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爪とぎ板
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スノーボード男子ハーフパイプ代表としてバンクーバーオリンピックに出場する国母和宏選手が、公式スーツのネクタイを緩めてシャツをズボンの外に出していたことに難癖を付けられ、それに動揺した全日本スキー連盟が一時国母選手の競技参加を禁止しようとした騒動があった。
結局、選手団長の橋本聖子氏が間に入り、国母選手が謝罪の記者会見を開き、開会式に欠席することで反省の姿勢を示したとして、協議参加だけは認めた。 オリンピック憲章の根本原則には次のような一文がある。 「3、オリンピズムの…目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにある」人がどのような服装をどのように着るかはその人間の個性の表出であり、人格表現活動そのものである。 残念ながら、人権を重視するとされる現行憲法下の戦後教育においては、こうした個人の尊厳を抹殺し、憲法が保障するとされる人権など存在しないことを暴力によって児童・生徒に叩き込むことが目的とされ、日常的に行われてきた。その手段として使われてきたのがスポーツだ。 制服と坊主頭は刑務所や強制収容所の特徴だ。だから日本の多くの学校で制服と坊主頭が強制されてきたことは、学校が抑圧のための強制収容所に他ならないことを示している。そして抑圧の手段とされた多くのスポーツにおいても「体育会系」という言葉が示すように同様であった。 「権利ばかり主張する」と称して、自分の権利を守ろうとすること自体を敵視し、憎悪するというのは私の接してきた多くの教師に共通する姿勢である。そうした抑圧と圧政に対する70年代の組織的反乱を東大安田講堂の攻防など機動隊の導入で抹殺し、その後の非組織的反乱を「校内暴力」と称して警察の暴力によって圧殺してきた教育界は、もはや自らの抑圧者としての姿勢を隠していない。そして「制服の乱れ」こそ、教育界・スポーツ界を牛耳る抑圧者に過去の反乱を思い出させる悪夢である。 そうした教育とスポーツの延長上に今回の騒動があった。 オリンピック憲章が掲げる「肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人」「文化や教育とスポーツを一体」「手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重」とは、日本の教育・スポーツ界では、児童・生徒の奴隷化であり、ただメダルを獲得することで「国威発揚」の便利な道具となることの強制でしかない。 本人の意思はどうだろうと、国母選手の服装の中にそうした抑圧への抵抗の姿勢を見て、教育・スポーツ界を牛耳る抑圧者達は震え上がった。それが参加禁止まで叫んだ全日本スキー連盟の激烈な反応の背景にある事情だ。 そして、橋本氏は、国母選手に「記者会見での謝罪」という踏み絵を踏ませることで抑圧者の恐怖心をなだめ、国母和宏選手を従順なメダル獲得の道具として利用することを決めた。だから、競技参加を認めたことは、国母選手の服装・個性の表出に対する容認でも譲歩でもない。 抑圧者の支配がまだ確立していない新しいスポーツが次々に登場している。そうした新スポーツの世界でも抑圧者の支配を許すのか否か、その攻防が進んでいる。ネクタイをきちんと締め、シャツをズボンの中に入れなければ行うことも許されないハーフパイプにどんな魅力があるのだろうか。奴隷となってまでオリンピックに参加することにどんな意味があるのか。 声を上げよう。 |

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民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体の土地購入をめぐって、東京地検特捜部は1月15日、団体の会計事務担当だった民主党衆院議員、石川知裕氏と後任の会計責任者だった池田光智氏を、続いて16日、公設第一秘書の大久保隆規氏を政治資金規正法違反(不記載)容疑で逮捕した。そして東京地裁は16日、3人の10日間の勾留を認めた。 |

