sa という方から次のようなコメントが寄せられました。少し長くなるので、新たな記事として独立させます。
コメント
視点は違いますが、例えば、10年後、精神医学の進歩によって、死刑に処せられた方と同じような精神状態が解明され、責任無能力と判断されることになった場合、先に処刑された方の家族はあきらめなければならないのでしょうか。
死刑というのは、近代刑事手続(人権)と根本的に相容れない刑罰だと思います。saさんが指摘する問題も、そこから派生する多くの問題のうちの一つでしょう。
刑事手続は復讐のためではない
死刑賛成論者をはじめ多くの方は、刑事裁判を「個人の復讐」に代わるものと位置づけますが、だったら犯罪のすべては親告罪でなければなりません。だいたい、現代でも「個人の復讐」は禁じられていません。ただ、そのやり方(謝罪と金銭的賠償の要求)が限定されているだけです。「訴えてやる…」というわけです。
刑事手続は、市民と市民の関係を調整するものではなく、市民と彼・彼女が属する共同体との関係を調整するものです。そしてその内容は、共同体の秩序を逸脱した(掟・法律に違反した)メンバーを再び共同体に包摂するための手続です。だから刑期を務め終え,再包摂された市民は他の市民と区別・差別されてはなりません。
−− したがって、死刑に代わるものとして要求されている「終身刑」についても、最初から共同体への再包摂を拒否するものであり、私は賛成できません −−
この点は共同体が特定の個人や集団の利益のためとされた中世以前の専制国家(だから刑事手続といえども支配する側の個人・人間集団とそれに反抗する個人・人間集団との対立に位置づけられる)と、建て前とはいえすべての市民の利益のためとされる近代国家と違いなのですね。
共同体(国家)の根本的目的は、共同体メンバー(国民)の生存を保障することです。人は生きるために群れるのです。ですから、死刑制度とは共同体による自己の存在意義の否定です。それが、死刑制度正当化のために、共同体が自らを根拠にあげることができず、刑事手続と相容れない「復讐」など市民対市民の関係を導入しなければならない根拠の一つです。
逆に、窃盗事件で「復讐」が語られることはほとんどありません。復讐なら、犯人を刑務所に入れるより外で働かせて盗んだ金を返済させる方が良いでしょう。交通事故で殺されたら、被害者の遺族は謝罪や遺失利益、賠償金を要求できるのに、殺人で殺されたらそうした遺族の要求は満たされません。
刑事手続は復讐のためにあるのではありません。「被害者感情」というのも同じです。
社会の階級への分裂が死刑制度を存在させる
ではなぜ死刑制度が存続しているのでしょう。それは、現代社会が完全な民主主義社会、階級のない社会ではないからです。死刑制度必要論の背景には、必ず他の市民・市民集団から守られるべき市民・市民集団Aと他の市民集団をそれから守るべき市民・市民集団Bという対立構造があります。Bはかつては「匪賊」などと呼ばれ、現代では犯罪組織とかテロリストとか呼ばれ、無条件で共同体から排除し、抹殺すべき存在とされます。Aを守るためにBを抹殺する、これが死刑です。
共同体を自らの利益の実現手段と考える支配する側の市民・市民集団にとって、共同体の秩序からの逸脱とは自らの支配に対する挑戦であり、自らの支配の危機です。その恐怖が、殺人という極端な行為を刑罰の名のもとに正当化させるのです。
つまり、死刑制度の廃止は、支配される側の市民・市民集団の支配する側への抵抗と支配する側のそれへの譲歩の前進によってのみ実現されます。
責任無能力とは
以上のような刑事裁判観から見た場合、「責任無能力」とはどういうことでしょう。
一つは、それが一時的錯乱などによって行われ、その後は通常の責任を取れる状態になっている場合。あらためて、共同体秩序への包摂が必要ないということでしょう。
二つは、共同体秩序への包摂が最初から不可能な場合。刑事手続によって共同体秩序への包摂は無理ですから、別の方法を考えるべきでしょう。いずれにしても、刑事手続にのせるには向きません。
未成年が刑事手続上特別の扱いを受けるのは、彼・彼女たちがまだ共同体秩序への包摂の過程にあるからで、逸脱が大きくないからではありません。ですから、「未成年の犯罪の凶悪化」を口実に厳罰化を要求する議論は、近代刑事手続を逆行させる反動的主張です。
死刑囚の家族の権利
ところで、saさんの提起するケースの場合。
Aによって殺されたBの家族と国家によって殺されたAの家族、どこが違うのでしょう。AはBの殺害の正当性を主張するかもしれないし、国家はAの殺害の正当性を主張するでしょう。でも、Bの家族もAの家族もそれを正当と受け入れられるでしょうか。
違いは、Bの家族はAよりも強大な力を持つ国家にAの殺害を要求できるのに、Aの家族は国家より強大な力を持つ存在に国家(の責任者)の殺害を要求できないということです。例外的にイラクの責任者・フセインは、より強大な力を持つ米国の責任者・ブッシュによって殺害されてしまいましたが。
ですから、「先に処刑された方の家族」があきらめなければならないかどうかは、その時に支配される側の力がどれほど強く、支配する側の譲歩を強制できるかにかかっていると思います。
別の言い方をすれば、刑事裁判にどれほど人権原則が貫かれるようになっているか、それ次第ではないでしょうか。
死刑が許容される場合
死刑が許容され場合はあるでしょうか。
個人が他人を殺すことを許容される場合があります。正当防衛と緊急避難です。共同体の場合も同様でしょう。それ以外に共同体が存続できない場合(決して支配の維持ということではありません)、ある市民の命を奪うことは許容されると思います。
かつて、チェ・ゲバラという男が、ゲリラ部隊を脱走したメンバーの処刑を非難された時、「私たちはまだ、死刑廃止という贅沢の余裕がない」と答えました。脱走メンバーを放置しておけば、独裁政権の拷問などによりゲリラ部隊の情報が漏れ、部隊の壊滅となります。だから処刑する以外になかった。
でも、私たちは「死刑を廃止する贅沢」を行う能力も余裕もあるのです。