるというのも論理矛盾です。人権としてあるのは「二重の危険からの自由」でなければなりません。言論の自由が検閲の禁止と等価ではないように、「二重の危険からの自由」も「二重の危険の禁止」とは等価ではありません。 「二重の危険からの自由」は人権原則ですが、「二重の危険の禁止」は人権原則ではなく、それぞれの国家に対して「二重の危険からの自由」という人権の侵害を禁じた憲法原則です。したがって、その意味で、その限りでは「二重の危険の禁止」は前田先生が述べるように国内原則です。なぜなら憲法は他国政府を規制することはできないし、自国政府は他国で「二重の危険からの自由」を侵害する刑罰権発動の能力はありませんからそれを規制する必要もないからです。前田先生の用語規定の第2行目は、そう理解する場合にのみ正しいと言えるでしょう。ただその場合も、禁止の地理的、政治的範囲であって、対象となる判決がどこで行われたかには無関係であることに注意してください。 まさに「区別せずに使用」するのではなく、「二重の危険」という市民の受ける侵害行為と「二重の危険からの自由」という人権原則、「二重の危険の禁止」という国家による人権侵害を禁止した憲法原則を厳密に区別することが正しい結論へいたる唯一の出発点なのです。 「禁止」が権利であるかのような転倒この「自由」と「禁止」の区別をあいまいにすれば、「禁止」自体が人権であるかのような転倒が行われてしまいます。つまり、まず国家の枠や憲法をも超越した人権である「自由」があり、それを侵害する行為を憲法が国家に禁止しているのではなく、憲法が「禁止」という人権を市民に付与しているという転倒した思想です。そして、憲法が国境を越えられないことからこの人権も国境を越えられないという誤った結論が導き出されてしまいます。 そもそも憲法は市民にいかなる権利も付与しませんし、できません。憲法にできるのはただ、人権を侵害する行為を国家・政府に禁じることだけです。 日本国憲法11条は「侵すことのできない永久の権利」と述べて基本的人権を保障していますが、人権がこの憲法によって付与されるとするなら11条が削除されれば基本的人権もなくなります。そうであれば、それを「侵すことのできない」「永久」などと称するのは茶番でしょう。 ところで、前田先生は次のように述べています。 「刑事裁判における二重の危険の禁止は、もともとアメリカ憲法上の権利等として形成されてきました。修正第5条です。これは「アメリカ憲法上の権利」ですから、アメリカ国内にしか適用されません」
しかし、「禁止」は権利でありませんし、「自由」は憲法によって初めて与えられたものではありません。刑罰権発動の規制原則から発動の権利の原則への転倒「自由」と「禁止」の区別をあいまいにするもう一つの結果は、国家刑罰権の発動の規制の原則であるはずの「禁止」が、国家刑罰権発動の権利の問題に転倒されてしまうことです。「二重」に訴追することが禁止されていることは「一重」の訴追は認められているという「反対解釈」もどきの論理です。日本国政府は一度訴追しているからさらに訴追する権利はないが、カルフォルニア州政府はまだ訴追していないから訴追する権利があるというわけです。「市民の権利」の問題のはずが「政府の権利」の問題になってしまっています。 「日本の刑事裁判権(利)とアメリカの刑事裁判権(利)は別」(3月6日投稿)というわけです。 誰からも一度だけしか殴られない市民の権利、二度目はいやだと言える権利の問題はずが、一度は殴ることのできるあらゆる国家・政府の権利、したがって袋叩きを耐え忍ぶ市民の義務の問題に転倒されているのです。 人権の消滅、国家と国家の直接の関係への歪曲このような市民の権利の義務への転倒、国家への規制から国家の権利への転倒が生み出すのは、こうした権利/義務の条件となる「外国の判決」が市民の「自由」発動の条件ではなく、直接に国家の権利の制限条件とされてしまうことです。前田先生は10月16日の投稿で次のように述べています。 「近代法は主権国家原則を前提としていますから、二重の危険原則が国家間に及ぶという発想はもともとありえません」
ここで前田先生が問題にしているは国家主権であって、人権ではありません。だから「主権国家原則」などという言葉が出てきてしまうのです。「二重の危険の禁止」を日本の裁判所による米国の裁判所の直接制限、日本の国家主権による米国の国家主権の制限ととらえてしまう、そこにはすでに人権の主体としての市民の姿はどこにもありません。前田先生が1行目で、「『二重の危険』を一事不再理と区別しない」と述べていることのもう一つの問題がここにあります。一事不再理の根拠には「二重の危険の禁止」とならんで「既判力(裁判所や検察官はそれ以前に確定した判決に拘束される)」の論理があります。既判力は国家機関同士の関係ですから一国内に限られます。一事不再理のこの二重性をあいまいにし、「二重の危険(からの自由)」と同一視することで、既判力の国内性が「二重の危険(からの自由)」にまで拡大されてしまうのです。 永遠の現状肯定に足を取られてはならない確かに、「二重の危険からの自由」という人権と、それを「二重の危険の禁止」としてどこまで国家・政府に強制できているかは別ですから、冷静に現実を分析しておかなければなりません。その意味で、前田先生の国際法や米国内法、判例、法解釈の分析・紹介は重要であり、そこから積極的に学んでいかなければなりません。しかし、それは絶対的真理でも動かしがたい前提でもないのです。もし、私たちが政府が認めないから、裁判所が、法律が……と自らの人権を主張し、国家に強制することをあきらめてしまっていたら、私たちはいまだにただ一つの人権も手に入れることはできていないでしょう。 人権に関し国家に許されるのは、「100の人権のうち60は侵害しないと誓うがそれ以上はまだ待ってくれ」「新たに70までは受け入れるからそれ以上は待ってくれ」ということだけです。「今まで70まで認めていたが、気が変わったから60までしか認めない」というのは許されません。日本国憲法の人権条項を大日本帝国憲法の人権条項にまで引き下げることはいかなる理由であれ許されないのです。 前田先生は次のように述べます。 「外国判決条項は(憲法の)原則には含まれないから削除できた」
あたかも、州法で外国判決の排除という変更があったことが、州憲法の「二重の危険の禁止」条項の対象に外国判決が含まれていない根拠となるかのようです。法律によって憲法を規定し、憲法によって人権を説明する。これが現代の多くの法律家の発想なのでしょうか。多くの法律家にとって、法律それも裁判所によるその解釈や他の学者の解釈がすべての絶対的基準であり、人権とは国家・政府が認めた範囲内でのみ存在するのでしょうか。確かに法律家にそれ以上のことを求めるのは酷なのかもしれません。市民の人権は私たち市民自身が守り、広げていくしかありません。ただその時に、永遠の現状肯定を本質とする法律家の主張に足をとられてはならないということなのです。 |

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