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8月の毎日新聞「記者の目」欄に、「■殺人の公訴時効廃止 法改正の前に/刑罰バランスも議論を/真の被害者救済に」と題する石川淳一記者署名の記事(→記事)が載った。
刑事手続きを論じながら被疑者・被告人の存在にまったく言及しない異様な内容だ。石川記者は、犯罪被害者救済にテーマを絞っただけと言うかもしれない。しかし、こうした主張の多くは言及しない部分に本質がある。暗黙の前提とすることで批判を避け、市民がそれを受け入れれば結論は当然のもの思わされてしまう。この記事の問題点も、被疑者・被告人を無視し、刑事手続きを犯罪被害者救済という視点から論じる点にある。 国家の不当な刑罰権行使から市民を守る近代刑事手続き刑事手続き(刑事裁判)は、国家の刑罰権発動と不当で過酷なその行使から市民を守るせめぎあいの中で形成されてきた。とくにフランス大革命以降の市民社会の形成は、刑罰権規制を市民の人権として確立し、刑事裁判をその実現の場とした。犯罪立証を一方的に訴追者の義務とし、合理的疑いの余地のないほど立証されないかぎり刑罰を科すことを禁じた「無罪推定の原則」はその中心に位置する原則である。そうした国家と市民(被疑者・被告人)との関係にたつかぎり、刑事手続きに犯罪被害者が主体として存在する余地はないし、存在させてはならない。 被害者への同情利用し「無罪推定」原則を否定刑事手続き(刑事裁判)での犯罪被害者の救済を語ることは、「被害者」の導入で、国家と市民という刑事手続きの対峙構造を犯罪被害者と犯罪加害者という対峙構造にねじ曲げることである。それは、被疑者・被告人を最初から加害者・犯罪者と決めつけることだ。 「無罪推定の原則」では、国家による市民の訴追をひとまず「根拠のない言いがかり」と考える。だから国家(検察官)は、それに「根拠がある」ことを刑事裁判で立証する義務が課せられる。 犯罪被害者が国家と同様の立場で刑事裁判に参加すれば、犯罪被害者にも自らが被害者であることを立証する一方的な義務が生じることになる。しかし、豊富な人的・経済的資源や強制力を持つ国家と同様の義務を一市民にすぎない被害者に求めることはあまりに過酷だ。 そこで被害者に対する市民の同情を逆手に取ってその義務の緩和を求め、実際には国家の立証義務や「無罪推定」原則を否定するのが被害者参加論の手口だ。 犯罪被害者の肩書きを利用して刑事手続きの反動化を求める「宙の会」が無罪推定の原則を敵視し、認めないと公言しているのは決して偶然ではない。 国家の存在を隠蔽することで人権原則を追放同時に、対峙構造の転換は刑罰権発動の主体としての国家の存在を隠蔽することにほかならない。そして国家が隠蔽されれば市民から国家への強制という人権概念の余地はなくなる。結局、無罪推定の原則だけでなく、刑事手続きからあらゆる人権原則を追放することになる。結論的に言って、犯罪被害者救済という視点で刑事手続きを語ることは、刑事手続きを市民を守る人権保障手続きではなく、「秩序を守る」ための国家による無制限の刑罰権発動である魔女裁判化、お白州裁判化を求めることなのだ。 そうした人権否定を隠すために「犯罪被害者の人権」という詭弁が乱発される。石川記者が「遺族の悲痛な叫び」とか「悲惨な殺人事件の遺族」などと情緒的で非理性的言葉をならべたてるのも同様だ。 国家の隠蔽で時効の存在理由否定刑事手続きの存在理由から刑罰権規制という考え方を否定すれば、その一部である公訴時効つまり刑罰権発動の時間的制限も必要なくなる。実際、石川記者は時効について被害者に「あきらめ」を強制するものと語らせる以外何も語らない。犯罪者をより効率的に断罪して社会秩序を守ることが刑事手続きの目的と考えているらしい石川記者にとって時効は妨害物にすぎない。だから時効は廃止すべきで、遡及適用も賛成となる。「刑罰バランス」と言っても、バランスを取るべき対象は重大事件の被害者とそれ以外の被害者にすぎない。重大事件だけでなく、あらゆる事件の時効の廃止が石川記者の主張のようだ。 突然、被疑者・被告人とされて家族と切り離され、自由を奪われ、拷問まがいの取調べと無実を立証しない限り有罪とされてしまう刑事裁判に引き出される市民の悲惨さについては想像も言及もしない。石川記者にとって、「犯罪者」はただ非難し、抹殺すべき存在にすぎないのだろう。 時効廃止が生み出す人権侵害時効は、刑事訴追に時間的制限を課して国家に「言いがかり」の正当性の立証機会も与えないことで、市民を過酷な刑罰権行使から守ることにその本質的存在理由がある。何年以後の訴追が過酷か原理的基準がある訳ではないが、市民ですら20年たてば損害賠償請求権の行使を制限されるのだから、まして国家がそれ以上の期間訴追権行使を許されるというのは市民主権の原則を否定するものだ。時効廃止は何を生み出すのか。 第1に、被疑者・被告人の防御権行使が非常に困難になる。 市民が無実を立証しない限り有罪という刑事裁判の現実がある。しかし、数十年も前に何をしていたか思い出したり立証するのは不可能だろう。アリバイ主張は根絶される。しかも、その間に証人が死亡すればその供述調書が無条件で証拠とされ、反対尋問の機会も剥奪される。 第2に、えん罪被害者などが賠償を求めることもほぼ不可能となる。 刑事手続き継続中は違法捜査を根拠に民事裁判を訴えることができないという判例がある。「犯人」が捕まらない限り、えん罪や違法捜査の被害者が国家賠償を請求することはできないということだ。 第3に、捜査資料が永久に隠蔽され、市民の捜査批判を不可能にする。 外交機密ですら一定期間後に公開され市民の批判を受ける。しかし継続中の捜査上の秘密を口実に捜査資料は永久に公開されず、市民に批判の機会は与えられない。まさに市民の監視から自由な秘密警察の登場だ。 市民間の分断と敵意あおる被害者救済論この記事に貫かれているのは、被害者の対極に据えた被疑者・被告人を無条件で抹殺すべき犯罪者とする敵意である。「社会秩序を守る」「被害者や遺族の苦しみは癒えない」「突然家族を失った悔しさ悲しみ」「市民の応報感情」……情緒的言葉がまき散らされる。石川記者にとって、犯罪とは市民による規範からの逸脱ではなく、「犯罪者」という特別の人間集団による社会秩序の意図的な破壊なのだろう。その背景に、富める者、特権者と化したマスコミ人のそれ以外の市民への敵意と恐怖を感じざるをえない。石川記者にとって国家は犯罪者から自分を守る保護者だ。だから、自分の役割もジャーナリストとしての権力批判と監視ではなく、マスコミ人として権力者にいかに役立つかでしかないのだろう。 かつて、社会秩序が動揺した時代に市民の怒りを支配者からそらすために多くの市民が魔女として一方的に断罪された。日本でも朝鮮人など少数派に対する差別と敵意があおられてきた。 いま、社会の支配構造が再び揺らぎ、市民の怨嗟の声が高まる中で、マスコミが先頭に立って「犯罪者」を生け贄の羊にして敵意をあおり、その抹殺を煽動することで権力者を救済する。石川記者が主観的にどう考えようとこの記事の内容はまさにそういうものだ。毎日新聞は社会部名で同様の内容の書籍「時効廃止論」を刊行しているから、それは記者個人ではなく、毎日新聞全体の意志と見るべきだろう。全国新聞が、ついに市民の間に分断と敵意をあおり始めたようだ。私たちはこのことを軽視してはならない。 |

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